部屋の中央に立つ人物をイデアは睨んだ。
青と白のローブ。足元まで伸びた、ウェーブのかかった金髪。
整った顔立ち。青い瞳。
柔和な微笑を浮かべ、両手を広げたその人物―マスターの姿を取った、『デウス・エクス・マキナ』―の身体は、僅かに淡い光に包まれている。
人目でそれが、ホログラムの虚像であるとイデアには分かった。
否、ここに来る前から分かっていたのだ。
「一つ聞きたい。何故わざわざ、この時のために用意した端末を、自我のコピーに譲り渡した?」
マスターは、その微笑を崩す事無く答える。
『それが、一つ計算外だった事だよ。どうやら私自身が思っていたより、肉体と人格というのは結びつきが強い様だ』
そこまで言うと目を瞑り、『何分、こういう事をしたのは初めてだからね』と言い添える。
イデアの方も強張った表情を変えず、尚も言葉を紡ぐ。
「貴方を停止させたら、あの端末はどうなる?」
『…そんな分かり切った事を聞くのか。もう、君の時間も少ないというのに』
「答えろ」
有無を言わさぬイデアの物言いに、マスターは再度、今度は諦めたような表情で目を瞑ると、答えを告げる。
『あの端末は、この星の中枢にある私の本体と密接な繋がりを持っている。エデンを介する事で私と繋がり、地球でも活動が可能だ。だが…私の本体が停止すれば…生き長らえる事はできない』
マスターの答えを聞いて、イデアは溜め息を吐いた。
「やっぱりそうか。でも、どうしても知りたかった」
『優しいね、君は』
マスターのその言葉に対し、イデアはしばらく無言でその場に立ち尽くしたまま、目を瞑っていた。
だが、やがて眼を開けた彼は、凄まじい憎悪を含んだ眼で、今度こそマスターを睨んだ。
『良く頑張った…誇っていい。故に、安らかに死を受け入れるがいい』
地面に片膝を着いて動かぬクロウの脳内に向けて、タナトスはそう言葉を響かせる。
ハッとして顔を上げるクロウ。その顔面に向けて、タナトスは無慈悲に剣を振り下ろした。
だが、クロウの両の掌が、その刃が届く寸前に受け止めていた。
『な、に…?』
俗に言われる、真剣白刃取り。それをクロウは行っていた。
その動作は、数秒前にタナトスが分析したクロウの状態からは考えられぬものであり。
それ故に、刃を取られた事への驚愕で、タナトスに一瞬の隙ができていた。
そしてその隙を突いて、そのままクロウは受け止めた刃を横に振る。
『…!!?』
タナトスはその動きを予想できず、体勢を崩して剣と一緒に地面を転がった。
そして立ち上がった彼の目前へと、猛然とクロウは迫る。
『何故だ…何故動ける…!!?』
驚愕の声を響かせるタナトスに対し、先程刀を取り落としていたクロウは、その代わりに。
全力を込めて、右の拳をタナトスの顔面――銀色の仮面に叩きつけた。
仮面にヒビが入り、タナトスの身体が数歩、後ずさりする。
己の顔を押さえ、タナトスは再びクロウの頭に声を響かせた。
『どういう事だ…汝に、こんな力など残ってはいない筈…!!』
クロウは地面に横たわっていた刀を拾い上げると、動揺するタナトスを見据えた。
「(…何、で…お前が…?)」
左腕の操作盤のボタンを押した直後、クロウは目の前の光景に混乱していた。
自分の前に立ち、剣を振り下ろすタナトス。だが、その剣は振り下ろされている筈なのに、自分の顔面に接触するより前の位置で、静止している。
身体の感覚はあったが、先程ままで動かせた筈の両手や両足を動かす事ができない。
動けない。
目の前もタナトスも動かない。
そして。
『説明はまぁ…必要だろうね』
タナトスの背後に、ノアがいた。
それを認識した瞬間に、周囲にあった草原や、海や、空や、そしてタナトスが消え。
クロウの眼前には、真っ白な空間の中央に立つ、ノアだけが存在していた。
『ミラージュ君。これは君が、自らに薬品を投与したその瞬間に再生されるようにセットしておいた、幻だ』
タナトスの背後にいるノアがそう説明する。
クロウは絶句していた。三つ目の薬品にこんな仕掛けが施されていたとは。
だが、何故この薬品にだけ?そんな疑問を抱いたクロウに対し、目の前の幻のノアは、再度口を開く。
『当ててあげよう。何でこの薬品にだけこんな仕掛けが施されているのか。そう思ったね?』
相変わらずだ。自分の考えを見透かしているかのような物言い。
あまりにも相変わらず過ぎて、それが今のクロウには逆に安心感を与えていた。
喋れないが、クロウは頭の中で、いつものように答えを返す。
「(もったいぶるな。とっとと答えを聞かせろ)」
『いいとも。説明してあげよう。まず今の状況からだ』
クロウの言葉にまるで合わせたかのようにノアが答えを返す。
両手を白衣のポケットに突っ込み、胸を張ってそこに立っているノアは、酷く楽しそうだ。
『まず、今君の脳内に色々と薬品を注射し、体感時間を極限まで広げている。つまり時は止まっちゃいないが、今の君にはまるで時が止まった様に見えている事だろう』
当たり前のように酷い内容の話を口にするノアに、クロウは頭の中で苦笑しつつ、これまで何度言ったか分からない言葉を投げる。
「(何度言えば分かる。俺をモルモットにするな)」
まるでクロウがそう言うのを待っていたかのように、目の前にいる幻のノアは、その笑みを更に深くした。
『ちなみに、今君の脳に注射した薬品のお陰で、君の視界に私の姿をした幻を出現させる事ができているわけだ。さて、ここからが本題だが…』
次にどんな言葉が出てくるのか。クロウは緊張と共に待った。
『これから、君の肉体を改造する』
きっとロクでもない事を言い出すんだろうと思っていたが、予想通りだった。
そんなクロウの気分をきっと察しているのだろう。至極楽しそうにノアは続ける。
『どうやってそんな事をするのか。今度はそう思ったね?一つ教えてあげよう。そのアーマーは君を守る代物であると同時に、自動的に稼動する…手術室でもあるのだよ』
更にロクでもない言葉が出てきて、クロウは怒りや呆れを通り越して、笑い出しそうになった。
『最初に君に話した通り、今君が自らに投与しようとしたのは感覚を鋭敏化させる代物だ。だが…視覚や聴覚、触覚や嗅覚が突然何百倍もの感覚で感じられるようになったとして、果たして普通の人間は耐えられるだろうか?』
「(…なるほど、確かに…苦しみで戦闘どころじゃなくなるな…!)」
ノアの指摘に、クロウは素直に感心する。
これまで漠然と『感覚が鋭くなる』だけのモノだと思っていたが、確かに言われてみればそうだ。突然感覚が鋭くなったとしたら、常人ならその感覚についてこれず、動けなくなってしまうだろう。
『だから、これから君の身体を、その感覚についてこられるようにする。具体的に言えば、身体中の神経を強制的に強化させるんだ』
その説明に、クロウは身震いした。前置きのお陰で『改造』の必要性が分かっただけに、避けられぬものだと分かったからかもしれない。
『改造された後の君は、常人の数百倍も鋭い感覚で行動できるようになるだろう。面倒だから詳細な説明は省くがね』
クロウは覚悟した。ノアがこんな事を言うという事は、デメリットは酷いものなのだろうと予想ができたからだ。
そして、その予想は間違っていなかった。
『ただし、一分だけだ。それが過ぎれば君は常人に戻る。急激に改造された神経が再び元に戻るわけだ。恐らくどれほど健康な状態でも、その後24時間は感覚がまともに働かなくなるだろう』
そこで一旦言葉を切ると、ノアは静かに言った。
『これから、その改造を行うかどうか君に問う。君は頭の中で答えを言いたまえ。イエスと言えば、その時点で改造が開始される。ノーと言えば、私が消えて終わり。また次の機会に使いたまえ。次はこの私は出てこないがね』
ノアが言葉を切る。今のクロウには、先程のノアの注意を考慮するほどの余裕は無かった。何せ今、タナトスに剣を振り下ろされそうなところなのだ。
身体の改造だろうがなんだろうが、今使わなければ死ぬのだ。
クロウは頭の中でイエスと答えようとした。
だが、その時ノアが言葉を紡いだ。
『言っておくが、くれぐれも傷だらけの状態で使おうなどとは思わんことだ。痛覚も数倍にまで高まる。まぁショック死はしないように考慮・調整はしているし、栄養剤も投与するから、少なくとも薬品の効いている一分間は行動に支障は出ないだろう。それよりも…』
一瞬言い淀んだ後、ノアは言った。
『神経が疲弊している状態でこの薬品と改造を受けようものなら、一分後、君は廃人となるだろう。身体中の感覚がその場で消える。何も感じられなくなる』
そこまで言って、ノアは溜め息を吐いた。
『さて、これで最後だ』
言葉を切り、ノアは真面目な顔で、言った。
『ミラージュ君。使うかね?』
「(…ああ…!!)」
答えを聞いたノアは、意外にもその表情を曇らせていた。
『分かった。これから改造を開始する。だがその前に一つ聞きたい』
真面目な顔で言葉を紡ぐノアに、クロウは頭の中で疑問符を浮かべる。
十分な間を置いてから、ノアは言った。
『恐らくこの薬品、効果を聞いた時点で君は易々と使用には踏み切らん筈だ。恐らく…一番最後になるだろう。そして…その時、君は無事では居はすまい』
先程の話とは裏腹に、今の状況を的確に見抜かれている。クロウは、息を呑んだ。
『それほど自分を犠牲にして、君は自らの望むものを、手に入れられるのかね?君は…何の為に戦ってる?』
ノアの質問に、クロウは体感時間で数十秒ほど沈黙した。
だがやがて彼は、静かに答えを頭の中で紡ぐ。決意と覚悟をもって。
「(ノア…これは、俺自身の…けじめだ。俺自身の過去との)」
一拍間を置いて、クロウは更に言葉を重ねる。一言一言、己の心に刻み付けるように。
「(何が待っていようと…この戦いで持てる力の全てを出せなければ、俺は…犠牲になった者達に、顔向けできないんだ…!!)」
『…この先に待つのが死であっても、かね』
そう問うノアの眼には、呆れの色さえも見て取れた。
そしてそんなノアに、クロウは静かに、怒りをぶつけた。
「(勘違いするな。命を賭けるとは言ったさ。だが…命を捨てるとは、言ってない…!!)」
それを聞いたノアの表情に、一気に笑みが宿る。
『いいだろう。やはり君は、最高の実験台だ!!』
「(…最後までそれか。いいさ…実験台、望む所だ!!)」
そして、ノアはその笑みを残し、消えた。
同時に周囲の景色が戻り、目の前に迫った刃の動きが段々と戻り始める。
クロウがそれを意識するよりも早く、彼の身体が反応し、刃を受け止めていた。
そして――その動きを行ったことで、クロウは既に自分の身体の改造が完了していた事を悟った。
『どういう事だ…汝に、こんな力など残ってはいない筈…!!』
後ずさりしながら、タナトスはそんな言葉をクロウの頭に響かせる。銀色の仮面から覗く目は、驚愕の色でクロウを捉えている。
クロウは、そんなタナトスを見据えた。
痛覚と疲労感は先程までの比では無い。今にも倒れそうだ。だがそれ以上に、鋭敏になった視覚と聴覚に、クロウは驚愕していた。
周囲の状況が分かる。地面に生える草の一枚一枚の揺らめきが。擦れ合う音が。風の音が。
そして、目の前の男の状態が。
だが、時間が無い事もクロウには分かっていた。
故に、彼は地面を蹴り、仕掛けると同時に声を張り上げた。
「貴様は…それでいいのか!ロード!!」
それまでとは圧倒的に早く、クロウは刀の届く範囲にまでタナトスに接近すると、その瞬間に抜刀する。
ようやく動揺の収まったタナトスは辛うじて剣で防御するも、その動きはぎこちない。
対してクロウは、防御されても尚、切り返した刃を薙ぎ払った。そうしながら、先程の言葉の続きを紡ぐ。
「『そんな奴』に利用されて終わるためだけに、貴様は生きてきたと言うのか。そんな結末のために、何人もの人間を犠牲にしてきたというのか…!」
切り返してきたクロウの刃を、大きく跳躍する事で避けると同時に、大きくクロウの頭上を飛び越えながら、タナトスはその剣をクロウの頭へ向けて降る。
だがクロウも即座に刀を上げ、それを防御すると同時に、後方へと跳び退っていた。
着地し、タナトスはヒビの入った仮面の奥からクロウを見据え、声を響かせる。
『無駄だ。ロックマン・ロードの意思など、もうどこにも…』
そうしながら足を踏み出そうとしたタナトスは、驚愕した。
『…何?』
踏み出そうとする足が、震えている。
気がつけば、刀を握る腕も震えていた。自らの意思に反して。
それは、これまで数え切れないほどの人間を『意図』で操ったタナトスにとって、信じられない事だった。
『…無駄な話はやめろ、ロックマン・ミラージュ…早々に、消え去るがいい…!!』
余裕の無くなりつつある声を響かせて、タナトスは一気に間合いを詰め、剣を振る。
クロウも数歩後退しながら間合いを調整し、タナトスの動きに合わせて刀を振った。
甲高い音と共に刃がぶつかり合い、一度離れる。だが両者共に刀と剣を返し、二撃目の刃を交差させる。
一撃目よりも威力を増した二撃目。それでも均衡は破れず、再び刃は離れた。
三撃目は話が違っていた。今度はクロウもタナトスも更に半歩間合いを詰め、クロウは上段から、タナトスは下段から十分に力を溜めた一撃を撃ち放つ。
だが、これも両者の力は拮抗していた。
間合いが詰められていたため、刃は離れず、状況は鍔迫り合いの体となる。
ギリギリと刃が擦れ合わされながら、クロウは先程の言葉の続きを紡いだ。
「…お前が何をしたかったのか、俺には分からない。だが、一つだけ分かる事がある。お前は、『支配』される事に我慢ならなかったんだ。だからヘブンを裏切った」
そこまで言うと、クロウはその状態から――力を抜いた。
そして同時に膝を折り、身体を大きく沈み込ませる。
『っ!!?ちぃっ…!!』
力を入れ続けていたタナトスは体勢を崩し、前方へと身を乗り出した。
身体を沈みこませると同時にタナトスの右側へと移動したクロウはそれを見送りつつ、尚も言葉を紡ぐ。
「それなのに、今のお前は…身も心もそんな奴に支配されて、本当にいいのか…!?」
言いながら先程のタナトスのように、クロウは体勢を崩した状態のタナトスの背中へと刃を繰り出す。
辛うじてそれを察知したタナトスが、振り向き様に剣でそれを防御し数歩後退するも、クロウは更に足を踏み出した。
「このまま、お前を支配する者の思い通りになったまま、俺を殺して本当に満足すると言うのか!!?」
更に飛び込むように地面を蹴り、上段からクロウは刀を振り下ろす。
『貴、様ぁ…!!』
タナトスは更に数歩後退しつつクロウの刀を剣で防御するも、その動き、そして声には焦りが出始めていた。
思わぬクロウの反撃と、思うようにならぬ自身の――否、ロックマン・ロードの身体への苛立ち。
そして、そんな状況に動揺する自身の心。
――思えば、イデアに自身の身体を滅された時。あれがミスの始まりではなかったか。
計画の障害となるノアの排除。あの時の課題はそれだった。
自身の創造する物語に必要不可欠な二人の登場人物である、ロックマン・ミラージュとロックマン・ロード。それを表舞台に立たせた時点で、ノアという者の利用価値は無くなっていた。
そしてあの時点でノアを消す事ができたのは自分だけであり、実際ゼゼを利用する事で、それは自分の計画通りに果たせる筈だった。
ノアの死体からイデアが出現した事だけが計算外だった。
イデアの登場と、ノアが死の間際に創造した銃弾により、自らの肉体を滅ぼされ、タナトスは追い詰められた。
そんな状況が、更なる判断ミスを生んだのかもしれない。
ロックマン・ロードの肉体をタナトス自身が操り、自分自身を物語の登場人物とした事が。
だが、それにタナトスは、遂に気付けなかった。
更に刀を振り下ろすクロウ。それを再び剣で防御するタナトス。
同時にタナトスはクロウの一撃の威力を利用して、大きく後方へと跳躍、着地する。
そして立ち上がると、彼は刀から左手を離し、横に大きく振った。
『調子に乗るのもここまでだ…愚かな、粛清官よ!!』
タナトスのその言葉と同時に、無数の『神々の意図』が、クロウへと殺到していく。
それは、もはや最終幕としての体裁すらも投げ捨てるという、タナトスの余裕の消失を意味していた。
殺到する無数の糸。それを見据え、クロウは冷静に考え、そして自分から糸の真っ只中へと、踏み込んだ。
先程、ヘブンズゲートの内部では全く抵抗できなかった。だが今の自分になら、これを掻い潜れる筈だ。
全く確証は無かったが、何故か今のクロウは、自然とそう思う事ができた。
「(焦るな…鋭敏化された感覚をフルに活用しろ…集中、する…)」
視界いっぱいに糸が殺到してくる。クロウはまず地面を蹴り、身体を倒して横に回転する事によって、僅かな隙間を掻い潜った。
更に殺到する糸はもっと強く地面を蹴り、糸の一つを刀で引っ張る事によって強引に隙間を開いて掻い潜る。
だがこれで終わりでは無い。更に前方から殺到する糸と、既に掻い潜った糸が背後から迫ってくるのをクロウは感じた。
そして感じると同時に、左手の操作盤を素早く操作し、アーマーの足部分に装備された重力制御装置を起動。大きく跳躍する。
そして空中ではねる様に動きながら、時に身体を捻り、時に刀で強引に、クロウは糸を掻い潜り、遂にタナトスの元まで辿り着こうとしていた。
『っ…小癪なぁ…!!』
ようやく着地し、間近に迫ったタナトスへと突撃するクロウ。
対してタナトスは、再度全ての糸を結集させ、クロウの周囲に檻を作るように結界を作っていた。
『人一人掻い潜れる余地など無いぞ…!!』
「っ…!!」
周囲から、檻を狭めるようにして糸が迫ってくる。ナイフを取り出している時間も無い。
その瞬間、クロウは決断した。
僅かな糸の隙間へと、刀を勢い良く投げつけた。
『何っ…!!?』
一直線に迫る刀。それを慌てて、タナトスは剣を大きく振って弾き飛ばす。
それが、彼の最後のミスだった。
ようやくタナトスは視界にクロウがいないことに気付く。
刀を投げつけると同時に、クロウは全力で地面を蹴り、更に重力操作を行う事で、檻として展開された糸の唯一の脱出口へ向かっていた。
――即ち、頭上へと。
周囲こそ隙間無く覆っていた糸だったが、急速に狭めるには上にまで網を張るのは邪魔だったのだろう。
故に、クロウの頭上には人一人分通れる隙間が存在していた。
そしてクロウは、遂にその隙間へと身体を通す事に成功する。
無数の糸による檻。それを越えて、重力操作を切り、剣を振ったばかりの、隙だらけのタナトスの元へと身を躍らせる。
「…ロード!!」
『!!?』
その瞬間、クロウは全力をもって、再度拳を銀色の仮面に叩き付けた。
仮面が粉々となり、タナトスが大きく吹っ飛ばされる。
クロウは、そのタナトス――ロックマン・ロードに向かい、静かに最後の言葉を告げた。
「支配されて終わるのか…お前が決めろ…!!」
『無駄だと、言った筈だ…!!』
吹っ飛ばされ、倒れたタナトスは、それでも尚も立ち上がる。
その顔は、右目がリーバードの瞳である事以外は、確かにロックマン・ロードのものだった。
数秒遅れて、クロウの拳が直撃した額から、血が流れる。
それも意に介さず、タナトスは足を踏み出そうとした。
だが、ロックマン・ロードの身体は――その場に片膝をついていた。
『ロックマン・ロード…!何のつもりだ…!?』
「さて、な…気が変わった、とでも言おうか…!!」
低い声で、ロードが自らの口から言葉を発する。
タナトスの意思に反するのは相当の労力を要するのだろう。その声は苦しげだ。
「このまま、貴様に…俺の身体を、好きに…させておく、気に…ならなく、なった…それだけだ!!」
そう言った瞬間、ロードは右手の指を、右目の中に突っ込んだ。
血が飛び、地面の草を塗らしていく。
『止めろ!何をしているのか分かっているのか!!?』
「マザー・ディエスは、毅然と目の前の死に、向き合った…!!」
三本の指を右の眼窩に突き入れ、その右のリーバードの瞳を掴んだロードは、絞り出すような声で言葉を紡ぐ。
『汝は、今自分が何故生きているのか、分かっているのか!?』
「ノアは、自らの死と引き換えにして、貴様の身体をこの世から滅した…!!」
そう語るロードの口元に、笑みが浮かぶ。
「だが、貴様はどうだ?俺の身体を奪い取ってまで、生き長らえたいか。神を気取り、数え切れぬほどの人間を操り…その結果が今の貴様の、その姿か」
『我を拒絶するというのか!?そんな事になれば、汝は、死体に逆戻りだぞ!!?』
「滑稽だよ。古き…神々!!!」
ロードは、自らの右目を抉り出した。
『やめろ…やめろ、やめろやめろヤメロヤメロオオオオオォォォォォ!!!』
狂ったように、その場にいる者達の頭の中にだけ、絶叫が響き渡る。
だが。
ロードが先程まで自らの右目であったモノを握り潰した瞬間に、その声はプツリと、酷く呆気なく途切れたのだった。
「クッ…ククッ…クハハハハハハハ!!!」
右目から血を流しながら、ロードが笑う。
呆然とその光景を眺めていたクロウだったが、その口からは自然と目の前の男の名が出てきていた。
「ロード…」
「ケフェウスも」
そんなクロウの言葉を断ち切るように、ロードが声を張り上げる。
「マザー・ディエスも!ノアも!そしてタナトスも!『死』からは逃れられなかった!!」
そこまで一息に言うと、ゆっくりと深呼吸してから、ロードは静かに言った。
「結局、神などどこにもいない…いたのは、神を気取る愚か者だけだったという事だ…!」
そこまで言うと、ロードは。
血を吐いた。
膝をつき、口元を拭った手を眺めるロード。その顔に浮かんでいたのは、苛立ちだった。
「何だ、こんなものか…俺、は…」
その言葉を言い終わらないうちに、ロードのアーマーの各所から、血が噴出する。
クロウには、ロードの身体の至る所から、タナトスが用いていた『糸』が抜けていくのが見えた。
タナトスが死んだのだ。恐らくロードの命を繋ぎとめていた、身体中に張り巡らされた『糸』が、制御を失って自らの意思で動き出したのだろう。
先程タナトス自身が言っていた。自分を殺せば、ロードは死体に逆戻りするだけだと。
「ロード…」
クロウは、ロードに近づこうとした。
その途端、身体が急激に重くなり、クロウも膝をついた。
「!?ガハァッ!!!」
反射的に口元を覆った指の隙間から、大量の吐血が流れて地面の草を塗らす。
見れば、アーマーの各所からも、多量の血が流れ出していた。
額から脂汗を流し、クロウは歯噛みする。薬の効果が切れたのだ。
先程までクリアになっていた視覚や聴覚、触覚も、もう何も感じない。その代わり、身体中を激痛が走り抜ける。
薬が切れると同時に、これまでの戦いで負った傷も一気に開いたのだろう。
疲労感に至っては、身体の重さが何倍にも感じるほどだ。
「(こ、れで…終わりなのか)」
一度改造され、そして薬の切れた今の身体がどうなっているのか、クロウ自身にも分からない。ノアの言った通りなら、全身の感覚が消えてなくなっても不思議では無い事は確かだ、と彼は思った。
今のロードと、同じように。
霞む視界で、かろうじてロードの方を見る。
ロードも、その場でもがいていた。動かぬ身体を動かそうと。
そんな彼の姿に、クロウは若干の安心を覚えていた。
「(いや…十分だ。ロードに、自分の意思を取り戻させる事ができたんだから…)」
視界が、更に霞んでいく。聴覚など、周囲の音が酷く小さく聞こえる始末だ。触覚に至っては何も感じる事ができない。
そのまま、クロウはその場に倒れ伏した。
最終更新:2015年03月01日 23:22