アットウィキロゴ
スティーブは、放心状態で椅子に座っていた。
このまま自分が自分でなくなるのを待つしかないという絶望。それが、彼から生きる活力さえ奪っていた。
何故こんなことになったのか。自分に何ができたのか。
走馬灯のように、これまでの出来事が頭の中に再生される。
そんな時だった。

『心の底から絶望した時、これを飲むといい』

「っ!!?」
今頭の中に浮かんだ記憶は何だ。自分の記憶だからと、危うく流してしまう所だった。
それを流さなかったのは、長年探偵という職業に就いていた経験からかもしれない。
これは誰の声だ?全く聞き覚えが無い。
ということは、昔携わった依頼の記憶か何かか?
そんな疑問が浮かぶ。だが、昔の出来事にしてはやけに鮮明で、つい最近の出来事だったという奇妙な確信がある。

――『これ』とは何だ。何を飲む?

頭の中にはビートルジュースが潜んでいて、いつ自分が完全に乗っ取られるかも分からない。
だから、そこまで考えてスティーブは、思考を遮断した。

いつ『奪われる』かは分からないが、まだ身体の自由は効く。
即座にスティーブは、今着ているコートのポケットを探った。
名刺、財布、ハンカチ、小瓶。
小瓶?何故こんなものが入ってる。そして何故そのことに今まで気づかなかった。
一瞬で様々な疑念が浮かぶが、迷ったのは一瞬で。

スティーブは、その小瓶の中の液体を飲み下した。


「既視感と未視感という言葉がある」
酒を口に含んで、バアルは言った。
「まーた遠回しな所から話を始めるのか」
若干呆れの入った口調でレイラが応じる。
彼女の言葉に苦笑しつつも、バアルは話を続けた。
「人や物、或いは風景を見た時、初めて見る筈のモノが既に知っているものに見えることを既視感と言い、その逆…日常で幾度も目にしている筈のモノが、まるで初めて見たかのように感覚することを未視感という」

「まぁ結局の所、それらはただの一時的な脳のエラーみたいなものだが…それを私は彼に掛けたんだよ」

「…それで」
目を細めるレイラ。その眼に殺気が籠ってきたのを見ながら、バアルは言葉を継ぐ。
「だから、『その時』にならないと、彼は私が渡したものが見えないだろう」

「あとは時間との勝負だ。『発病』から宿主の身体を乗っ取るまでのタイムラグはおよそ1000秒。その間に、彼が私の渡したものを飲めば、彼は助かるだろう」

「その結果は、今の私達に分かるのか」
レイラの声が次第に緊張を帯びる。バアルは、目を伏せた。
「それは、彼が助かるか助からないか、その結果によってどう行動するかに尽きる。少なくとも、すぐには分からないだろう」
「…もう少し詳しく言え」
レイラの要求に、バアルは顎に手を当てて思案するような素振りをしながら、答える。
「そうだね…もし彼が助かったとして、その後どこかへ通信すれば、その内容がこっちに伝わるから、分かるだろう」
「…そうか」
そう答えるも、レイラの表情は暗い。その様子を見て、バアルは尚も言葉を紡いだ。

「もう一つ。もし仮に助かっても、彼はもう以前の彼ではない」

「…何?」
レイラが鋭い視線をバアルへと投げる。
バアルはその眼を見据え、説明を続けた。
「ミラージュ君に言ったろう。『発病』することは即ち、別の生物に作り替えられるようなものだと」
「どうなるというんだ」
有無を言わさぬ口調で、レイラが問う。
その視線にも纏う雰囲気にも、先程にも増して殺気が籠っていた。
「私の渡したものを飲めば、ビートルジュースに自我を乗っ取られることは無くなるだろう。それに高い確率で、ビートルジュースの人格を消すこともできる筈だ。だが、一度変わってしまった以上…影響は残る。どうなるかは私にも分からんということだ」
「それでも、大体予測はできてる。違うか」
「…バレてるかね」
そう言って、バアルは軽く肩を竦める。
その様子を見てレイラが、棚から一升瓶を手に持った。中身に液体が入った一升瓶を。
「まぁ待ちたまえ、説明しよう。ビートルジュースという人格が消えるが、その影響は残る…即ち、本来共有される筈の記憶や思考を受信する人格は無くなるが、その機能の一部は残る筈だ。つまり、そういった情報が、彼にも『受信』されるようになると、私はみている。これが、どういうことだか分かるね」
「それは、つまり…」
バアルの説明の内容に、レイラは一瞬、呆然とした。
何故なら、彼の説明した状態には、覚えがあったからだ。
「ビートルジュースとなった者達相手のみという条件が付くが…それを除けば似たようなものだろう、レイラ」
その説明に、レイラは眉根に皺を寄せた。


飲み下した瞬間に、自分の腕がそれを振り払うように動くのを感じた。
「お…前…何、を…し、やが…」
自分の口から、意思に反して声が出る。
しかしそれよりも、言いようのない気持ち悪さにスティーブは立っていられなくなっていた。
「ぐっ…がっ…ガアアアアアアアァァァァァァ」
床にのたうち回り、目も見えず、手探りでベッドを探した。
先程の時点で嘔吐していて正解だったかもしれないが、それでも口からは胃液か何かが吐き出される。
漸くベッドを探し当てると、スティーブはその中に身を横たえた。

身体の中を何かが這い回るような感覚が、ずっと続く。

皮膚は寒いのか暑いのかも分からず、ただただ形容し難い気持ち悪さに苦しむ。

そして、その苦しみが最高潮に達したと思った瞬間、それは呆気なく消え失せていた。

「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
やっとのことで、スティーブは身を起こす。
さっきまでの苦しみが、嘘のように感じられなくなっている。
まだ自分が自分であることを確認し、スティーブは恐る恐る、洗面所へと歩いて行った。

ヒビの入った鏡に映る自分の顔には、片側にあった筈の幾何学模様のタトゥーは、跡形も無く消え去っていた。

「は…はは…」
鏡の向かい側にある壁に背を着け、その場に尻餅をつく。
笑おうとしても、思い切り笑うほどの気力が出ずに中途半端な声が口から出ていた。
「ハハハ…ハハ…ざまぁみろ、この野郎…!!」
それから、しばし彼はその場で息を整えた。

洗面所を出て、彼は部屋を眺めた。
今しがた自分に起こったことが、何だったのかを考える。

何故自分はビートルジュースになりかけた?

何故そこからビートルジュースにならずに済んだ?

あの小瓶を渡したのはいつで、誰の仕業だったのか?

考えても答えは出ず、そしてそれに納得がいかない。
思考を働かせながら、スティーブはいつしか窓辺に近寄っていた。

――やりやがったな。

「っ!!?」
声が聞こえたような気がした。先程と同じように頭の中に。
だが不思議と、その発生源が自分の頭ではないことが認識できた。
しかし。

窓の外。そこに広がる町の光景。

ここは最上階ではないが、そこまで低くはない階だった筈だ。だから街の景色が見える。

その、景色。眼下に広がる町の路上。

路上にいる人間。その全員ではなく、何人か。

大通りにいる人間、路地裏にいる人間、民家の庭にいる人間、近くのビルの窓辺にいる人間。

彼らが。

全員一斉に、スティーブを見ていた。

「…あぁ、そうかよ」
冷や汗が流れる。
彼は今すぐに、自分が『消え』なければならないと悟っていた。

「お前は、『そこ』にいるんだな…ビートルジュース…!!」


「そしてそのことに、ビートルジュースもまた気づくだろう」
バアルは、ポツリとそう言った。
「彼…いや、彼らは必ず、スティーブ・ハントの命を狙う筈だ。彼は、知られてはならないビートルジュースの性質を知ってしまったのだから」

「故に、ここからが大事だ。私の打った布石は彼だけではない。ビートルジュースをどうにかする方法も、そして彼らが結束する術も…もう全て動き出しているだろう」

「レイラ。君ならばスティーブ・ハントが自分の能力をどう使えばいいのか、そしてどう行動すればいいかを、導くことができる。勿論、君がそうしたければ、だが」

「私が…?」
レイラは、半ば呆然とした様子でバアルの言葉を反芻していた。
やがて少し考えて、彼女は言う。
「導くと言ったって、今の私は…」
「ああ。まだ君は今の私と同じく、遺跡のネットワーク内にしか存在できぬ状態だ。だが、私が少し前にやってみせたように、端末を作成してそこに自らの人格をインストールすることで、現実を再び生きることができる」
バアルの話を聞いて、レイラは俯いた。
しばし彼女は色々な考えを頭に巡らせて、やがて言う。
「私に…また生きろと言うのか…」
「君の自由だ」
彼女の言葉にそう返して、バアルは言う。
「現実の世界に命を取り戻すのも、選択肢の一つ。私の様に電脳世界から世界を見るのも、ここから出て、本当に消失するのもだ。どれを選ぼうとも、君の自由だよ」
レイラは、バアルの言葉に答えを返さない。
俯いたまま、彼女は過去を見ていた。
「私は…記憶を失って、色々な人と…出会ったんだ。マーガレットと。スティーブと。レベッカと。…彼らは皆、私に優しかった。私も彼らと共に、生きたいと思ったんだ」
その言葉は、意図してというよりも、自然と彼女の口から零れるように紡がれる。
その言葉はどうしようもないほど震えていて。
それをバアルは、黙って聞いていた。
「それから…それから記憶を取り戻して、分かったんだ。私が殺してきた人達も…きっと、親しい人や愛しい人がいたんだと。彼ら自身も、誰かにとってかけがえのない人だったんだと。だから…だから、私は…!」
「命じられてやったことだ。君が気に病むことじゃないさ」
紡がれたバアルの言葉に、レイラは正面から彼を見た。

その両目から、大粒の涙が流れている。

「それで…それで済むわけないだろう!?私が何をやったって、私が殺した者達は、決して戻りはしないんだ!!」

「そうだね。君が死んでも、同じことさ」

レイラは、バアルのその返答は予期していなかったのか、それ以上言い返せずに俯いた。
そんな彼女を見て、バアルは溜息を吐くと、言う。
「死は報いであって、償いにはならないよ。そんなこと、私より三千歳も年上の君なら、百も承知だと思ってたんだが」
「…そう、だな…考えてみれば、当たり前だ、そんなこと」
意気消沈したように、レイラは近くの椅子に崩れるように腰を下ろしていた。
そんな彼女にゆっくりとバアルは近づいていく。
「今、君の元居た街では勢力図が大きく書き換わっているだろう。だがどちらにしろ、君が虐殺をさせられていたあの施設は、管理者が変わるだけで動き続けるだろう。止めるには、ビートルジュースを打倒するしかない」
バアルの言葉に、レイラはやはりしばし無言だった。
「ビートルジュースという存在が滅んでも変わらないかもしれない。それは分からない。だが、もうあの街に残る古き神々は、あのウィルスだけだ。だから、少なくとも…変わらないとは言い切れない。そうは思わんかね?」
そう語るバアルの言葉を聞きながら、レイラは袖で目元を拭う。

そして、彼女は顔を上げた。その眼には、決意の色を浮かべて。
「端末を作って私を入れるまで、どれほどかかる?」
そう聞いた彼女の言葉に、バアルは口元に笑みを浮かべる。心底、楽しそうな笑みを。
「数か月って所かな」
「…長いな」
「ヒトの身体を無から作るんだ。これでも早過ぎるくらいだよ」
返答した後、何かに気づいたように彼は補足する。
「ああ、それと勿論、以前持っていたような、他人から思考を受信し、その脳を操るような便利な能力は無い。あれはタナトスの持っていた特殊な技術力が無ければ無理だ」

「つまり、君はこれまでと違い、何の能力も持たない身体でスティーブ・ハントを探し当てなければならない。端末ができるまでの数か月間、彼が生きていられたらの話だが」

「…そうか」
バアルの言葉に、彼女の口元にもまた、笑みが浮かんでいた。自嘲するような笑みが。
「3千年…正直言って苦しかったし、持て余してた能力だったが…本当に必要になった時に使えないとはな」
そんなレイラに、バアルは静かに尋ねた。
「普通の人間になるのは、怖いかね?」
「…あぁ」
「では、やめるかね?」

レイラは迷わず、首を振った。

「一つ、頼みがある」
「何だね?」
彼女は目を瞑り、過去を振り返った。マーガレット、スティーブ、レベッカ。これまでに出会った人々を。
「今度はちゃんと、大人の身体にしてくれ」
「ほう。やはり、子供の身体は不便だったか」
「いや。ただ…」
彼らは皆、彼女に合わせてくれていた。
それを思い出して、彼女は微笑みながら言う。

「私と話す人達に、しゃがむ手間をかけてほしくないだけだ」


その部屋には、壁の一面に大きなモニターが設置されていた。
更に、多くの計測機器や通信機器が室内に所狭しと置かれている。
ここは司令室だった。
本来、大勢の部下がいる部屋だ。だがその部屋には、今は二人だけしかいない。
その一人、褐色の肌に鮮やかな緑色の髪を短く切り揃えた少女は、部屋に設置された通信機に話しかけていた。
「その話…真か」
『わざわざあんたにこんな嘘を言うと思うか。人払いまでさせて』

通信機から響くのは、スティーブ・ハントの声だった。

室内でその通信を受けているのは、マザーであるセラとユーナのみである。
今しがたスティーブの話した内容は、そんな彼女達から余裕すら奪うほどのモノで、スティーブに問いかけるセラの顔色もあまり良くはない。
「事情は分かったけど…あなたはどうするの?」
通信機越しにスティーブにそう問いかけるユーナ。
彼女もまた顔色は良くなく、普段の飄々とした態度も消え失せている。
『俺はしばらく消える。あんた達と話せるのもこれが最後かもしれん。特注の通信機なんか持ってたら、今後余計な諍いを生むしな』
「だが…ビートルジュースの正体がお主の言った通りのものなら…対抗する手立てなど」
『あるさ。それを見つけるのが俺の役目だ』
そう答えたスティーブに、セラは面食らう。
彼女とユーナは顔を見合わせた。そして、今度はユーナが通信機に話しかける。
「随分確信を持って言ってるけど…理由を聞いても?」
『俺がこうして助かったのは、何かの…いや誰かの差し金によるものだ。だとすると、何も知らない俺を目的も無く助けたんじゃない筈だ。そいつは、俺に何かをやらせたい筈なんだ』
「けれど、手掛かりはあるの?」
スティーブは、少し沈黙した後に、答える。
『元居た街に戻る』
「そこに何か?」
『いや、これ以上は話すことはない』
スティーブが通信を切ろうとする気配を感じ、今度はセラの方が声を上げた。
「待て!お主は一人で姿を消すつもりか」
『あぁ…悪い、レベッカのことをよろしく頼む。今は病院で寝てる筈だ』
「そういうことではない。自殺行為は承服できないという話だ」
諭すように、静かにそう返すセラ。
ユーナが意外そうな表情でそんなセラを見る。
そのうちに、スティーブから答えはあった。
『死ぬつもりは無い。だが、さっきも言った通り…俺には誰も信用できなくなっただけの話だ』
そのスティーブの言葉に、セラは何か答えを返そうとした。
だが彼女は言葉に詰まった様子で、何も言い出せない。
そんな彼女を一瞥しながら、ユーナの方がスティーブに言った。
「分かった。他に何か、言い残しておきたいことはある?」
『…レイラの』
「分かってる。手厚く埋葬するわ」
『じゃ、いい。短い間だったが…世話になった』

その言葉に彼女達が返事をしないうちに、通信は切れた。

「…セラちゃん」
「ああ。あ奴の話の通りだとすれば、デコイの誰に感染しているかも分からん。我々も気を引き締める必要があるだろう」
二人は、頷く。
退席させていた部下たちはもうすぐ帰ってくるだろう。彼らに悟らせないように、警戒する必要がある。
二人は改めて、表情を引き締めていた。


ホテルにほど近いビルの屋上に、その男は立っていた。
眼下の道路を横切っていく影を、彼は確かにその眼に捉える。
「見事、呪縛をその身から断ち切ったか」
ゆっくりと息を吐くと、彼は言葉の続きを紡いだ。万感の思いを込めて。
「報われたな、スティーブ」

男――ルシウス・サイファーは、視線を眼下から、空へと向ける。

空は、朝日が顔を出したばかりで、あまり雲も無い。
鳥たちが空を飛び、一陣の風が彼の頬を撫でる。
「ならば、来るがいい」

「いつになろうとも…待っているぞ」

やがて、彼もまたこの町から姿を消した。

プリズナの町でのスティーブ・ハントについての記録は、ここで終わっている。


最終更新:2019年10月28日 01:05