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クロウとシリウス。
互いが各々の構えを取り、そのまま動かない。
辺りは誰もいないが、静まり返っているわけではなかった。
先程クロウが遭遇した、テスタメントとベテルギウスの戦闘。その振動が、この部屋にも時折響いている。
この部屋は広く、天井も高い。まるで巨大なリーバードが暴れる事を想定しているかのような広さだ。
だが、特別頑丈というわけでもないらしい。時折響く振動により、天井から破片が降ってくる事があった。
そして、一際大きな破片が、床に落ちて甲高い音を立てた。

凄まじい集中。
それが、破片の砕ける音と共に発散される。
同時に両者は足を一歩前に踏み出し、そのまま走り出した。
刀と剣。二つの刃が、部屋の中央でぶつかり合う。

衝撃が腕に伝わる。刃同士が互いの身体に接触する事無く、離れた。
クロウは間髪入れずに刃を返し、再びシリウスに斬撃を繰り出す。
シリウスも同じく、二撃目を繰り出した。
再び甲高い音が鳴り、刃同士が触れては離れる。
クロウは二撃目にしてこれでは埒が明かないと早々に判断すると、刃の勢いを殺さぬまま回転しつつ、遠心力も上乗せした一撃をシリウスに見舞おうとした。
だが、考える事は相手も同じだったらしい。振り向いたクロウの視界には、自分とほぼ同じタイミングで回転しつつこちらに目を向けるシリウスの姿があった。
二つの円。その軌跡をなぞるように、黒いスカーフと白いマントが翻っていく。
そして、一際甲高い音が鳴り響いた。
今度は一撃目や二撃目とは比べ物にならない衝撃が、腕だけでなくクロウの身体に伝わってきた。
それを感じ、地面を蹴って後ろに下がる。
シリウスも同じく後方へ着地すると、言った。
「得物を変えてから随分腕を上げたようだな。少なくとも、ミストよりは手ごたえがありそうだ。なら遊びはもう、これぐらいで十分…だろ?」
そう言うと、シリウスは首元を覆う布に手をかけ、フードの付いたマントを脱ぎ捨てた。

クロウもシリウスの行動に応じ、ヘルメットを外してその場に置く。
視界をクリアにする為だ。シリウスとは違い、クロウはスカーフは脱がなかった。
「さぁ…いくぞ!!」
言葉と共に、シリウスは跳躍する。
そして、空中から斬撃を繰り出した。
跳躍した時点でそれを見越したクロウは、紙一重でそれを避け、上段から刀を振り下ろす。
だが、シリウスもそれを読んでいた。着地と共に繰り出した斬撃から、間髪入れずに切り上げを行ったのだ。
両刃である剣だったからこそできた芸当。もしシリウスが持っていたのが片刃の刀ならば、刃を返す一動作が加わり、その前にクロウの攻撃を食らっていただろう。
そして、鍔迫り合いが起こる。だが、上段から振り抜いたクロウに対して、下段から斬り上げを行ったシリウスは体勢的に力を入れ難い。
だが、退こうにも刃は下方向に力を入れられている為、退くならば剣を捨てる他は無い。無論、剣を捨てればシリウスに勝ち目は無い。
だが、クロウは経験から、こんな簡単にシリウスが自身の敗北を許す筈が無いとも感じていた。
そしてその予想通り、次の瞬間シリウスがクロウの刀を持つ腕を蹴り上げた。
ギリギリで届いた蹴り。剣の方に力を入れていたためかそれほどの威力は出されてはいなかったが、それでも一瞬クロウの剣圧を緩ませる効果はあった。
そしてそれと同時にシリウスは剣を引いた。クロウの刀が、地面に叩きつけられる。
その瞬間、クロウは胸中にヒヤリとしたものを感じた。大きな隙ができてしまったからだ。そして、クロウの知るシリウスはそれを逃さない。
「早いが…幕引きだっ!!」
今度は、大きく剣を振り回してシリウスが上段から、クロウの頭目掛けて剣を振った。
時間的には一瞬だったが、そのシリウスの動きがクロウにはスローモーションに思える。
だがここにきて、クロウは咄嗟に最善の防御を行った。シリウスの行動を予測し、事前に考えていた手ではない。
クロウの本能が、自動的に身体にそういう行動をさせたのだった。

「っ…!」
クロウは、刀の柄の先端にある金属部分で、シリウスの刃を受け止めていた。
「まだまだこれからだぞ、シリウス…!!」

「…そう、かよっ!!」
次の瞬間、シリウスはクロウの脇腹に向かって回し蹴りを繰り出した。柄で防御しているため、刀も使えない体勢であるのを見越した攻撃だ。
だからこそ、クロウも片足を上げ、蹴りを防御した。
衝撃と共に、シリウスはクロウから離れる。
だが、今度はクロウの方がシリウスに向かっていった。
シリウスの間合いのギリギリ外側で身体を回転させ、横からの薙ぎ払いを繰り出す。
だが間合いのギリギリ外で身体を回転させたため、シリウスにもその攻撃は読めた。クロウの刀に合わせ、反対方向から剣を振る。
何度目かの甲高い金属音が室内に響いた。

「がはっ!!?」
だが次の瞬間、シリウスの胴体にクロウの踵がめり込んでいた。
剣と刀の接触。それ自体は一瞬で済んだが、クロウはそのまま再び身体を回転させていた。
それを隙と判断したシリウスは、振り切った剣を反転させてクロウに攻撃しようとしたのだが。
クロウは、身体を回転させると共に後ろ回し蹴りを繰り出していた。
衝撃に、シリウスの口から血が吐き出された。
そのまま吹っ飛ばされ、数メートル後ろに着地する。

口元の血を片手の甲で拭うと、シリウスは楽しそうな笑みを浮かべた。
「ミストと同程度かと思っていたが、随分やるじゃないか。嬉しいぞミラージュ!」
クロウは無言でシリウスを睨む。
シリウスの言葉は続いた。
「それでこそ俺を殺した奴だ、なっ!!」
言うが早いが、シリウスはクロウに向かって突っ込んだ。
今度はシリウスの方が、素早く身体を回転させる。
だがそれを見て取ったクロウも、シリウスに合わせて身体を回転させた。
互いに繰り出したのは、刀と剣ではなかった。
後ろ回し蹴り。先程シリウスが一撃加えられた技を、お互いに繰り出していた。
叩きつけられる踵。その衝撃で、両者の身体が逆方向に回転する。
そして、今度こそ遠心力を上乗せされた二つの刃が、ぶつかり合った。

刃と刃が擦れ合い、火花を散らす。
それも一瞬の事で、刃が離れた瞬間に今度は両者の蹴りが互いの胴にぶつかった。
相手よりも速く攻撃する。それを優先した結果、双方同時に攻撃を食らった形だった。
「ぐっ…」
「く…あぁっ!!」
衝撃で一瞬、互いの身体が離れるが、両者ともそのまま退くのを良しとしなかった。
シリウスの回し蹴りをクロウが腕で防御し、正面に繰り出されたクロウの蹴りをシリウスが屈んで回避する。
そして次の瞬間、クロウもシリウスも振りかぶっていた刃を振った。
クロウは上段から面を取る格好で。シリウスは下段から大きく斬り上げるように。偶然にも、先程の鍔迫り合いと両者とも同じ姿勢だった。
だが、今度はシリウスの方が威力が勝っていたようだ。クロウの刃を押し切り、そのまま上まで剣と刀が持ち上げられる。
これは刀と剣、二つのうち剣の方が刀身に重みがあった事と、先程の鍔迫り合いで下段の不利を意識し、無理をしてでも勢いよく振ったシリウスの心構えからきていた。
斬り上げられた際に、クロウの胴体のアーマーにシリウスの剣が接触し、火花が散る。
まずいと判断しようにも、退くには時間が足りない。そう理解したクロウの眼が見開き、歯を食いしばった。
そして次の瞬間、シリウスの剣が振り下ろされ、クロウの身体を大きく斬り裂いた。

クロウの口から、血が噴出する。
衝撃で、刀を握っていた手が下ろされる。
一瞬笑みを浮かびかけたシリウスだったが、その顔は突如、驚愕へと変わった。
クロウの眼は、未だシリウスを睨みつけていたのだ。
「(馬鹿な…!!)」
クロウの身体は、斬撃のダメージに血を噴出していたが、それでも退いてはいない。
そして、その手は刀を放してはいなかった。
そこまで把握して、シリウスは己の身体が大きく刃を振り抜いた後で、体勢を立て直すのに時間がかかることに気づく。
「(しまっ…!!)」
クロウが刀を両手に持ち、斬りかかる光景が、スローモーションでシリウスの眼前に広がった。
そして、シリウスはクロウの刃に斬り裂かれた。

左腰から右肩にかけての斬撃。
鮮血が飛び散り、シリウスは、後ろへよろめくように身体を退いた。
だが膝はつかない。
その顔は闘争心を漲らせた笑みを浮かべ、実に楽しそうだった。
「肉を切らせて骨を絶つか…予想外だったぞ…!!」
対するクロウも、シリウスから受けた斬撃は決して浅いものではない。
斬られたシリウスを追撃できなかったくらい、流れる血が体力を奪っているのだ。
クロウもシリウスも、次が最後になるだろう事は悟っていた。

「シリウス、聞きたい事がある」
傷口を押さえつつも、クロウは口を開く。
「ん?何だ突然」
戦いに水を差されたとでも言うように、煩わしそうな声でシリウスはそう言った。
クロウはそんなシリウスを睨み、言った。
「古き神々はどうやって…ディエスが裏切っていた事を知った」
シリウスの表情から、それまで浮かべていた笑みが消えた。
「俺が言わなくとも予想は付いている…違うか?」
クロウはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「俺が彼らに協力した途端にこの騒ぎだ。気づかない方がどうかしている。
俺を監視し、そこからディエス達に辿り着いたか」
今度は、シリウスの方がしばらく黙る。しかしその表情は、不快そうだった。
やがて、彼は言った。
「大外れだ」
「何…!?」
訝しげなクロウの反応など意に介さないとでも言うように、シリウスは言葉を続ける。
「だが、監視してるって点は当たってる。正直、これについてだけは、お前に失望してるぞミラージュ」
「…?」
次に紡がれたシリウスの言葉に、クロウは内心で驚愕せざるを得なくなった。
「監視者はお前のすぐ近くにいるというのに、お前は全く気づかないんだからな」
しばらく、クロウの思考はシリウスの言った言葉に支配された。
「(何を言ってる…!?俺の動揺を誘ってるのか?いや、表情にそんな雰囲気は感じられない。だが、奴の言ってる事が本当なら、監視者とは…!?)」

シリウスは、そんなクロウを一頻り眺めた後、言った。
「だが俺もお前も、今更そんな事を気にする余裕は無い。違うか!?」
最後には声を上げたシリウス。そんな彼の様子に、クロウは監視者の事よりもこの闘いに精神を集中するべきだと思い直した。
「ああ、確かに無いな…!!」
鋭さを増した剣気をシリウスに向けるクロウ。
対して、シリウスの顔にも獰猛な笑みが戻ってきた。
互いに負った傷は重い。最後の対峙が、近づいてきていた。
「だったらこれで…」
「ああ、幕引きだ…!!」

テスタメントとベテルギウスの闘いはどうなったのか。今ここにいるクロウとシリウスには見当も付かない。
ただ、いつ頃からか振動は起こらなくなっていた。
しかし、どちらともこの部屋に来ていない事は確かである。
クロウとシリウスは互いに構えたまま、微動だにしなかった。
二人とも精神を集中し、機会を待っている。
ピンと張り詰めるような空気が、室内を支配している。
額や米神から、汗が流れ落ちた。
そして、その緊張の糸が、切れる時がやってきた。

天井からまたも破片が、床に落ちて割れる。
それを契機に、両者は走り出した。
互いに、一度鞘に収めた刀と剣を引き抜きながら。
「うおおおおぉぉぉぉぉ!!!」
「はああああぁぁぁぁぁ!!!」
そして、まさに二つの刃が接触するかと思われた時。
両者ともに予想もしなかった事態が起きた。


天井から降ってきた破片が、シリウスの額を直撃した。


「がっ…!!?」
「な…」

シリウスの額からは血が噴出し、そのまま彼の身体が前のめりに倒れる。
破片は拳よりも大きめで、額を割るくらいの威力はありそうなものだった。
それがシリウスの額に直撃し、砕けさえしたのだ。
クロウはそのまま、倒れたシリウスの首筋に、刃を突きつけていた。
クロウ自身が意図した行動ではなく、身体が勝手にそう動いていた。
その表情と胸中は、驚愕と困惑に満ちている。
そんなクロウの様子を知ってから知らずか、血塗れの顔でうつ伏せに倒れたまま、シリウスは言った。
「俺も…ヤキが回ったか。最後の最後で…天に見放されるとは。
ただの粛清官が古き神々を名乗った報い、という奴か…」
そこで一拍の間を置き、シリウスは言った。
「お前の勝ちだ。さあ、殺せ」

クロウは混乱しながらも、考え続けていた。
その思考は、こんな終わり方で本当にいいのか、という事。
「(これで、いいのか?いや…答えなど分かってる。殺すべきだ。殺さないと。
ディエスの命がかかってる。古き神々は、もうすぐそこまで侵攻しているんだ。
何より、こいつはミストを殺した。プリズナの町でクラウスが死んだ原因の一端もこいつにある…だから、ここでケリをつけなくては…!!)」
しかし、クロウの手は動かない。
その手が自分の本心だと気づくのに、さして時間はかからなかった。
「(いや…いいや、違う…!こんな決着、俺は望んでなどいない…!
断じて…こんな決着の仕方で、いい筈が無い!!)」
クロウは、ゆっくり刀を鞘に納めた。
シリウスが、問うような眼でクロウを見上げる。
クロウは、今自分がどんな表情をしているのか、見当も付かなかった。
「お前との…お前との決着は後だ…」
そして、クロウはシリウスに背を向け、歩き出した。
本心に従った。その筈なのに、クロウの心は虚ろだ。
理由は分かっている。本心には従ったが、理性では決定的に間違った事をしているのだと分かっているからだ。
後悔に近い焦燥とでも言うべきものがクロウの心を鷲掴む。彼は虚ろな表情で進んだ。

その時だった。
クロウの身体を衝撃が襲った。
大きくも無いが、軽いとも言えない衝撃。
一瞬、吹っ飛ばされたかと思ったクロウだが、その身体は微動だにしていない。
だが、何か変だ。原因は分からないが、とにかく違和感を感じる。
まるで視覚以外の五感が麻痺してしまったかのようだ。
ふと、視線を下に向ける。

銀色の刃が、自分の胸から突き出ていた。

「あ…ぁ…!」
言葉が出ない。
そこで初めて、自分が今呼吸すらできていない事を知った。
銀色の刃を掴む事もできない。
その耳に突如、声が響いた。

「それは…それは侮辱だ…侮辱だぞ…!!」

シリウスの声。その声は、僅かに震えていた。
その声に如何なる感情が込められているか、今のクロウにはそれも理解できなかった。
彼はただ、信じられないような目で、自分を貫いている銀色の刃を見つめている。
銀色の刃―シリウスの剣は、クロウの背中から心臓を貫き、胸骨、皮膚、そしてアーマーを貫いてクロウの胸から突き出ていた。
答えぬクロウに、遂に業を煮やしたか、シリウスは――

「ミラアアアアアアアジュゥゥゥゥゥゥウウウウウウウ!!!!!」

絶叫と共に剣が引き抜かれた。
夥しい血がクロウの胸と背中から噴出し、床を、シリウスを濡らす。
灰色の床に赤く紅く、大きな斑点ができた。
クロウは何もできぬまま、その中央に倒れる。
その眼はシリウスに向ける事もできぬまま、ただただ虚空を見つめていた。
そして、クロウ・エリュシオンはその生を終えた。




どれほど時が経ったのか。正確な事は分からない。
とにかく、クロウ・エリュシオンは息を吹き返した。
「ゲホッ、ゴホッ…」
頭を横に向け、胃液を吐き出す。しばらく、呼吸するのに精一杯だった。
やがて両手を床に着き、起き上がろうとしたが、恐ろしく身体が重い。
何故自分がこんな状態なのか。意識を失う前に何があったのか。思い出すのにも相当の時間がかかったようにクロウは感じる。
とにかく、上体を起こして傍の壁にもたせかけ、やっとクロウは意識を失う前のことを思い出していた。
「(俺は…ロードに殺された筈だ…)」
視界が霞む。目の前の光景を把握する事もできない。
片手の甲で口元を拭きながら、何故自分が息を吹き返したのか、考えた。
シリウスに貫かれた筈の胸を探るが、一部が砕け、大きくヒビの入ったアーマーの内側の皮膚は塞がっていた。傷跡はあるかもしれないが、視界がぼやけているせいで確認する事もできない。
何故塞がっているのか。それを考えた時、自分が息を吹き返した理由に思い当たった。
「(そうだ…確か、致命傷を食らった時とノアは言っていた…)」
ノアが作成し、アーマーに仕込んだ治療用のナノマシン。それしか原因は思いつかない。
しかし、もしそうだと仮定した場合、クロウはそのナノマシンの効果に末恐ろしいものを感じざるを得なかった。
心臓すら粉砕され、自分は一度死んだのだ。なのにこうして生きており、胸に手を当てればちゃんと心臓の鼓動も感じる事ができる。
これでは『治療』というより『再生』とか『蘇生』といった言葉がしっくりくるだろう。
そこまで考えた所で、今自分の状況はそんなに余裕が無かったような気がするのをクロウは感じた。
「(そうだ…ディエスは…)」
視界のぼやけは未だ取れる様子はない。おそらく、傷が治療されたものの、血を流し過ぎたのだろう。
視界だけでもこれなのだから、動くのは相当に難しいのだとクロウは推測する。
「(だが、それでも…!!)」
クロウは、立ち上がろうとして体勢を崩し、その場に倒れ込んだ。

しかし、倒れても、また倒れても、クロウはもがき続ける。
ようやく片手を傍の壁につけ、体勢を安定させる事ができた。
安堵と共に、ある事に気づく。ロードに殺された時、自分の傍には壁など無かった筈だ。
「(分からない事だらけだ…!!)」
とにかく、霞む視界でクロウは部屋の先へ進んでいった。
進む先が遺跡の奥なのか、それとも地上へ向かう道なのか。それすらも分からない。
地上へ向かう道だとしたら、敵に見つかるだろう。今のクロウには対処の術は無い。
その場で殺されるか、捕虜となって拷問されるかだ。
それでも、今のクロウには進むしかなかった。
やがて扉に辿り着き、開ける。その先には大きな廊下が広がっていた。

壁に手をついてゆっくり進み続ける。何度か体力が限界を迎え、その場に膝をついて荒くなった呼吸を整えるのに時間を要した。
そうしてようやく、突き当りの扉まで辿り着く事ができた。
視界もまだ一部がぼやけているが、最初の頃よりは大分マシだ。
クロウは扉を開けた。
その先は、暗い部屋だった。廊下の照明が室内に流れ込む。
そのせいでその光景を、クロウは見てしまった。
「あ…あぁ…」
彼の膝が、その場に落ちる。
目の前の現実に、彼は頭を抱えざるを得なかった。

「ああああああぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」

嗚咽混じりの絶叫が、空しく室内に響く。

マザー・ディエスは死んでいた。

血だまりの中に、うつ伏せの状態で。

その両腕は何かを求めるように、前に突き出され。

その顔は、その表情は、クロウ・エリュシオンにとって幸だったか不幸だったか、長い髪の毛に隠されて見えなかった。
クロウはこれを、一生忘れる事は無いだろう。絶叫しながらも、その眼は一瞬たりとも、その光景から放せなかったのだから。

背後にロックマン・テスタメントが立っている事など、全く気づかない程に。


最終更新:2012年01月21日 23:57