サイモン・バルサザールの話は確かに深刻なものだった。
だが所詮は一情報屋から出た噂程度の代物だ。こんなものに一々恐れていても始まらない。
しかしカーネルが俺に張り込みを付けたということは、サイモン以外の情報屋もこの情報を持っている可能性が高いということだ。
何故だ?
あれほど大規模で大きな犠牲を伴う計画の情報が何故こんな簡単に流出してしまっているんだ?しかもご丁寧にターゲットのリストと共に。
間違いなくロワイアル・ファミリーの今後を左右する計画だ。連中の立場からすれば、これから控えているこの計画の流出は最も避けなければならない事態の筈。
なのに、複数の情報屋に情報が渡ってしまっている。
「連中、わざと情報を流出させたんじゃ…」
車を運転しながら、俺はそう呟いた。
もしそうなら、そんな噂を流した理由は何だ?
どちらにしろ、リストに俺の名前も入っていると言うなら、俺に対して連中が何らかのリアクションを起こしても何ら不思議は無い。
昨日のジョニー・ケルズもその一つだろう。ほぼ確実に。
あれから一夜明けた今、更に一手が打たれてしまっている可能性だってあり得る。
俺はマーガレット・カーライルの表情を思い浮かべた。
少なくとも話している間の態度から、彼女がマフィアの一員とは考え難かった。だが一流の殺し屋なら、自分の纏う血の匂いを消す事など造作も無いだろう。
どちらにしろ、今は手持ちの情報が少な過ぎる。際限の無い疑念はこの際置いておくとして、一先ず俺は依頼の調査を進めることにした。
とはいえ、件のアンドロマリウス遺伝子研究所に関しては、その住所と所長の氏名・年齢くらいしか分かっていない。
「とりあえず、行ってみるか」
どこかから入り込めるかもしれないという希望的観測を抱きつつ、俺はマーガレットに教えられた研究所の住所へ向けて車を走らせた。
世の中そんなに甘くは無かった。
都市部の中心地に位置しているアンドロマリウス遺伝子研究所は、高層ビルを丸々一つ占領していた。そして、まずそのビルにはカードキーが無いと入る事さえできない。
おまけにどの出入り口にも警備員が常駐していた。
警備にも相当な金額を割いているのだろう。警備員達は若すぎず年を取り過ぎず、その黒いスーツの下は相当な筋肉と武器を隠し持っていそうな風貌をしていた。
これは、潜入するにしても相当な準備が必要だろう。警備員を気絶させるためには夜闇に紛れて奇襲するしかないが、生憎今は真昼間だ。
一応研究所の外観は知れたので、俺は出直すことにした。
研究所の次に立ち寄ったのは、図書館だ。
アンドロマリウス研究所について何か分かりそうな資料は無いかと思ったのだ。
が、こちらも空振りに終わった。どれほど資料を探しても、遺跡調査や飛空船、ホロン機関やらの本は大量にある癖に、この研究所に関する資料は見つからなかった。
「まさかここまで無いとはな。せめて研究所の所長の自宅の住所位はどこかに載ってるかと思ったんだが」
民間の研究所とはいえ、公共の図書館に情報が何も載っていないとは思わなかった。
しかし情報流出対策を厳重にしている民間企業ならそれも考えられない話では無い。
研究所がロワイアル・ファミリーに関わっているなら尚更の話だろう。
もしそれが本当なら、関係者がわざわざ出向いていって資料を抹消している可能性さえあり得る。
だが、もしそこまでしているとしたら、この研究所では何が行われている?
先程の厳重すぎる警備といい、何かきな臭いものを感じつつ、そろそろ腹が減ってきた。
俺はダイナーで昼食を取る事にした。
ダイナーに到着すると、昼飯時には多少遅れたものの客は多かった。
どうにかカウンター席に陣取ると、俺は料理を注文する。
しばらくすると、隣の席の客が店を出て行き、代わりに別の客がそこに座った。
見覚えのある客だ。医者らしく白衣を纏った女で、赤みがかった茶色の短髪に、少し青白い肌をしている。
「何、何か用?」
ぼんやりとその女を見ていると、女は俺の視線に気付いたらしい。
言葉自体は刺々しかったが、その口調に覇気は無かった。
それで思い出した。こいつはブルース・ラインハンの死体を調べた医者だ。
この前の事件で、俺の元同僚が死体で見つかったのだが、その元同僚であったブルース・ラインハンの検死を行ったのがこの女だった。
幸い、エリスが渡りをつけてくれたお陰で検死解剖の結果をこの女から聞く事ができたのだが、その後の事もあり、あれは俺の中で嫌な記憶と化してしまっていた。
「憶えてないか。俺の知り合いが死んだ時に、検死結果を教えてくれたのがあんただったんだが」
女はしばらく俺の方を見つめていたが、やがて一人頷いた。
「ああ、あの時のエリスの連れ。この前は随分顔色が悪かったけど、今も顔色悪いわね」
青白い肌をしたあんたに言われたくない。そう思いつつ、俺は運ばれてきた料理にフォークを差し込んだ。
相変わらず味を犠牲にして安さを優先した象徴のような料理に顔をしかめつつ、俺はコーヒーの入ったカップを口に運びながら言葉を紡ぐ。
「そっちはあれから相変わらずみたいだな。面白い死体とか出てきたか?」
「そーね。頭が割れた死体と手足全部の指が詰められた死体と首吊ってから溺死した死体、どの話が聞きたい?」
ジョークのつもりで話を振ったら、予想を超える返しが来た。
あまりにも予想を超えていたため、俺は思わずコーヒーを吹いちまった。その様子を冷ややかな目で見つめていた女は、やがて言う。
「死体解剖医を甘く見るからそうなる」
紙ナプキンで周囲を拭きながら、俺は呟くように返す。
「死体解剖医が全員お前みたいなのだとは思いたくねぇな」
「同感」
言いつつ、女はクスクスと笑う。色々とリアクションが謎な女だ。
が、このやりとりで俺は気に入られたらしい。女は紙ナプキンで口元を拭うと、俺に顔を向けて言った。
「ベアトリス・ファーガソン。あんたは?」
「スティーブ・ハント。先に言っておくがエリスとは知り合いで同僚じゃない。そして俺は警察官じゃない。一介の私立探偵だ」
「そう。別にあんたの職業は興味無いけどね」
「警察だと勘違いされたくなかっただけだ」
そこまで言って、俺とベアトリスは同時に料金とチップを置いて立ち上がった。
「じゃあね」
駐車場を横切りながら、ベアトリスはそう言って立ち去ろうとする。
その背に、俺は声をかけた。
「ちょっと待て」
怪訝な顔で振り向いた彼女に、俺は質問をぶつける。
「『アンドロマリウス遺伝子研究所』って所に、何か思い当たる事は無いか?」
その名前を聞いた瞬間に、彼女の目が僅かに見開かれたのを俺は見逃さなかった。
「…さぁ、憶えてないわ」
それだけ言うと、彼女は駐車場を出て路上を歩いて行った。
そう言えば、彼女の勤務してる死体安置所はここからすぐ近くだったか。
昼食を取った後、俺はボスの興信所に出向いた。
そこは何人もの調査員が雇われているし、彼らの収集した情報が書類として雑多に積まれている。
その中に件の遺伝子研究所についての情報が無いか探そうと思ったのだ。
が。
「ああそうだった。もうブルースはいないんだったな」
前まではブルースが興信所の調査員だったから便乗して興信所内の情報を閲覧できたのだが、ブルースはもうあの世に行っちまった。
仕方が無い。ボスに頼むしかないか。俺は覚悟を決めて、所内に入った。
入って早々、俺はボスにここの資料を調査に使わせてほしい旨を語った。
相変わらずボスは厳しい目を俺に向けている。
「事情は聞かんでやろう。お前ももう一人前の探偵だ、依頼内容は私にも明かせまい」
そりゃそうだ。聞かれても喋るつもりは無かった。
「だが、お前にはお前の都合があるように、私にも私の都合がある。それは分かるな?」
俺は頷いた。ただでさえ少ない手がかりが更に少なくなるものの、断られれば俺は素直に退散するつもりだった。
「…一つ貸しだ。ただし調べる単語だけでも言え。でなくば許すことはできんぞ」
「『アンドロマリウス遺伝子研究所』」
俺の言葉に、ボスは特別な反応は示さなかった。そうかとだけ言うと、デスクの上のカップに入ったコーヒーを一口啜る。
「どうした?早く調べて来い」
あ、もういいのか。いつものようにこの後も説教が続くかと身構えていた。
資料を閲覧しに行こうとする俺の背に、ボスの声がかかる。
「20分だ。それ以降は認めんからな」
20分以内に興信所内の資料を全て捜索するのは腕が10本あっても無理だ。
だが、資料が分類されていたお陰で、残り5分という所でとうとう見つける事ができた。
とは言っても、半世紀ほど前の資料だ。
当時は遺伝子研究所ではなく、『アンドロマリウス科学研究所』だったようだ。
この時も所長は同じだったようで、所長の自宅の住所も載っていた。
それと共に研究所の外観の写真も出てきたのだが。今は周囲と同じ高層ビルの姿だが、当時は3階建ての建物だったようだ。
「一度建物を造り替えたのか…」
一緒に、当時の建物の図面も出てきた。
「…何だ、これ?」
地下階の図面が6階分。異常な地下階の多さに、俺は不気味なものを感じた。
図面の内容はどの地下階も変わらず、廊下と複数の部屋があるだけだ。どの部屋が何に使われるかまでは図面からは読み取れない。
だが、最後の地下6階の図面を見た時、背筋を寒気が襲った。
階段と廊下、その先に一つの部屋。その階には、この部屋一つだけだった。
そして、その部屋の中央には、何に使うのか分からない、巨大な穴が開いていた。
「科学研究所ねぇ…本当に科学の実験でこんなもの必要なのか?」
既にこの研究所の所長がマフィアと繋がっているらしいという未確認情報も出ている。
マフィアが自分達に都合の悪い人間の死体をこの穴に放り込む場面がありありと想像できた。
が、現実的では無い。そんな事のためにこんな大掛かりな建物を建てるか?マフィアならそんなことはしないだろう。もっと安上がりな死体の処理方法なんか幾らでもある。
ともかく、ここで幾ら考えてても仕方がない。そもそもこれは50年前の図面だ。今現在もこれがあるとは限らない。
ふと図面の裏を見てみると、この図面を書いた人間の名前が出てきた。
『エリオット・ワインサップ』。俺は建築家に詳しくないんで、当然ながら聞き覚えの無い名前だった。
更に、恐らくこの資料を収集した当時の調査員が書いたものだろう、この建築家の自宅の住所と思われる手書きの文字が見つかったが、かなり郊外のようだ。
今も生きている保証は無いものの、俺は研究所の所長の自宅の住所と共にメモを取った。
ボスに礼を言い、俺は興信所を出た。
まずはここからさほど遠くない、研究所の所長の自宅だ。
研究所の住所は変わっていないし、所長の名前も変わっていない。だから自宅も変わっている可能性は少ないだろうと思い、俺は車を走らせた。
だが、その希望はあっさりと打ち砕かれた。
住所にあったのは駐車場だった。しかもどこかの会社が貸している月極めのものだ。
住所を見つけた以上、不動産に当たるという手もあるが、どっちにしろ面倒な事になった。
そう思い肩を落とした俺は、一先ず郊外の建築家の自宅の方に車を走らせた。
郊外に向かうにつれて、気温が下がってきたのが分かった。
そういえばもう冬も目の前だ。これから先、この稼業には厳しい季節になる。
そう思いつつ、俺は興信所でメモした建築家の住所へと向かう。
研究所が何をしているかなど、建てた者に聞いても何も分からないかもしれないが、どうせ手がかりは少ないんだ。全部当たっていこう。
所長の住所についても不動産屋に問い合わせるつもりでいた俺は、こうなったらとことんまでやってやるという気になっていた。
郊外。一面に畑の広がる丘の上に、木造の家が建っていた。
2階建てで、人が一人か二人住むには丁度良さそうな大きさと言える。
屋根から突き出ている煙突からは煙が出ていたので、中に人がいることが分かり俺は一先ず安心した。
チャイムが無かったので、玄関のドアを叩く。
「何だね、お前さんは」
出てきたのは、白髪に皺の重なった顔の、少し恰幅のいい眼鏡をかけた老人だった。
「エリオット・ワインサップというのはあなたですか?」
「そうだが、何の用だね」
「『アンドロマリウス遺伝子研究所』について調べている者です。あなたがあの研究所の建物を建てたとか」
しばらく、老人の表情には疑問だけが浮かんでいた。
どうやら、憶えていないようだ。あの図面を発見した調査員が住所まで書いていたのだから、ここにも来ただろうと思ったのだが。
仕方なく、俺は助け舟を出す事にした。
「あなたが建てた当時は『アンドロマリウス科学研究所』という名前でした」
そこでようやく、老人は相槌を打つ。
「ああ、あそこか…しかしあそこはもう建て直されている」
「ええ。それは知ってます。それでも、あなたの描いた図面には奇妙な所があった」
老人はそこまで聞くと、ようやくドアを大きく開けた。
「入れ。退屈していた所だ」
暖炉からは燃え盛る炎が見える。まるで地獄の淵のようだ。
俺は案内された椅子に座り、老人を待っていた。
しばらくして、老人はコーヒーの入ったカップを二つ持って戻ってくる。
「もう引退した身だし、既に建て直された建物の話だ。儂が知ってる話でよければ聞かせてやろう。ただし、内密にな」
家の中にある家具や食器を見る限り、一人暮らしというには不自然だ。二人分の皿やマグカップなどが食器棚に並び、テーブルには4脚もの椅子が並んでいる。
だが、そこここには結構な量の埃が溜まっていた。
子や孫は独立し、妻には先立たれた老い先短い暇な老人というわけか。
俺がカップを受け取ると、老人は俺の向かいの椅子に腰を下ろし、やがて視線を暖炉の炎へと向けた。
「…あの建物は、今でも良く憶えている。最初から最後まで奇妙な依頼だった」
俺は老人の表情を観察したが、その表情は殆ど変わらない。感情は感じられないが、その眼だけは過去を眺めているように見えた。
「依頼してきたのは、グレアム・フォン・ロワイアルという男だった」
『ロワイアル』。いきなり確定した。ここまできて偶然の一致などありえない。
やはり、『アンドロマリウス遺伝子研究所』というのはマフィアであるロワイアル・ファミリーが関係していたのだ。
この老人が言った名前は、恐らくドン・ロワイアルの本名か、その親族の誰かだろう。
「最初は地上3階建ての建物を依頼された。だが、その後地下6階まで作ってほしいと言ってきた。そのための金は用意しているとも。それは大変な事業だった」
そりゃそうだろう。今でさえ地下6階なんて大工事だ。あの面積だと下水管や下水道もどうにかする必要があるだろう。
よくあの時代に造れたなと思ったが、むしろ街が発展途上だった頃だからこそ造れたのだろうと思い直した。
「しかも、最下階の中央に穴をあけ、『その下』に繋げろと言ってきた。図面を書くだけの儂はまだ良かったが、建設作業員は大変だったろうな」
「…『その下』?」
俺の言葉に、老人は呆れたように言った。
「何だ、知らんのか。あの街の下には『遺跡』がある。常識だろう」
そう言えば、街の下にはそんなものがあるんだったっけか。俺の職業とは…いや大半の職業の人間にとっては縁の無い話なので、そんな事実すっかり忘れていた。
「で、その建物の建設は無事に完了したのか」
「『遺跡』に繋げるという話なんだ。無事に済むわけがない。『遺跡』にいるモノ達の手にかかり、作業員が何人か犠牲になったという話を聞いた。だが、あのグレアム・フォン・ロワイアルは関係各所へ既に手を回していたようだな。結局、大きな問題にはならず、建設は予定通りに完了したよ」
死者が出たというのにか。
俺は益々ロワイアル・ファミリーという奴らが嫌いになっていたが、それと共に不気味さも大きく感じるようになっていた。
奴らは一体何なんだ?本当にただの犯罪組織か?
『遺伝子研究所』など作って、奴らは一体何をやってるんだ?
「所で、その建物の建設の過程で、親しくなった関係者とかはいたんですか?」
「ふむ…」
俺に質問に老人は目を瞑ると、片手でその目元を覆う。
このまま寝ちまわないか心配だったが、やがて老人は言った。
「そうだな…確か、イーサンが一時期あそこに勤めてたが…」
「こっちとしても手がかりが僅かなんです。その人を紹介してくれれば幸いですが」
老人は頷いた。
「いいだろう、暇だしな。話は通しておこう。だが慎重にやれよ。イーサンは気難しい男だからな」
エリオット・ワインサップ老人の話では、彼の知り合いである『イーサン・ファウラー』という人物が、一時期アンドロマリウス研究所に研究員として出入りしていたらしい。
知り合いになったのは既にその人物が研究所を退職した後だったようで、一度その話題になったことがあったのだという。
だが、その男は研究所については話したがらなかったようだ。
老人の話しぶりから、俺は男が勤務していたのはまだ研究所が高層ビルとなる前で、『アンドロマリウス科学研究所』という名前だった頃のことだと判断した。
男の方も既にかなりの高齢だろう。ひょっとするともう生きちゃいないかもしれない。
「おおイーサン!久しぶりだな!」
そう思っていたのだが、老人が電話した際の反応から、まだ生きていることが分かった。
しばらくして、老人は電話を置いて戻ってきた。
「イーサンは元気そうだったよ。お前さんの話をしたら、明日の昼前になら気が進まないが話してくれるそうだ。くれぐれも奴の機嫌を損ねないよう気をつけるんだな」
「何から何までありがとうございます」
「いいさ。家族がいなくなった老人の暇潰しだ」
最初は少々気難しそうだと思っていたのだが、話してみると実に気のいい老人だった。これは相当運が良かったかもしれない。
既に外は日が落ちていた。
かなり気温も低くなっており、ワインサップ老人から話を聞いていた時は暖炉の傍にいたため、俺はより明確に寒さを肌で感じ取る。
急いで車に乗り込むと、俺は車のエンジンをかけて暖房も点けるのだった。
背後の家ではワインサップ老人が手を振っている。俺も別れの挨拶代わりに手を上げた。車の中だったので、老人に見えたかどうかは分からなかったが。
郊外から街の中心街まで着く頃には、既に時刻は21:00を回っていた。
とりあえず俺は昼飯を食べたダイナーにまた寄ると、遅めの夕食を取る。
わざわざここで夕食を取ったのには理由があった。
手早く夕食を食べ終えて勘定をテーブルに置くと、ダイナーを出たその足で、俺はそこから程近い死体安置所(モルグ)へと向かった。
まだいるかどうかは微妙な所だ。昼食時に勤務していたので、ひょっとすれば夜勤は別の死体解剖医が担当しているかもしれない。
そう考えているうちに、あっさり死体安置所が見つかった。
夜ではあったが、ブルース・ラインハンの死体を確認した場所だ。間違いない。
明かりが灯っている。夜間に発見された死体も届けられる場所だから当たり前だが。
俺は出入り口に足を踏み入れると、そのまま受付まで進んでいった。
受付では、太った髭面の警備員が椅子に座っている。俺を不審そうな目でジロジロ見た後、その警備員は言った。
「何か用でも?」
「ベアトリス・ファーガソンという医師はここに?」
益々警備員は俺の事をジロジロと疑わしそうな目で見つめる。そんなに俺みたいな男がここに来るのは不自然か。
「ファーガソン先生に用事ですか?」
俺は頷いた。警備員はあからさまに面倒臭そうな顔で、大儀そうに腰を上げる。
だが、それを制する声があった。
「座ってていいわよ、ボブ」
ボブと呼ばれた警備員はそう言われて、やはり面倒そうに椅子に座り直した。
俺は声をかけた相手――廊下にいたベアトリスを見る。
「何か用?」
やはり面倒そうな目付きで、ベアトリスは俺を眺めた。
昼間見た時とは違い眼鏡をかけており、その両手はポケットに突っ込んでいる。
「ここで用件を話さなきゃ駄目か?」
「ボブ、ドーナッツでも買ってきて」
言いつつポケットから手を出し、数枚の紙幣をベアトリスは警備員に手渡した。警備員のボブは無言でその紙幣を受け取ったが、俺に声をかけられた時とは対照的に素早く立ち上がると、出入り口から出て行った。
「それで、何の用?」
腕を組み、ベアトリスは俺に問う。その目は用心しているようでもあり、どこか俺を品定めしているようにも見えた。
「昼間に言ったろ。『アンドロマリウス遺伝子研究所』のことだ」
「…知らないって言った」
「それにしては、知っているような言い方だったがな」
しばらく、俺も彼女も沈黙する。だがやがて彼女は、右手の人差し指を目の前に掲げると、言った。
「一つ条件がある」
10分後。俺は缶ビールをしこたま買い込んだ袋を持ち、再度死体安置所に来ていた。
何て女だ。
条件が「有り金全部で酒買ってきて」とは。
俺がどんなに説得しても、彼女はこの条件を飲まない限り何も話さないと言い続けた。
仕方が無いので、今俺はビールを買い込んで戻ってきたというわけだ。
両腕が痛い。コンビニエンスストアが近くに無かったら、正直諦めていた所だった。
また受付に着くと、あの警備員ボブがドーナツをパクついている現場に遭遇した。
だが、そのボブには話が通っていたらしい。両手に缶ビールが山ほど入った買い物袋を持った俺の姿を見ると、ボブは何も言わずに顔を振り、入っていいと合図する。
俺はそのまま、死体安置所の奥へと入っていった。
奥には、ブルースの死体を確認した場所があるだけだった。
即ち、沢山の死体が入っている筈の棚が並べられた部屋だ。
その隅の方にベアトリスのデスクがあり、その前に彼女は座っていた。
「来たわね」
「勤務中だろ、酒なんて飲んでいいのか?」
俺が袋を手渡すと、早速中から缶を一つとり、何の躊躇も無く開けてしまうベアトリス。
「いいの。私が勤務中に酒飲んでようと、もう誰も気にしないから」
意味深な返しに、俺はその言葉の意味を考えずにはいられなかった。
「で、アンドロマリウス遺伝子研究所のことだが、何か知ってるのか?」
と俺が聞いた時には、ベアトリスは既に缶を一つ空にしてしまっていた。
そして今度は、俺の前のデスクに缶を一つ置く。
「あんたも飲んで」
「何で」
「じゃないと面白くないでしょうが」
何だそりゃ。そう思いつつ、ここは合わせた方がいいと判断し、俺も缶を開けて中身を飲む。
「それで、えーと、あの研究所の話だったっけ」
やっと話してくれる気になったか。そう思いつつ、俺は耳を傾けようとした。
「あんたのビール、空になってんじゃない。もっと飲みなさいよ」
空になってねぇ。そう言おうとしたのだが、既に彼女は新しい缶を開けて俺の前に置いてしまっていた。
糞。明日は確実に二日酔いで苦しむな。そう思わずにはいられなかった。
「あれはー…いつだったっけ、警察が変な事言って、死体を持ってきたのよ」
かなり呂律が怪しくなってきた頃に、彼女は漸く話を始めた。
「下水道で見つけたんだって。近くがここだったから、ここに持ってくるしかなかったんだけど、隠すのが大変だったって言ってた」
「そりゃ人間の死体なら隠すのは大変だよな」
「違う違う。普通の人間の死体なら、死体袋に入れて持ってきゃそれで済むでしょうよ」
ベアトリスのその言葉に、俺は疑問を口にする。
「ってことは、その死体は死体袋が使えなかったって事なのか?」
真っ赤になった顔で、ベアトリスは頷いた。
「入らなかったみたい。実際、それくらい大きかったしね」
「どんな死体だったんだ?」
俺のその言葉に、彼女は少し沈黙していたが、やがて缶をグイッと一気飲みした後、手の甲で口元を拭ってから言った。
「人の形してなかった」
「…は?」
「だーかーらー!人の形じゃなかったって言ってんでしょうが!!」
うんざりしたように彼女は言う。
「もっと具体的に話せ。人の形じゃ無かったって、一体どんな形だったってんだよ?」
俺の言葉に、少しの間ベアトリスはボーっとしたように虚空を見つめていたが、やがて早口に答えた。
「手と足の爪が異常に伸びてて、まるで動物の爪みたいで。口も耳まで裂けてて歯も全部犬歯だった。全身にハリネズミみたいな体毛が生えてて、顔だけ機械化でもされたみたいに金属が付いてて、額に赤い目があった。あと全身の筋肉が異常に膨張してて」
「あー、分かった分かった。酒持ってきたのは失敗だって分かったから黙れ」
「何よー、信じてないわね?」
そう言うベアトリスの目が、段々と閉じてきた。
ヤバイ。そう思った時には、既に彼女はデスクに突っ伏して寝てしまっていた。
「おい、起きろよ、おい!」
「ん、何よー?」
言いつつ、彼女はまた起き上がる。俺は続きを促した。
「もう分かったから、死体がどんなだったかは素面のお前に聞くことにする。で、その死体は今どうなってるんだ?」
「そこよ!」
一際大きな声で急にそう言うと、ベアトリスは人差し指を俺の方に向けた。
「詳しく調べようとしたら、そのアンドロなんたらいう研究所の奴らが死体を持ってっちゃったのよ!」
「何だそりゃ。民間の研究所が何で公立の死体安置所から死体を持っていけるんだ」
「上とコネでも持ってたんでしょ。書類は全部正式のものだったし、大人しく従うしかなかったのよ」
火消しか。どうやらその死体ってのは研究所に――ひいてはロワイアル・ファミリーに――とって相当都合が悪いものだったらしい。
「で、知ってるのはそれで全部か?」
「そ。それで全部。あの後しばらくあの死体が夢に出てきちゃってねー。大変だったわよーもう」
「そうかいそうかい」
と俺が相槌を打つ間に、ベアトリスは再度デスクに突っ伏して寝てしまった。
気がつけば俺の前の空き缶も10個近くになってしまっている。立ち上がると、足元が結構ふらついていた。
「あー…こりゃ明日は確実に二日酔いだな」
そう愚痴りつつ、俺はその場を離れる。これ以上は幾ら聞いても彼女から情報を出てこなさそうだと判断したからだ。
離れる前に、俺は突っ伏したままの彼女に声をかけた。
「俺はこれで帰るからよ、お前もここで寝るくらいならとっとと帰るんだな」
反応は期待してなかったが、意外にもベアトリスはその体勢のまま、右手だけを上げて左右に振る。
そんな反応が返ってきたからなのかもしれない。俺は自然と続きの言葉を紡いでいた。
「それから、お前の事情は知らんけどな、酒に逃げるのも程々にしとけ。身体壊すぞ」
今度こそ反応が返ってこなかったので、俺は部屋を出る。
だが、受付に辿り着くまでの間に、後ろからかすかな言葉が聞こえていた。
「いっそ壊れちゃえば、楽なのにね」
覚束無い足取りで廊下を進み、死体安置所を出た。その間、ボブは冷ややかな目で俺を見るだけだった。
俺はふらつく足取りでダイナーの前に止めた車に戻ると、そのままそこで眠ってしまった。
最終更新:2016年05月15日 18:11