目の前の蛇口から、水が流れている。
俺は蛇口から出る流水を両手の中に溜めて顔面に浴びせた。
少しでも冷静さを取り戻すために。そして、少しでも二日酔いによる頭痛を和らげるために。
それを何度か繰り返して、目の前にある鏡を覗き込む。
いつも通り、とは言えない顔だった。定期的に切っている短い黒髪はいいとして、顔の頬はいつもより痩せこけ、目の下は隈ができている。そんな惨状の自分の顔を見て、俺はもう何年かすれば自分の年齢が30代に到達する事を思い知っていた。
こんな状態になったのも、昨夜に浴びるほど酒を飲んだせいだ。俺は自分の頭が正常であるかを確かめるためにも、昨夜の事を思い返した。
23:00を回った頃だったが、俺は長くかかった依頼がやっと終わり、報酬も入ったので気分が良かった。
そのため、事務所から徒歩で夜通しやっている馴染みの店に行った。
そこのマスターは50代くらいのおっさんで、禿頭だ。
そこでウィスキーを頼んだ。淡い照明に照り返されたマスターの禿頭が酷く眩しかったのをよく覚えている。
夜通しやってる店だ。仲間内で騒いでるチンピラや、俺と同じようにカウンターで飲んでる客などがおり、決して店内は静かではなかった。
そんな様子をウィスキーを飲みながら一渡り眺め、一息ついて店内を見回した時に気づいた。俺の座った席の隣、カウンターの端で、突っ伏してる男がいるのを。
突っ伏してるせいで顔は見えない。分かるのは、男が少し草臥れた黒いスーツを着ていて、肩の下辺りまで伸びた長い黒髪だったって事だ。
男のカウンターには、もう少しで空になりそうなスコッチの瓶と、とっくに氷が解けて水になったグラスが置かれている。
しばらくして、その男の近くにマスターがやってきて言った。
「お客さん、またですか。次は入店をお断りさせていただきますよ」
マスターの言葉を聞いているのかいないのか、男は急に片手をスーツのポケットに入れると、クシャクシャになった札を二枚カウンターに置いて、言った。
「もう一杯」
この時点で、マスターが首を縦に振るわけがないのは俺にも分かった。
「いい加減にしてくださいよ、お客さん」
そこでようやく男が顔を上げた。俺の知ってる顔だった。言葉を交わした事は無いが、会った事のある男だ。
実の所、男が突っ伏してた時点で、俺の記憶にあるその男じゃないかと薄々気が付いてはいた。ただ、俺の知るその男の姿と、今の男の姿があまりにかけ離れていたので、確信が持てなかったのだ。
年齢は20代前半といった顔立ち。若いが、何と言うか鋭い顔つきをしている。
そんな男が今は、ぼんやりした眼で酔い潰れていた。
気付いた時には、俺は声をかけていた。
「よう、前に会ったな。確か…ジョニー・ケルズ」
男―ジョニー・ケルズは、この街を牛耳っているマフィアのスイーパー(掃除屋)、つまり殺し屋だった。
以前カジノで、俺はこの男が多人数の男達を瞬く間に射殺したのを目撃している。
その時に初めてこの男と会ったのだが、その時俺がこの男から感じたのは、『冷徹な機械』という印象だった。
だが今のこの男からは、そんな印象などどこにも見出せない。正直、その時俺は驚きと共に、子供じみた好奇心さえ沸きあがらせていた。
そんな俺の胸中など露知らず、ジョニーは微睡みの中にいるような眼を、ゆっくり俺に向ける。
「誰だ、死神か?」
中々洒落た事を言い放ったジョニーに、俺は言った。
「憶えちゃいないのも無理はない。以前カジノでお前さんの仲間と賭けをやった男だよ」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、ジョニーはそのまま微動だにせず、俺に視線を向け続けていた。
だがやがて、ようやく思い出したらしい。
「探偵…スティーブ・ハントか」
俺は自分に運ばれたウィスキーの瓶を、ジョニーのグラスに注いでやった。
実の所、カジノの一件の際俺は殺されかけていたのだが、それを救ったのがジョニーであった事をその時思い出したのだ。
まぁ正直、その代わりに俺の目の前で多数の死者が出たのは、あまり良い気分はしなかったが。その死者が全員マフィアの下っ端だったとは言え。
「すまない」
俺にとっては心底意外だったのだが、ジョニーは素直にそう言うとグラスに入ったウィスキーをゆっくりと、実に美味そうに飲み干した。
「お前さんが酔い潰れるほど飲むような人間だったとは、知らなかったな」
そんな俺の言葉に、一筋顎に流れた雫を手の甲で拭うと、ジョニーは静かに言った。
「仕事をした日は、潰れるまで酔う事に決めてるんだ」
正直驚いた。
殺し屋である奴さんが酔い潰れる晩は、どこかの誰かが一生を終えた晩でもあるというわけだ。
「そりゃ、罪悪感か?」
俺の問いに、奴は答えなかった。ただ虚空に視線を彷徨わせていた。
それで俺は、少々質問がストレート過ぎたかと若干反省しつつ、奴のグラスにもう一杯注いでやった。
だがその時、既に俺のウィスキーの瓶も空になってた。それに気付いた俺は、マスターに注文しようとしたんだが、その時だ。
俺にまた酒を注がれたのかと思ったらしく、ジョニーの奴は空のグラスからまた酒を飲もうとしやがった。
そうしてようやく奴さんも、グラスが空である事に気付いたらしい。しばらく俺もあいつも、呆けてた。
で、心の底から大笑いした。俺もあいつも。そんな下らん事でだ。
その後?決まってる。二人で飲みまくった。どっちが先に酔い潰れるか勝負だってな。
さっきも言った通り、あっちは始める前から酔い潰れる寸前だった。にも関わらず、酔い潰れたのは確か俺の方が先だった。
気が付けば、二人して店の裏のゴミ捨て場で寝てたよ。自分で出たのか叩き出されたのかも定かじゃあない。気が付けば、財布の金は大部分が消失してた。
ジョニーは俺に礼を言うと、覚束無い足取りで路地裏に消えていった。多分またいつか、殺した後に酒場で酔い潰れるんだろう。弔いか、懺悔か、奴さんが何でそんな事を決めたのかは知ったこっちゃ無い。
そして翌日の早朝、自宅で二日酔いの頭痛に悩まされながら浅い眠りに入っていた俺の元に、ある連絡が来た。
一部欠落があるものの、記憶がちゃんと正常な事を確認し終えた俺は、最後にもう一度顔面に流水を叩き付ける。
そして濃紺のコートからハンカチを取り出して顔面を拭うと、振り向いてトイレから廊下へと出て行った。
現実に向き合うために。
無数の、銀色の引き出し。
その一つが引き出され、中のモノが台車に乗せられるのを、俺はぼんやりと眺めた。
「…大丈夫?」
傍らにいる黒いスーツの女―エリス・ブラウン―が、普段ならしないような質問を俺に向ける。相変わらず肩まで伸ばした金髪に芯の強そうな顔だが、今は心配そうな表情で俺を見守っている。
無理も無い。今から、俺は顔見知りの人間の死体を見るんだから。
知らせを聞いた俺はすぐにここへ向かったが、その時エリスと鉢合わせして、彼女の口利きでここまで通して貰えたのだ。普通、被害者の家族を除けば警察関係者しか来る事のできない、この場所――死体安置所へ。
「で、どうすんの?顔だけ見るなら、わざわざ台車に乗せる必要は無かったけど」
死体をロッカーから出して台車に乗せたのは、会った事の無い女性の医者だった。20代後半くらいに見え、俺よりも幾分背が低く、赤みがかった茶色の短髪で、顔色は僅かに青白く痩せこけている。
眼鏡をかけているものの、あまり真面目な態度ではない。かといって特別不真面目というわけでもなく、ただ終始気だるげで、来客にも無関心な医者だった。
ちなみに彼女は白衣姿にマスクをしているが、俺もエリスも普段と同じ格好だ。
俺は視線を女医ではなく、まだファスナーの付いた袋に入れられたままの大柄な死体に向けたまま、言った。
「死因となった傷も見ておきたい」
「じゃ、まず顔からね」
あまり興味も無さそうな様子で、この俺の覚悟など微塵も待つ気配も無く、女医は極めて無造作に、死体の頭部付近のファスナーを引き下ろした。
僅かに、その顔が開けられたファスナーの隙間から覗く。それだけで十分だった。
女医が続けて真ん中からファスナーで開けられた袋を広げ、中身の死体の頭部を見せる。
大柄で黒人。最後に見た時は、肉付きの良い人当たりの良さそうな顔だったが、今は何かを諦めたような表情で、深く目を瞑っていた。
俺は、かつての同僚の名を口にする。
「間違いない。ブルース・ラインハンだ」
俺の言葉に、女医は頷いた。
そして今度は、死体の腹辺りのファスナーを開き、袋を広げる。
当然ながら死体は裸にされており、その腹に空いた風穴が曝け出された。
「銃創ね。死因は出血多量」
無感情な声で言いつつ、女医がピンセットで傷口の端を摘む。正直、溜まらなく嫌な気分だったが、傷を見たいと言ったのは他ならぬ俺自身だった。
「推定死亡時刻は昨夜23:00頃。傷口に残った火薬の量から見て、至近距離から撃たれてる。弾は内臓に残ってた。弾道検査に回してるわ」
女医の報告に、俺は自分が酒場で飲んでる頃にはブルースが既に死んでたのだと気付き、意味も無く嫌な気分に襲われる。
女医はピンセットをしまい、手短に言った。
「他に質問は?」
「遺留品はあるのか?」
俺の言葉に、女医は視線をエリスへと向ける。ほぼ同時にエリスも頷いた。
「ええ、こちらで預かってる。財布や身分証明書、後は…拳銃。遺体発見時に、右手に硬く握られてた」
頷きつつ俺は目を瞑り、米神に親指を当てながら考える。
「銃撃戦か…?弾はどれくらい入ってた?」
「鑑識からは、銃弾はフルに装填されてて、1発撃たれてたと報告があったわ。って、大丈夫?」
心配そうに見守るエリスに、俺はやはり頷くしかできなかった。
そんな俺の様子にも動じる事無く、女医はやはり無気力そうな口調で言った。
「他に質問は?」
死体安置所から出た俺は車に乗ろうとして、まだ車が事務所に止めっぱなしだった事を思い出した。
昨夜酒場へ徒歩で行った後、ゴミ捨て場で目覚めてからタクシーを拾って自宅へ帰ったのだ。
ここに来るのにもタクシーを利用しているので、このまま再度タクシーで事務所へ向かう事にした。
そうして道路の端でタクシーを呼ぼうとした時、後ろからエリスに呼び止められた。
「スティーブ。あの…気の毒、だったわね」
俺は振り返ると、あえて無感情に言う。
「今回が特別ってわけじゃないさ。探偵ってのは皆ああなんだ。いずれ、路地裏で野良犬のように死ぬ」
エリスの表情は、むしろ俺よりも哀しそうだった。
「…約束してスティーブ。無茶はしないって」
俺はしばらくエリスの顔を見ていたが、やがて彼女に背を向け、片手を振りつつ道路の先へ歩き出した。
最終更新:2014年08月10日 21:37