そこは、真っ暗な場所だった。
上下左右、どこまでも広がる闇。『彼』には、その中に自分の意識だけが漂っているのが感じられた。
「(俺は…死んだか)」
最後に残った記憶を辿る。
天使の背中に剣を突き立て、その翼をもぎ取った。代償は、己の命だった。
「(はは、呆気ないものだな。この程度で、終わりか…)」
『終わりで、良いのか?』
何者かの声。聞き覚えの無い声。
だが、闇に漂う自らの意識に直接語りかけたこの声の主を、『彼』は直感で悟った。
「(…ベテルギウス、か…!)」
かつて同じ陣営に属していた者の名を思い浮かべる。
口調も声も違う。そして今聞こえるこの声は、まるでこの目の前に広がる暗闇全てから語りかけているかのようだった。
『再度聞こう。汝は、これで終わりで良いのか?』
意識だけとなった『彼』には、声を発することはできなかった。代わりに、頭の中で返答を返す。
「(そう訊くという事は、答えは分かっている筈だ)」
一拍を置いて、『彼』は思った。
「(まだ、終われない…!!)」
『良かろう。汝に今一度チャンスをやろう。かつてのロックマン・ジーザスと同じように』
その答えに、『彼』は何の感慨も浮かびはしなかった。
只々、己の内側に目を向けていたからだ。己の、憎悪に。
「(そうだ。まだ俺は、この憎悪を、晴らしていない…!!)」
そんな『彼』の想いを踏み躙るかのように、声は宣告した。
『但し、汝の意思が残るかは…分からんがな』
次の瞬間、『彼』は自らの全身に『糸』が突き刺さる激痛を感じ、そのまま意識は掻き消えた。
「ロード…!!」
「タナトス」
自分の発したものとは異なる名前が呟かれた。
それを察知したクロウは思わず、その名を言った横にいるイデアの方に視線を向けていた。
イデアの視線は、真っ直ぐマスタールームのゲートの前に立つ、一人の男に注がれている。
その姿は、かつてクロウが見たロックマン・ロードそのものだ。
但し、数時間前に見た、死んだ時の姿とは少し違う。
マントもフードも、そしてアーマーも数時間前と同じく血と埃に汚れていたが――その顔には、銀色の仮面を着けていた。
少し前に、タナトスがヘブンズ・ゲートの内部に出現させた無数の『人形』。それらがその顔に被っていたものと同じ。
そこまで考えて、イデアが目の前の男を『タナトス』と呼んだ理由に、クロウは思い当たった。
「まさか…!!」
そして、クロウはよく観察した。目の前の男を。やがて彼は気付いた。
仮面の奥の右目が、リーバードの瞳だった事に。
「ゼゼと同じ…いや、違うか。操るどころじゃなく、全身を改造したな…自らの、新たな身体として」
冷静そのものの、しかしその内側に憤りを滲ませた声で、イデアは言う。
目の前の男は答えた。
『言った筈だ。次の演目も、期待していると』
先程イデアに滅ぼされた筈の、真の姿となったタナトス。彼と同じように、その声は実際に発せられるものではなく、その場にいた者の頭の中にだけ響く。
「死して尚…お前は自らのシナリオ通りに事を進めようというのか…!!」
『無論。とは言え、汝に肉体を滅ぼされたのは計算外だった』
言いつつ、ロックマン・ロードの肉体を持ったタナトスは、目の前に拳を掲げる。
『だが、既に退場した者を舞台に戻す必要もあったのでな…丁度良かったとも言える』
「ノアが言った筈だ…君の脚本は、既に破綻していると…!!」
言いつつ、イデアは片手に持っていた剣――オリジナル・シンを目の前に掲げる。
「それでも尚、この世界を自分の思い通りにしようとするなら…今一度、その肉体ごと意思を消滅させてやる…何度だって…!!」
そう言い放ったイデアを制するように、クロウはイデアの方へと片手を掲げた。
「ロックマン・ミラージュ…!?」
クロウは、目の前にいるタナトスを睨んだまま、言う。
「たとえ意識が残ってなかろうが…あいつはロックマン・ロードだ。だったら…俺が決着をつけるべきだ」
そこまで言ってからイデアに視線を向け、クロウは続けた。
「それに…お前には別にやるべき事がある筈だ…違うか」
「それは、そうだけど…!!」
尚も言い募るイデアを無視し、クロウはタナトスへ向かって言った。
「お前のシナリオとやらでも、この場で俺とロードが最後の戦いを繰り広げる筈だった…違うか」
『その通りだ、ロックマン・ミラージュ。最終幕は、汝とロックマン・ロードとで紡がれるのだ』
両手を広げてそう言い放つタナトス。クロウは、油断無く彼を見据えたまま、問いを口にした。
「勝敗も決まっているのか?」
タナトスは、静かな口調で、言い結ぶ。
『安心しろ。結果がどうなろうとも、勝敗が決した時点で我が神話は完結し…そして完成をみるのだ』
「ミラージュ」
尚も緊張を帯びた口調のまま、イデアは一歩彼の前に立ったクロウの背中に、言った。
「分かってる筈だ」
クロウは答えない。それでも、イデアは言葉を紡ぐ。
「ロックマン・ジーザスと、そして先程のタナトスとの戦いで、君の身体はもう、限界を迎えてる。本当なら…立ってるのもやっとな筈だ」
「そんな事…関係無い」
それだけを言って、クロウは歩き始める。
「お前の望み通り…決着をつけてやるぞ、タナトス。表に出ろ」
クロウの言葉を肯定するように、タナトスは数歩後ずさる。そして背後のゲートを開けながら、再び自らの言葉をこの場の者達の頭に響かせた。
『最後の幕にしては些か華のない場所であるのは残念だがな。汝が望むならそれでいい』
「タナトス…!!」
そんなタナトスに向かい、最後の抗議とばかりに、イデアは声を荒げる。
「僕を…ここで自由にしてもいいというのか、君は。僕の目的を忘れた訳では無い筈だ…!!」
『ロックマン・ミラージュに言った言葉が己自身に返ってきているぞ、イデア』
それだけ言うと、イデアに背を向けて、タナトスはゲートを出て行く。
『汝ももはや、目的を遂げる時間は無い』
イデアは、そんなタナトスの背を睨みつける事しかできなかった。
「…アラン」
最後にクロウの背に声をかけたのは、それまでずっと黙っていたレノアだった。
クロウは答えない。だが、足を止めた。
「…私は…」
レノアは、まるで何かを恐れるように言い淀む。
そんな彼女の言葉を遮るように、クロウは言葉を紡いだ。
「お前が本当は誰だろうが、関係ない」
遮られたレノアは、哀しそうにクロウの背に視線を送る事しかできなかった。
「生き残ったら、話したい事が山ほどある。できる事なら…また会おう」
そう言い残し、クロウはマスタールームを出て行った。
マスタールームの外に広がる草原。
東西南北の四方にワープゲートが配され、そこから先の地面は途切れ、海が広がる。
ここはそれほど大きくはない島だった。
だが、二人の人間が殺し合うには十分な広さだ。
数メートルの距離を取り、向かい合ったクロウとタナトスは、互いに刀と剣の柄に手をかけた。
クロウの頭には勿論、この戦いに生き残る事がある。
正直に言って、先程イデアの言った通り、今のクロウの状態は満身創痍という他無い。身体中にできた傷は今も彼の体力をジリジリと減らし続けている。
それでも、今のクロウは気力を振り絞り、戦いに望もうとしていた。
そして、何より。
「(お前はそれでいいのか。ロード)」
目の前で剣を手にするタナトス。彼に肉体を奪われたロックマン・ロードの事を思った。
「(お前はそんな奴に身体を乗っ取られて、それで終わるような奴だったのか?)」
『さぁ、終局を彩れ、ロックマン・ミラージュ』
そうタナトスがクロウの頭蓋に声を響かせた瞬間、一直線に彼はクロウに向かって突進してきた。
「行かせて、良かったのか」
クロウとタナトスを見送ったイデアは、未だにモニターの前に佇むレノアに言った。
レノアは少し寂しそうな顔で、閉じたゲートを眺めている。
「…僕も、もう行く」
そう言うと、イデアはマスタールームの中央にある操作盤に手を伸ばす。
「あなたは、死ぬのが怖くないの?」
急にそう言われ、少し驚いたイデアはレノアの方へ視線を向けた。
そして、彼は気付いた。
レノアの表情には僅かに、しかし確実に、『怯え』が含まれていた事に。
そして、イデアは悟った。
先程まで『デウス・エクス・マキナ』の事を語っていた彼女は、終始無表情だった。しかしそれは、今目の前で浮かべている『怯え』を、彼女がロックマン・ミラージュに悟らせたくなかったが為だったという事に。
そして、それを悟ると同時に、イデアは微笑んだ。
「良かったよ。君が、ちゃんと人間の感情を持っていてくれて」
レノアは答えない。先程の問いを知りたいのだと、彼女の目は訴えていた。
だからイデアは、自分の本心を語る事に決めた。
「怖いさ、凄く。自我が消える事への恐怖は、もう二度も味わったから」
一拍をおき、溜め息を吐いてから、彼は言葉を継ぐ。
「でもね。今までの僕の人生と、犠牲になった人達の事を考えると…そんなもので止まれないと、そう思えるんだ」
イデアの答えを聞き、レノアは諦めたように目を瞑った。
やがて目を開くと、彼女は依然として哀しみを込めた目で彼を見つめると、言う。
「…その身体、もう保たないんでしょう?」
「そうだよ。あと1時間立っていられれば幸いな位さ」
そう答えると、イデアはその場で僅かに考え、ある事実に気が付いた。
「…そうか。君はもう、『デウス・エクス・マキナ』としての自我から隔離…いや、解放されてるのか」
レノアは、ただ沈黙したままイデアを見つめ続ける。
その沈黙が何よりの肯定だと、イデアは受け取った。
「本体の自我は…」
「…ええ。マザールームで、あなたを待ってる」
レノアの答えに、イデアは微笑みながら溜め息を吐く。
やがて彼は制御版のスイッチに指を添え、言葉を紡いだ。
「さよなら。お互い、縁があったら…また来世で」
マスタールームの中央の台座が、ゆっくりと下降を始める。
この先へ続く、マザールームへと続く道へと降りていく。
イデアは自らの身体も下降していくのを感じながら、ずっとレノアを見ていた。
「っ…!!」
凄まじい速度で迫ってきた剣を刀で受け止める。
続けて第2撃、第3撃を悉く刀で受け止めながらも、クロウは地面を蹴って後退していた。
数時間前、地上の大聖堂で闘った時と同じか、それ以上のスピードで攻撃を繰り出しているように感じられる。
タナトスは、思った以上にロックマン・ロードの身体を使いこなしているようだ。
否、自らの意思に、無理矢理身体を伴わせているように、クロウには感じられた。
「貴様…!」
『たった数撃打ち合っただけで、随分息が上がっているな。これだけで終えられては、後の世に伝えられぬ』
頭の中に声を響かせるタナトス。
そんなタナトスに向かい、クロウは声を上げた。
「『糸』を…どれほどその身体に仕込んでいる…!!?」
『この身体が我が意思に従うのに必要なだけ、だ』
そこまで言うと、再び地面を蹴り、タナトスはクロウに向かって剣を振り下ろす。
刀で切っ先を防御しつつも数歩後退したクロウは、剣を振り下ろしたタナトスに向かい、刀を薙ぎ払った。
間接を外しでもしなければ回らない角度で曲がった右手が、クロウの刀を受け止めた。
アーマーに覆われた掌から、血が滴り落ちる。
地面を蹴って距離を取るクロウに対して、タナトスは出血した己の掌を眺めた。
そして、刀によって中央がパックリと切り開かれた右の掌を、クロウがよく見えるように前方に掲げる。
空中から降りてきた一本の『糸』が、たちまちその切り口を縫合した。
溜まらず、クロウは叫ぶ。
「これ以上、その身体を…玩具にするな!!」
『理解する事だ』
縫合され、血すら止まった右手で剣を握り、タナトスはクロウの頭に響かせた。
無慈悲な声を。
『たとえ四肢を切断しようとも…皮膚、骨、血管を縫合し、更に神経をも「糸」で代用できる。故に汝には、二つの道しかない。「ロックマン・ロード」を殺すか、「ロックマン・ロード」に殺されるか』
ゆっくりと、タナトスは前進する。
『尤も、汝の状態を見るに前者はあり得なさそうだが』
タナトスに指摘され、それでもクロウは彼を睨み、刀を握る。
だが、認めざるを得なかった。この数度の打ち合いで、もはや事実は歴然としている。
自分は、確実に負ける。
もはや意思に身体がついてこない。気を抜けばすぐにふらつきそうだった。
対してタナトスにはまだまだ余裕がある。と言うか、手加減すらしているのが戦っているクロウにさえ分かるほどだ。
タナトスがその気になれば、すぐにでもクロウは斬られ、命を落とすだろう。
肩で息をしながら、クロウはそう考え始めていた。
「はぁ…はぁ…」
肩で息をしながら、十字架の形をした剣を担ぎ、イデアは歩く。
エレベーターで降りた先には、薄暗い廊下があった。
目的の場所は、ここから更に廊下とエレベーターを伝った先にある、マザールームだ。
一歩一歩進む毎に、僅かにではあるが確実に、身体が重くなっていくのを感じる。
額から流れた汗が床に落ちるのを眺めながら、イデアは歩き続けた。
そして彼は、いつのまにか次の部屋のゲートが目の前に迫っている事に気が付く。
「…何でだろうな、こんな単純な事に気づかなかったなんて」
自嘲するように、そう彼は呟いた。
マザールームへの道中に待ち受ける、リーバードの事を考えていなかった。
今の彼には、この奥にいる筈の、強大なリーバードに抗する術がない。
今持っている剣は確かに強力な力を持つが、満足に振り回せる力など、最早到底残ってはいなかった。
「ハハ、こんな事で全てが水泡に帰すなんて…」
言いながら、彼はゲートを開けた。
そして数歩足を踏み入れて、目を瞑る。
しばらく、彼は静止した。最期の時を待ち。
だが、それはいつまで経ってもやっては来なかった。
「…?」
目を開ける。そして気付いた。
彼の傍らにいる巨大なリーバードは、停止していた。
それを眺めて、イデアはポツリと呟いた。
「阻むつもりは無い…そういう事か」
そう呟いた後、彼は歩き始めた。
地面を蹴り、現在出せる最速のスピードで、クロウは刀を薙ぎ払う。
それよりも一瞬早く、そして余裕を持って大きく地面を蹴り、タナトスはクロウの頭上を通過した。
逆さまになりながら、タナトスは剣をクロウの背中に向けて大きく振る。
間一髪、それを察知したクロウは、振り向き様に刀を構えタナトスの剣を防御した。
着地するタナトスへ向けて、今度はクロウが一足飛びに刀を振るう。が、後方へとステップを踏んだタナトスにその刃は届かなかった。
「はぁ…はぁ…」
『どうした。その程度か?』
肩で息をしながら再度刀を構えるクロウの頭に、タナトスが声を響かせる。
クロウはその声を無視し、再び地面を蹴った。
最早タナトスの言葉に答える余裕など無かったからだ。
大きく横に薙ぎ払われたクロウの刀を、タナトスは身体を沈み込ませて回避する。
それを確認したと同時に、クロウはその体勢から無理やり、片足でタナトスへ向かって蹴りを繰り出した。
が、それすらも読んでいたタナトスは、更に地面を蹴ってクロウの軸足の側へと身体を移動させ、最小限の動きで蹴りを回避すると、その軸足へ向けて剣を薙ぎ払おうとする。
だがタナトスは即座にその動作を止め、再度地面を蹴って横に飛び、クロウから距離を取った。
そしてその一瞬後に、タナトスがそれまでそこにいた場所にクロウは刀を突き立てた。
『やはり、そうでなくてはな…あっさり死なれては、価値ある物語にならぬ』
タナトスの言葉に、クロウは答えない。ただ再度刀を構え、タナトスを睨みつけるのみだった。
『だが、温いな…死に行く者の形相を、この世に刻め』
次に仕掛けたのは、タナトスの方だった。
そしてこの突撃で、勝敗はあまりにもあっさりと、決着を迎える。
地面を蹴り、一直線に飛び込んで来るタナトス。
軌道は直線的だ。これから何を行うにしろ、今は。
クロウは即座に刀を鞘に納めて、迎撃した。
己の出せる最速の、抜刀で。
脳内で分泌されるアドレナリンが、目の前に迫り来る影を、スローモーションに見せる。
その影が射程内に入った瞬間、クロウは抜刀した。
だが。
その影は、ロックマン・ロードの姿をしたタナトスは、クロウの刀の範囲に入った瞬間に、己の突撃の方向を変えていた。
クロウから見れば、僅かに右側へ。
そして同時に身体を回転させ、クロウの放った抜刀を、その剣で受け止めていた。
それだけではない。クロウの刀の威力を利用し、更に身体を回転させると、彼の横を通り過ぎ様に、その背中を剣で薙ぎ払っていた。
アーマーごと背中を斬られ、鮮血が飛ぶ。
「がはっ…はぁっ…はぁっ…!!」
それでも尚、震える手を押さえ、クロウは振り向いて再度刀を構えた。
だがタナトスは、構えを解いていた。
「…何のつもりだ…!?」
『…最早汝にも分かっている筈だ、ロックマン・ミラージュ。汝にはもう、勝ち目など無いと。そして…』
タナトスの言葉に合わせるように、クロウの身体が自らの意思に反し、ガクリと傾ぐ。
「う…」
右膝が、地面を着いていた。
絶対に離すまいとしていた刀もその手を離れ、クロウの目の前に横たわる。
「くっ…そ…」
今の一撃で、クロウの身体には限界が訪れていたのだ。
懸命に身体を動かそうとするが、僅かに動かす事はできても、足は立ち上がってはくれない。手も刀を握れはしても、持ち上がりはしなかった。
『汝の肉体も、最早限界だ』
それを待っていたかのように、タナトスはゆっくりとクロウの方へと歩を進める。
これまでとは全く違う、警戒心を解いた歩き方で。
それはさながら、死刑執行人のようだった。
「(これで…終わりなのか?)」
もはや前方を向く力も無く、その場にクロウは俯いたまま佇んでいる。
タナトスの足音が酷くゆっくりと近づいてくる。
絶対に、勝たなければならなかった。
だが、勝つには相手が悪すぎた。
もはや、自分に抗う術などない。
そう、ある手段を除いては。
「(できれば使いたくなかった。だが…使わないで、終わるくらいなら…)」
クロウの頭に、状況を打開する術はまだ残っていた。
とはいえ、それを使ったとしても、逆転できる可能性が低い事は変わらない。
しかしこのまま殺されるよりは絶対にマシな筈だ。ここに来て、漸くそうクロウは結論を出していた。
そして彼は最後の力を振り絞って、左腕のアーマーに取り付けられた操作盤を開き、あるボタンを押した。
それは、ノアがアーマーに仕込んだ薬品を、自分に投与するボタンだった。
一つ目の『蘇生薬』は、ロックマン・ロードとの地下での戦いで使用済みだ。
二つ目の『感覚麻痺薬』も、ロックマン・ジーザスとの大聖堂での戦いで使用した。
そして残った三つ目が『感覚鋭敏化薬』。ノアが言っていた通りなら、五感を鋭敏化させる薬品である筈だ。
無論、他の薬品と同じく、クロウが自分にこれを試すのは初めてだ。
故に、どうなるのか想像もつかなかった。
『良く頑張った…誇っていい。故に、安らかに死を受け入れるがいい』
急にタナトスの言葉が頭に響き、クロウは顔を上げる。
いつのまにかタナトスは目の前まで来ており、自分に向けて剣を振りかぶっていた。
そして、クロウが何かを言う暇すら与えず、タナトスは剣を振り下ろす。
その瞬間、時が止まった。
「(…お前、は…!?)」
その時クロウの目に映ったのは。
目の前に立つタナトスと、静止したタナトスの振り下ろした剣の切っ先と。
そしてそのタナトスの背後に立つ、一人の男の姿。
『やぁ、ごきげんよう、ミラージュ君』
その男――ノアは、クロウの記憶とまるで変わらぬ様子で、いつも通りに言葉を紡いだ。
次々と額から流れ落ちてくる汗。
それを拭う体力も、イデアにはもう残っていない。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
幾度も休みたいと思ったが、そんな時間は無いと分かっていたし、一度休めばもう一度歩き出せるかどうか分からなかった。
そして、ようやく彼はマザールームの前まで辿り着く。
以前マザー・セラが収めた封印の鍵を一瞥すると、彼はゲートの前で目を瞑った。
この先で、きっと『デウス・エクス・マキナ』は待っているのだろう。
ここまで護衛のリーバードを停止させていた事からして、物理的に抵抗してくるとはとても思えない。
しかし、きっと何らかの『姿』をとって、自分に干渉してくるのだろう。そうイデアは確信していた。
やがて眼を開けると、彼はマザールームのゲートを開けた。
目を見開いた。そこに待っていた人物に。
『待ってたよ』
ヘブンの支配者たる、マスターの姿に。
最終更新:2015年02月14日 23:56