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薄暗い廊下。灰色の壁と、埃。
その雰囲気に些か不快なものを感じながらも、その女性は進んでいた。
胸が高鳴る。
これからの行動に、自分の命運が、そして自分が大切に想っている者の命がかかっているからだ。
長い髪を後ろに纏め、動きやすい格好をしたその女性は、緊張と共に軋む扉を開けた。
「…っ!」
危うく声を発しそうになる。扉の先に、一人の人物がいたからだ。
その人物は、今しがた女性が入ってきた扉の真正面にあるもう一つの扉の横に、椅子を拵えて座っている。
「…ロゴス、こんな所で何をしているのですか?」
自分にも同様の質問をされる事を恐れながらも、彼女は訊かずにはいられなかった。
何故なら、その人物の顔はどことなくやつれている様に見えたからだ。
少なくとも、『古き神々』の軍勢の大部分を統括する立場にある者の顔には見えない。
その人物は少なくとも若いとは言えず、実際髭も生やしてはいたが、いつもならばもっと厳かで威厳のある表情をしていた筈だ。
その人物は、彼女を見上げると答えた。
「お前か。この先にいる者に用でもあるのか?」
「ええ。私達を裏切ったという者がどんな人物なのか、興味がありまして」
用意していた答えを話す。精一杯の無表情で。
しかしその答えにロゴスと言われた人物は俯くと、言った。
「やめておけ。そんな理由では、この先に行く事もできまい」
その言葉の真意を理解しかね、訝しげに思いつつも、女性は別の言葉を紡ぐ。
「…私はてっきり、いつもの様にあなたが情報を引き出している頃かと思ったのですが」
ロゴスは暗い眼で女性を見つめ、やがて言った。
「聞いてみろ」
そして、傍らの扉を開ける。

人間のものとは思えない絶叫が、扉の奥からか細く、しかし決して聞き取れない事は無い程度の音量で、室内に流れてきた。

「な…!!?」
彼女は、危うく膝を落としそうになった。
だが、ロゴスの眼前で迂闊な行動はできない。それを思い出し、かろうじて立ち直る。
しかし内心では、涙を堪えるのに必死になっていた。
「この声が…裏切り、者の?」
声が震えるのを必死に抑える。幸い、ロゴスは扉の奥へ眼を向けていたせいか、彼女の様子の変化に気づきはしなかった様だ。
その扉の奥にはただ深い闇が広がるばかりで、何も見えない。
「ああ。捕らわれてからの3日、ずっと続いている」
「…拷問、ですよね?一体誰がこんな事を?」
ロゴスは扉を閉めると、言った。
「ここから遥か地下にある空間で行われておる。その声が、ここまで届いているのだ」
「答えて下さい。一体誰がこんな事を…!?」
一瞬声を荒げそうになり、内心で慌てつつ声を抑え、彼女はそう言った。
ロゴスはそんな彼女を、眼を細めて見据える。
「…タナトスだ」
「何…ですって…!?」
その名を聞いて、彼女の思考はしばらく停止せざるを得なかった。全く予想外の事だったからだ。
老人は続ける。
「先程、モナドとヒュプノスも様子を見に来た。奴らは中を見に行ったが…一様に気分の悪そうな顔をしていたよ。今のお前の様にな」
ロゴスには、それらの者達と彼女の反応が別種のものだと気づいてはいないらしい。
ロゴスは続けて彼女へと視線を向け、言った。
「儂は立場上、終わるまでここで待っていなければならぬ。お前も、見に行くか?」
ロゴスの言葉は一応彼女の耳には入ったが、彼女は答えを詰まらせた。
今しがた聞いた声が、ずっと頭の中で反響している。
行く、という言葉が、紡げない。
タナトスがいるという現実的事実と、今の凄まじい声の心理的圧迫が、彼女の心を追い詰める。
「…私は…」
行かなければ。そう思う心は強かった。しかし、今はもう。
「私、は…」
遂に彼女は、その心と、目の前の扉に背を向けた。

『裏切者』が獄死したと知らされたのは、それから二日後の事だった。



最終更新:2012年01月21日 23:48