翌朝。俺はダイナーの駐車場に停めていた車の中で眼を覚ました。
まだ本格的な冬になってなくて良かった。なっていたら俺は凍死していたかもしれん。
それはともかく、まず起きて俺が感じたのは二日酔いによる頭痛だった。当たり前だ、前日にベアトリスから缶ビールをしこたま飲まされたんだから。
時計を見ると、昨日エリオット・ワインサップ老人より伝えられた、イーサン・ファウラーと会う時刻まではまだ少し時間があった。
さてどうするか。このままダイナーで朝飯を食べるのも手だが。
そう考えた所で、ある考えが閃いた。
俺はそのまま車を運転し、ある場所へと向かった。
幸い、目当ての場所――図書館は開いていた。
ワインサップ老人からは『常識』だと言われていた事だが、少なくとも俺は知らなかった。
なので、その常識をもう少し知っておく必要はあるだろう。今後役に立つかもしれない。
即ち、あのアンドロマリウス遺伝子研究所の地下に通じているかもしれないという『遺跡』の事だ。
それから俺は、イーサン・ファウラーとの面会時間ギリギリとなるまでの間、遺跡調査や、その管理などについての資料に目を通し続けた。
「ワインサップさんからの紹介で来ました。スティーブ・ハントです」
「ええ、聞いていますよ。お入り下さい」
午前10時を過ぎた頃に、俺はイーサン・ファウラーの家を訪ねた。
イーサン・ファウラーの家は、エリオット・ワインサップ老人の家とは違いマンションの一室で、ワインサップ老人が事前に話を通してくれたお陰ですんなりと彼の自宅に入れてもらうことができた。
マンションの部屋は一人暮らしのもののようで、バスタブやトイレを除けばキッチンとリビングの二部屋しかない。
その代わり、9階建てのマンションの最上階に住んでいるせいか、窓の外からは街の景色がよく見えた。
「コーヒーでも如何ですか」
「ああ…すみません、頂きます」
ファウラーはキッチンでコーヒーを入れながらも、リビングの椅子に座る俺に話を続けてくる。
「それで…アンドロマリウス研究所について知りたいんだとか」
言いながら、彼はコップに入ったコーヒーを俺の前にあるテーブルに置いた。
俺は頷いて、イーサン・ファウラーの方に視線を向ける。
エリオット・ワインサップとは違い、禿げた頭に皺と染みの浮いた顔、痩せた体格。背は180近いが、少し腰が曲がっている。
ワインサップ老人と同じく、ファウラーという人物も恐らくは60は過ぎているだろう高齢に見えた。
「すみませんね、こんな時間に」
「いいさ…すまないが朝食はもう取ってしまったけどね」
ワインサップ老人と同じく人の良さそうな人間ではあったが、あちらと比べると少し陰気に見える。
そういう人間なのだろうか。それとも例の研究所について話すのが、それほど重荷なのだろうか?
「早速ですが、あの研究所についてあなたの知っている事を全て話してほしい」
「…何から話せばいいかな。まず、私は元々、大学の研究員だった」
イーサン・ファウラーはまず自身の来歴からポツリポツリと語り始めた。
それによれば、大学院で生物の生態などを研究していた所、アンドロマリウス科学研究所から誘いがかかったらしい。
給料を初めとした待遇は悪くなく、それほど悩まずにその研究所に勤務する事にしたようだ。
「ここから先は、正直思い出したくなかった。きっと君には…何というか、信じ難い話になるだろうな」
「今の時点でもかなり信じ難い話が出てきてるんですがね」
俺の返しに、ファウラーは薄く笑うと、言った。
「勤務を始めてから、およそ5、6年ほど経ってからだった。その頃になると、私の研究も認められ始めて、次第にあの研究所の所長達の研究にも関わり始めたんだが…」
そこまで言うと、ファウラーはしばらく目を閉じる。
やがて眼を開けたファウラーは、静かに言った。
「やがて知った。あの研究所は、倫理を欠いた研究をしていると」
やっぱりか。マフィアが関わってる事が確定した時点で、それくらいは予想ができていた。
邪魔な人間を消すためだけじゃ、あんな大掛かりな建物を建てる動機には弱すぎる。
俺の顔色を見て、俺がその言葉を予想していた事が分かったのだろう。ファウラーは、再度言葉を紡ぐ。
「私が見たのは、様々な形で行われる…人体実験の数々だった」
「人体…実験?」
人体実験。それだけ聞けば随分と物騒な単語だ。新種の麻薬などを被験者に吸わせて反応を見るような類の研究だろうか。
俺の様子を見ながら、ファウラーは話を続ける。
「数十年経った今でも、鮮明に覚えている。今でも夢に出る。何度この街を出ようと思ったか分からない」
彼は頭を抱えてそう言うと、そのまま沈黙する。
その様子を見て、俺は考えを改めざるを得なかった。麻薬の研究なんてモノでは無いらしい。最低でも人一人が思い出すのに怯えるレベルの、人体実験。
俺は沈黙するイーサン・ファウラーに、続きを促した。
「一体…どんな実験を?」
「…言葉にしようとすればするほど、君には陳腐に聞こえるだろう。だから一言で表す」
そう言うと、一拍の間を置き、やがてファウラーは言った。
「あれは…地獄そのものだ…!」
慟哭にも似た声で、絞り出すようにファウラーはそう言った。その表情は、顔面を自身の両手で覆っていたため、窺い知ることはできない。
「…地獄、ですか。正直それだけでは、どうにも判断できませんね」
俺の言葉に、やがてファウラーは顔を覆っていた両手を膝に置いた。
その顔には最早苦悶の表情はなく、代わりに現れた顔に感情の色は無い。
俺の言葉に、現実に引き戻されたのだろうか。やがてファウラーは、冷静な声のまま言った。
「では君にも分かるように言おう。あの施設では…何百、何千といった被験者が屍へと変えられ、秘密裏に処理されている。この街に住む人々も…警察も知らない」
『分かり易く』伝えられたファウラーの話は、俺の予想を超えていた。
地獄。何百何千もの屍。
俄かには信じられない話だ。
もし本当なら、ロワイアル・ファミリーは人間を玩具にでもしているのか。
「一体、そいつらは…何のためにそんなことを?それに『被験者』はどこからどうやって…」
「被験者については私にも分からない」
そこで一旦言葉を切り、ファウラーは言う。
「実験を施される前の人間を何人か見た。まるで死を覚悟したかのような顔をした、全身にタトゥーを入れた大男、ただ泣きじゃくる小男、ずっと呆然としていた老婆…人種、性別、年齢を問わず、被験者はあらゆる種類の人間がいたように思う」
そんな人間を一体どこから調達してきてるんだ。ファウラーの言葉を聞く限り…死刑囚、老人ホーム、精神病院辺りか?
俺がそんな思考をしている間に、ファウラーはやがておずおずと言葉を紡ぐ。
「今思えば、所長達は『アレ』を目指していたんじゃないかと思う」
「『アレ』?」
彼は頷いた。その顔には、これまでよりも尚緊張感が増している。
「標本だ。人間の骨と皮の。ただの人間のものじゃない」
そこで、ファウラーは沈黙した。それが覚悟の沈黙だと、俺には分かった。
「その標本の背中には、翼が生えていた」
「…翼?」
「ああ。まるで鳥のような。羽毛は無く、芯の部分しかなかったが。あれは間違いなく、翼だったのだと思う。ガラスのケースに入れられたそれを、私は一目だけ見た。あれは、研究所の地下に厳重に保管されていた」
何だそりゃ、訳が分からん。
背中に翼って…天使か何かか?
それで知っている事が全部だったらしい。イーサン・ファウラーは押し黙る。
ここまで話を聞いて、俺は思った。
本当にこの老人の頭は正常なんだろうか。
あまりにも話が荒唐無稽過ぎて。俺には判断が難しくなっていた。
こういう稼業をしていると、自分の話を誇張し過ぎてファンタジーになってしまう証言者もいる。
今回もその類なのだろうか。俺はそう思い始めていた。
だが、別の頭ではこうも考えていた。
この老人の表情、額に浮いた汗、手の震え。全てが、話が真実だと告げている。
そして少なくとも、今まで話していて、この老人の頭が呆けているようには思えない事も事実だ。
俺は椅子から立ち上がった。
「お話ありがとうございます、ファウラーさん」
「何、役に立てたなら幸いだよ」
話を終えてようやくすっきりしたらしいファウラー老人は、幾分張りの戻った声で俺に言った。
俺は踵を返して玄関に向かいつつ、言う。
「ではそろそろ、お暇させて頂きます」
「ああ。くれぐれも今の話は、できるだけ人には話さないでいてほしい。私自身、あれは夢だったのだと思いたくてたまらなかった」
老人のか細い言葉に、俺は同意した。
「分かります。こういう稼業をやっていると、自分の経験が夢だと言い聞かせている人間には結構遭遇しますから」
老人はまたしても薄く笑うと、俺に言う。
「そうだろうな。だが、今日思い返してみて分かったよ。私の経験したアレは、夢ではなかった」
「…所で、研究所はいつ頃辞めたんです?」
出入り口のドアを開けつつ、俺はそう質問した。ファウラーは、少し頭を掻いてから言う。
「ああ、確か改築する数年前だよ。辞めた後は、民間の研究所を転々としていた。結局、一生かけても世の中を変えるような成果は出なかったがね」
俺はファウラーの言葉に頷くと、言った。
「では、お話ありがとうございました。証言の内容は調査で役立てさせて頂きます」
さて、どうしたものか。
地下世界へと繋がった研究所。
『地獄』と形容された、世にもおぞましい人体実験。
この稼業も潮時か?と俺は本気で考えざるを得なくなってしまっていた。
どれほど調査しても、ゴシップ誌のネタにしかなりそうも無い話ばかり出てきやがる。
思い返してみれば、マーガレット・カーライルから依頼されたのは、誘拐された娘を救い出す事、だった筈だ。
それがどうだ、娘を救うどころか、信じ難い話ばかりが出てきやがる。
まだ所長の自宅の跡地を扱う不動産屋を調べて話を聞くという作業が残ってるが、既に俺は疲れてしまっていた。
そう言えば、今日はまだ何も食べていない。
時刻は既に11:00に近く、このままだと昼飯になりそうだ。
他に近くにいい店を知らなかったので、結局俺は例のダイナーへと車を向けてしまっていた。
ダイナー。平日の昼前という事もあり、客足はまばらだ。
俺は相変わらず微妙な味の料理を何の感想も抱かずに食べていた。
これから先、どう調査するべきかを検討しながら。
所長の現在の住所について不動産屋に聞いた所で、大した答えは返ってこないような気がする。
かといって、残りの手がかりから調べられるのはそれくらいしかない。
後は知り合いの情報屋の伝手を辿って細々と調べていく位だが、見るからにエリートが通っていそうな遺伝子研究所の情報を持っている情報屋など一握りしかいないだろう。
つまり殆ど手がかりは無くなったといっていい。
糞。子供が人体実験してる研究所に捕まってるってのに、俺は何もできないのか?
そんな悔しさが立ち上りかける。
その時、信じられないものを聞いた気がした。
「…おい、テレビのボリューム上げてくれ」
店員にそう言い、俺はダイナーの端の天井付近に据え付けられている、テレビの方へ視線を向ける。
テレビでは、現在昼のニュースがやっていた。
『先程申し上げましたとおり、著名な建築家であるエリオット・ワインサップ氏が今朝、遺体で見つかりました。氏は自宅のリビングで血を流して倒れており、発見時には既に死亡していたとの事です。室内に争った形跡がある事から、警察は強盗による犯行と断定しました』
俺は食いかけの飯をその場に残し、代金とチップを置いてダイナーを出て行った。
まさか。凄まじく嫌な予感が、俺の頭に駆け巡っていた。
普通に考えればただの偶然だ。だが、ありえるだろうか。俺が訪問した翌日に、老人が強盗に遭って死ぬなどという事が。
あまりにも現実離れした事実ばかり出てくるものだから、神経が過敏にでもなっているのか?
そんな思考が浮かんだが、それでも俺は、ワインサップと同じく昨日訪問した、ベアトリス・ファーガソンの安否を早急に確認せずにはいられなくなっていた。
「ファーガソン先生はまだ出勤してきていません」
ダイナーからすぐの所にある死体安置所へ、俺は急いでやってきた。
警備員は昨日の太った大男ではなく、背が高く無駄な贅肉の無さそうな男で、その顔は真面目一辺倒といった感じだ。
だが、そんな警備員に構っているほど暇ではない。
「じゃあ自宅の住所はどこだ?」
「部外者に教えるとでも?」
糞、話にならない。だが俺はもう少し食い下がる事にした。
「今すぐに会いたい。でなきゃあの先生も危険なんだぞ!!」
「静かにして下さい。警察を呼びますよ?」
駄目だ。警備員は頑として俺の言葉を聞きそうに無い。
「分かった。分かったが、一つだけ答えろ。今は既に11:00近いのに何故まだあの先生は出勤してこない?」
「ファーガソン先生は夜勤なので、来るのは夕方からです」
「夕方から?昨日はここのすぐ近くのダイナーにいたぞ。白衣でだ」
「勤務状況はお答えできかねます」
駄目だ。この警備員は何も知らないし、知っていても俺に話しはしないだろう。
これ以上時間を無駄にしていられない。俺は舌打ちをすると、急いで死体安置所を出ていった。
ダイナーに戻って車を発進させると、先程話を聞いたイーサン・ファウラーのマンションまで車を急行させた。
ここからでは少しかかるものの、街の中心部である事に変わりは無いのが幸いだった。
イーサンに話を聞いたのはついさっきだ。流石にこっちは大丈夫だろうが、場合によってはワインサップの件が本当にただの偶然であると確認できるまで、どこかに保護するべきだと思った。
漸くマンションの駐車場に着くと、俺は急いで車を出る。
エレベーター付きのマンションなのが幸いだった。階段で最上階に上がるのは骨だったろう。
そう思い、俺は駐車場から通じるマンションの入口に向かおうとした。
その瞬間、数メートル先の地面に人が落ちてきた。
グシャリと潰れた音。
広がる血の輪。
あまりの光景に、俺の思考が数秒間停止していた。
次に思考が動き出したのは、近くを通りがかった、犬と散歩しているどこかの主婦がこの光景を見て上げた悲鳴が切っ掛けだった。
まずい。じきに人が集まってくる。
最初に浮かんだ思考がそれだが、次の瞬間には俺は今の自分の目的を思い出していた。
早くしないと自動車での身動きができなくなる。その前に、俺は目の前に落ちてきた人間の姿を見た。
顔を見るまでもなかった。
先程会った時と背格好や服装が一緒だ。
手足は変な方向に向き、うつ伏せになっていて顔は見えなかったが、それは間違いなくイーサン・ファウラーだった。
俺はイーサンがいた筈の、マンションの最上階を見上げる。
イーサンのいたであろう最上階の部屋のベランダの窓から、カーテンがはためいていた。見えるのはそれだけだ。
俺は急いで車に乗り込み、もう既に集まりつつある数人の人間の横を通って通りに出た。
救急車のサイレンが聞こえる。
先程悲鳴を上げた主婦を含めて何人かは俺の姿を見ているだろう。後で間違いなく警察からお呼びがかかる筈だ。
不幸中の幸いは、イーサンが落ちてきた『先』に俺がいた事だ。少なくとも、殺害の容疑は俺にはかかりはしないだろう。関係者であるとは疑われるだろうが。
そこまで考えた所で、俺は何故イーサンが落ちてきたのか、という事に思考を移した。
てっきりワインサップ老人と同じく、『強盗に見せかける』のかと思ったのだが、それとは違う理由がすぐに思い当たった。
何度も同じ手で『偽装する』のは三流のやり方だ。
エリオット・ワインサップの場合はわざと家屋を荒らして強盗に偽装し、恐らくイーサン・ファウラーの場合は投身自殺に見せかけたのだろう。
イーサンの自宅には適当にでっち上げた遺書があるに違いない。
だが、一つ確かな事がある。
イーサンを落とした人物は、まだここから遠く離れてはいない筈だ。
朝に俺がイーサンと会ってから、俺がここに戻ってくるまでの間に、時間差で投身自殺を偽装するようなトリックなんぞを仕掛けられる筈がない。
となると、ひょっとすればイーサンを落とした人物はまだマンションにいるかもしれない。
俺は迷った。
警察と違って俺は一人だ。だから、犯人を見つけるにはマンションに入って探すより、出入り口を張るのが最善の選択だろう。
だがあのマンションは、正規の出入り口と駐車場への出入り口の二つがあった。
イーサンが落ちてきたのは駐車場だから、そっちに人が集まるだろう。
となると犯人が取りそうな行動は、人がまばらな正規の出入り口からそっと抜けるか、人が集まる駐車場から人混みに紛れて出て行くかの二つだ。
だが、少なくとも俺の取れる行動は一方に限られていた。
たとえ路上に車を置いておいて駐車場の方に舞い戻っても、イーサンを見つけた時にいた主婦やその他の目撃者に俺が気付かれると面倒だ。犯人探しどころではなくなる。
となると、正規の出入り口を見張るしかない。
可能性から考えると犯人は人混みに紛れて出て行く方が圧倒的に高い。だから俺は、5分だけ見張る事にした。
車を運転し、一旦離れかけたマンションの周りを迂回して、俺は正規の出入り口が見える路地の一角に車を停める。
サイレンが激しくなってきた。ひょっとしたらこっちの方にも警察が来るかもしれない。
エンジンをかけて逃げ出したい衝動を堪えながら、マンションの出入り口を見ていた時。
一人の人間が、マンションから出てくるのが見えた。
白いスーツ。丸い唾の黒い帽子。長いステッキを持っていたが、足腰が弱そうにはとても見えない。
そしてその顔は、ゾッとするほどに青白く、そして顔面の右側を幾何学模様のタトゥーが覆っていた。
(何だ、あいつは…!?)
そう思った次の瞬間、男の鋭く刺すような眼が、一直線に俺を見た。
心臓が硬直する。
身体が動かない。
そして視線の先にいる男から、目が離せない。
男は、そんな俺にニヤリと笑みを浮かべると、そのまま路地の向こうへと消えていった。
男が見えなくなった途端、心臓が甲高く鳴っていたのに気付く。
いつのまにか、全身に大量の汗をかいていた。
一体何だったんだ、あの男は。
ハンドルにかけていた手が震えるのを必死で押さえながら、俺は男と目が合った時の感覚を、半ば強制的に思い出していた。
この全身の反応が、如実に伝えてくる。
あの男の気分一つで、俺は死んでいたのだと。
そう思い返した途端、もう耐えられなくなっていた。
俺は反射的に車のドアを開き、外の路上に胃の内容物をぶちまけた。
胃の中身が空になるまで。
漸く、俺は口元を拭うと、ハンドルに突っ伏した。
「何だってんだ、糞」
必要以上に声を出して、そう呟く。
だが幾つか分かった事があった。
少なくとも、イーサン・ファウラーを投身自殺に見せかけて殺のが、今の男である可能性は高い。
そして今の男が何者なのか。
その顔の片側にあったタトゥーが、情報屋のサイモンの言葉を嫌でも思い出させていた。
『ビートルジュース』。
この街を戦場にしようなんて狂った提案をぶち上げた、ロワイアル・ファミリーの最高幹部の一人。
今のは、その男だったのだろう。
エリオット・ワインサップとイーサン・ファウラーは死んだ。
ベアトリス・ファーガソンは行方不明だが、先の二人が殺されている事を考えると、無事でいるとは思えない。
つまり、俺が調査で聞き取りをした三人が、次々に殺されたということだ。
これは偶然では無い。さっき邂逅したビートルジュースの笑みを考えてもだ。
今俺は、ロワイアル・ファミリーにマークされている。
一体どこから見てるんだ。
何故俺の動きが分かるんだ。
幾つもの思考が展開するが、どれ一つとして合理的な答えは出ない。
だが、一つ確かな事がある。
これを依頼した人物、マーガレット・カーライルの身も危ないという事だ。
そう思い、俺は車を出ると、手近な公衆電話へと向かった。
そしてマーガレットと契約を取り交わした時に受け取った電話の番号を入力する。
『はい、こちらカーライルです』
依頼を受けた時と特に変わらない口調に、俺は安心した。
背景に不自然な物音もせず、誰かに脅されていそうな気配は無い。
「カーライルさん、よかった、まだ自宅にいますね?」
『これから外出しようとしていたですが…』
俺は考えた。むしろこのまま自宅にいた方が危ないだろう。
「ではよく聞いてください。誰でもいいので、知り合いに連絡してその人の家に行って下さい。そして私から連絡があるまで、その人の家から出ないように。大事な事です、あなたの命がかかっています」
すると、彼女からは予想外の答えが返ってきた。
『あの、私の自宅からなら、一番近い知り合いの家よりハントさんの事務所の方が近いのですが、そちらは駄目でしょうか?』
俺はしばし沈黙し、思考した。
この虐殺を止めようとしても、どう止めればいいのかは正直分からん。
それに、彼女が知人の家に行ったとしても、ロワイアル・ファミリーの暗殺者がそこさえも突き止める恐れは十分ある。
そう考えると、マーガレットの身柄を俺が押さえておき、忌々しいが警察署まで連れて行くのが最善の方法ではないだろうか。
カーネルは俺の話を信じてくれないかもしれないが、エリスなら少しは聞いてくれる筈だ。そうすれば、マーガレットの身柄を数日は保護してくれるだろう。
「分かりました。俺の事務所で待っていてください。ただし、事務所の中じゃなく、近くで」
『近く…ですか?』
「ええ、俺の事務所からちょっと行くと大通りに出るので、そこなら人通りが多い筈です。俺もこれからその辺まで行くので、そこで落ち合いましょう」
『ええ、分かりました。どうやら、深刻な事態のようですね』
電話の向こうで、マーガレットが息を呑むのが分かった。
俺はそれをゆっくり肯定すると、電話を切る。
そして、法定速度ギリギリまで車を飛ばした。俺の事務所まで。
事務所から程近い大通り。そこを走っていると、幸いにもマーガレットが歩道にいるのが見え、俺は路肩に車を止めた。
マーガレットは近くの自動販売機から飲み物を買っている最中だ。
その背中に大声で呼びかけると、マーガレットは即座に反応してくれた。
「乗ってくれ、早く!」
「はい…!」
缶コーヒーを2本持ち、マーガレットは俺の車の助手席に乗り込んだ。
俺は車を発進させようとしたが、その前にマーガレットは缶の一つを開封し、俺に差し出してきていた。
「一体何があったんです?」
俺は車の窓を全部閉じて周囲を確認し、近づいてきてライフルでも乱射してきそうな輩がいない事を確かめると、差し出された缶コーヒーを受け取る。
「関係者が殺されてるんです。あなたもひょっとしたら、標的になっているかも」
「っ…!」
俺の言葉に、マーガレットはゾッとしたような表情となった。
缶コーヒーを一口飲むと、俺は言葉を続ける。
「どうやらロワイアル・ファミリーは俺に監視でもつけたらしい。俺が聞き込みを行った人間が悉く殺された。あなたの身も危ない。これから警察署に行くので、そこで身柄の…」
その時、俺は違和感に気付いた。
ハンドルを握る左手に、力が入らない。
それどころか、アクセルを踏もうとした足にも力が入らなくなっている。
俺は握り締めていた右手の缶コーヒーを見た。
その手が、俺の意思に反して缶コーヒーを放してしまう。
俺は、それを渡してきたマーガレット・カーライルを見た。
もう視界がぼやけ、表情も分からない。
最後に聞こえたのは、予想外の言葉だった。
「…ごめんなさい」
最終更新:2016年05月22日 21:27