窓を叩きつける雨の音が、室内に木霊している。
まだ時刻は夜になってからそれほど経ってはいない。故に、眠れる筈もなかった。
食事は先程取ったばかりだ。味の薄い病院食。
そう、俺は今病院にいた。入院患者として。
そして、既にこの病院という環境が嫌になっていた。
病院が嫌いなんじゃない。今の俺の心境が、こんな所でじっとしているのをよしとしなかったのだ。
だから、俺はベッドから降りた。
土砂降りの雨は、まだまだ止む気配が無い。
そんな雨の音を聞きながら、俺は遥か昔の出来事を思い出していた。
それは、俺が自分の事務所を立ち上げて独立する前の晩だった。
俺に探偵のイロハを教えてくれた師――皆彼の事を『ボス』と呼んでいる――に挨拶するため、そして残りの荷物を取りに行くために、ボスの興信所を俺は訪ねた。
いよいよ開業するという前の晩だ。
既に他の所員は帰宅していた。
「ボス。荷物を取りに来た」
「相変わらず礼儀がなっちゃいないな、まぁいい。入れ」
そう言ってボスは所内に俺を入れてくれた。
元々、既に必要のなくなった書類以外は小物の事務用品くらいしかなかったため、荷物を纏めるのは数分位しかからない。
手早く荷物を鞄に入れると、俺はボスに挨拶した。
「ボス、長い間世話になったな」
ボスはいつものように自分のデスクに備え付けられた椅子に座り、両手を組んで俺を見た。
「確かに、今日まで長かった。だが今のお前は、かつてこの事務所に訪ねてきた頃とあまり変わらん。甘い考えを捨てきれない…小僧のままだ」
相変わらず手厳しいボスの言葉に、俺は苦笑せずにはいられなかった。
だが、続けてボスは言う。
「しかし、それでもお前はここまで生き延びた。お前の同期の中にも、まずい案件に手を出して戻ってこれなかった者も何人かいたが…幸いお前とブルース、それにデュークは私の期待に応えるだけの能力は身に付けた。それは私が保証しよう」
この頃まだ青臭かった俺は、恐らく初めてかもしれないボスの賞賛の言葉に、危うく涙を流しそうになった事を覚えている。
「…まぁ、何だ、この先も仕事で顔を合わせる事があるかも知れないが、その時はよろしく頼むよ、ボス」
俺の言葉に、ボスは頷く。
そうして興信所を出て行こうとした俺の背に、ボスは声をかけた。
「『ジョン・ミルトン』…私のもう一つの名であり、この興信所の名だ。お前も知っているだろう。もう『ボス』などと呼ばなくとも良いぞ」
その言葉に、俺は微笑みつつ首を振る。
「まだ俺は独立前夜のひよっ子だ。この先何十年も一人で仕事をして、あんたを超えたと思えた時には、その名前で呼ばせてもらうよ、ボス」
俺の言葉に、ボスは僅かに首を傾げつつも納得したように頷いた。
そして、次の言葉を紡ぐ。
「ならば…真実を知りたくないか、スティーブ。この街、そしてこの世界には、お前の想像もつかん現実がまだまだ眠っている。その一端だけでも、お前に明かしてやってもいいぞ」
ボスの言葉に、俺は即座に首を振った。
「あんたがそう言うのなら、やはり俺はまだまだひよっ子なんだろうな。だが、いずれはあんたの言う真実とやらも、俺が自分の力で見つけてやる。そうでなきゃ、この仕事やってる意味が無い、だろう」
その時、ボスが微笑んでいるのを初めて見たかもしれない。
微笑みながら、最後にボスは言った。
「そうだ、それでこそだ。頑張れよ、スティーブ・ハント」
そうして、俺は長年勤めた興信所を後にした。
変わらず雨が叩きつける窓を尻目に、俺は動き出す。
覚悟はベッドの中で散々した。
これまでに出た犠牲と、そしてこれから出るであろう犠牲の事を思った時、俺の意思は既に固まっていたのだ。
そして、俺は病室を抜け出した。
これからするのは、過去の俺への決別であり。
そして――宣戦布告だ。
最終更新:2016年05月03日 23:21