「っ…!!」
即座に反応して立ち上がったクロウだったが、それがいけなかった。
ミラを斬ったショックと、そのミラが立ち上がったことによる驚愕のためだろう。先程取り落とした刀を握っていなかったのだ。
それに気づいた時には既にミラは眼前へ踏み出し。
そしてクロウの胸に、ミラのビームサーベルが突き入れられていた。
「あ…ぐっ…ぅ…」
かろうじて口から出た声はそれだけだった。
咄嗟に避けようとして、心臓への直撃は免れたが、動脈も含めてその周辺が焼かれたのは明らかだった。
もう自分は助からない。それを考えた時。
――ああ、結局俺は、死にたくなかったのか。
先程よりも多くの涙が、自らの頬を流れているのが分かった。
「た…のむ…」
眼前のミラへと視線を向け、必死に言葉を絞り出す。
ミラは、その眼に憎悪を浮かべたまま、しかし無表情のままでクロウの顔を凝視していた。
「頼む…殺す、のは…俺、だ…け…に……」
ビームサーベルを発生させている、ミラの片腕を掴む。
だが、それを振りほどくようにして、ミラはサーベルをクロウの胸から引き抜いた。
ドサリと、ミラの足元に倒れるクロウ。
その一連の出来事を、少年――ジャック・アースガルドは見ていた。
教会近くの路上で、蹲る後ろ姿を見た時、直感的に分かったのだ。それがクロウ・エリュシオンのものだと。
頭髪の色も違い、アーマーも着ていない。それでもだ。
だが次に視界に現れたのは、黒い天使のような姿をした、ミラの姿だった。
これは夢かと疑い、自分の頬を抓ろうかとさえ考えたが、次の瞬間に起こった出来事により、そんな考えが吹っ飛んでしまっていた。
ミラが腕からビームサーベルを発生させ、クロウを刺殺したのだ。
「クロウさんっ!!」
自然とそう叫んでいた。
その瞬間、クロウがミラの足元に倒れ、同時に異形と化したミラが視線をジャックへ向ける。
その眼に、昼間見た時の感情は無く。あるのは、冷たい感情だけに見えた。
――いや、違う。
そんな考えを頭のどこかが否定する。
自然と、声を出していた。
「ミラ!どうしちゃったんだよ!!」
ミラの顔に、ほんの少し感情が現れた気がした。驚愕の色が。
尚も、ジャックは声をかけ続けた。
「一体、何で…」
そこまで言って、ジャックは悟った。
自分が置いていったからか。父親を失ったミラを、ずっと支えてやらなかったからか。自分は事情を知っていたのに。
あの時、数か月間はずっと気にかけていた。でも結局、父親の勧めもあって遠い学校へ行ってしまったのだ。
「僕の…せいなのか?」
「ぅ…ううぅ!」
ジャックのか細い声を聴いた瞬間、ミラが苦しみ始める。
頭を抑え、目をぎゅっと瞑っている。
「ち…がう……」
苦しみながら、小さな声でミラが言う。
ジャックは、うろたえながらもミラの声の続きを待った。
「ちがう…違うの、ジャック…」
「ミラ…一体…」
遂に、その場に崩れ落ちるように両膝をつくミラ。
彼女は、依然として片手で頭を抑えたまま、言った。
「頭の中で、声、が…」
ジャック・アースガルドを狙った銃弾がそこへ到達したのは、その瞬間だった。
数分前。
『準備はオーケーか?兄弟』
「あと20秒だ」
ファフニールは、この任務の最初に臨んだ時と同じやりとりを、ホテルの一室で行った。
プリズナの町。この町で最近建てられた、町一番の高さを誇るホテル。
最上階のスイートルームでは、この町を一望できるという話だ。
この一室は最上階ではないものの、周囲の建物よりは高い位置の部屋だった。
教会近くの戦闘も、良く見える。
『いいか、まだあの娘は力をセーブしてる』
ファフニールは、ホテルの一室で武器を組み立て始めていた。
アーマー姿のため目立つが、ホテルへはフロントからではなく裏口から入り、従業員用のエレベーターを使ってここまで来たのだ。
カードキーは他ならぬゴーストから渡されていた。
『つまり、もう一押し…絶望が必要ってことだ』
もう任務に失敗はしない。最早クロウ・エリュシオンに対して甘く見てはいない。
ただ問題があるとすれば――今回の標的は、奴ではないことだ。
『だからこそ…あの小僧が目の前で死ねば、あの娘は完全に化け物と成り果てる』
スナイパーライフルを組み立て終え、開いた窓にセットすると、ファフニールは言った。
「言葉は不要だ。もう外しはしない…!」
『その意気だ兄弟!!お前の銃弾で堰を砕き、化け物を…解き放て!!』
そしてファフニールは視線の先――眼下の路上に立つ一人の少年に向けて、引き金を引いた。
瞬間、ジャックの周囲に雪煙が舞い。
「ゴースト、どういうことだ…!!」
その光景を見て、ファフニールはそう毒づいた。
ジャックは、突然背後に現れた気配に驚き、急いで振り向いた。
その人物はジャックに背を向け、右手を掲げている。
その手の二本の指の間に、ファフニールの発射した銃弾が握られていた。
指を開いて銃弾を落とすと、彼は振り向く。
「送ってくれたお礼に来ました。ジャック・アースガルド」
毛の付いたフード、クリーム色のコート。
後頭部で縛られた金色の長髪に眼鏡。翠色の瞳。
そこにいたのは、昼間雪道で会った、クリストファー・セレナードだった。
「…誰だ、こいつ?」
真顔でそう呟くゴースト。
火のある書斎で、そんなゴーストに向かい合っていたバアルは、目を瞑ったまま言う。
「予想外かね?」
気を取り直した様子で、しかし不愉快そうにゴーストは言った。
「いいや、どうせマザーの介入だろう。だが…『この俺』でも、素性が分からん」
「…君でも?」
「ああ。この町に入るなり急に消えたから、警戒はしてたんだがな」
やがて彼はバアルの方へ視線を向け、そして目を見開いた。
「随分楽しそうじゃねぇか、バアル」
口元に笑みを浮かべていたバアルは、その指摘に自分でも驚愕したようだった。
そして、やがて彼は言う。
「…一つ、分かったことがある」
「『未知』とは恐怖の象徴であり…同時に、興味の象徴であると」
クリスは、狙撃手を見ていた。
ファフニールは、路上に現れた男を睨む。
「やはり、今回の作戦…不確定要素が多過ぎるな…!」
そう呟き、踵を返すファフニール。
撤退ではない。万が一狙撃で殺せなかった場合を考えて、別の装備を持ってきたのだ。
一目で分かった。アレはクロウ・エリュシオンと同等の相手だ。
ならば、いざとなった場合を考えて持ってきていた、自身の所有する最強の装備を使う時が来たのだと思った。
だが。
『待ちたまえ』
通信機から聞こえてきたのは、ゴーストではなくバアルの声だった。
「何だ、バアル」
『相手の詳細がゴーストにも分からぬ状況だ。故に追撃は認めない。一度撤退しろ』
足を止め、ファフニールは舌打ちする。
そして、未だこちらを見つめる、路上に現れた男を再度睨みつけた。
「誰だか知らんが…借りは必ず返す」
「さて…」
狙撃手がホテルの窓から見えなくなったのを確認すると、クリスはジャックへと向き直る。
「そこの家の傍に行ってください」
視線で、傍らの民家の壁を差す。
「狙撃手がまだ狙う可能性がある。他の場所から見え難い位置に行った方がいい」
「え、狙撃手…?」
自分が狙撃されたことに気づかないジャックは、クリスの言葉が呑み込めずにいた。
クリスは振り返り、未だ蹲るミラの方へ視線を向ける。
「彼女をこんな風にした連中が、君を狙ってる。今君が死ねば、本当の意味で彼女が『戻れなく』なる」
「で、でも…」
「早く!」
クリスの一喝に、ジャックは反射的に動き、民家の壁際に下がった。
それでも視線はミラの方へ向けたままだ。
その時、ジャックは気づいた。
先程ミラに刺殺されたクロウの姿が無いことに。
そして、自分の数メートル横の民家の壁際に、女性に抱きかかえられるようにして横たわっているのが目に入った。
「私では、この子を救えない!」
クリスが、一際大きな声でそう叫ぶ。
その視線は、クロウを抱きかかえている女性に向いていた。
その女性――ジャックはそれが昼間会った、古代人の女性だと分かった――は、クロウに向けていた視線をクリスに向ける。
「少し待って下さい!」
「承知した!」
そして、クリスがミラへと向き直る。ミラは依然蹲ったままだ。
――どうやら、事態は自分の知らない所でもどんどん動いていたらしい。そうジャックは思い知り、息を呑んだ。
「意識はありますか?」
頭の中に、聞き覚えのある声が響く。
返事を返せなかった。
しばらくして、再度女性の声が響く。
「動かないで」
首筋に、僅かに冷たい感覚が過ぎった。
先程まで感じていた痛みが、一気に引いていく。
「う…うぅ…」
段々、視界に光が蘇るのが分かる。だが、それでもまだ目の前は見えないままだった。
「治療用のナノマシンを打ちました。これで命は助かります」
「ゼ…ゼ…?」
聞き覚えのある声が誰のものか、頭が漸く理解する。
クロウは、その声の主の名を自然に呼んでいた。
「まだ目は見えないでしょうが、直に良くなるでしょう。それよりも…」
僅かな間。やがてゼゼは言葉を継いだ。
「あの子の状態、見覚えがある筈です」
「な、に…?」
まだ上手く言葉を紡ぐことができない。それでもクロウの言葉が伝わったのか、ゼゼが再度口を開くのが分かった。
「覚えてますか?『神々の意図』…恐らくアレが、あの子の頭の中で意識を乗っ取ろうとしています」
『神々の意図』。かつて、古き神々の一人・タナトスが使っていた代物。
それは意思のある糸であり、対象の脳に侵入することで意思を乗っ取るものだった。
かつて、ゼゼもそれで意識を乗っ取られたことがある。
そこまで考えて、クロウはゼゼがここに現れた理由を悟った。
悟ってしまった。
「待て…ゼゼ、頼む…」
ゼゼが、少し躊躇しているのが分かった。だが、やがて彼女は言う。
「私には分かります。あの子は…それに今、懸命に抗ってる。ロックマン・ジーザスを模して改造されたことが影響しているのか、抗うことができている。この機会を、無駄にはできません」
一泊を置き、彼女は言った。
「『過去の私』を、私は何としても救いたい」
まだ言葉が上手く出ない。言いたいことが山ほどあるのに。クロウは、懸命に言葉を絞り出す。
「駄目だ…相手は、ジーザスだぞ…死ぬかも…」
「それでもです。私も…救ってもらった。だからこそ…この命、無駄にできないんです」
駄目だ。ゼゼは止まる気はない。
クロウは、動かぬ身体を動かし、手を伸ばす。ゼゼがその手を取るのが分かった。
「ゼゼ…」
「一つだけ。どんな結果になろうと、決して…自分を責めないで」
手が離れるのが分かり、やがてクロウを置いてゼゼが行ってしまうのが分かった。
抗う暇もなく、クロウは意識を失った。
ミラが立ち上がり、俯いたまま右腕と左手のビームサーベルを起動する。
「ミラ…!!」
ジャックの呼びかけにも、反応する気配は無い。
「どっちにしても、いずれは止まれなくなる」
クリスは一歩前に進み出ると、彼もまた片手にビームサーベルの柄を取り出した。
「理性と本能の狭間で生きるのが、人間だ…!!」
「あぁ…アアアアアアアァァァァァ!!」
ミラが、クリスに向けてビームサーベルを薙ぎ払う。
それをクリスは、正面から受け止めた。
続いて、ミラが左手の5本のビームサーベルを振り下ろす。
クリスは、今まで受け止めていたサーベルを弾き飛ばし、身体に接触する寸前で5本のサーベルを受け止める。
「ジャック君…少し離れて」
言いつつ、クリスはミラに視線を向けたまま、数歩下がった。
ジャックが、ミラの周囲の黒い羽根が変化していることに気づいたのはその時だった。
彼は知る由もないが、クロウに対して仕掛けられた、無数の黒い槍が再度空中に生成されているのだ。
クリスは、目を細めてそれを眺める。
「そこまで使いこなせるか…!」
その瞬間、黒い槍が射出される。
クリスは、ビームサーベルでそれを薙ぎ払った。
だが、続けて何本もの黒い槍がクリスに殺到していく。
クリスは、その黒い槍を全て、手にしたビームサーベルで叩き落としていた。
僅かな時間差で飛来する無数の槍。その順番を瞬間的に把握して、適切な順番に叩き落としていく。
その様は、まるで戦うというよりも、舞っているように見えた。
「凄い…!」
その身のこなしに、今の状況を一瞬忘れてジャックが感嘆の言葉を口にする。
やがて、一際強く地面を蹴ったかと思うと、クリスは一気にミラへ向かって接近した。
「っ…!?」
不意を突かれたミラが、右腕のビームサーベルでクリスの一閃を受け止める。
だが体重を乗せたクリスの一撃をミラは受け止め切れず、後ろに吹き飛ばされた。
「今だっ!!」
クリスの大声。
その瞬間、地面に着地したミラの身体を、急接近したゼゼが正面から抱き締めていた。
「何を…!?」
ジャックが驚愕の表情でクリスに問う。
だがクリスも、緊張の面持ちでその場面を見据えるだけだった。
一か八か。ゼゼはこの局面に、己の命を懸けるしかないことが分かっていた。
ノアが自分に対して行った、『神々の意図』の摘出。
それは、首の後ろから器具を突き刺して、脊髄から脳へと侵入している糸を直接引き出すものだった。
糸を捕らえること、脳を破壊せずに摘出すること。
ノアだからできたことだが、常人ならば豊富な体力と豊富な経験のある医師が、数時間かけてできるかどうかという荒業だ。
――ゼゼはそれでも、いつか自分と同じ境遇の人間がいた時、自分が救わねばならないと決意していた。
故に彼女は、デコイの人体を学び、医学を学び、そして同時に極一部のディグアウターが用いる、特殊な技術を短期間で習得していた。
その名を、『亜高速分解術』。
普通はディグアウトのための機材のメンテナンスを短時間で行うような用途で使われる技術だ。ディグアウターの中には、戦闘中に最後の手段としてこの技術でリーバードを分解するような猛者もいるそうだが。
これを医学知識を用いて、人体への『手術』に応用するなど、普通の医師なら馬鹿げているという所だろう。
だが、彼女はこれしか方法は無いと確信していた。
『神々の意図』に囚われた人間が、大人しく手術台に乗せられる筈がない。となれば、暴れている最中にその身体を抑え込み、瞬間的に手術を行うしかない。
故にゼゼは、ノアに救われたあの日からずっと医学書と『亜高速分解術』の資料を読み漁り、そして身体にフィードバックしてきた。
まさかこれほど早く、『神々の意図』に囚われた人間に出会うとは思ってもみなかったが。
メスとピンセット。
これを握り、正面からミラの身体を抱き締めたゼゼは、その首筋にメスを突き入れた。
「!?ガッ…ァ…」
ミラがゼゼを離そうともがく。それでも、ゼゼは抱き締めた体勢のまま離れなかった。
対象を抑え込み、かつ両手を自由にするにはこの体勢しかない。ノアがゼゼ自身をから糸を摘出したのも、この体勢からだった。
但し、この体勢では傷口を目視するのが不可能であり、両手の感覚でしか手術を進行できないという欠点がある。故に、術者の経験こそがものをいう場面なのだ。
「あと、少し…!」
メスで首筋の皮膚を切り開き、ピンセットを入れる。
ミラの動きを制御するのは難しかったが、それでもゼゼは手術を進めた。
糸のある場所は、既に頭に入っていたのだ。
そして――
「捕らえましっ…!!」
ゼゼが、糸を捕らえたのとほぼ同時に。
ミラのビームサーベルが、ゼゼの脇腹に突き入れられていた。
「っ…!!?」
ジャックとクリスが驚愕する。
それでも、ゼゼはその顔に、笑みを浮かべた。
「私の…勝ちです…!!」
ゼゼは、自らの痛覚を遮断していた。
サーベルはゼゼの脇腹から、反対側の脇の下へと貫通していたが、ゼゼは糸を捕らえた手の力を緩めなかった。
そしてゼゼが糸を摘出したのと、ミラがサーベルを振り抜いたのが、ほぼ同時だった。
ゼゼの胴が切り裂かれ、その身体が雪の路上に横たわる。
同時に、ミラも意識を失って、その場に仰向けに倒れた。
「ミラっ!!!」
ジャックが叫び、倒れたミラに駆け寄る。
上半身と下半身に切り裂かれたゼゼの、握られていた糸が手から離れ、空中に離脱する。
だがその糸を掴んだのは、クリスだった。
「あなたの献身に敬意を。名も知らぬリーバードよ」
ジャックがミラの元へ辿り着く前に、急に視界が暗闇に包まれた。
「えっ!?」
彼がそれに気づいた次の瞬間には暗闇が晴れ、横たわっているミラの姿が、先程の翼とアーマーの姿から黒いローブの姿に戻っていた。
「ミラ…!」
不思議に思いながらも、ミラの元へ駆け寄るジャック。
その様子を、クリスは見つめていた。
その瞬間、時が止まった。
「!」
そして次の瞬間には、真っ二つとなったゼゼの上半身と下半身が、その場から消えていた。
ジャックは気づいた様子がない。
それに気づいたのはクリスだけだ。
彼は、ゼゼが消えた辺りの地面をずっと眺め、立ち尽くしていた。
サイレンの音が聞こえてくる。
クリスは、その音に耳を澄ませてから、まず周囲の者たちの様子を眺めた。
「ミラ…ミラ…!!」
ジャックは、先程まで異形と化していた少女――ミラ・クラウスを抱き起こして、声をかけ続けている。
先程高位のリーバードに助けられたボロボロの男は、民家の壁沿いに横たわったまま、ピクリとも動かない。
それだけだ。
だが、この場に『居る』のはそれだけでも、『見ている』のはそれだけではないと、クリスは確信していた。
当事者。仕掛け人。それだけなら事は簡単であるが、現実は決してそれだけではない。
まず彼は、ジャックの元へと歩いた。
「ジャック君、落ち着いて」
「クリスさん…でも、ミラが…!」
「息はある。命に別状は無い筈です。それより…」
言いながら、クリスは周囲を見る。周囲の民家を。
窓の奥は暗くてよく見えない。それでも、そこから無数の視線が自分達を見ているのを、彼は感じていた。
言うまでもなく、自分が来る前から、少女が異形となった姿も見られていることだろう。
サイレンは益々強くなってくる。ここに来るのは確実だろう。となれば、まず間違いなくこの光景を見ていた民家にいた誰かが呼んだものに違いない。
「よく聞いて下さい、ジャック君」
「クリスさん?」
クリスは、ジャックの眼を見つめて、言い聞かせるように語った。
「私はもう行かなければなりません」
「えっ、でも…!」
「その少女は、これから街の人々に虐げられるでしょう」
クリスの言葉に、ジャックはショックを受けたように言葉を無くす。
「貴方が守ってあげなさい。貴方にしかできないことだ」
「…もっ、勿論です…!」
そう答えたジャックに、クリスは微笑んだ。
数台のパトカーがそこに辿り着いた時には、現場にいたのは意識を失ったクロウと、ジャックとミラだけであった。
パトカーから降りてきた、茶色のトレンチコートに帽子を被った、ウェーブのかかった長い金髪で40~50代くらいの女性刑事は、ジャックに向かって一歩踏み出すと、言う。
「サマンサ・スペード警部よ。意識を失ってないのは貴方だけだった。事情を…聞かせてくれる?」
刑事の態度は物腰柔らかで、それがジャックには幾分か救いになった。
その刑事が、幼い頃によく父親の相談相手になってくれていた刑事だとジャックが気付いたのは、大分後になってからだった。
「あの、クロウさん…倒れてた男の人の方は、大丈夫ですか!?」
「ええ。意識は失っているけど命に別状は無い。火傷の跡はあるけど」
「本当に!?」
警部の答えに、ジャックは耳を疑った。あの時、クロウはビームサーベルに刺されているように見えたからだ。背中からサーベルの先端が見えてすらいた。
「ええ。何か気になることでも?」
その問いに、ジャックは言い淀む。この警部の言っていることなら恐らく真実なのだろう。それに、今は気になることが他に多過ぎた。
「い、いえ。それよりミラの…彼女の傍に居させてください」
救急車に運び込まれるクロウとミラを見つめて、ジャックはそう返す。
サマンサ警部は、残念そうに首を振った。
「色々、気がかりな証言が出ていてね。全部は信じるつもりは無いけど、今は病院で彼らのことを調べる必要がある。でも約束する。必要な証言が取れたら、必ず会わせてあげると」
警部はジャックにそう言った。
「俺は…俺は見たぞ!その娘が化け物に変わるのを!!」
警察の到着により、近隣に住む住民達が集まってくる中で、その声は聞こえた。
スペード警部とジャックがそちらの方を向くと、救急車に運び込まれようとするミラを指さして、一人の老人が叫んでいるのが見えた。
灰色の口髭を蓄えた、禿げた頭に灰色のコートを着たその老人は、周囲の市民たちの視線を受けて、尚も訴えている。
「いずれあの娘は誰かを食い殺す!そうに決まってる!!」
「フェンリーさん!!」
サマンサ警部が、その老人の方へ歩む。
「これ以上勝手なことを言うと、拘束しなきゃならなくなりますよ!」
「ふざけるな!俺は見たんだ。確かに見た!!皆して俺を頭のおかしい人間と決めつけやがって!俺も、俺の犬も正しかったんだ!!」
尚も、老人――マーカス・フェンリーは声を張り上げた。
周囲の市民達も、老人の訴えに耳を貸し始め、救急車に乗せられるミラを見て互いに言葉を交わす。
その光景に、ジャックは酷い悪寒を感じていた。
「た、頼む…やめてくれ…」
「その娘は悪魔だ!きっとこの町はその娘に…」
老人の言葉を断ち切ったのは、その肩に置かれた手だった。
「クラフトさん…」
サマンサ警部がその名を呼ぶ。
身長2メートル近い大柄に、黒いコートを着た年配の男。ジョン・クラフトだった。
「な、何だクラフト。何か文句でもあるのか!?」
噛みつくようにマーカスが言う。ジョンは首を横に振り、言った。
「俺も一部始終を見た」
「何ですって…!?」
ジョンの言葉に、警部が驚愕する。
「警察署で証言する。フェンリー、あなたもそうすればいい」
静かに言い聞かせるように紡がれるジョンの言葉に、しかしマーカスは反論する。
「だがあの娘をこのまま放っておくわけには…」
「あの娘は、町の人間に危害を加えたりしない」
その言葉は静かに、だが力強く断言され、一瞬警部もマーカスも言葉を失った。
「な…何故そう言い切れる…!?」
「普段の様子を知ってるからだ」
ジョンの言葉に、サマンサ警部は頷いた。
「パンが欲しい人は皆あの店に行く。フェンリーさん、あなたもでしょ」
「俺は…!!」
警部の言葉に、以前の出来事からパン屋に行かなくなったことを言い返そうとしたのだろうマーカスの言葉を、またジョンは遮っていた。
「警部。今日まで、あの娘が人を殺すと思ったことはあるか」
一瞬押し黙ったサマンサ警部は、やがて言った。
「仕事柄、断言はできない。昨日まで心優しかった青年が、ちょっとした諍いから家族を殺す事件だって世の中にはごまんとある」
そう前置きした上で、警部は言葉を継ぐ。
「でも、一昨日パンを買った時、あの子は普段通りに見えたし、ちょっとした諍いで人を殺すような子に見えなかった。まして、怪物になるなんて」
「そうだ。今も、町の人間は誰も死んでない」
ジョンの言葉に、サマンサ警部はしばし思案を巡らせる。
やがて警部はまずマーカスの方へ向き直り、言葉を告げた。
「フェンリーさん、話は署でゆっくり聞きますので、ご同行を」
「な、何だと?俺は…」
「あなたは見たと言いましたよね。なら正式に証言として調書を取る必要があります」
「わ、分かったよ…」
渋々というように、マーカスは承諾する。
サマンサ警部は部下を呼び、マーカスをパトカーまで連れて行かせた。
それが終わると、ジョンにも言う。
「クラフトさん、貴方もですよ」
「ああ」
彼も承諾したのを見ると、声を低めて警部は言った。
「貴方の気持ちは分かる」
「…?」
疑問の表情を浮かべるクラフトに、警部は言う。
「貴方の境遇は知ってる。だから子供を庇いたい気持ちも分かる。でも周りを見て」
警部の言葉に、ジョン・クラフトは周りを――現場を見守る近隣住民達の姿を見た。
それを見て取ると、警部は言葉を継ぐ。
「あの女の子が何か…何か変化したというのは、フェンリーさんだけでなく他にも目撃者がいるの」
「だが…」
言葉を返そうとするジョンを制して、警部は尚も言葉を続けた
「彼らは怯えてる。万が一にでも、あの子に自分達が傷つけられるかもしれないという懸念にね。そして私も、そんな彼らを守る義務がある。分かる?」
サマンサ警部の念押しに、ジョンは押し黙るしかなかった。
それを確認して、警部は言う。
「だから、貴方の言葉――あの子が誰にも危害を加えないという訴えを、全て認めることはできない。あの子は拘束するしかない」
「…分かった」
やりきれない表情で、ジョンは最後にそう言った。
警部はそんな彼の肩を叩く。
「でも貴方の言葉は汲むわ、あの子の処遇に関してね。分かったなら、貴方も同行して」
ジョンは頷き、マーカスの居るパトカーへと向かった。
一部始終を見ていたジャックは、まずは警部が場を収めたことにホッとした。
だが、暗い考えは消えることがない。
いずれまた、ミラは非難に晒されるだろう。もし彼女の意識が戻って、そして自分へ向けられる非難を見た時、彼女はどうなるのか。
ジャックは頭を抱えるしかなかった。
「それで結局、一番事情を知ってるのはあなたで…いいのかしらね」
ふと気づくと、サマンサ警部がまたジャックの近くへ戻ってきていた。
警部の言葉に、ジャックは慌てて弁解を始める。
「ぼ、僕も一体何が起きたのか…全部は、分かりません。でも知ってることは話します」
「ええ、勿論あなたの証言も取る。でも今日は家に帰りなさい」
警部の言葉に、ジャックは驚いた。
「で、でも…!」
「顔色を見る限り今のあなたはショック状態で、まともに思い出せるか怪しい。それに、あなたがここにいること、あなたのお父さんは知ってるの?」
警部の指摘に、ジャックはハッとした。ケインはジャックがここにいることなど全く知らないだろう。それどころか、家に帰ってジャックがいないことに気づき、今頃探しているかもしれない。
「家に帰ってシャワーを浴びて、ベッドで眠りなさい。それで明日の朝警察署へ来てくれればいいから。受付に話は通しておく」
「わ、分かり、ました…」
警部に諭され、ジャックはそう答えるしかなかった。
そんなジャックに、警部は言う。
「家まで送りましょうか?」
「い、いえ、結構です」
「…大丈夫?」
「ええ。大丈夫です」
そう答えて、頭を下げるジャック。
そして、彼は警部に見送られて現場を後にした。
どうしてこんなことになったのか。
自分がいない間に、何があったのか。
ボロボロの服装で、髪の色さえ変わってしまったクロウ・エリュシオン。
知らない間に、人ではない何かに変わってしまったミラ・クラウス。
そんな二人を前にして、自分は何もできなかった。
そんな思いが、どんどん気持ちを暗くしていく。
これから先、人々に非難されるミラに、自分は何ができるだろう。
それにクロウにも、何と言って言葉をかければいいのだろうか。
絶望的な無力感が、ジャックの胸にこみ上げる。
家に帰りつく前に、彼は溢れる涙を袖で拭った。何度も何度も。
最終更新:2018年04月17日 00:51