アットウィキロゴ
「ダッハッハッハッハ!!」
室内に響く耳障りな笑い声に、俺はうんざりした。
声の主である黒人の大男を、不快な気分を存分に込めた眼で睨む。
今俺がいる長方形の広い部屋には、事務机が十脚ほど置かれている。
机は二つづつ向かい合わせに置かれ、それが並べられて部屋を縦断している形だ。
ただし、部屋の一番奥の事務机だけは、それらと別に、奥の窓に背を向けて置かれていた。
今俺と大男は、出入り口に近い席に並んで座っている
「ラインハン、五月蝿いぞ」
と、その一番奥の席に座る初老の男―ボスが煩わしそうな声を上げてくれた。
「だってボス、コイツの話聞いたら誰だって笑いますって!」
未だ笑い声を漏らしながら、大男は部屋の奥へ視線を向ける。
ボスは、白髪交じりの頭を掻きながら、茶色の背広の胸ポケットからペンを取り出し、書類に何事か記入している。
いつもの様に、50~60代程には見える顔に不快な色を示す皺が刻まれた。
「ブルース・ラインハン。暇ならば書類の整理を命じたい所だが?」
それを聞いて、大男―ブルース・ラインハンは慌てて両手を振った。
「お、俺も今書類を整理中ですわ。これ以上は無理ですぜ!」
ブルースは自慢のスキンヘッドを掻きながら、紺の背広からペンを取り出した。
だが、まだ俺の話に笑いは収まらないらしい。30代後半から40代ほどに見えるその顔には、笑いの皺が未だ刻まれている。
そして、奴は横目で俺を見ると、懲りずに再び話し出した。小声ではあるが。
「これで笑わん方が無理ってもんだぜ。
だってお前、落とし穴で殺人犯捕まえた探偵とか前代未聞だぞ?」
「ブルース、二度は言わんぞ」
即座に奥の席から言葉が飛ぶ。ボスに隙は無い。
当たり前だ。現在室内には俺とブルース、そしてボスの三人しかいないのだから。

しばらくして、奥の席から再び声が上がった。
「ハント。やっと書類整理が終わった。来い」
俺は鉛の様に心に圧し掛かる憂鬱な気分を抱えながらボスの席へ歩いた。
「…今回の件、結局はお前の自業自得だと言わざるを得ない。
事務所、すなわち自らの仕事場の整備は探偵の、いや人として当然の義務であるからだ。
なのにお前はそれを怠り…」
ああ、相変わらず長そうだ。苦い表情をしたいのを堪えながら、俺はボスの長話に耐えた。
「挙句、事務所が半壊したからしばらくここで面倒を見てほしいと。
独立した所員が戻ってくる事は稀にある事だが、その理由がこれでは、怒りを通り越して呆れすら感じるな」
そこまで言って言葉を切り、ボスは言った。
「何か言いたい事は?」
思ったよりも早く区切りがついた。俺は意を決して、口を開いた。
「ボス、頼む。事務所の修理が終わるまで、この興信所にまた置いてくれ」

ここは俺が探偵のイロハを叩き込まれた興信所だ。
厄介な事件に巻き込まれ、殺人犯によって半壊した事務所の修理が出来る日まで、こうして俺は再びこの興信所で世話になる事となった。
「幸いお前が独立してから、ここは人が出る事はあれど入る事はめっきり少なくなった。
だからお前の事務机は空席のままだ」
ボスはそう言うと、首を振った。もう行っていいという事だろう。
俺は溜め息を吐きたいのを何とか押し留め、自分の席へ戻った。
ブルースがニヤニヤしながら言った。
「良かったじゃねぇか。また自分の席に戻れるとは」
「まぁな」
俺は無造作に返事すると、席に座った。
俺の隣の席に座る黒人の大男ブルースは、俺と同期でここに入り、ずっとここにいる。
陽気で口が軽い男だ。
まだここに来たばかりだった頃、俺の同期が集まって『誰が一番ヤバイ事に手を出して死にそうか』というのを話し合った際、真っ先に名前が挙がった奴だった。
今じゃそいつらは俺の様に独立する者やここに残る者、そして死んだ者と道を違えている。
ブルースが一番後者に分類されなかったのが意外だというのは言うまでも無い。
「スティーブ、どうせやる事無いだろ?書類整理手伝ってくれないか」
ブルースの言葉を聞き、回想を打ち切って俺は手伝おうと腰を上げた。
その時だった。
「ハント。電話だ」
奥のボスがそう声を上げた。
俺は渋々座り直し、内線電話のスイッチを入れ、受話器を耳に当てた。
「はい、こちら…」
言い終わらないうちに、高い声が電話から流れてきた。
「相変わらず無気力な声ね」
「…どちらさん?」
「もう忘れた?レベッカ・ミラーよ。ジャーナリストの」
忘れるわけが無い。俺の事務所が半壊した原因の一端はこいつにあるのだから。
また面倒事に巻き込まれそうなので覚えていないフリをしたのだが、駄目だった様だ。
「…何で俺がここにいると分かった」
「知ってた?この町、興信所が片手で数えられるくらいしかないの。
あんたが事務所の代わりにどこの興信所で働いてるか、虱潰しに電話したのよ」
そんな面倒をかける理由。ロクでもないものしか思い浮かばない。
「そりゃあご苦労さん。挨拶ありがとうよ。じゃあな」
「そんな事の為に電話するわけ無いでしょう!」
受話器から響く怒声に、俺は溜まらず声を返した。
「じゃあ何なんだよ」
「探偵に電話する事といったら一つだけ。依頼に決まってるじゃない」
そしてレベッカは、あるファミレスの名前と住所を言って、電話を切った。
心底うんざりしつつ、ボスとブルースの視線を受け流しつつ、俺は席を立った。

指定されたファミレスに行くと、すぐにレベッカの姿は目に入った。
四人がけの席に一人座っている。
時刻は昼過ぎで、客もまばらだ。その為か、そんな状態でも目立っていない様である。
レベッカの方は俺の姿を見るなり睨みつけてきた。
その視線を受け流しつつ席に座ると、ウェイトレスにコーヒーを注文し、俺は口を開いた。
「で、何の用だ。電話じゃ依頼がどうとか言ってたが」
「ええ、依頼よ。その前に幾つか聞きたい事があるんだけど」
俺は抗議の意思を込めた眼でレベッカを見た。
が、レベッカの方は俺のその視線など毛程も気にしていない様だ。
そして俺が口を開かないうちに、レベッカは話を進め始めた。
「あんた、今他に依頼受けてる?」
「…それを話して何になる?」
現在受けている依頼は無い。
だがこういう事を軽々しく喋ったら探偵失格というものだ。
レベッカはさっきよりも幾分かきつく俺を睨むと、諦めた様に溜め息を吐き、言った。
「全く、分かったわよ」
レベッカは、俺から視線を外し、俺の斜め後方へ視線を向け、頷いた。
「やっぱりな。二人で話すのに四人がけは大げさだと思ったぜ」
俺の斜め後方の席から歩いてきたのは、若い女性だった。
色気を一切出さない、露出の少ない服を着ており、全体的に色は明るめだ。
化粧もちゃんとしており、おおよそレベッカとは正反対の印象を持つ女性だった。
レベッカは隣にその女性を座らせると、言った。
「マリー・フレンチ。私の友人よ。
マリー、この人はスティーブ・ハント。探偵よ」
そう聞くとその女性―マリー・フレンチは、俺に向かって深々と頭を下げた。
「…依頼ってのはお前のじゃなく、そのフレンチさんのだな?」
レベッカは黙って頷いた。
どうやら黙っているのは俺が自分で事情を聞き出せということらしい。
渋々、俺は口を開いた。
「フレンチさん、依頼があるということですが、詳しく話していただけますか?」
マリー・フレンチは、素直に口を開いた。
「実は…先日、夫のエドワードが……殺人の容疑を受けて捕まってしまったんです…」
「殺人…?」
「ええ、既に検事から起訴もされて、今裁判を行っています…。
私は、夫の無実を信じているんです。お願いします、どうか力を貸してください!」
そう言うと、フレンチは勢い込んで頭を下げた。
俺はフレンチを気の毒に思った。これから断らねばならないとなると尚更だ。
「フレンチさん、既に起訴されたとするならば、警察は捜査もちゃんとやったのでしょう。
それがどんな事件だったのかは知りませんが、既に調べ尽くされている筈です。
今更私の様な一介の探偵にできる事など、もはやありません」
フレンチは、絶望的な眼で俺を見つめた。

そこに、いきなりレベッカが話に横槍を入れてきた。
「探偵がそういうものだってのは、私も仕事柄十分知ってるわよ」
俺はレベッカの方に視線を移した。
そんな発言をするからには、わざわざ俺に依頼する十分な理由があるという事だ。
「どうもね、この事件きな臭いのよ。
警察は早くからマリーの夫を重要参考人として拘留してた。
だけどね、マリーは、警察が別の容疑者を追ってた事を耳にしてたのよ」
「そりゃ、捜査の過程で別の容疑者が上がる事もあるだろう。
そいつが結局はシロだったというだけだ」
レベッカは、尚も言い募った。
「でも、警察はその容疑者を入念に追ってたって話よ?
それなのに、急に容疑者をマリーの夫と断定して逮捕したんだから!」
「…それは本当ですか?」
俺はマリー・フレンチに視線を向けた。
フレンチ夫人は、ただ無言で頷いている。
俺は煙草を取り出そうとしたが、禁煙席だというのに気がつき、仕方なくやめた。
とりあえず、レベッカの勢いを受け流す目的で俺は適当な質問を口にした。
「…捜査を担当した刑事の名前とか分かりますか?」
フレンチ夫人は、おずおずと一人の名前を口にした。
「確か…カーネル・ジョンソンと…」
俺は、最大限に高まった煙草を吸いたい衝動を抑えるのに苦労した。

俺が車に乗ると、レベッカが助手席の窓を叩いてきた。
仕方なく助手席の鍵を開ける。
何の躊躇も無くレベッカは助手席に座った。
「一時はどうなる事かと思ったけど、安心したわ」
言葉は温かみが無いどころか、刺々しいと言っていいニュアンスだ。
「悪いが、最後までやるとは一言も言ってないからな。
これ以上の調査は無駄と分かった時点で俺はこの件から退かせてもらう」
レベッカは、言葉と同じくらい刺々しい視線を俺に浴びせてきた。
「相変わらず薄情ね」
「無駄な調査ばかり続けて依頼主から金を巻き上げる悪徳探偵よりゃ数倍マシだ」
「五十歩百歩ね」
俺は煙草を取り出し、火を点けた。
ファミレスを出て心底俺は安心した。思う存分煙草を吸えるからだ。
レベッカも吸い始めた。禁煙席はマリー・フレンチへの配慮の為だけだったらしい。
「…マリー・フレンチだったか。お前と彼女と、どんな繋がりだ?」
「ただの高校時代の友達よ。私がこの仕事に就いてると知って、頼ってきたの。
私は…もしかしたら記事になるかと思って、協力してる」
レベッカは苦々しい顔でそう言った。
もしかしたら先程の言葉は、彼女が自身に向けた言葉かもしれないと、俺は思った。

「で、当のフレンチ夫人は?」
「私の車に待たしてるわ。これから家に帰すところよ」
車の灰皿に煙草を押し付け、俺は二本目に火を点けた。
「じゃあお前、彼女と一緒に彼女の夫の弁護士と話してこい。事件の詳しい話を聞け。
フレンチ夫人の友人って立場なら、話も聞きやすいだろう」
「あんたはどうするの?」
「俺が何やるかは俺の勝手だ。2時間後にここに来い」
途端に起こった数分の問答の後、レベッカは渋々俺の言う通りにする事にした。
フレンチ夫人を車に乗せ、俺に攻撃的な視線を向けた後、レベッカの車はファミレスの駐車場を出て行った。
「果たして大丈夫かねぇ…」
レベッカの異様な沸点の低さに不安を覚えつつ、俺は警察署へ車を向けた。

いつもここへ足を向ける際、俺の気分は憂鬱だ。今日もそうだ。
受付でカーネル・ジョンソンの名前を出すと、しばらくして通行を許可された。
捜査課へ向かうと、入口で相変わらず不機嫌な顔のカーネルが待っていた。
俺が何か言う前に、カーネルは捜査課内にあるドアを開けた。
嫌な予感を覚えつつ、室内へ入る。
その時、妙な視線を感じた。
ふと振り返ると、刑事の一人が鋭い視線を俺に投げていた。

「で、今日は何の用だ。さっさと言ってどこへなりと行け」
不機嫌な顔で煙草を吸い、カーネルは俺を睨む。
「最近、急に捜査を打ち切った事があったか?」
カーネルは乱暴に煙草を灰皿に押し付けた。まだ半分も吸っていない。
「どういう意味だ」
「エドワード・フレンチという名に覚えは?」
俺の質問に、カーネルは若干苦い顔をした。
「その名をどこで聞いた」
「その男が逮捕された事件に関係した調査を今やってる」
カーネルは二本目の煙草に火を点けた。俺はまだ一本目を吸っている。
しばらく、沈黙が続いた。
俺が一本目を吸い終えた時、やっとカーネルは口を開いた。
「確かにな、あの事件の捜査は俺の不満な結果に終わった」
カーネルは常に不満そうな顔をしているが、捜査は自分の納得の行くまでやる男だ。
その男がこんな台詞を吐く理由は、俺には一つしか考え付かなかった。
「上から打ち切りを命じられたか」
カーネルは答えず、ただ煙草を吸っている。
俺は、煙草の灰を灰皿に落とすと、言った。
「なぁカーネル、ここは手を組まねぇか?
お前が捜査資料の一つでも渡してくれれば、俺が気の済むまで調査してやる。どうだ」

「で、その結果がそれ?」
警察署の受付で、俺は思い切り殴られた頬に手を当てた。鈍い痛みが走る。
俺の提案に対してのカーネルの返答がこれだった。
「ああ。『手を組むだと?警察を舐めるのも大概にしろ薄汚い探偵が』だとさ」
警察署を出ようとしたとき、偶然出会ったエリス・ブラウンと俺は話していた。
と言うか、エリスとはいつもここで会っている気がする。
「そりゃ、ジョンソン警部にそんな事言ったらそうなるのは目に見えてるじゃない。
今までだってそういう事幾らでもあったでしょ?」
「そうだな…って警部?」
俺が前に奴と会った時は、階級は警部補だった筈だ。
「ええ、聞いてなかったっけ?彼、昇進したのよ」
そう言えば前にそんな事を言っていた気がする。
俺は少し声を低めて、言った。
「そうだ、カーネルが捜査してたんならお前も何か聞いてるよな?
エドワード・フレンチという男が逮捕された事件についてなんだが」
エリスはしばらく考え込んだ後、すまなそうな顔で言った。
「ごめんなさい、その捜査の件は外部の人には話せないのよ」
そして、彼女はバッグから文庫本を一つ出し、隅の壁に寄り掛かって言った。
「そう言えば、スティーブ最近何か本読んだ?お薦めのがあるんだけど」
「…んー、最近はあまり読んでないな」
俺は視界の隅に受付の男を映しながら、エリスの話に合わせた。
「じゃ、これ貸してあげるわよ。面白いミステリーでね、マフィアとか出てくるの。
同じ著者ので他にも面白い作品があるから、題名をメモしておくわね」
そう言うと、エリスは手帳のページを破って何事か書き綴った。
そしてそれを手元の文庫本に挟むと、俺に差し出した。
「わざわざすまないな。後で何か礼をしておく」
「ええ。楽しみにしてるわ」
エリスは悪戯っぽく微笑むと、階段に向かって歩き出した。

車に戻ると、俺はエリスに貰った文庫本を開いた。
典型的なラブストーリーモノだ。マフィアのマの字も出てこない。
警察が捜査を打ち切ったわけが何となく分かってきた。
「…何で俺が受ける依頼に限ってこういう危ないものばっかなんだよ…」
とりあえず文庫本に挟まってた、破れた手帳のページを手に取る。
そこには、二つの名前が書かれていた。

リチャード・キース
フロイド・ウェンズデー

名前だけしか分からないが、エリスには感謝するべきだろう。
とにかく、事件の詳細が分からなければ話にならない。俺は先程のファミレスに向かった。

別れた時以上に、レベッカは不機嫌だった。
今度はしっかり喫煙席で、俺もレベッカも煙草を吸っている。
「で、事件の概要は分かったのか?」
「ええ。大体ね」
そう言うと、レベッカは煙を吐いた。
「典型的な殺人事件だったわ。被害者はジェスター・ブレアっていう男。
エドワード・フレンチはその男の友人で、第一発見者だったそうだわ。
事件は深夜。フレンチはブレアに呼び出されて、ブレアの住むマンションに出向いた。
でもフレンチが言うには、そこに着いたら既にブレアは殺されてたそうよ」
「なるほど。で、フレンチが警察に電話したと?」
レベッカは頷いた。
「警察の調べだと、ブレアは数ヶ月前から、フレンチに多額の借金をしていたらしいの。
それを動機として、警察はフレンチを逮捕したってわけ」
「フレンチは自身のアリバイを証明できなかったのか?」
「その夜、たまたまフレンチは上司と喧嘩して、酒場で飲んでたらしいのよ。
でも、フレンチが飲んでたっていう酒場のバーテンや常連客は、フレンチを見てないと言ってる」
それでは警察もフレンチを逮捕する筈だ。
俺だってそれだけ聞けばフレンチが犯人だと思えてくる。
だが…エリスが言ってた単語…マフィアというのがどうにも気になった。
「なぁレベッカ」
「何?」
レベッカは二本目の煙草に火を点ける所だった。
「フレンチは上司と喧嘩してたと言ったな。フレンチの仕事は何だ?」
「ごく普通の商社に勤めてると聞いたけど…」
「じゃあ被害者のジェスター・ブレアの仕事は?」
「それが…無職だったらしいの。現場は街外れのみすぼらしいアパートだったそうだし」
みすぼらしいアパート…その辺がヒントになればいいが。
俺は時計を見た。午後4時を回ったところだ。
「後でその現場の住所メモしておけ。他に弁護士の話で気になる点とかはあったか?」
「正直…最悪ね」
レベッカの答えに、一瞬俺は呆気に取られた。
どうやら、レベッカの機嫌が悪い原因はこれだったらしい。
「どういう事だ?」
「どういうも何も、私が詳しく話を聞こうとしても、はぐらかそうとばっかりしてきて。
ようやくここまでは話が聞けたけど、絶対何か隠してるわ、あの弁護士」
何か隠してる、か。女は男のそういう態度に敏感だとかブルースが言ってたな。
「レベッカ。今度は、フレンチが深夜に飲んでたという酒場へ行ってくれ。
で、そこのバーテンやウェイターに話を聞くんだ」
「…ちょっと待ちなさい!!」
いきなり、レベッカが拳を思い切りテーブルに叩きつけた。

俺とレベッカ、二人のコーヒーが若干零れたが、彼女は気にしていない様だ。
「あのね、私はあんたの使いっ走りじゃないのよ!?
あんたはマリーから依頼料が振り込まれてるけど、私は何も無いの!!」
俺は煙草を咥えたまま、レベッカの顔を見た。
「だが記事にするつもりなんだろ?」
「ええ…でもね、だからってあんたの指示に大人しく従う道理も無いわ!
あんただけ勝手に納得して、私には記事にできる情報が無い、なんてオチは御免だからね!?」
俺は思案した。フレンチの裁判が続行中である以上、時間にはある程度余裕がある。
しかしながら、俺一人でも調査はできるが、レベッカを使う方が時間は少なく済むだろう。
「分かった。俺の得た情報はお前に回す。だから俺の指示に従ってくれ」
「じゃあ早く情報を渡しなさいよ!」
が、レベッカの勢いは止まらない。
とりあえず俺は、レベッカへの指示の意図だけ教える事にした。
「フレンチは酒場へ行ったと証言してるんだろ?
だがバーテンやウェイターは覚えてないと言ったんだろ?
もし夫人の言ってるようにエドワード・フレンチが無実ならだ。
そいつらに金を握らせて口を閉じさせた奴がいる可能性があるだろ」
声をできるだけ低めて、俺はそこまで言い切った。
レベッカは、ようやく納得した様な表情となっていた。
「つまり、そいつらが嘘を言ってるかどうか探ればいいわけね?」
「そういう事だ」
ようやく、レベッカは首を縦に振った。
「そういう事は早く言いなさいよ。分かったわ。
で、あんたはこれからどうするの?」
俺は一瞬迷ったが、行き先くらいは伝えてもいいだろうという結論に至った。
「事件現場のアパートだ。一応見てみる事はできるだろう」

ファミレスの駐車場でレベッカの車を見送ると、俺は電話ボックスへ向かった。
レベッカから聞いたマンションの住所は、ここから酷く遠い距離にある。
移動時間を消費する前に、何か情報は無いかと思っての行動だ。
俺が電話をかけたのは、ボスのいる興信所だった。
「あー、もしもし、ハントだ」
ボスが出たがブルースに回してくれと俺は頼んだ。ブルースは暇らしく、すぐに出てきた。
『おう、スティーブか。どこにいる?書類整理以外に仕事は見つかったか?』
「ああ。今その真っ最中だ。
で、ちょっとな、その依頼の関係で、警察から気になる名前を教えてもらった。
二名なんだが、そっちの過去の調査資料に名前でも載ってないかと思ってな」
『へぇ、どんな名前だ?』
俺はエリスからもらった手帳のページに書かれていた名前を言った。
ブルースは少し時間がかかると答えた。頃合を見てもう一度かけるとしよう。

アパートへ向かう前に、当のエドワード・フレンチと面会しようかと考えた。
だが、ただでさえ胡散臭い事件だ。どうも、拘置所へは気が進まない。
「…まぁ、後回しでも構わんか…」
俺は自動車をスタートさせた。

たっぷり1時間以上かかって、やっとアパートに着いた。
腕時計を見ると、もう午後5時半を回っている。
季節は冬。とっくの当に辺りは暗くなっていた。
「ここ…で合ってるよな?」
レベッカのメモした現場の住所と地図を見ながら、俺はそのアパートを見上げた。
確かにみすぼらしい…と言うよりオンボロだ。
5、6階建ての高さで、灰色の外壁。
しかしながらその外壁の塗装は剥げかかり、幾つかヒビの入った窓もある。
その外見のみならず、周囲の人影の無さも、このアパートの印象を決定付けていた。
とりあえず俺は、アパートの一階へ足を向けた。
郵便受けに手がかりがあるかと思ったからだ。
レベッカのメモによれば、被害者ジェスター・ブレアの部屋は最上階の6階にある筈だ。
俺は、メモに書いてある部屋番号の郵便受けを探し出した。
既に住人が殺害されたのだから、当然その郵便受けに名前は記載されていない。
郵便受けの中には、何束も封筒が入っていた。
大部分が請求書の様だ。死人相手に商売熱心とは大変結構だな。
「…ん?」
郵便受けの底の方に、一つだけ何も書いていない封筒を見つけた。
その封筒だけポケットに入れ、俺は階段の方へ足を向けた。
だがその時だった。一瞬、視界に見覚えのある名前が映った気がした。
急いで向き直り、俺はその名前を探し出した。
「…こいつは…」
被害者の郵便受けの隣に、『フロイド・ウェンズデー』と書かれた郵便受けがあった。

夕方から夜に差し掛かる時間帯。
サラリーマンなら通勤から、主婦などは夕飯の材料を買って帰ってくる頃だろう。
だが、そんな人影は全く無い。ここがそういう地区だからだ。
俺は管理人室を発見し、そのドアを叩いた。
反応が無い。しばらく待ってからもう一度叩くと、やっと奥の方から物音が聞こえた。
「はいはい、何なの?」
ドアを開けたのは、60~70代ほどの、背骨の曲がった老婆だった。
汚れた服を着ており、皺くちゃの顔だ。両目の下には、隈がある。
おまけに、老婆がドアを開けた途端、部屋の奥から安っぽい酒の匂いが漂ってきた。
「すいません、このアパートに住んでいた男について聞きたい事があるのですが」
しかしながら、探偵をやっているとそういう輩にはよく出くわす。
俺は冷静に質問を始めた。

老婆は煩わしそうに声を上げた。
「あなた、どなた?」
俺は名刺を差し出した。
老婆は部屋の奥に一旦戻り、老眼鏡をかけて出てくると、名刺を眺めた。
途端に老婆の眼に警戒の色が帯び始める。
「ふぅん…で、誰の事?」
「ジェスター・ブレアという男です。このアパートで殺されたとか…」
俺は、レベッカからメモと共に渡されたジェスター・ブレアの顔写真を見せた。
その途端、老婆は一層煩わしそうに、言った。
「あー、あの男については警察から何べんも聞かれましたよ。
でもね、あたしゃこのアパートの管理人ってだけで、あの男とはほとんど話した事も無かったんですよ」
俺は辛抱強く言った。
「姿は見かけた事あるんですよね?どんな男でした?」
老婆は思い出そうとするかのように視線を宙に泳がせながら話し出した。
「あー、そうだねー…小太りの中年の男でね、頭は丸禿げで無精髭が生えてたわね。
面倒臭がりな男でね、ほとんど外出もしてなかったみたいよ」
俺は老婆に礼を言うと、言った。
「その男の住んでた部屋を拝見できませんかね?」
「いいですけど、ちゃんと返して下さいよ」
老婆は再び部屋の奥に引っ込み、鍵を持ってきた。
俺は鍵を受け取ると、礼を言って階段へ向かった。

このアパートには勿論エレベーターなどは無いため、必然的に歩きだ。
それも6階となると結構歩いた。
「ったく…無職の癖に何で最上階に住んでんだよ…」
目当ての部屋番号を見つけ、鍵を差し込む。
ここまで振り返ってみると、案外簡単に事件現場に到達した印象だ。
しかしながら、流石にここからはそうは行かないらしい。
何せ、もう警察の捜査が終わった事件だ。
すなわち、事件が発生したのは最低でも1ヵ月ないし半年くらいは前の事になる。
新たな入居者がいなかっただけマシだろう。
何が言いたいのかと言うと、この部屋の家具などは既に一切合財運び出されていた。
「やっぱしな…」
俺は一人で呟いた。
まぁ予想はしていたが、壁紙なども真っ白だ。
この状態では、手がかりなど見つかる筈も無いだろう。
とりあえず俺は部屋の中を歩き出した。
キッチンとトイレを除けば一部屋だけの簡素な部屋だ。
まぁ無職の男が住むのだからこれでも上等だろう。
そうして、フレンチのようなお人好しから金を借り、その日暮らしをしていたに違いない。

「…ん?」
全く手がかりなど無いだろうと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
俺は壁のある一点に注目した。
床と接している部分だ。
直径5センチほどの半円状に、その部分だけ材質が違う様な印象を受ける。
まるで、そこだけくり抜いて、後から塞いだ感じだ。
「…へぇ」
自然とそんな声を出しつつ、俺は部屋を出て、隣の部屋の表札を見た。
想像通り、その壁を隔てた隣の部屋は、『フロイド・ウェンズデー』という男の部屋だった。
俺はその部屋の呼び鈴を押した。
「………」
反応が無い。しばらくしてもう一度押したが、やはり反応は無かった。

1階へ戻り、管理人に部屋の鍵を返す。
「お手数をお掛けしました」
俺は、適当に返事をしながらドアを閉めようとする老婆を呼び止めた。
「何だい?」
煩わしそうな老婆の声を意に介さず、俺は言った。
「現場となった部屋の隣に住んでる、フロイド・ウェンズデーという人についてお聞きしたいのですが」
「ああ、その事も警察には話したよ」
やはり警察も見つけていたらしい。まぁ、そうでなければ捜査線上にその名前が浮かんだりはしなかったろう。
「すいません、その男について知ってる事も話してもらえませんか?」
老婆は心底面倒そうな表情で、言った。
「その人も一度会っただけなんだけどね。
少し太ってたけど、とても身なりが良くて、紳士的な態度の人でしたよ。
いつも青い背広の上に黒いコート着ててね。ああ、宝石のついた指輪もつけてたね。
でもね、帽子を目深に被ってて顔が見えなくて、ちょっと変な人だなと思ったんですよ。
部屋を借りる時も代理だって言う人が来て、事務的な事はその人が担当してたみたい。
オマケにその部屋は月に一回くらい、感じの悪い黒服の人達が大勢出入りしてるし。
今も部屋借りてるけど、正直出てってほしいなと思ってるんですよ。
あなた、あの人見つけたらそれとなく言っといてくれない?」
俺は曖昧に相槌を打つと、礼を言ってアパートを後にした。
今の話だけで、フロイドがロクでもない人物である事は十分分かった。
どうやら、ジェスターはそういう連中に手出しして、消された可能性が高い。
先程の塞がれた様な壁の穴、あれは紛れも無く盗聴の跡だろう。
俺はこの事件の推移を考えながら、歩き続けた。


車へ戻らずに、手近な電話ボックスを見つけると、俺はそこへ入った。
時刻は午後6時過ぎ。もうそろそろいい頃だろう。
興信所の番号を押すと、俺は待った。
『もしもし、スティーブか?』
「ああ、過去の資料に情報は載ってたか?」
『ああ、一名だけだが情報があったぞ』
俺はペンと手帳を取り出すと、続きを促した。
『リチャード・キースだがな。奴は数年前出所した身だ』
「一体何をやったんだ?」
『今もこの町を席巻してるマフィア組織があるの知ってるか。そこの構成員だったんだよ。
何をやったのかまでは書いてない』
「…やはりマフィアか…」
ブルースはさも愉快そうに言った。
『安心しろ、どうやらこいつはもう組織とは縁を切っている様だ』
「…よくマフィアなんかから抜けられたもんだな」
『元々下っ端だったからだろうな。リチャード・キースについての情報はこれだけだ。
ああ、よく行くバーの住所が載ってた。言っとくぜ』
俺はブルースの言った住所を手帳に記し、続きを促した。
『フロイド・ウェンズデーって名前の男に関しては、情報は無かったな。
にしてもボスの目盗んで情報を洗うの大変だったんだぜ?一つ貸しだからな』
俺は感情の篭もらない礼を言って電話を切った。
「さて、どうするかねぇ…」
先程も言ったが、時刻は六時過ぎ。
今のところ怪しいのはフロイド・ウェンズデーという男の方だ。
しかしながら、情報が無いんでは仕方が無い。
必然的に先に調べるのはリチャードの方になるだろう。

車に戻ると、俺はポケットに入れた一通の封筒を取り出した。
中には、何か硬い小さな物が入っている感触がする。
俺は封筒の一辺を手で千切り取り、中を検めた。
金属的な音と共に、一本の鍵が俺の手の中に転がり出てきた。
「これは…」
仕事柄、何度か目にした事のある形の鍵だ。
手に持って眺めてみると、思った通り、銀行の貸し金庫の鍵だった。
「…ふむ…」
俺はもう一度、何も書かれていない封筒を眺めた。


最終更新:2012年01月21日 23:36