いつものようにけたたましい目覚ましに起こされ、男は起き上がった。
そしていつものように顔を洗い歯を磨き、適当に作った朝食を摂る。
そして着替え、荷物を整え、ドアを開けた。
全てがいつも通りで、男は思わず呟く。
「まったく…今日も世の中あまり代わり映えしねぇな」
男は濃紺のコートを羽織り、寝床としているアパートを出た。
黒のスーツの上からコートを着た、20代後半の、ボサボサな短い黒髪に緑色の瞳の男。
手には、新聞と鞄が握られている。
男の名はスティーブ・ハント。街の片隅で私立探偵を営んでいる。
現在の時刻は午前8時半。9時に事務所を開けるので、時間的にはまだ余裕である。
スティーブはとぼとぼと車の滅多に来ない車道を歩き、事務所のあるアパートを目指した。
「…いつも通り、崩れそうで崩れないよなぁ、ここ」
アパートの目の前まで来て、スティーブは呟いた。
事実、このアパートは半ば廃墟も同然なのだ。
全4階、1フロア5部屋もあるにも拘らず、スティーブの他にこのアパートを借りているのはわずか6組。
うち3組が4階、もう3組が3階で、スティーブだけが2階を借りている。
アパートに入ろうとするスティーブの背中に声をかける者がいた。
「世は事も無し、という奴ですか」
「ん、何だ、ヨハンか」
彼の後ろにいたのは、緑の制服に制帽、鞄を肩にかけ、自転車に乗った若者だった。
10代後半ほどの、短い金髪に一見して美形と分かる整った顔、澄んだ緑色の瞳。
名をヨハン・ニコラスという。毎朝郵便配達をしている男だ。
眠たげな声で、スティーブは言った。
「お前は相変わらず元気そうだな。今日も配達か?」
ヨハンは口元に微笑を浮かべながら答えた。
「見れば分かるでしょう?ああ、ハントさんにも一通来ていますよ」
そう言うと、ヨハンは鞄から一枚の封筒を取り出し、スティーブに渡した。
「ああ、いつもいつもご苦労さん」
「仕事ですから。それではこの辺で」
そう言うと、ヨハンは自転車をこいでその場を走り去った。
スティーブは長い溜め息を吐くと、外付けになっているアパートの階段を上っていった。
鍵を開けて、事務所へ入る。
寂れている代わりに事務所はほど良く広く、ドアから正面には窓がある。
窓の前にはスティーブが使う事務机があり、部屋の中央には依頼者用の椅子がある。
最近は秋にしては少し寒い気候のせいか、事務所の中は冷え切っていた。
スティーブは窓を開け、傍にある棚から箒と塵取りを出し、手早く掃除を始めた。
掃除が済むと、事務机の傍の椅子にコートをかけ、座る。
「さて、今日はまともな依頼があればいいがな」
そう言うと、スティーブは先程ヨハンから貰った封筒を手に取った。
事務机の引き出しからハサミを取り出すと、端の部分を切り取る。
中には、一通の手紙が入っていた。
「どれどれ…」
手紙には、ある件について内密に依頼がしたいという事が書かれていた。
今日、依頼主は直接スティーブの事務所に来るらしい。
「依頼主は、と…」
依頼主と思われる名前は、手紙の最後に書かれていた。
「『ベテルギウス』…一体どんな人物だか…」
「その名前はお気に召しませんか?」
気がつくと、戸口に一人の男が立っていた。
全身を黒いマントが包み、頭にはシルクハットを被った男。
マントから唯一出ている右手には白い手袋をはめ、雨が降る予報など無いのに纏めた蝙蝠傘を持っていた。
肩まで伸ばした金色の長髪、青白い肌に高い鼻、切り揃えられた顎鬚、心の奥底まで見透かす様な真っ赤な瞳。その風貌には、スティーブは見覚えがあった。
「ウォルフガング…ヴィルヘルム…!?」
ウォルフガング・ヴィルヘルム。この町でも名高い資産家であり、常に時代錯誤な貴族の格好をしている事から、巷では『ヴィルヘルム卿』と呼ばれている。
「ごきげんよう。私立探偵スティーブ・ハントさん」
「まぁ、とりあえず座って下さい。そこ、床が脆いんで気をつけて」
スティーブがそう言うと、ヴィルヘルム卿は戸を閉め、部屋の中央にある椅子に座った。
スティーブは胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。
そしてヴィルヘルム卿を見据えると、口を開いた。
「…この手紙、本当にあなたが出したもの…ですか?」
ヴィルヘルム卿はにこやかな笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ。その通りです」
煙草を口に咥えて、スティーブは質問を続けた。
「『ベテルギウス』と言うのは?」
「ウォルフガング・ヴィルヘルムと言う名前ではマスコミに嗅ぎ付けられる恐れがありますからね、念の為、偽名を使わせていただきました」
相変わらず顔に笑みを浮かべながら、ヴィルヘルム卿は言った。
「…まぁいい。では依頼内容を」
煙草の灰を灰皿に落としながら、スティーブは言った。
「その言葉を待っていましたよ」
ヴィルヘルム卿はそう言うと、マントの中から封筒を取り出した。
封筒の厚さを見て、スティーブは中に入っているものを悟る。
ヴィルヘルム卿は話を始めた。
「ある男について調べて欲しいのです」
「調べる、と言うと、素性をですか?」
「…その男は少し前にある犯罪を犯しましてね。その動機を調べて欲しいのです」
スティーブは呆れた。どんな内容かと身構えていたら、予想とは全く違っていたからだ。
「ヴィルヘルムさん、あなたは探偵という仕事を何か勘違いされている様だ」
「ほう、と言いますと?」
「簡単な事です。加害者が犯罪を起こした動機を調べる、そんな事は警察の仕事だ」
ヴィルヘルム卿はそれを聞くと、フフッと静かに鼻で笑った。
「何かおかしい事でも?」
「いえ、失礼。確かにそれは警察の仕事です。
ですが結局、男の動機は不明のまま事件は幕を閉じそうなのでね。
ですからあなたに調べてもらおうと思ったのですよ」
まだ分かっていない様だ。そうスティーブは思った。
「一つ言えるのは、警察が人員を使って捜査しても分からない事が、探偵一人で解明出来る筈が無い、という事です」
「警察が捜査しなかったとしても、ですか?」
ヴィルヘルム卿の意味深なこの発言に、スティーブは眼を細めた。
「…それはどういう意味です?」
「それに関しては依頼をお引き受けして頂ければお話しします」
「………」
スティーブは、この見るからに厄介そうな調査に、気乗りがしなかった。
「一応話しておきましょう。報酬は調査費用に加え、ある情報を提供いたします」
再び口元に微笑を浮かべながら、ヴィルヘルム卿はそう言った。
「…ある情報?」
「…あなたの兄上の情報です」
「!!」
一瞬、ヴィルヘルム卿が何を言っているのかスティーブには分からなかった。
だが、数秒してやっとその意味を読み取る事ができた。
スティーブが何故、と言おうとするのも意に介さず、ヴィルヘルム卿は話を続ける。
「知っていますよ。あなたはここ数年間、兄上を探しているのですよね?」
「…義理の、だ」
スティーブは、鋭い視線でヴィルヘルム卿を睨んだ。
スティーブの睨みにも、ヴィルヘルム卿は全く動じはしなかった。
「…どこまで知っている?」
「殆ど全て…ね。10年ほど前、あなたは病床の姉上を看護する為にこの街へやってきた。
しかしあなたの姉上は残念ながら亡くなってしまった。
そして現在まで、あなたは行方を眩ませた姉上の婚約者を探している」
ここまで、実に滑らかにヴィルヘルム卿は言い終えた。
「何故知っている?」
「偶然耳に入り込んできた、では説明になりませんか?」
「ならないな」
数秒間、スティーブは睨み続けていたが、ヴィルヘルム卿は動じる事無く立ち上がった。
「どうやらお気に召さなかった様ですね。他の探偵を当たりましょう」
そう言うと、ヴィルヘルム卿は立ち上がり、戸口まで言ってドアを開けた。
「…待て」
スティーブの呼び止めに、予想していたかの様な表情でヴィルヘルム卿は振り返った。
「その情報、確かなものなんだろうな?」
「保証しましょう。もし使い物にならない情報であれば、私を訴えても構いません」
「…いいだろう。詳しく話してもらおうか。依頼の内容」
「私が調べて欲しいのは、この男です」
そう言うと、ヴィルヘルム卿は1枚の写真を取り出し、事務机の上に置いた。
その顔は、つい最近スティーブも見た事のある顔であった。
「この男は…!!」
「サイモン・デクスター。今月の頭に、この町の銀行を襲った一味のボスでした」
半月ほど前に起こった銀行強盗事件。
警察でさえ手こずるほどの大型の兵器を用いて銀行を占拠し、多額の現金を狙った者たち。
しかしその事件の結末は、犯人達の全員逮捕という形で終わっていた。
そして、犯人のリーダー格であるその男の顔は新聞にも載り、スティーブも目にしている。
ちなみに、この強盗団の大半は貧困な労働者達であった為、現在のこの町の、貧富の差の象徴たる事件として、テレビでもセンセーショナルに取り上げられていた。
「あの事件の犯人達の動機など、マスコミでも散々取り上げられていた。
貧困な労働者が、金欲しさに起こした事件だと」
スティーブの言葉に、相変わらず微笑を浮かべながら、ヴィルヘルム卿は答えた。
「確かに、あの強盗団の大半はその様な動機で動いていたでしょう。
ですが、この男に関しては本当にそうでしょうか?」
「何…?」
ヴィルヘルム卿は、一冊のファイルを取り出し、事務机の上に開いて置いた。
そこには、何枚かの新聞記事が日付と共に入っていた。
「これは、ある一人の女性の自殺に関しての記事が載っています。
その女性の名前は、アリッサ・デクスター」
「アリッサ・デクスター…」
「サイモンの娘です。彼女は半年ほど前に自殺しています」
煙草の灰をまた灰皿に落としてから、スティーブはファイルの中に視線を走らせた。
そして、ある事実に気づいた。
「…!?」
「気づいた様ですね。アリッサは、サイモンの襲撃した銀行に勤務していたのですよ」
驚くスティーブをよそに、ヴィルヘルム卿は立ち上がった。
「私が持っている情報はこれで全部です。
…ああ、それからもう一つだけ重要な情報が」
「…何だ?」
ヴィルヘルム卿は、ニヤリと笑みを浮かべながら、言った。
「その自殺に関しての警察の捜査は、開始されて間も無く、不自然に打ち切られました。
そして、この前の銀行強盗事件についても、サイモンの動機については『他の者と同じ』として扱われ、全くと言っていいほど調べられていないのです。
さて、これらの事実が意味するのは何でしょうね?」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、一筋だけ冷や汗を垂らし、スティーブは言った。
「揉み消し…か。相当やばそうな依頼持ってきたな、あんた」
「さて、私はこの辺で失礼いたします」
そう言うと、ヴィルヘルム卿は戸口まで向かって歩いた。
スティーブは立ち上がり、去ろうとするヴィルヘルム卿に向かって口を開いた。
「最後に一つだけ聞かせてくれないか」
ヴィルヘルム卿は立ち止まったが、今度は振り返らずに言った。
「何でしょう?」
「どうしてもわからない。こんな事を俺が調べて、あんたに何の得がある?」
ヴィルヘルム卿は振り返り、再び口元に笑みを浮かべ、言った。
「私は趣味で、犯罪者の心理を調べていましてね。そして今の事実に行き着いたわけです。
ですが、そこからどうしても更に奥の真実に行き着けない。
ですから、あなたを雇おうと思いました」
スティーブは二本目の煙草に火をつけ、眼を細めて言った。
「あんた…相っ当イカレてんな」
ヴィルヘルム卿はスティーブが言い終わらないうちに向き直り、歩き始めていた。
そして、廊下に消えていってから、やっと返事が返ってきた。
「フフ、ごもっとも」
フーッと煙草の煙を吐き出し、スティーブは椅子の背に背中を預けた。
だがその時、背後の窓から再びヴィルヘルム卿の声が聞こえてきた。
「明日また来ます。できるだけ早く結果が知りたいのでね」
急いで立ち上がり背後の窓を覗くと、裏の通りで1台のリムジンが走り去るのが見えた。
「…何で請けちまったかなぁ、俺」
「はぁ、しょうがねぇ…やるか」
そう言うと、スティーブは椅子にかかったコートを手に取った。
背後の窓を閉めて鍵をかけ、事務所を出て、駐車場へ歩いて行く。
「さて、すんなり終われればいいんだがなぁ…」
憂鬱な気分で、スティーブは車に乗る。
そして彼はまず、図書館へ向かった。
依頼人であるにも関わらず、どうも彼はヴィルヘルム卿を信用できなかった。
なので念の為、彼から貰ったファイルの新聞記事が本当のものなのか確かめるのである。
スティーブはこの町の図書館に来るのは初めてだった。
元々読書が趣味であったが、殆どは古本屋で文庫本を買う事で済ませていたからだ。
その為、図書館の勝手が分からないので、とりあえず受付に聞いてみた。
「半年前の新聞ですか?ええ、ありますよ」
思いの外すんなりと、目当ての新聞は手に入った。
「…なるほど、とりあえずこのファイルは的確か」
アリッサ・デクスターの自殺を報道した記事は、僅かしかなかった。
その僅かがファイルに貼られた記事であり、つまりファイルの内容で全ての様であった。
車に戻ったスティーブは、煙草に火をつけながら考える。
「(さて…どこから手をつけるか…)」
ふと、スティーブはヴィルヘルム卿との会話を思い出した。
「(揉み消し…か)」
スティーブはエンジンをかけずに自動車から出て、図書館受付にある公衆電話へ向かった。
だがその途中で、スティーブは気づいた。
これからかけようとしている所は、ここからさして遠くない距離にあったのである。
「さて…電話がいいか直接行くか…」
煙草の灰を携帯灰皿に落とし、スティーブは図書館を出た。
「どっちにしろあまりいい結果にはなりそうに無いな」
スティーブは再び車に乗り込み、ある場所へと車を走らせた。
警察署。ここ来る度に、スティーブは思った。
「(今日は何回怒鳴られるかな…)」
ガラスの自動ドアをくぐると、いつもの警察署受付の光景が目の前に広がる。
右手には適度に広い待合室。左手には何台かの公衆電話に、観葉植物。
前方には受付のカウンターがあり、階段は待合室の奥にあった。
スティーブは受付の前まで行き、忙しそうに書類をめくる受付に声をかけようとした。
だがその時、背後から女性の声がスティーブの耳に響いた。
「あら、久しぶりね、スティーブ」
肩まで伸ばした金髪に、女性警察官特有の気の強さを物語る様な緑の瞳。
スティーブと同じ位の年齢の様な顔立ちをした女性が、彼の前に立っていた。
「何だ、エリスか」
エリス・ブラウン。スティーブと顔見知りの女性刑事である。
彼女は今どこかから警察署に戻って来た所らしく、厚手のコートを着込んでいた。
寒がりの彼女は、毎年まださして寒くないこの季節から、いつもこの格好なのである。
「すまないが、カーネルに取り次いでくれないか?」
その言葉を聞くと、言いにくそうにエリスは言った。
「ああ…ジョンソン警部補なら今話さないほうがいいわよ。
最近かなり不機嫌だったから、あなたと会ったらどうなるか分からないわねぇ…」
「ほお、そりゃまた何で?」
「それが…半月前に彼、ある容疑者を捕まえたんだけど、その容疑者が厄介でねぇ…。
でもまぁ、来月警部に昇進するそうだから、今回の件が解決すれば大丈夫だと思うわ」
そうは言うものの、彼女の表情から察するに、どうやら本当に厄介な相手らしい。
スティーブは、エリスに用件を話す事にした。
「じゃあすまないが、ちょっと時間空いてるか?
ちょっと厄介な依頼が舞い込んでな、少し手伝って欲しいんだよ」
「いいわよ、始末書書いて来るから、車で待ってて」
そう言うと、エリスは階段の方に歩いて行った。
「…地獄に仏ってのはこういう事だったっけか?」
車で30分ほど待っていると、助手席側にエリスが入ってきた。
今は厚手のコートは脱ぎ、スーツ姿になっている。
「…で、何を手伝って欲しいの?」
スティーブは今まで吸っていた煙草を車の灰皿に押し付けてから、言った。
「用件は二つ。ある人物と面会させて欲しい。
もう一つは、ある事件の捜査資料を見せて欲しい」
エリスは少し考えてから、言った。
「まぁ、どっちも誰なのか、何の事件なのかによるわね」
「ある人物とは、この前の銀行強盗事件の主犯、サイモン・デクスターだ」
「サイモン・デクスター!?」
エリスは驚いた様子で、答えた。
「そんな大事件の容疑者、私じゃ幾ら何でも無理ね。
そもそもまだ取り調べ中だし、それこそジョンソン警部補の耳に入るわ」
「…しょうがないな」
とりあえずは、もう一つの用件を優先させる事にした。
「ある事件とは、サイモン・デクスターの娘、アリッサ・デクスターの自殺だ。
その事件当時の調書を見せてもらいたい。」
「アリッサ・デクスター…!?」
どうやら、サイモンの娘が半年前に自殺していたと言うのはエリスも初耳らしい。
「それ、本当の話?」
まだ半信半疑の様子で、エリスはスティーブに尋ねた。
スティーブは車の窓を開け、煙草に火をつけてから言った。
「じゃなきゃここには来ない」
しばらくの沈黙の後、やっと答えは返ってきた。
「まぁ、それなら事件当時捜査してた刑事に話せば大丈夫だと思うけど…」
「なら頼む」
エリスは複雑そうな顔をしていたが、しばらくしてから言った。
「…ちょっと待ってて」
そしてエリスは、入って来た時と同じ様に、足早に車を出て行った。
車の中から警察署の入口を見ると、忙しなく行き交っている人々が見える。
スティーブは煙草を吸いながら、入る人数と出る人数を数えて暇を潰した。
途中で空腹を覚え、時計を見ると、いつのまにか時間は昼過ぎになっている。
「これが済んだら飯でも食うかな…」
先程よりも少し多いくらいの待ち時間で、エリスは帰ってきた。
その手には目的の調書があったが、それよりもスティーブを注目させる情報が彼女の口から話された。
「ちょっと気になる話があるんだけど…」
「何だ?」
調書を広げて見ながら、彼女は話を始めた。
「この事件を担当した私の同僚が言ってたのよ。
事件がおきてから数日後、急に上司から捜査の打ち切りを命令されたんだって。
それとこの前、銀行強盗事件の主犯がサイモン・デクスターという男だったでしょ。
その名を聞いて彼、すぐにこの自殺が頭に浮かんだんだって。
それで上司に報告したんだけど、そしたら、『この件は口外するな』と言われたそうよ」
「その上司とは?」
「ノーマン・サザーランド警部補よ」
スティーブはその名前に聞き覚えがあった。
いつだったか珍しくカーネルが愚痴をこぼしていた時に出てきた同僚の名前だ。
その名を頭に入れながら、とりあえずスティーブは調書に眼を通した。
確かに、その調書は通常の事件のものより薄い上、捜査期間も短い様だった。
アリッサの自殺は、調書によれば、マンションにある自室での拳銃自殺であったらしい。
ドア・窓には鍵がかけられており、目撃者は無し。
第1発見者は当時付き合っていた恋人で、ラルフ・ジョーンズと言う男。
更に調書には、当時アリッサと親しかった3人の女友達の証言が記載されていた。
どの男女も、全員年齢は20歳前後であった。
とりあえずスティーブは、ラルフ・ジョーンズとアリッサの女友達の、計4名の証言と住所、そしてアリッサの当時の住所を手帳に記録した。
「もういいぞ」
そう言うと、スティーブは調書をエリスに渡した。
エリスは受け取りながら言う。
「じゃ今回の分は貸しね」
調書を閉じると、エリスは突然不安そうな顔になり、口を開いた。
「ねぇ、さっきの話だけど…」
スティーブは煙草を取り出して火をつけながら、言った。
「ああ、実はな、俺の依頼人も似た様な話をしてたんだ」
エリスはスティーブの依頼人が誰なのか気になったが、やめておいた。
それに、おそらく彼女が危惧している事はスティーブにも分かっている事だろう。
「…ならくれぐれも気をつけてね」
そう言うと、エリスは車のドアを開け、外に立った。
だが立ち去らずに、車内に顔を出して、言った。
「じゃ、今度奢ってね」
「…太るぞ」
途端に、乱暴にドアが閉められた。
「…ここか」
町の中心部に近い高層マンション。
そこの最上階に、当時アリッサと付き合っていたとされる男、ラルフ・ジョーンズは住んでいた。
その前にスティーブは当時アリッサが住んでいたマンションへ行ってみたのだが、その部屋には既に別の住人がおり、管理人からも話は聞けなかった。
ラルフの住むマンションは、1階の入口で住民の部屋番号を入力し、そこの住民が来客の姿を確認して自動ドアを開ける、という方式の、最新式のマンションであった。
「厄介な所に住んでるな…」
スティーブはとりあえず、近くの電話ボックスで、ラルフと連絡を取る事にした。
番号を押すと、数回の呼び出し音の後に、眠たげな青年の声が聞こえた。
『あー…もしもし?』
「もしもし。そちらはジョーンズさんのお宅でしょうか?」
相変わらず眠たげな青年の声は答えた。
『はい、そうですけど…お宅は?』
「ラルフ・ジョーンズさんは…君かい?」
『はい、そうですが…』
「半年前に起こった、ある娘の自殺について尋ねたい事があるのだが」
そう聞いた瞬間、その青年の眠気は一瞬にして吹き飛んだ様だった。
今までとは打って変わって緊張の色を帯びた声が、受話器から聞こえた。
『な…何故今更そんな事を?あんたは誰だ?』
「今、君のマンションの前まで来ている。できれば入れてもらいたい。
何、話はすぐに済む」
数秒の沈黙の後、男―ラルフは答えた。
『あなたは何者なんです?それさえ教えてもらえれば入れますよ』
「私はスティーブ・ハント。先程言った件を調べている探偵だ」
再び数秒の沈黙。受話器の向こうの様子だと、どうやら相手は相当驚いている様だ。
『わ、分かりました。ちょっと支度してるんで30分位してから来て下さい』
「分かった。そうしよう」
そう言うと、スティーブは電話を切った。
その時、スティーブはまだ昼飯を食べていないのに気がついた。
腕時計を見ると、時刻は既に夕方。
「(やれやれ、いつの間にやらこんな時間だ)」
スティーブはとりあえず、近くのコンビニエンスストアへ歩いて行った。
先程とは違い、落ち着いた声がマンションのフロア内に響く。
「待ってましたよ。どうぞ」
目の前のドアが開き、ラルフ・ジョーンズは姿を現した。
青みがかった黒髪に、細面の顔、体型はこの年代の若者の中ではがっしりした方か。
来客を迎える為か、白いスーツを着ていた。
スティーブは、ラルフに居間へと案内された。
居間には、金の額縁に納められた絵や、大画面のテレビなど、豪華なもので溢れていた。
スティーブが広いソファに座ると、ラルフは一旦居間から別の部屋へ行った。
しばらくして二人分の飲み物を持って戻ってきたラルフは、向かい側のソファへ座った。
「随分豪華な住まいだな」
「ええまぁ…趣味で株をやってましてね。
それで、半年前に起こった事件についてお聞きしたいとか…?」
スティーブは頷くと、一通りの話をラルフに聞かせた。
「あの、アリッサの事件は自殺で解決したと警察の方から聞いたのですが…」
「ああ、だが調べているうちに疑いたくなるような事実が出てきてね。
だから君には、事件の後警察に証言した事をもう一度言ってみてほしい」
「…分かりました」
ラルフは、アリッサの死体を発見した状況を細かく説明した。
だが、殆ど全てスティーブの手帳にある記録と変わり無く、補足すべき情報も無かった。
そこで、スティーブはラルフに、アリッサとの付き合いについて質問する事にした。
「…彼女とは何時頃から付き合っていた?」
何故か、こう聞かれた途端に、ラルフの態度に変化が起こった。
今までは冷静で、表情にも余裕があったラルフだったが、アリッサについての質問に移ると、不自然に焦り始めた様に、スティーブには見えた。
「ええと…高校の頃からだから…4年ほど前からかな…」
「…随分長かったんだな」
「ええ…まぁ…」
ラルフの額からは、段々と汗が出てきているのがスティーブには分かった。
「…何かアリッサとの思い出で、話せる事は無いか?」
「そうですね…一緒に洋服を買いに行きましたね…あと映画も見たり…」
どうやらラルフは思い出すのに苦労している様で、汗の量は相当なものだった。
「…分かった。質問はこの辺にしとこう」
「あ、そうですか」
ラルフはホッとした様子でそう言った。
スティーブはラルフに礼を言って、出て行こうとしたが、途中で立ち止まり、言った。
「そう言えば…君はどこに勤めているんだ?」
今度はさして焦る様子も無く、ラルフは落ち着いて答えた。
「銀行ですよ。しかし、この前の集団強盗には驚きましたねぇ。私も人質の一人でしたよ」
スティーブはマンションから出ると、車に乗り、煙草に火をつけた。
「(あの様子じゃ、当時アリッサと付き合ってたって事自体怪しいもんだな…)」
とりあえずスティーブは、当時アリッサの女友達だった3人の人物の住所をめくった。
スティーブが事務所に着いたのは、既に午前0時頃となっていた。
あの後、3人の住所を訪ねたが、一人は普通に聞けたものの、もう一人は他の住所に引っ越しており、見つけるのに時間が掛かった。
その後夕食を挟み、3人目の住所を訪ね、いくつか質問をした。
だが結局、その3人からは、目立った情報は得られなかった。
駐車場に着いたスティーブは、煙草を吸いながら、考えた。
「(今日の収穫は…ラルフ・ジョーンズの挙動が怪しかった、と言うくらいか。
ここまでで頭を整理すると、今の所一番に疑うべきなのは…)」
とその時、スティーブのいる運転席側の窓ガラスがトントン、と叩かれた。
驚いて見上げると、眼鏡を掛け、コートを着た痩せた男が立っていた。
その顔に、スティーブには見覚えが無かった。
彼は窓を少しだけ開けて、言った。
「何か用か?」
弱弱しそうな声が車内に響く。
「すいません、この辺にある、とあるマンションを探しているのですが…」
そう言って、男は地図を取り出した。
「(何だ、迷ったのか…)分かった。この辺は入り組んでるからな…」
そう言って、スティーブは窓を開けた。
「!!!」
途端に、巨大な腕がスティーブの胸倉を掴み、車外に引きずり出した。
最終更新:2012年01月21日 23:33