記憶の底にあるのは、暗闇。
憶えているのは、襲い来るモノ。
忘れられないのは、絶望的な空腹。
――そしてあの瞬間まで思い出せなかったのは、一対の赤い眼。
『彼』は闇の中で、飢餓に支配されていた。
闇に目が慣れたのは酷く前の事で、空腹が身体を苛むようになったのもその頃だ。
周りに、同じ境遇の者がいることは分かっていた。だが意思の疎通はできなかった。
ここをどうやって出るのか、誰も分からなかった。
食料は無く、やがては全員が、その空腹に耐えられなくなった。
だから彼らは、受け入れた。この空間で、食べられるものなど一つしか存在しないのだと。
それからは、全てが一瞬だった。
殺し、殺し、殺し。
咀嚼し、嘔吐し、啜り、噛んだ。
それでも空腹は無くならない。
一人、また一人と人数は減った。
一つ、また一つと声は減った。
最後の一人がいなくなったのがいつの頃だったか、記憶が無い。
それでも確かなのは、最後までソレを食べていたのは自分だけだった。
そして気付いた。
暗闇の中に浮かぶ、その赤い眼を。
『よくやった。汝が最後の一人』
かの者は、白い歯を見せて笑顔を浮かべた。
その赤い両の眼に、生気を感じ取れなかった。
『褒賞だ。存分に理解するが良い』
その瞬間、眩い光が天から降り注ぐ。
暗闇に慣れていた眼に、強烈な光が差し込んだ。
しばし、光に目を背けて跪いていた。
どれほどの時間が経ったのか。漸く光に目が慣れてきて、彼は顔を上げた。
そこに、無数の顔があった。
痩せこけて息絶えた顔。半分が食い千切られ、白い骨の露出した顔。下顎の無くなった顔。一部だけの顔。
顔、顔、顔、顔。
全て、同じ顔だった。
『己の顔を、よく見ろ』
その声に振り向き。
見えたのは、傍らに広がる血溜まりだった。
引き付けられるように、そこへ近づいた。
目を向けた瞬間、『彼』は絶叫した。
元より声を出せる力など無い。それでも、声が出ぬまま絶叫していた。
そこに映った自分の顔も、同じ顔だったのだ。
『紛れも無く、それが汝の顔だ』
意識が途切れるまで、『彼』は絶叫を続けていた。
――今にして思えば、その時まで『彼』は胎児だったのだろう。
黒い石造りの廊下。等間隔に照明が灯っている。
そこを、三人の人影が歩いていた。
シルクハットに黒い燕尾服を纏った顎髭を生やした年配の男。
白いスーツを着た金髪の若い男。
濃紺のローブを纏い、フードで頭を覆った若い女性。
若い男は、歩きながら大げさに肩を竦めて言った。
「全く、アンタも人使いが荒いねぇ。さっきまで俺達は方々を見て回ってたってのに。なぁ?」
その言葉を向けられた女性の方は無反応で歩いている。
二人を先導する年配の男は、丁寧な口調で告げた。
「お時間は取らせませんよ。二人に…見て頂きたいのです」
「それは楽しみだ。この先ってぇと…あんたが捕らえたっていう『裏切者』かな?」
目を細め、若い男が言う。
その言葉に、隣の女性は男の方を一瞥した。
「正解でもあり、不正解でもある」
そう言うと、シルクハットの男は、立ち止まった。
そして、目の前の扉を開く。
「!!?」
後ろにいた二人は、その光景に目を見開いた。
「タナ、トス…いっ…たい…何を、したんだ…?」
漸く言葉を発した女性の声は、震えていた。
その表情は先程までの無表情とは程遠く、何か恐ろしいものを眼にしたかのように、強張っている。
タナトスと呼ばれたシルクハットの男は、にこやかに返事を返した。
「パンドラ。あなたに、そこにいる少年を見て頂きたいと思ったのですよ」
血と肉片、それに骨が散乱し、凄まじい腐臭を放つ部屋の中央に、痩せこけた少年が、背を向けて座っていた。
少年の身体には、元は服だったであろうボロ布が、辛うじて体に纏わり付いているのみ。
「もう一度、聞くが…一体、何をしたんだ、タナトスっ…!?」
パンドラと呼ばれた女性の質問に、しかしタナトスは答えず、ただ笑顔で頷くだけだった。
「見りゃあ大体分かるじゃねぇか、パンドラ」
パンドラとは対照的に、若い男はタナトスと同じように笑みを浮かべていた。
米神に汗をかき、パンドラと同じように震えてはいるが、明らかにその震えの質は違う。
若い男は、こちらもまた震える声で、言った。
「俺が言うのも何だがよ…」
「アンタ狂ってんぜ!タナトス!!ヒャハハハハハハハハハハハハ!!」
男の笑い声が止まぬうちに、パンドラは、その場を駆けだした。
これ以上は堪えられぬというように。
彼女が駆けだした方を、タナトスは口元に微笑を浮かべながら見やる。
「プロメテウス、少し外しますよ。彼女の意見をこそ、聞きたかったのでね」
「いいぜ、俺が見ててやるよ」
手をヒラヒラと振り、プロメテウスと呼ばれた若い男は、心底面白そうに、少年を見ていた。
「ハァっ、ハァっ、ハァっ…!!」
廊下の先で、壁に手を着いて息をするパンドラ。
その背に声がかけられる。
「彼の思考が、見えましたか。パンドラ」
平然とした口調で、タナトスはパンドラの背後から声をかけていた。
そのタナトスを肩越しに睨んで、パンドラは言う。
「私に、アレの思考を読ませて…どうしようというんだ…!?」
彼女の問いに、タナトスは口の両端を吊り上げる。
「アレに人格というものが存在するなら…『今どうなっているのだろう』と…それが気になってしまいまして」
一泊を置き、タナトスは続ける。
「アレはもう、獣の様に成り果てていても不思議ではない」
言ってから、片手の人差し指を掲げて、続ける。
「だがもし、普通のヒトと同じような人格が残っているなら…それはとても面白いことだ」
タナトスの言葉に、パンドラは目を伏せた。
そして意を決したように、彼女はタナトスへ向き直る。
「人格?いいや…アレはヒトでも、ましてや獣でもない。もっと、もっとおぞましい…」
「ギャああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁ!!」
パンドラが言葉を言い終えるよりも前に、絶叫が廊下に響き渡る。それは紛れも無く、部屋に残ったプロメテウスの声であった。
タナトスが振り返り、パンドラも即座に走り出す。
「っ…!!プロメ、テウスっ…!?」
「…ほう」
二人が駆けつけた時、扉は先程開け放たれた時のままで。
痩せこけた少年の姿だけが、消失していた。
代わりに、その少年を面白がって見ていたプロメテウスは。
「お…おぉ…俺の…俺の…!!」
血塗れのままその室内で、もがいていた。
「俺の、俺の顔が…俺の顔がぁっ!!!」
その顔の、皮を剥がされて。
パンドラはその光景に、ただ息を呑むことしかできず。
「どうです、パンドラ」
「これから先、この物語がどうなっていくのか…楽しみではありませんか」
タナトスは、ただただその先の物語を楽しみに、微笑んだ。
「さて…プロメテウス。貴方も、プラスに考えてはどうです?」
そして彼は平然と、もがき苦しむプロメテウスの方へと一歩近づく。
その足音に、苦しんでいた彼は、ビクリと肩を震わせた。
「あなたは、『顔』という原初のアイデンティティを失った…」
言いながら、タナトスがその手を伸ばす。
たったそれだけの動作に、プロメテウスはガタガタと震えだした。
「や、やめろ…やめろ…!!」
そんな声など耳に入らぬかのように、笑顔のままタナトスは囁く。
「ならば…いっそ『誰でもないモノ』に、なるというのは?」
その瞬間、プロメテウスは絶叫した。
「やめろ…やめろおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!」
その絶叫は、血に塗れた室内を、冷え切った廊下を駆け抜ける。
空気を震わせ、その場に立ち尽くしたパンドラの表情を引き攣らせる。
それでもタナトスは、手を伸ばした。
ゆっくりと、彼はその手を――血塗れの顔で目を剥く、プロメテウスへと。
崩壊してゆく世界へと――『彼』は歩き出す。
その瞬間が、『彼』がこの世に生まれ落ちた瞬間であり。
それから先、その記憶が『彼』の中から消えることは無かった。
やがて、『彼』は悟った。自分はもう、一人ではないのだと。
――後に、彼は『ノア』と名乗った。
「故に…私もまた、ノアなのだろう」
最終更新:2019年09月29日 22:12