眩い光に顔をしかめ、その少年は眼を開いた。
そして、それが窓辺から降り注ぐ日の光であると彼は認識した。
「ここは…?」
少年は辺りを見回す。
自分が寝かされていたのは、真っ白な枕と毛布のベッドだった。
視線を上げると、ここが小さな部屋である事が分かった。
右手の奥にドアがあり、左には窓。自分のいるベッドの横には椅子が置かれている。
左側の窓の傍には白い机があり、その上には鏡と、花瓶に生けられた薄紅色の花があった。
窓の外には、草原とその向こうに佇む海、そして空には太陽が見える。
少年は、窓の傍にある鏡を見た。
そこに、自分の姿が映っている。
黒い短髪にやつれた顔。10歳ほどの年齢に見える。
彼は今、白い長袖のシャツとズボンを着ていた。
「僕は…」
何故ここにいるのか。そもそも自分は誰なのか。
少年は思い出そうと努力するが、その度に軽い頭痛に妨げられた。
その時、右奥のドアが、ガチャリと音を立ててゆっくりと開いた。
「あら、気がついたのね!」
一人の少女が起き上がった少年の姿を見るなり、嬉しそうな顔で言う。
腰までの長い金髪に、整った顔立ちをした16、7歳ほどの少女だった。
薄い赤色のブラウスに、白く長いスカートを着ている。
「待っててね、院長先生呼んでくるから!」
少女はそう言うと、すぐにドアを閉めた。
ドアの外を駆ける音が聞こえてくる。
それに続いて、何かを蹴飛ばす音も。
「いやあ、びっくりしたよ。君が砂浜に倒れていたものだから」
顎から長い髭を生やし、白髪で、白衣を着た老人が言った。
あの後、その少女が老人を連れてきたのだ。
彼女の言葉から察すると、この老人が『院長』であるらしい。
「ここは…病院?」
少年の問いに老人が答えようとしたが、その前に少女が口を開いた。
「いいえ。ここは『エリュシオン』ていう孤児院。孤児院て分かる?」
「うん…何となく」
「で、わしがここの院長と言うわけじゃ。君、名前は?」
少年は再度自分の名前を思い出そうとしたが、やはり思い出す事はできなかった。
「すいません…思い出せないんです…」
それを聞いて、少女と院長は顔を見合わせた。
二人とも、その表情に驚きを隠し切れていない。
いや、少女に至っては驚きの表情にしか見えなかった。
「こんな事ってあるんですねぇ…」
その顔とは裏腹に、暢気そうな声で少女は言う。
「そうじゃな…わしも長年ここにおるが、初めてじゃよ」
そう言うと、院長は少年に顔を向け、温和な笑顔を浮かべた。
「安心しなさい。記憶が戻るまで、ずっとここにいていいんじゃよ」
少年は視線を少女の方へと向けた。本当にいいのか、不安だったからだ。
だが、少女も院長と同じ様に、満面の笑顔を浮かべていた。
「分かりました。ありがとう…ございます…」
非常にゆっくりと言いながら、少年はノロノロと頭を下げる。
それを少女も院長も満足そうに眺めると、立ち上がった。
「じゃ、わしは他の子供達を見とるから、また何かあったら呼んでおくれ」
「分かりました」
少女の返事を聞くと、院長はドアの奥に姿を消した。
それを見届けた少女は、少年に振り向き、言った。
「君の事は私が面倒を看るわね。
と言っても、他の子供達の事もあるから、ずっとここにいるわけにもいかないけどね。
私はレノア。あなたは?…ああ、記憶が無かったのよね。
じゃあ、また30分したら様子を見に来るから」
そう言うと少女は、少年に笑顔を向けながら、ドアの奥へと消えた。
それから数日、少年はその部屋で世話を受けた。
だが、それから3日経っても、少年は過去の記憶を思い出す事はできなかった。
「ふむ、身体的には健康そのものじゃな。ここに来た当初の衰弱も大分おさまっとる。
だが…やはり記憶は戻らんか?」
医師でもあるらしい自分を診察してくれた院長に、少年は俯いて言った。
「はい…すいません」
「いやいや、謝る事は無い。
じゃが、健康な者がいつまでも寝ていたら、逆に不健康になってしまうのう。
どうじゃ、ここで、他の子供達と一緒に暮らさんか?」
少年は、院長の言葉に顔を上げた。
「僕なんかがここにいて、迷惑をかけませんか?」
院長は、傍らのレノアと共に3日前のように顔を見合わせると、少年に笑顔を向けた。
そして、今度はレノアの方が口を開いた。
「ここにはね、君みたいに身寄りの無い子が大勢いるの。
だから、そんな事は言わないで。
君もあの子達と同じ、ここにいて当然の権利を持っているんだから」
レノアの優しい言葉に、思わず少年は眼に涙を浮かべ、慌ててそれを拭った。
「わ、分かりました…」
優しくその様子を眺めていた院長は、ふと気がついたように、言った。
「そう言えば…ここで皆と暮らすのだから、名前が必要じゃな」
「アラン、ちょっとこっち手伝ってー!」
「うん!」
その後、少年は他の子供達と一緒に暮らし始めた。
彼に『アラン』という名を考え、与えたのは、レノアであった。
少年はその名を喜んで受け取り、その日から彼は『アラン』となった。
この孤児院は食料を大部分は自給自足で賄っており、様々な食物の畑を持っている。
また、果物などは近くにある大きな森に豊かに生っており、そこからも調達ができた。
「レノア。あの子の名前、よく考え付いたな。良い名だとわしは思うよ」
畑に水をやるアランの姿を眺めながら、院長は傍らのレノアに言った。
水道からバケツに水を入れていたレノアは、突然話しかけられて驚いた様子だった。
そして、その拍子にバケツをひっくり返した。
「あ!すいません!!」
「いいんじゃよ。
それより、君があの子の名前を考え付いてくれたお陰で、あの子はここに馴染んでおる。
感謝しとるよレノア」
それを聞いて、恥ずかしそうにレノアは頭を掻く。
「いえ、とんでもないです。私はただ、好きな小説の登場人物から考えただけで…」
「ホホ、実に君らしいのう」
レノアは微笑む院長から、視線を向こうにいるアランに向けた。
「最初は心配でしたけど、ちゃんと皆と仲良しになれて、私も安心しています。ですが…」
そう言うなり、レノアは少し俯いた。
「ん?どうしたんじゃ?」
「あの子の記憶が無い事を、からかう子がいるんです」
それを聞き、院長は顔をしかめた。
「仕方ないのう、どの子じゃ?」
「アポロです」
そう言うと、レノアは視線を畑の隅にいる、他の子供達より一回り大きい子供に向けた。
「あの子は皆よりも年上の13歳なので、力も強いから心配です」
「ああ、あの子はよくトラブルを起こすのう。ちゃんと教育せねばな」
「ええ、すいません、本来なら私がちゃんと注意する必要があるのに」
そう言うと、レノアは院長に頭を下げ、水の溜まったバケツを手に、アラン達とは別の畑の方へ歩き出した。
一通り水を撒き終わったアランは、孤児院の方へ歩き出した。
「おいアラン」
アランは、呼び止められた方向へ向きながら、嫌な予感を覚えた。
畑の隅で偉そうに座っている少年アポロは、アランには苦手な相手だったからだ。
ふと周りを見回すと、他の子供達は皆自分の作業が終わって、孤児院へ帰っていた。
「な、何だいアポロ?」
アポロは、不機嫌そうな顔で立ち上がると、アランの方へと歩き出した。
アポロはアランの近くまでやって来ると、言った。
「お前さっきさ、俺に向かって水かけなかったか?」
アランは驚いて、言った。
「え、いや、そんな事してないよ?」
「嘘つけ」
有無を言わさぬ口調でアポロは言う。
「で、でも本当にそんな事…」
「ふーん、そうかよ!!」
アランの言葉が続く前に、アポロの拳がアランの腹に突き刺さっていた。
「っ…げほっ…」
アランは堪らずその場に膝をつく。その耳に、再びアポロの声が聞こえた。
「嘘なんだろ?記憶喪失なんて。人気者になりたいだけだろ?
正直に話せば今日は見逃してやるよ」
アランは歯を食いしばり、声を絞り出した。
「嘘なんて…ついてない…!!」
途端に、二発目の拳がアランの左頬を打った。
衝撃でアランの身体はその場に寝転がる。
「じゃあ正直に言うまで痛い思いをするだけだ」
アポロはアランの身体の上に跨ると、その両頬に交互に拳を浴びせ始めた。
拳が10発目を過ぎた辺りから、アランの脳裏に、見た事も無い光景が映り始めた。
黒雲に覆われた空。草が一本も生えていない、濃い茶色の大地。
薙ぎ倒された木々。瓦礫と化した建物。
その建物の一つ、ボロボロになった壁を背にして、自分は座っている。
近くには、焼け爛れたり、切り裂かれた死体が堆く積まれていた。
死体はそこだけじゃなく、自分の横にも、前にも、そこらじゅうに散乱している。
両手を見ると、血で真っ赤だ。
周りの死体から流された血だろうか。
ふと腹の辺りを見ると、そこもおびただしい量の血で覆われていた。
それは、自分の血だった。
アランは、言った。
「死にたくない…死にたく、ない…!」
叫んだつもりだったのだが、声はほんの少ししか口からは出てこなかった。
そして、視界は90度傾いた。すぐ横に地面が見える。
眼が、次第に閉じられてゆく。
すぐ傍に、足音が聞こえたような気がした。
急に、アランの意識は覚醒した。
その途端、強烈な打撃が右頬を打った。
まだ、殴られている途中らしい。
アランは、いつしかさっき見た夢の中の自分と同じ事を思っていた。
「(死にたく…ない…!)」
アポロは、急に自分の手が止まったので驚いた。
何故か。今まさにアランの左頬を打とうとした右腕が、アランの左手に掴まれていたから。
ふりほどこうと力を入れるが、うまくはいかなかった。
そこで、アポロは左腕を振り上げた。
だが、その前にアランの右拳がアポロの顎に炸裂していた。
「がっ…!」
アポロは反射的に立ち上がり、後ろへ退いていた。
だが、遅かった。
その間にアランは、幽鬼の様にユラリと立ち上がると、再び拳を振り上げていた。
その眼は、先程の非力な少年とは似ても似つかないものとなっていた。
「…死ね…!!」
今度は、アポロが倒れる番だった。
そしてアランは、先程のアポロと同じ様に、その身体に跨って拳を浴びせ始めた。
「殺す、殺す、殺す、殺す、殺すうううぅぅぅぅ!!!」
「何してるの!!?」
レノアが、アランとアポロに向かって走ってくる。
孤児院に戻った子供の中にアランとアポロがいなかったので、探しに来たのだ。
「アラン、やめなさい!」
レノアが後ろからアランの両肩を掴み、引き寄せようとするが、アランはやめなかった。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ねえええぇぇぇぇ」
アランの拳には多量の血がついている。アポロの血と、彼自身の拳から出た血だった。
レノアの言葉など耳を貸さず、アランは更に拳を振り上げる。
その時、何かがアランの頬を打った。
その正体は、いつのまにかアランの正面に移動していたレノアの、平手だった。
それをきっかけに、アランの動きが止まった。
呆然とするアランの両肩を、レノアは掴んだ。
「あなたに、誰かを死なせる権利なんて無い!
一生懸命生きている人の努力を、アラン、あなたが奪う権利なんて無いの!!」
アランは、半ばボーっとした意識の中、ふと自分の両手を見つめた。
先程の夢の中と同じ。血で真っ赤だ。
だが、その大半は自分の血じゃなかった。
「アポロ、大丈夫!?」
レノアは、意識を失ったアポロに向かい、必死で叫んでいた。
結局、アポロは鼻の骨を折っただけで済んだ。
他の子供達はレノアに事情を聞いたが、彼女は決して話しはしなかった。
だが、その日から次第に、アランは皆の輪から離れていった。
皆が彼を仲間外れにしたわけではない。
アラン自身が、自分がまたあの様になりそうで、怖かったのだ。
そして、その日はやってくる。運命の、その日が。
「レノア、ちょっと来てくれるかな?」
院長の呼び声に、子供達の面倒を見ていたレノアは顔を上げた。
「はい、何でしょう?」
院長は、食料の貯蔵庫にいた。
レノアが来た事を確認すると、院長は手を顎鬚に当て、言った。
「この食料庫を見てくれ。もうすぐこの辺の季節も冬になってきおる。
どうも食料が微妙な量なんじゃが、足りると思うかね?」
レノアは食料庫の方に視線を向け、思案した。
「うーん…ギリギリですねぇ…。
今年はアランが来ましたし、この量ではやっぱり心許ないかもしれません」
「ふむ、君もやはりそう思うか。そこでじゃ。
レノア、何人か子供達を連れて、森へ果物を取って来て欲しいのじゃ。
何、この辺の森には獰猛な獣もおらんし、大丈夫じゃろうて」
それを聞くと、レノアの顔がパッと明るくなった。
「ああ!そう言えば何年か前にもやりましたねぇ。あれは楽しかった」
「うむ。最近落ち込んでいるアランも、これに参加すればきっと元気になると思うのじゃ。
レノア、行ってくれるかね?」
「勿論です!早速準備しますね!」
そう言うと、レノアは元気に走りながら戻っていった。
が、途中で何かを蹴飛ばした音がした。
「やっぱり、あの子はちょっと落ち着きが無いのう…」
結局、果物を取りに行く子供は、アランと6人ほどの子供達、それにアポロもいた。
あの事件のせいで、アポロは鼻を中心に、顔に包帯を巻いている。
そんな二人を含めた子供達の前に立ち、レノアは言った。
「みんな、分かってる?今日は、冬を越す為に果物を取りに行きます。
昔の私みたいに、果物そっちのけで遊んだりしちゃ駄目よー?」
アランとアポロを除いた子供達が一様に笑う。
アランも笑いこそしなかったが、その顔はいくらか元気になっていた。
「それじゃ、出発ー!」
そう言って、レノアは子供達の先頭に立って、歩き出した。
今日のレノアは薄い茶色のセーターに、動きやすいようジーンズをはいている。
そして、その首には純白のスカーフが巻かれていた。
アランはレノアの横について歩きながら、恐る恐る口を開いた。
「レノア…その…あの日は…本当に…」
「謝るなら私じゃなくアポロにしなさいね?」
急に言葉を遮られ、アランは思わずレノアに顔を向けた。
レノアは前を見ながら、言葉を続ける。
「アポロだって、あなたに謝ったじゃない」
そう、後日、アポロは院長とレノアの前で、素直にアランに謝っていた。
全て自分のせいだと認めて、ちゃんとアランに頭を下げていたのだ。
ただ、それ以後はアランと話そうとはしなかったが。
「うん…」
アランは俯いたが、彼には素直に謝る勇気が出せなかった。
そんなアランを見て、レノアは言う。
「大丈夫よ。きっと許してくれると思うわ。
アポロは、確かに意地悪だけど、素直な時もあるのよ」
微笑みながら言うレノアを見て、アランは少しばかり元気を取り戻した。
「うん。分かった」
そう言うとアランは、歩みを遅めて、最後尾を歩くアポロの隣に来た。
「あの、アポロ…」
「きゃっ!!」
その時だった。
一羽のカラスが子供達の頭上近くを鳴きながら通り過ぎていった。
何もされはしなかったが、辺りに何枚か黒い羽毛がヒラヒラと舞い散った。
「大丈夫!?」
レノアは即座に、悲鳴を上げた子供の方へ向かう。
その子供は涙目になりながらも、レノアに大丈夫だと小さく言っていた。
その光景を見ながら、アポロは口を開いた。
「で、何だよ?」
出鼻を挫かれたアランは、謝罪の言葉を言い出し辛くなっていた。
「い、いや、何でもない…」
アポロはそんなアランを不機嫌そうに見つめていたが、やがて視線を前に向け、言った。
「そういやぁ……カラスが鳴くと人が死ぬんだってな」
「え…!?」
アポロの言葉とその内容に、この前の様にまた暴力を振られるのかとアランは警戒した。
だが、アポロはレノアが子供を慰めている光景を見たまま、動かなかった。
そして、そのアポロの言葉は妙にアランの心に残った。
「じゃ、皆、二人ずつになって果物を取って来て。
私はここで待ってるから、取れないのがあったら、私に言ってね?
あと、絶対に奥まで行っちゃ駄目よ?迷子になっちゃうから」
森の中の、木々が途切れた広い場所で、子供達に籠を配りながらレノアは言った。
二人組になった子供達は、一斉に森の中へと駆け出す。アランとアポロを除いて。
そのまま立ち尽くすアランとアポロに、レノアは声をかけた。
「ほら、あなた達も」
「え、俺こいつと行くの!?」
驚いた様子でアポロがアランを指差す。
アランはそれを見て少しムッとしたが、先日の件もあるし仕方ないか、と思い直した。
「そりゃ、もうあなた達しか残ってないもの。
アポロ、あなたの方がアランより年上なんだから、しっかり面倒見てあげなさいね?
間違ってもこの前みたいな事はしちゃ駄目よ?」
「…分かった」
あからさまに不愉快そうにアポロはそう答えると森の奥へと歩き出したが、途中で立ち止まって振り向き、アランへ声をかける。
「ほら、早く来いよ」
「う、うん…」
「籠忘れてるわよー?」
レノアの言葉に、慌ててアランは籠を貰いに向かった。
レノアから籠を渡される時、ふとアランの胸に小さな不安が過ぎった。
「…ねぇレノア、ここからいなくなったりしないよね?」
アランの問いに、レノアは顔に疑問の色を浮かべつつ、答える。
「ええ、大丈夫。私はちゃんとここで待ってるわよ?」
「そ、そうだよね。ごめん、変な事言っちゃって」
「おい、早く行くぞ」
苛々したアポロの声に、アランは慌てて彼の方へ向かった。
「さて、あの子達が戻るまで、夕飯のメニューでも考えてようかな…」
近くの岩に腰掛けて、レノアはそう呟きつつ考え始めた。
だが、その考えは夕飯から、いつしかアランとアポロの事にすり代わっていた。
「(流石にあんな事があったんじゃ、アポロもしばらく機嫌は良くならなそうね…
今日のこの活動で仲良くしてくれればいいんだけど…。
あとは、あの時のアランね…何故あんなふうに人が変わっちゃったのかしら。
もしかして…アランの記憶に何か関係が…?)」
考えに没頭しすぎて、レノアは周りが見えなくなっていた。
また事前に院長から、この森が安全であると聞かされていたのも原因だったかもしれない。
だがらレノアは、背後から忍び寄る殺気に気づけなかった。
そして、レノアの耳に唸り声が聞こえた。
「え…何…?」
気づいた時には、もう遅かった。
「やってらんねぇ」
5分ほど辺りを二人で探したところで、アポロはそう言い出した。
「そんな…今日は果物を取る為に来たのに…」
「お前に任せる。これならまだガキの面倒見てる方がいいや。
ここのガキ達はしっかりした奴が多いからな。お前と違って」
そう言い捨てると、アポロはさっさと森の奥の方へと歩いて行った。
一人置き去りにされたアランはアポロの行動をレノアに言おうかとも思ったが、サボるとは言わず子供たちの面倒を見るとアポロは言っていたので、やめておくことにした。
とりあえず、自分一人でも果物を探そうと、アランは森の中を歩く。
「中々見つからないな…」
実の生る木を探そうと上ばかり向いていたのが仇になり、地面の枝にアランはつまづいた。
「う、うわっ!!」
ドサリと、アランの体が地面に転がる。
「い、痛たたた…」
地面に寝たまま、足元に転がった太く長い枝をアランは掴んだ。
「ハハ…踏んだり蹴ったりだな…」
その時だった。
地面の底から、振動音が彼の耳に届いた。
「ん…?」
明らかにただ歩いている様なものではない。何かが激しく動いているような音だ。
「何だろう…」
近い。そうアランは直感した。だが地面から耳を離すと、何も聞こえない。
即座にアランは、来た道を戻り始めた。
「レノアーー!!!」
レノアがいた場所から、そう遠くない距離の筈だ。
記憶に新しい、先程進んできた道を、アランは走った。
「(きっとレノアには何も起こってない。僕の考え過ぎだ。
もうすぐ、もうすぐ着く。レノアはそこで、のんびり待ってる筈だ。
何も、何も起こってる筈無いじゃないか…!!)」
そう思いながら、アランはレノアのいる筈の場所へ走った。
「…レ……ノ………ア…?」
そこにいたのは、大きな獣だった。
全身が真っ黒な毛に覆われた、大きな爪と牙を持つ四足歩行の獣。
それは、以前孤児院にある動物の図鑑で見た、黒豹と呼ばれる獣だった。
だが、その全身は傷ついて血を流し、耳の片方が無くなってすらいる。
しかし、アランにはそんな事はどうでもよかった。
何故なら、その黒豹が口にくわえていたのは……血に塗れているその身体は……
「うわああああぁぁぁぁぁ!!!!」
それは、黒豹にとっては完全に『奇襲』の形であったに違いない。
ようやく獲物を捕えた矢先に、太い枝を持った人間が襲い掛かってきたのだから。
それも、重い獲物を口にくわえていたので、素早く動く事さえできなかった。
「うわああああぁぁぁぁぁ!!!!」
その一撃は、狙い違わず黒豹の頭を打った。
たまらず獲物を口から離し、黒豹はその場を転げ回る。
ようやく立ち上がった時には、胴体に再び一撃が加えられていた。
健康な状態であれば、先の一撃も今のも、そんなにダメージは与えられなかった筈だ。
だが、この黒豹は、傷つき、疲労していた。
それが、黒豹から闘う力を奪っていた。
「よくも、よくもぉぉぉぉ!!!」
黒豹は再び自分に向かってくる人間の姿を見た。
それが、この黒豹が見た最期の光景だった。
黒豹が動かなくなっても、アランは攻撃をやめなかった。
それどころか、その黒豹の頭に何度も枝の先端を突き刺していた。
黒豹の血が、アランの服を、手を、顔を濡らす。
彼が行動を止めたのは、彼女の声からだった。
「ア……ラン……」
その声が耳に入るなり、アランの動きがピタリと止まった。
枝を取り落とし、即座に振り向くと、地面に仰向けに横たわったレノアがいた。
「レノア…!!」
アランは、レノアの元へ駆け出した。
レノアは、虫の息だった。全身が血に濡れ、特に首の辺りは真っ赤だった。
その首に巻かれたスカーフも、最初の白かった部分は全く見えない。
おそらく、黒豹は首を狙ったのだろう。
獣の大半は、獲物が悲鳴を上げない様に喉笛を狙うからだ。
アランも他の子供達も悲鳴を聞かなかったのは、その為だろう。
だが、そのスカーフが僅かながらも首を守ったのだろうか、奇跡的にレノアは、声を発していた。
「アラン…よかった…無事…だった…のね…」
だが、その声は弱弱しく、耳を近づけないと聞こえないくらいにまで小さくなっている。
アランは、早くレノアを助けなければと思った。
だが、どうしても身体が動かなかった。
「レノア…!」
レノアは、苦しそうな顔でアランを見て、言った。
「ごめん…アラン…みん、なに…伝えて、くれる?…手伝え、そうに…ないっ…て…」
しかし、もはやアランは、レノアの言っている事を理解する事すらできなくなっていた。
そんなアランの頬に、弱弱しい手でレノアは優しく触れる。
そして、彼を安心させるように、彼女は微笑み、言った。
「アラン……強く…生きて………みんなを……守れる………よう……な………」
「レノ…ア……」
アランは、ただ死にゆくレノアを見る事しかできなかった。
涙も流れなかった。ただ、その心に空虚な喪失感が広がっていくだけだった。
すぐ傍で聞こえた鳴き声が、アランを我に返らせた。
だが、それも一瞬の話。次に見た光景に、彼は呆然となっていた。
「…え…」
二匹の、猫の様な動物が、黒豹の死体に寄り添っていた。
二匹が黒豹と親子であった事を示すように、その身体は黒い毛で覆われている。
その二匹の子豹は、ただ親の死体にすがり付き、鳴き声とも泣き声ともつかぬ声を、ただずっと上げ続けていた。
「僕が…僕の、せいで…?」
親の黒豹は、その二匹のために傷ついた身体で必死でレノアを殺したのだ。だが、そんな黒豹をアランは殺した。
もはや、あの二匹の子豹に生きていく術は無い。
その事実がじわじわとアランの心に侵食していく。だが、運命は彼を休ませようとはしなかった。
ガサリと、すぐ近くから草を踏む音が聞こえてきた。
「!!」
驚いて顔を上げると、そこにアポロが立っていた。
「お前…何して…」
凄まじい速度で、アランの心に『絶望』が広がっていった。
アランの顔に、恐怖の色が浮かぶ。何か言おうとしたが、言葉は少ししか出てこなかった。
もはや、あの優しかったレノアは、何も言ってはくれない。
「違う……」
アランとは対称的に、アポロの顔は怒りに燃え始めていた。
「やっぱりお前は…俺の時みたいに…レノアを……」
「違う…違うんだ……」
アランの言葉に耳を貸さず、アポロは呟き続けた。
「記憶が無いなんてのも…全部…やっぱりお前は嘘つきだったんだな!!」
アポロの言葉に、アランはもう何も言えなくなっていた。
「この…嘘つきの…人殺しめ!!」
「う…うわぁぁぁ!!」
アランは、その場から逃げ出していた。
「人殺し!!」
アポロの声を背に受け、アランは走り続けた。
もうどこを進んでいるのかさえ、分かっていなかった。
どこまでも果てしなく、アランは走り続けた。
「ええ。ここからでもかすかに見えています。
おそらくあの規模では、私でも巻き込まれれば無事では済まないかと…」
腰まで伸びた緑色の髪を後ろで束ねた長身の女性は、通信機を手にしてそう言った。
「それと…あれのせいで遠方から様々な動物が逃げてきているようです。
ええ…そうですね…早急に見つけださなければ。それと…」
その女性は、海に面した崖の端で、目の前の森を見ながら話している。
だが、その森から一人の子供が走り出てきた。
「っ!?」
子供は前も見ずに走っていた様で、そのまま女性の方まで突進して来た。
そして、女性の傍を駆け抜ける。その先の崖へ向け、一直線に。
しかしながら当然、女性の方もそれを見過ごしはしなかった。少年が崖から落ちる寸前に、その身体に手を伸ばす。
少年の身体は崖から宙吊りとなったが、彼の手を女性はしっかりと掴んでいた。
そして、そんな状態のまま、女性は何事も無いかのように通信機に向かい、話を続ける。
「いえ、小さなアクシデントです。何でもございません」
そして女性は、軽々と少年の身体を引き上げた。既に少年の意識は無いようだ。
女性は少年を抱き上げ、その顔を見た。
「…!!」
すぐに女性は子供を片手で持ち上げ、通信機に話しかけた。
「私たちは運が良かったかもしれません。
ターゲットが私のいる場所に現れました。それも単独で、です」
最終更新:2012年01月21日 23:18