その日、酒場の主人は上機嫌だった。
港に近いこの店は港湾労働者達の溜まり場になっており、週末を控えた今日の売り上げも上々だったからだ。
今も、仕事帰りで薄汚れた作業着を着た労働者達が、明るい表情でジョッキに注がれたビールを呷り、面白おかしく賑やかな話に花を咲かせている。
彼はそれを見ながら、今後の事を思った。
曽祖父の代から始めたこの酒場は、明日で創業100周年を迎える。自分の代でこの偉業を達成できたのが、彼にとってはこの上ない満足だった。
それに今日は客の中に、普段はこんな所に来る筈の無いような美しい女性が一人佇んでおり、それも彼の機嫌に影響していた。
黒髪に蝶の髪飾りをして、更に黒ドレスを身に纏った色白で線の細いその女性は、店に来るなり主人にブランデーを注文し、カウンターの前で無言のまま少しずつそれを飲み続けている。
少し痩せた顔立ちで目元に濃い化粧をしたその女性は、周囲の労働者達とは打って変わった無表情だった
周囲の男達のうち何人かは女性に話しかけようとしたのだが、女性の方はただ冷めた視線を送るだけで取り付く島も無い。やがてはそんな男達も諦めて自分の席へ戻っていくのだった。
「珍しいですね、こんな場所にあなたのような女性が立ち寄られるのは」
グラスを拭きながら、店主はそう話しかける。
対して女性の方は、周囲の男達に話しかけられた時と同様、ただ店主に一瞥を投げただけだった。
「どなたかをお待ちで?」
店主の問いに、今度はその女性は無言で頷きを返す。但し、その額には僅かに不快そうな皺が寄っていた。
やがて、店に一人の男が現れた。
白い上下のスーツ、その下には灰色のワイシャツに真っ赤なネクタイ。整った顔立ちに、斜めに被った白い帽子。伊達男といった風情の男だった。
その男は、先程の女性とは離れたカウンターの席に着くと、店主に酒を注文する。
その注文と一緒に、男は女性を眺めながら店主に耳打ちした。
男から伝えられた言葉を、店主は笑顔で了承する。
「あちらのお客様からです」
そう言うと店主は、ワインの注がれたグラスを女性の前に差し出した。
女性はそのグラスを見、そして店主が手で示した男の方へ視線を向ける。
そこから先の展開が、店主の予想とは違っていた。
女性は男を眺めると、ため息をついて言葉を紡ぐ。
「また…『顔を変えた』のね、ゴースト」
『ゴースト』と呼ばれた男の表情は一瞬、それまでの爽やかなものから一変し、その顔に不気味な笑みを浮かび上がらせる。
但し、それを見ることができたのは、男に視線を向けていたその女性だけだった。
女性の言葉が理解できず、呆然と成り行きを見守る店主に対し、男が声をかける。
「マスター、奥の席は空いてますか?」
「…え?ええ、空いてますが」
「それは良かった」
そう言うと、男と女は店の奥の席へと歩みを進めていった。
「…何のつもり?こんな場所を指定するなんて」
席に座ると、向かいに座った男へと刺々しい視線を送りながら、女は言う。
「余興ですよ。ハーピー」
『ゴースト』と呼ばれた男は、にこやかな表情と丁寧な口調を崩さぬまま、女の視線に動じることなくそう言った。
それを聞いて尚も不快そうな皺を深くしながら、女は話を続ける
「『リヴァイアサン』の事は聞いた。どうするつもり?あの子は…」
「問題はありませんよ。いずれ会場に招待致します。同伴の方も含めてね」
ゴーストの言葉に、ハーピーはその眼に疑問の色を浮かべた。
「招待?」
ハーピーの言葉に、ゴーストはわざとらしく肩をすくめて見せる。
「ええ、『ルシファー』に却下されまして。この町を使うのは、即ち私を敵に回すことだと思え、とね」
「…あなた、誰かに許可を求めるような人間?」
呆れとも取れる口調で言うハーピー。それに対し、ゴーストは苦笑を交えつつ言った。
「彼に限っては敵に回すとゲームができなくなります。それに…代わりに面白い提案を頂きましてね」
「提案?」
ハーピーの言葉に、ゴーストはその笑みを更に深くする。
「会場としてうってつけの場所を紹介して頂けたんですよ」
ゴーストの言葉に、しかしハーピーは興味を示さず、代わりに低い声で告げた。
「別にどこだろうが好きにすればいい。けど、仮にその場所でやるとして…『あの男』は、来るの?」
その問いを発したハーピーの眼には、地獄の炎のような憎悪が宿っていた。
そんなハーピーの眼を見て尚も余裕を崩さずに、ゴーストは笑いながら言う。
「それについては心配要りません。あなたは予定通り、弟さんに先手を打たせて下さい。首尾良く仕掛けられたなら、その後合流しましょう」
そんなゴーストをしばらく睨んだ後、ハーピーは言った。
「『ファミリー』の方は?」
ハーピーの問いに、ゴーストは面白そうな視線を彼女へ向ける。
「まだ興味ありますか?」
「一応ね。縁を切ったとはいえ、元々はあそこで育ったもの。私も…『ファフニール』もね」
その言葉に、ゴーストは大袈裟に頷いて見せた。
「ということは、まだ…『ベルカナ・フォン・ロワイアル』とお呼びすべきでしょうか?」
その言葉に、再びハーピーはゴーストを睨みつける。
「これ以上ふざけた口を叩くなら…縊り殺すわよ、『ビートルジュース』」
「おお、怖い怖い」
多分に怒りの含まれたハーピーの声に対し、益々楽しそうにゴーストはそう返す。
しばらく、その状態のまま視線のやり取りが交わされた。
「それはそうと、これから『ボス』に会いに行きますが…あなたもご一緒にどうです?」
そう言って、ゴーストの方から沈黙を破る。
彼の言葉に、ハーピーは首を振った。
「ボスが誰であろうと、私と弟がやることは一つだけ」
そう言うとハーピーは勘定をその場に置き、店の出口へと向かった。
その背に、ゴーストが声をかける。
「ああ、そうそう…ここを出たら、振り向かないことをお勧めします」
その言葉にハーピーは目を瞑ると、苛立ちを多分に含んだ声で、誰にも聞こえぬほど静かに呟いた。
「…っとに悪趣味な男…!!」
そして、女――ハーピーはそのまま店を出て行った。
残されたゴーストは立ち上がると、店の主人のいるカウンター席に向かう。
そして、胸ポケットから一枚の紙片を取り出すと、そこにペンで何事かを書き綴り、それを主人に差し出した。
「!いけませんお客さん、こんなに…!」
「いいんですよ。素敵な女性と過ごさせてもらった、これはそのほんの少しのお礼です」
男の差し出した紙片――小切手には、今ここにいる労働者達が飲んでいる酒、その代金を全部合わせたより何倍もの額が書き綴られていた。
驚愕する主人をよそに、男は振り返って店の客達を一望すると、よく通る声で言い放つ。
「皆さん!!今日は私の奢りです!気が済むまで飲んでいってください!!」
一瞬、店がシンと静まり返る。
だが次の瞬間には、男達の歓声が店の中を満たしていた。
ここまでされては断ることもできない。
店の主人はただただ男に感謝するしかなくなっていた。
「さて、私は用事があるので、ここで失礼させて頂きます」
そう言うと、男は帽子を被り直し、店の出口へと向かう。道中で声をかける労働者達に爽やかな笑顔を振りまきながら。
その背に、店の主人は精一杯の声で「ありがとうございました」と伝えていた。
まさか店の100周年記念の直前にこんな幸運があるとは。今まで真面目にやってきて本当に良かった。そう思い、主人は神に感謝さえしていた。
男は店を出るとしばらく歩き続け、やがてポケットから懐中時計を取り出した。
蓋を開け、今の時刻を見る。
その時刻は、あと数秒で0:00となる頃合だった。
「3、2、1…」
その瞬間、凄まじい閃光が店内を覆い尽くした。
次いで凄まじい爆炎と風が、店内から周囲まで包み込む。
やがて、店は凄まじい轟音と共に吹き飛んでいた。
店のあった場所は尚も爆炎を上げる。中にいた者は誰も生きてはいないだろう。
やがて男は、嗤い始めた。堪え切れなくなったかのように。
「クク、ククク…ヒャハハハハハハハハハハハハハハハ!!ヒャハハハハハハハハハッハッハハハハッハッハッハッハ!!」
その纏う雰囲気に、先程の伊達男の面影は一切無く。
「さぁ、ゲームだ…最高のゲームを始めようぜ!!」
いつのまにかその顔の片側を、幾何学模様のタトゥーが覆っていた。
「ロックマン・ミラージュ!!」
心底楽しそうなその声を残し、やがて男は姿を消した。
忽然と。
最終更新:2016年11月06日 00:02