「マーガレット…?」
その名を、目の前の少女が言った。
少女の周囲には鉄の獣達が囲むように闊歩し、その全てが威嚇するようにその巨大な顔面を俺に向けている。
だが、そんな事実は今の俺にはどうでも良くなっていた。
言葉を発するのも億劫だ。だが、この手に持った銃だけは下げるわけにはいかない。
手に持つ銃はダンベルでも持っているかのように重く感じられたが、それでも俺は思考をやめなかった。
何故今、この少女はマーガレットの名を呼んだ?
今ここには、俺しかいないのに。
確かに、昨日まで俺はマーガレット・カーライルから依頼を受けており、そして彼女の死まで見届けてしまったが。
俺の姿から、どうやって彼女の気配を読み取った?
この反応から見るに、俺の姿を目にした時にそれを察したようだったが。
駄目だ。疲労と全身の痛みから、考えが纏まらない。今こそこれまで培ってきた頭脳を使うべき時だというのに。
だが、一つだけ分かることがある。俺は銃を突きつけた体勢のまま、口を開いた。
「お前…『レイラ』か」
俺の言葉に、ゆっくりと少女は首を縦に振る。
レイラ。マーガレット・カーライルが俺に捜索を依頼した少女。
彼女の話だと、ロワイアル・ファミリーに身柄を拘束され、ある研究施設で実験台となっているとかいう話だった。
だが…まさか、これが実験の成果だというのか。
こんな――鉄の獣を操るだけの力が。
「はは…悪趣味なジョークだ」
そう言って、俺は遂に銃を取り落とした。もう握っている体力も無くなったからだ。
金属音がその場に木霊する。
もう意識すら失いそうだった。
そんな俺の顔をただずっと少女が眺めている。
一言も発しない。
ただ、ずっと俺の顔を見つめたまま。
かと、思った。
『生きたい?』
頭の中に、声が聞こえた。
遂に俺の気が狂ったか?
目の前の少女は、ただ俺の顔をじっと見つめているだけだ。
「(一体なんだ。どうなってる)」
頭の中で浮かべた問いに、返事は来なかった。
その代わり、少女は俺に向かって、手を差し伸べた。
頭では、それを拒否している筈だった。
だが実際には、俺の手はその手を掴んでいた。
そして、その瞬間に、全身から感じていた痛みが、嘘のように消えていた。
「ああ、糞。一体どうなってんだ。さっきから」
俺は立ち上がった。やはり、先程までは少しでも動けば全身に激痛を感じていたのが、今では普通に立てる。
そして、俺は少女を見下ろした。立ち上がった今では、その少女の背がかなり低いことが分かる。年齢は10歳行っているかも怪しいものだった。
その少女は、俺の顔を見つめたまま動かず、言葉も発しない。
だが――
『そう。探偵なの』
まただ。再び頭の中に声が響き、俺は壁を背にしたまま反射的に少女から横へ一歩離れた。
「何だ。何なんだお前」
『そう。マーガレットは…』
「やめろ!!」
広大な空間に、俺の叫び声が木霊する。
それで漸く頭から声が聞こえなくなった。
しばらく、俺はこれからどうすべきか必死に考えた。
分からないことが多過ぎる。
だがまずは、色々と…はっきりさせておくべきだと思った。
だから、俺はその場に片膝をつき、少女と目線を合わせると、言った。
「…何故、俺を助けた」
少女は、しばらく俺の言葉の意味を思案している様子だった。だが、やがて俺の望み通りに、口を開いて言葉を発した。
「私の…知ってる、人を…助けて、くれた…から」
長い文章を口で発するのに慣れていないのかもしれない。少女はかなり苦労した様子でそれだけ口にした。
「しかし、他の人間は…!」
そこまで言いかけて、俺はやめた。
今は人殺しを糾弾している場合じゃない。そもそもがこれを計画しているのはロワイアル・ファミリーだ。
それより、俺は今自分に残っている…依頼を完遂すべきだろうと思った。
「マーガレットから、お前を助けてほしいと言われた。だから選べ。ずっとここで冷たいペットに肉を食わせて過ごすか、それともここを抜け出すか」
俺の言葉に少女はしかし、目を伏せた。
俺の言葉が理解できなかったのか、それとも単純にずっとここにいたいのか。いずれにしろこの反応では返答はノーなのか。と諦めかけた時だった。
『ごめんなさい。この方が話しやすいの』
また、頭の中に声が聞こえた。
『ここにずっといるつもりなら…あなたを助けてない』
「…いいんだな?」
少女は、頷いた。
それで十分だった。
周りの獣を見回す。やはりこちらを襲ってくる気配は無い。
そう思っていると、また頭の中に声がした。
『大丈夫。この子達は私を襲わない。だからあなたも襲わない』
「…つまりお前と離れたら命は保障できないわけか」
そのまま俺は、少女――レイラと手を繋ぎ、遺跡の中を歩き出した。
しばらく歩くと、やがて広大な空間の終わりが見えてきた。
先程俺が入ってきた扉と同じようなものが、次第に近づいてくる。
そこで、俺は立ち止まった。
「(ちょっと待て。このまま脱出は本当にできるのか?ロワイアル・ファミリーがレイラを…いやこの賭け全体を管理しているのなら、こんな事態を予想していないわけは…)」
「大丈夫」
俺の思考を断ち切るかのように、レイラは俺の手を強く握ってそう言った。
反射的に、俺はレイラの顔を見る。
「…どういうことだ」
「今は、考えるより、急いで」
レイラも、俺の目を見据えてそう言った。
仕方ない。ただでさえ俺の常識から外れた世界だ。今はこの小さな娘に頼る他無い。
そこまで考えて、不意に気づいた。
先程俺がいた部屋。あそこにいた男達は、身体に電子機器などを付けている様子は無かった。そして俺もそうだ。
なら――あの賭け場のホールにあったモニター。あれに映っていた映像は、どうやって撮影していたんだ?
考えてみれば、あの映像には謎が多い。
撮影された映像には、遺跡の中に放り込まれて焦る男の様子が映っていた。
だが、肝心のその男の姿は映らず、ただ息遣いや声しか聞こえなかったのだ。
なので、てっきり男がカメラを担いでいるか、それとも身体のどこかにカメラを固定していたのかと思ったのだが。
今俺の身体のどこにもカメラを付けられた様子は無いし、最初の部屋で目覚めてからも身体のどこかにカメラみたいなものが取り付けられていた様子は無かった。
「…奴らは…どうやって撮影を…?」
歩きながらそう呟く。やがて、一緒に歩いていたレイラがまた口を開いた。
「ここから…出れば、受信、できなく…なる」
「…受信?」
レイラは頷いた。
受信?テレビ局のようにか。だがそれは俺の疑問の答えになっていない。
受信する映像をどうやって撮ってるんだ?
それをしばらく考えたが、やはり答えは出なかった。
やがて扉の前まで着き、扉を開く。その先は廊下となっていた。
その廊下は狭く、後ろにいる鉄の獣達が入れる余地は無い。
「…ここから先は大丈夫なのか」
『この遺跡のことなら心配ない。私に攻撃できるリーバードはいない』
まただ。また頭の中でレイラの声がした。
先程から口で発音するのが辛そうだったのは分かったが、それでもこの方法で答えられるのは気持ちが悪かった。
「ああ、分かったよ…!」
なので、あえて俺は口に出して答える。語気を強めて。
そのまま、俺はレイラと共に薄暗い遺跡の中を歩いていった。
そこから先の道のりは長かった。
どれくらいの時間歩いたのかは定かではない。同じような壁、床、天井の道がずっと続くせいで、時間の感覚が麻痺したからだ。
途中、少し広い部屋みたいな所を幾つか通り過ぎた。部屋の中央には決まって禍々しい形をした機械――恐らくリーバードとかいうものだろう――がいたが、どれも一様に動きを見せなかった。傍を通り過ぎてさえ。
それから、もう一つ気がかりなことがあった。恐らくは数時間歩いたというのに、俺の身体は全くといっていいほど疲れないのだ。その事実が、俺に不気味な感覚を与えた。
一体、傍にいるレイラの手を握った時から、俺の身体はどうにかなってしまったんだろうか。
そんな俺の胸中とは裏腹に、やがて出口と思われる所まできた。
白い台座と、それに備え付けられた操作盤。
これも図書館の資料で見た覚えがある。遺跡の出入口となるエレベーターだ。
「ここが出口か」
隣のレイラは、ただ頷く。
だが、俺は躊躇した。
まずこの事態はロワイアル・ファミリーにとっても緊急事態だろう。
となれば、遺跡の出入り口付近を固めているに違いない。いくらディグアウターズギルドでも、たかが一都市の地下にある遺跡の出入り口を24時間監視などできまい。
そうなると、俺とレイラが外に出た瞬間にロワイアル・ファミリーの手下共に囲まれる可能性もあるわけだ。
だが、だからといってここにいるわけにもいかない。
食料も水も無いここで一体何日生きられるというのか。そうなるくらいなら、遺跡から出て一息に死んだ方がマシだ。
「もう一度確認しておく。この先にはどんな危険があるか分からん。それでも…お前も来るんだな?」
レイラに視線を向けて問う。少女の答えは変わらない。ただ無表情で頷くのみだった。
そして、俺達は意を決して、エレベーターに乗った。
「あー…予想通りか」
エレベーターを出て遺跡の入り口を出た瞬間、俺とレイラは黒服の男達に取り囲まれていた。
全員一様に黒いスーツとサングラスだ。分かりやすい。
「…マクスウェインはいないのか?」
俺の質問に、男達は答えない。全員無言で銃を向けている。
どこかと連絡を取っているらしい奥にいる一人を除いて。
さて、流石にこの状況で言い包められる材料は持っていない。一応銃はあるが、何発入っているかは確認できないし、そもそも装弾数以上の人数だ。とても突破は無理だろう。
「分かったよ。殺すなら…」
銃声。
一瞬、撃たれたのかと思った。だが違った。
黒服の一人が、奥にいる連絡を取っていた黒服に向けて撃っていた。
「!!?」
「な…お前何してる!!」
「え?あ…え?」
そんな会話が繰り広げられるが、その場にいる全員が、唖然とした顔だ。
何より奇妙なのが、発砲した黒服さえも呆然としていることだった。
『もう少し待ってから、逃げて』
また頭の中から声だ。レイラの方を向くと、彼女は俺の目を見て頷いていた。
次の瞬間、その場にいた者達が大恐慌に陥った。
黒服達が同士討ちを始めたのだ。
「お前、何で」
「わかんねぇよ、何で今俺は」
「待て、やめろ、撃つな!!」
そんな会話を聞き流しながら、俺は行動するしかなかった。
数秒後、俺は混乱に陥るマフィアの手下達を尻目に、レイラと共に路地裏を駆けていた。
「おい…今のはお前の仕業か!?」
路地裏を駆けながら、俺はレイラにそう話しかける。
いつのまにか、レイラを小脇に抱えたまま俺は走っていた。
路地裏から路地裏へ。とにかく、人のいない場所へ。
いつのまにか民家の庭すらも横切っていた。
「方法、無かった」
短い返答。一体どうやって、と聞こうと思ったが、今はそんな問答をしている状況ではない。
俺は路地裏を駆け抜けながら、どうやってこの状況を打破するか必死で考えていた。
まずここはどこだ?流石にこの街の遺跡の出入り口がどこにあるかなんて図書館で把握していない。
一軒家が多い。高級住宅地という奴だろうか。マンションも所々にある。
どこと無く見覚えのある場所だった。前に何かの調査で来た所か。
どこかに身を隠す必要がある。ここから俺の事務所までどれくらいあるだろう?いや、俺の事務所や自宅は張り込まれている可能性が高いか。
ならば警察か。仮に警察で先程見た光景をカーネルやエリスに話したとして、信じてくれるだろうか。物証も無い今、エリスはまだしもカーネルが100%信じてくれるとは思えなかった。
その二人で思い出した。マーク・ウィルクスは何をやっているのか。
別れた時に迎えは出せないと言っていたし、この後警察と合流すると言っていたが。今も殺し屋の集団を検挙中か?
そう言えば、警察は今ロワイアル・ファミリーが開催した狂ったゲームにかかりきりだった。ということは俺とレイラが出頭したとして、保護してくれるかは期待すべきではないだろう。
前にマクスウェインが言っていた。警察の中にもロワイアル・ファミリーの息のかかった奴らがいると。下手をすればそいつらに見つかり、また遺跡の底に逆戻りする可能性だってある。
「くそ、孤立無援か…!」
手近なバスにでも乗って移動するか?
そう思っていた時だった。
「ごめん、なさい。もう、力が…」
脇に抱えていたレイラが、そう呟いた。
「大丈夫か?…!!?」
その瞬間、俺の全身に激痛が走った。
思わず、抱えていたレイラをその場に落とす。
あまりの痛みに、立っていられない。
「ガハッ!!」
その場で吐血した。一体俺の身体はどうなってしまったのか。
その場に両手と両膝を着き、かろうじて俺は倒れるのを免れていた。
ふと傍に目をやると、レイラの方はその場に倒れ、目を閉じている。意識を失ってしまったのか。
「くそ…こんな、所で…!!」
俺は痛む全身を鞭打って、傍に倒れているレイラの手に全力をかけて手を伸ばした。
目を覚まし、即座に上体を起こす。
途端に全身に激痛が電流のように走る。痛みに思わず呻き声を上げた。
あの後、どうにか立ち上がり、レイラを連れて歩き出した。そこまでは記憶にあるんだが、そこから先が無い。
「ここは…」
そこまで言いつつ周囲を見て、俺は凍りついた。
鉄製の巨大なロッカーが周囲を取り囲み、俺が寝ていたのは鉄製の寝台だった。
ロッカーの形状で分かる。ここは死体安置所だ。
そして、俺が今寝ているのは死体が解剖される手術台だ。
「…いつの間に死んでたんだ俺」
「ようやく目、覚めた?」
そんな俺に声をかけたのは、赤みがかった癖のあるブロンドの髪に青白い肌をした、白衣を着た痩せた女だった。
「ベアトリス…!?」
「何その驚き方」
暢気にそう言いつつ、手にしたマグカップからコーヒーを飲む女――ベアトリス・ファーガソン。
俺は前の依頼で彼女から情報を入手したことがあった。だが、その後情報提供者が次々と殺され、また彼女とも連絡が取れなくなったので、てっきり死んだかと思っていたのだ。
「…俺は、何故ここに?」
「こっちが聞きたいわね。夜中にこのモルグ(死体安置所)の前であんた達が倒れてたから、ボブがここに運んだんだけど」
ボブとは、前にここで会った警備員の名前だ。太っていていつもドーナツをパクついている。
それはともかく、『あんた達』と言われて俺は安堵したが、急いで確認した。
「俺の他に誰かいなかったか?」
「あんたが子持ちだったのは予想外だったわ。向こうのソファで寝てる」
勘違いを否定するより先に、今度こそ俺は安堵した。レイラをどこかに置き去りにはしなくて済んだわけだ。
「よく救急車を呼ばなかったな。死人専門だろ、ここ」
「呼ぼうと思ったけど、あんたがうわ言で『警察は呼ぶな、救急車もだ』って何度も言うから」
そう言いつつ、ベアトリスはコーヒーメーカーから別のマグカップにコーヒーを淹れ、俺に差し出した。
俺はそれを受け取ると、自分の身体を見下ろす。
いつのまにか着ていたスーツはズボン以外無くなり、上半身には包帯が巻かれていた。
「怪我はどの程度だ?」
「普通に入院してたら全治半年は優に越えるくらいね。手足の骨が折れてなかったのは幸いだけど、肋骨の何本かは折れてたし、内臓にも損傷があった」
そこまで言って、コーヒーを一口飲んでから、ベアトリスは不意に鋭い目で俺を睨む。
「正直言って、生きてるのが不思議なくらい。というかもう少し発見が遅れてたら確実に死んでた。何やったの?」
「…話すと長いし、話したらあんたの身が危険なんだがな」
俺もコーヒーを飲みつつ答える。俺の答えに満足したのかベアトリスは頷くと、口を開いた。
「じゃあ質問を変える。あの子は…何者?」
レイラはベアトリスの頭の中にも話しかけたのか。そう思ったが、まだ確定ではない。とりあえず俺はシラを切ってみた。
「それはどういう意味だ。俺の子供じゃないことは確かだが、あんたには何か別の生き物にでも見えるのか?」
俺の言葉に対して、ベアトリスの反応はそっけないものだった。
「そう。別に何も思わないならいい。ああそれと、あんたを運び込んだ時、あの子頭を怪我してたから、包帯を巻いておいた。勝手に外さないでね」
「…頭を?」
俺はそう言うと、手術台から降りた。
途端に全身を激痛が駆け巡る。
「ぐ、うっ…!!」
「別に私の忠告を無視するのは構わないけど、だったら自分一人で何とかして。例えば勝手にそこから降りておいて私の手を借りようとするとか御免よ」
辛辣な物言いだな。そう思いつつ、周囲にある移動式の椅子やら棚やらを手がかりに、俺は隣の部屋へ移動した。
先程も言ったが、上半身裸で裸足だ。寝ていた時は申し訳程度に薄い毛布がかかっていたから感じなかったが、ここは酷く寒かった。
隣の部屋は、ベアトリスの仕事部屋らしい。
雑多な書類が積まれた事務机と幾つかの棚。そして部屋の中央にソファがあり、そこで先程の俺と同じように毛布をかけられて寝ているレイラの姿があった。
先程ベアトリスが言ったように、頭には包帯が巻かれ、左目まで覆っている。
俺は後ろをついてきていたベアトリスに言った。
「…そんなに酷い怪我だったのか?」
「命に別状は無い。けど、位置が微妙でね。刺激すると失明の危険があるから、包帯には触らないであげて」
そう言われたら従うしかない。
しかし疑問なのは、俺の記憶にレイラが頭を怪我した場面が無いことだった。
「そうだ。今何時だ?すぐにここから出なけりゃ」
「もうすぐ6:00だけど」
腕時計を眺めて、暢気にベアトリスはそう言う。
俺は痛み交じりではあるが漸く自由になってきた身体を動かし、周囲に目を走らせた。
「俺が着てた衣類は?それを受け取ったらすぐにここを出て行く」
「却下。さっきも言ったけど、あなた絶対安静よ」
「ベアトリス」
俺は彼女の名前を呼び、その顔を睨んだ。それでようやく事の重要性が伝わったらしい。
ベアトリスは目を細めると、勝手にしろとでも言うように肩を竦める。
「そこにある引き出し。全部入ってる」
「礼を言う」
俺は言われた通り、左にあった棚の下側にある大きめの引き出しを開ける。
果たして、そこに俺の着ていたコートやボロボロのスーツが入っていた。
服を着て、俺はレイラの肩を揺すった。
「おい、起きれるか?」
レイラは最初呻き声を上げていたが、やがて薄く目を開ける。
『外を見て』
途端に、頭の中で声が響く。
だからそれはやめろ。俺はよっぽどそう怒鳴ろうかと思ったが、その前にむしろ言われた内容の方に注意が移ってしまっていた。
そして、服を着つつ入り口の近くの窓から外を眺めた。
いつのまにかこの死体安置所の前に数台のパトカーが止まっている。覆面のだ。
そして、一人の男がそのパトカーから姿を現す所だった。
マーク・ウィルクス。
「やっと来たか…全く」
そう愚痴ると、俺はレイラの方に視線を向けた。
「安心しろ。助けが…」
『彼らは…私を殺すつもり』
「…何?」
頭の中に聞こえたレイラの声に、俺は思わず声を上げた。
「その子、何も言ってないわよ」
事情の分からないベアトリスが、暢気にそんな声を上げる。
だが俺は、死体保管所へ近づいてくるウィルクスを窓のブラインドの間から眺めたまま、思考を巡らせた。
レイラの言う事は本当だろうか。
警察官であるウィルクスが、レイラを殺す気とは。
何故そんなことをする必要がある?
そこでピンときた。奴が俺をわざわざロワイアル・ファミリーのカジノに潜入させた理由だ。
恐らくだが、ウィルクスは警察とは別の組織にも身を置いているんじゃないだろうか。
少なくともロワイアル・ファミリーとは敵対している組織で、何らかの理由で表立って活動ができない組織だ。だから俺を利用した。
そう仮定すると、その組織がロワイアル・ファミリーの実験によって生まれたらしいレイラを抹殺しようとするのもおかしい話ではない。
「レイラ」
俺は再度、レイラの方へ視線を向けた。
「逃げたいなら逃げろ。もうお前は自由だ」
レイラは俺の言葉に反応を見せず、しかしずっと俺の顔を見つめている。
俺は言葉を続けた。
「だが、人の頭に話しかけるな。ちゃんと言葉にしろ。そうやって人間は理解し合っていくものだ。俺の言えた事じゃないがな」
「わかった…」
やはりまだぎこちない。だが、安易に俺の頭に向けて返事されるよりはよっぽどマシだと思えた。
腕を組み、そんな俺とレイラのやり取りを眺めていたベアトリスに向かって口を開く。
「ベアトリス。ここって裏口とかあるか?」
「あるし、何をしてほしいかは皆まで言わなくていいわ。それで、あなたはどうするの?」
「別に。いつも通り話をつけに行くだけだ」
そう言うと、俺は痛む身体に鞭打ちながら死体安置所の入り口へ向かった。
俺が死体安置所から出てくると、ウィルクスは近づいてきた。
背後にパトカーのライトが光る。
ウィルクスが俺の眼前まで来ると、俺は声を張った。
「マーク・ウィルクス!!『アレ』を、お前は知ってたのか!?」
俺は地下の惨状と、それを娯楽にする奴らのことを思い浮かべる。そして、その怒りをウィルクスへと向けた。
無表情のまま、ウィルクスは答える。
「まさか生きて帰れたとは驚きだ」
「ふざけるな…!何故お前らはアレをどうにかしない…!?」
俺の剣幕など受け流すかのように、ウィルクスは更に一歩進んだ。
「茶番はやめろ。情報は入っている。そこに、子供を一人匿っているな」
やはり無理に怒った演技などするものではないか。俺ももう、最早怒るとかいう次元ではなかったせいで、無理矢理演技をする他は無かったのだが。
深呼吸を一回して、俺は言った。
「匿う、か。あの子供はお前らにとっても重要な存在らしいな」
「その通りだ。貴方もあの子供と少しでも一緒にいたのなら、分かる筈だ。その危険性が」
「だから殺すのか」
俺の言葉に、ウィルクスは眼を見開く。今度は奴の方が語気を強めていた。
「何故私が、あの子供を殺すと思った?」
やはり一筋縄ではいかない相手だ。ウィルクスの質問に、俺は無言のまま頭を掻く。
すると、ウィルクスは俺を指差して叫んだ。
「あの子供に言われたのだろうが!!分かるだろう、人間の思考が読める存在など、この先どんな悪用をされるか…!」
「一つ聞く。何故お前はそのことを知ってる?」
ウィルクスの言葉に即座に浮かんだ疑問を、俺は口にした。
だが今度は、ウィルクスの方が答えに詰まる番だった。そして答えに詰まった奴は、代わりにこんな言葉を口にした。
「悪いが、それは答えられない。それに、言った所で貴方には理解できまい」
「…傲慢だな。何から何まで」
痛む全身など忘れ、俺は精一杯ウィルクスを睨む。
「どんな理由があろうと、お前が子供を殺すと言うのなら…ここから先に行かせる訳にはいかねぇな」
「別に今殺すとは言っていない。だが少なくとも、ここで我々に引き取らせてもらう。それに」
次の瞬間、俺はウィルクスに突き飛ばされていた。
全身の傷のせいで避けることすらできず、俺はそのまま路上に尻餅をつく羽目になる。
ウィルクスはそんな俺を見下ろし、やがて言った。
「大口を叩くなら、その前にその身体をどうにかしろ」
そう言うと、ウィルクスはそのまま死体安置所の方へどんどん進んでいってしまう。
俺は必死で立ち上がり、その後を追いかけた。
「待て、話は終わってねぇぞ!ウィルクス!!」
「いないわよ」
死体安置所内で、腕を組んで落ち着き払った様子でベアトリスはそう告げた。
その光景を見た時、正直言って俺は混乱し、そして状況を理解して憤った。
裏口があると言ってたが、この女はレイラを一人のまま逃がしたのだ。警備員のボブもやはり死体安置所の入り口に突っ立ってやがる。
「(…何が『何をしてほしいかは皆まで言わなくても分かる』だ。全然分かってねぇじゃねぇか…!!)」
「何だと?」
俺の胸中の思いを他所に、米神の血管を浮き立たせてウィルクスがベアトリスに向けてそう言う。
「ちょっと目を離したらどこかに行っちゃったの」
「どこにだ」
「さぁ。ここのどこかじゃない?」
暢気な様子で、テーブルに置かれていたコーヒーを啜るベアトリス。その際俺の視線に気づいたのか、この女はそっけない様子で言った。
「何よ。ずっと見てろって?私があんたにそこまでしてやる義理は無いわね」
「ああ、そうかよ」
俺はベアトリスを睨んだが、やはり暖簾に腕押しの様だ。
その時、死体安置所の奥の方から風が吹いてきた。
「この先には何が?」
ウィルクスの問いに、ベアトリスが落ち着き払った様子で答える。
「自分で確認すれば?すぐそこよ」
ベアトリスの答えに苛立ちを隠そうともせず、不機嫌そうな様子でウィルクスは奥へと向かっていく。俺も同様にするしかなかった。
果たして、そこには開いたドアがあった。正面のドアとは違い、こちらは裏口らしく地味な作りだ。
「糞、ここから脱出したか!」
焦燥するウィルクスに、俺は意外なものを感じた。
「裏口なんてどこの建物にもある。張ってたんじゃないのか」
ウィルクスは裏口を睨んだまま間髪入れずに答える。
「張るほどの人員はまだここに回せない。私はもう行くが、部下達にここを見張らせる」
「俺は?」
その問いにウィルクスは俺を睨み、言った。
「貴方はもう手を引け。これ以上は邪魔になるだけだ」
そう来たか。まぁ予想はしていたが。俺は肩を竦める。
「必要なことをしてくれたら後はもう用済みってか。いいさ、命があるだけマシだ」
「報酬は後日渡す。その代わりこの件は口外しないでほしい。すれば…」
「殺しに来るんだろ。それくらい分かってるさ」
もう人にあれこれ指図されるのは御免だ。そう思い、俺は一方的に話を打ち切り、ベアトリスの元へ向かった。
振り返っても、ウィルクスはついてこない。代わりにドアを閉める音が聞こえた。あそこから出て行ったのかもしれない。
「…確かに義理は無いな。迷惑をかけた。もうここには二度と来ねぇよ」
俺はベアトリスに向かってそう言った。だがそんな俺に視線を向けず、ベアトリスは警備員のボブに向かって言う。
「ボブ、私達以外もうここにはいない?」
ベアトリスの問いに、ボブは警棒を片手に死体安置所を巡回し始めた。
ゆっくりと、しかし油断無い動作で。どうやらいつもドーナツをパクついてる給料泥棒だと思っていたが違ったらしい。
一通り巡回を終えると、裏口の鍵をかけて、ボブは戻ってきた。
「誰もいません」
それを聞くと、ベアトリスは死体の安置されているロッカーに向かう。ここで初めて俺に視線を向け、意味ありげに先へ促した。
「?」
やがて死体が格納されているロッカールームに行くと、ベアトリスはそのロッカーの一つを引き出した。
「っ…!!?」
無残な焼死体だ。食事したばかりだと危なかった。いきなり凄惨な死体を見せられて、俺は不快な表情を隠せぬままベアトリスに問う。
「一体なんだ」
当のベアトリスは、その焼死体を数秒間見つめた後、そのロッカーを元に戻した。
「間違えたわ」
彼女が隣のロッカーを引き出すと、寒さで震えるレイラの姿があった。
「一体何しでかしてんだお前!!?」
俺は思わずベアトリスを怒鳴りつけていた。
当然ながら死体安置所では、腐敗を防ぐために死体は冷凍されている。
何故そこに子供を入れた。
「ここ以外に無かったんだから仕方ないでしょ。ちゃんと毛布で包んであげたし」
確かにレイラの身体は毛布で包まれているが、それでもこの数分間ここにいたのは地獄だった筈だ。
「危うく本物の死体になる所だ!」
「じゃあ聞くけど、裏口から私と一緒にこの子が逃げたとして、逃げ切れると思う?」
ベアトリスの問いに、今度は言葉に詰まった。
確かに、数秒くらいの猶予しかない状態で、刑事であるウィルクスから一般人であるベアトリスと子供であるレイラが逃げ切れると思うのは無理がある。
まぁとにかく、今はレイラの状態を確認する方が先だ。俺はそう思い直し、視線をレイラの方に向けた。
「おい、大丈夫か」
歯をガチガチ言わせながら、レイラはまた俺の頭に声を響かせた。
『死にそう』
俺は安堵のため息をついた。
最終更新:2017年05月15日 01:31