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羊は眠る(つづき)

 柵の向こうの羊が夢を運んでくる。
我々人造人間たちの間に、古くから囁かれつづけている迷信である。
いつ、誰が言い始めたかも知れない話だ。
私はこれを何時の間にか知っていた。
まだ私が電羊舎で学びを受けていた頃のことだった。
電羊舎の祈りの間で、同級の狂った羊がスクラップ送りにされる寸前に、壮絶な声音で叫んだあの言葉を、私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
羊に祈りの時間を与えるなど今思えば相当妙な話だが、その頃は当然のように私も参加させられていた。静謐な祈りの間で皆が目を閉じ黙祷を捧げる。そんな日常の中でたった一度起こった異変だった。
瞼の中の暗闇で、突然背後の扉が開いた音がして、数人分の靴音が入ってくる。それはある一角に集中し、そこにいた羊を引きたてた。抵抗して騒がしく何度も転びながら、ひとりの羊が前に出る。気配に気づいた私が目を開いた時、彼はたくさんの蝋燭が立てられた祭壇の前に跪いていた。
番ナシの羊がもうすぐ僕に夢を見せに来るんだから、離せ、触れるな、羊を待っているんだ、ああ早く来てください僕はもう疲れたんです、夢を見て眠りたい…
彼はそのまま祈り続けることは出来なかった。
狂った羊は忽然と現れた役人達によって口を塞がれ連れていかれ、それから二度と戻ってこなかった。スクラップ確実だな、アイツ馬鹿だよ、そんな声が囁かれて、そしてそれは終わった。
私たちはまたそれまでの日常へと戻った。
番ナシが夢を見せてくれるという話は、とにかくそんな感じに当然のごとく知られており、しかし誰も見たものはいなかった。しかし誰もが知っていた。電羊者の書庫にも、通信端末上のデータにも、番ナシの情報は一切なかった。それにも関わらず、我々の間に暗黙の了解として横たわる番ナシ。
『羊に夢を見せてくれるよ』
迷信だったはずの番ナシが、今は私の目の前で待ち構えているのかと思うとぞっとした。

 搬入口に行くと、丁度トラックが来たところで、ユウ君が対応していた。
今日は三人で行う予定だったため、ここには妹尾を除けば彼と私しかいない。
つまり、番ナシを持ち去ることが出来る人物は彼しかいないことになる。
私が近寄って行くと、ユウ君はあぁあんた仕事はどうしたんだよ、なんかあったのかと訊いてくるので、首を振ってちょっといいかな、と尋ねた。
良いわけねぇだろ、忙しいんだよと言った彼に、別段普段と変わった様子は見受けられない。
これはどうしたことだろうと思った。そして念のために確認する。
彼の言い分では、今日はずっと搬入口とαブロックのコンベアーを行き来していたと言う。αブロックとυブロックはコンベアー二十本分離れており、そこを行き来するには妹尾が作業していたσ(sigma)ブロックを通らなければならない。妹尾は番ナシを見つけて慌てていたのだから周りの様子には敏感になっていただろう。当然、誰かが通るのを見たならば気づくはずだ。
つまり、やはりユウ君が番ナシを持ち出すことは不可能という事になる。
私は背中の辺りがざわざわするような感覚に苛立った。ユウ君ができないとなると、もう答えは一つしかないではないか。
顔色悪いぞ、つうかアンタ結局何の用だったんだよと彼なりに心配してくれたのだろうが、私はとても冷静にいられそうになかった。そそくさと何でもないんだ、邪魔して悪かったねとだけ言って、逃げるように立ち去った。
誰にも持ち去られていない?
それならば、番ナシ自身が勝手にいなくなってしまったとしか考えられないではないか。

 私は急いで事務所へ戻り、自分のPCを起動させた。
こんな時だというのに所長はいない。
キーボードを限界まで速く叩き、セキュリティー管制情報へと繋げた。
工場に設置されたカメラの映像を呼び出して再生し、υブロックのところだけ拡大表示させた。
約四十分前のところから見始めると、三分ほどで、画面に妹尾が姿を現した。空色の繋ぎ姿で、その様子は完全に挙動不審である。抱えていたのは黒髪の羊。毛布に包まれているため顔、体は見えないが、おそらく少女型だ。
これが番ナシか。
私はその呆気なさに目を瞬かせた。
これでは羊に紛れていても分からないはずである。
その後妹尾がベルトコンベアーの下に、確かに隠してから去り、そのまま時が止まったかのように画面は静止した。ベルトコンベアーさえなければ動いていることを忘れそうな画像が続く。
そして私は見てしまった。
おもむろに番ナシの口が開いた。
そしてそれが何事かを呟くように動く。
始めは画像が一瞬ぶれただけだった。私はそれよりも番ナシの口元に気を取られていた。
すると次の瞬間画像が大きく揺れた。明らかな障害だ。驚いて立ち上がり椅子を倒してしまったが、そんなことには構っていられなかった。
キーボードを操作しようとするが、何を入力しても変化は見られない。私は思いつく限りのことを試し、それが尽きてしまうと呆然として画面を見つめた。
音声は酷い雑音が支配し、揺れる画面にはかろうじて番ナシがいることが確認出来る。そのことに気づいて少しだけ安堵した。
その時である。
一瞬だけ画面の揺れがスッと収まり、そして映った番ナシは、毛布から顔を出していて、その目をゆっくりと開いた。
ゆっくりと言うのは語弊があるかもしれない。しかしそう思うほど、私の中では時間が完全に静止して、画面が番ナシをスローモーションで鮮明に映し出した。
そしてその目が開ききった途端、番ナシの口がまた開いて画面はまたもとの酷い波によって割れ、まったく何も分からなくなってしまった。

 制御不能に陥ったPCは、結局使い物にならなくなり、スクラップが決定した。ロッカーのような事態は避けたかった。無事に申請が受理されることを祈ってから所長のデスクの上にその旨を書いたメモを置き、私は自宅に戻ることにする。
一週間分の疲れを背負って重い足を引き摺るように夢見荘へ続く渡り廊下を進み、自分の部屋に着いてすぐ、シャワーも浴びずにベッドに突っ伏した。その時になってようやく自分がつなぎのまま着替え忘れていることに気づいた。しかしそれ以上の考えをめぐらせる間もなく、私は泥のような眠りに沈んだ。
目が覚めるともう朝になっていた。暗い部屋に、東から朝日が差し込んでいた。
ブラインドを閉めてから、シャワーを浴びる。
私は前日のことを思い出しながら、それら全てが夢だったらと思わずにはいられなかった。
郵便受けを除くと、昨日注文していた茶葉が届いていたので早速いれてみる。
時間をかけて物色した割にはそれほど美味しいとは思えず、気分は晴れなかった。
昨日はつなぎを着替えずに帰ってきてしまったため、それを着、仕事に向かうことになった。
今日は朝から一日中仕事の予定である。
しかしそれはあくまで昨日までの予定であり、今は番ナシをどうにかするまで役目が終わらないことは分かりきっていた。
そしてそれを良く理解している私の口からは、溜息が知らず知らずのうちに漏れ出してしまうのだった。

 私が事務所へ入ると、所長が昨日と同じように、番ナシのことなど忘れた顔で暢気にPCに向かっていた。
おはようと挨拶してから、機嫌が悪そうだとこちらの気も知らない風に付け足してくる。その様がまた憎たらしい。
私はそれに半眼でうめくように返したあと、タイムカードに出勤の記録をつけに行った。そうしてからカードを見て、ようやく昨日はカードに退所記録を付け忘れていたことを思いだした。気分が余計に傾いた。今日もそうなってしまうのだろうか。
しかも今日は不運なことに、午前の仕事は私一人である。
暗澹たる気持ちでカードを自分の棚に入れて背を向ける。
と、その時何故だか妙に気になって、私はまたその棚を振り返った。
ここのタイムカードの付け方はかなり旧式で、わざわざ自分で記録しなければならない。
自分用のカードがあり、それを専用の機械に差し込んで「出勤」または「退所」レバーを押すと、カードに出勤か退所、日付と時刻が記録される仕組みなのだ。カードは専用の棚に入れておく。
私が妹尾とユウ君のカードを見ると、それはどちらも最後の記録が昨日出勤となっている。
私は記憶を探り、嫌な予感に後押しされてデスクに向かった。
幸い壊れたPCは新しい物にとりかえられていた。それの電源を入れて立ち上げてから、今月の時間受持ちスケジュールを呼び出した。
やはりそうか。
私の嫌な予感は、的中してしまった。
予定によると、今日は私の記憶通り妹尾とユウ君の仕事はなかった。
つまり、今日は来るはずがないのだ。しかしカードでは出勤中となっている。だから二人は昨日から帰っていないことになる。仕事がないのだから昨日から徹夜でやっているなんてこともない。
私はそれを確信すると、念のため仮眠室を覗いてからすぐさま所長に報告した。所長がこれに気づいているとは到底思えない。仮眠室には当然誰もいなかった。
私の話を聞いた所長は、すぐさま彼らの部屋の出入記録を調べた。それが出来るは所長だけだ。
案の定、それらは彼らが昨日の朝部屋を出て行ったきり戻っていないことを示していた。
その時になって初めて、所長は考えるように顎に手を当てた。うーんと考えているのか振りをしているのか分からない、惚けた声を上げる。
そしてすぐに手を離すと、とりあえず工場に行くしかなさそうだね、と暢気ではなくなったが、それでも穏やかな声で言った。
私は異論もなく、所長の後に従って工場へ向かった。

 工場に行くと、そこは相変わらずベルトコンベアーが音を立てて作動しており、一見いつもと何ら変わったところがない。
しかしここに番ナシがいるのならば、それらはまったく逆転してしまう。
私たちは入口にしばし無言で立ち尽くし、所長がじゃぁ二手に分かれて探そうと促すまで、微動だにしなかった。
北を上として、この長方形型の工場を地図のように考えると、唯一我々が通ることの出来る事務所からの入口はちょうど右下(南東)の角、右(東)側の壁にある。
所長は西方向から、私は北方向から迂回するようにした。ベルトコンベアーは南北方向の縦に二十四本並んでいるため、その方法をとればコンベアーの間と側面を両方見回ることが出来る。そして私たちは丁度向こう側の角で落ち合えるという寸法だ。
そこには、最終的に羊の落ちる穴が穿たれている。
私はそこの区画にはあまり行ったことがない。穴を外側から囲むような狭い通路ですることなどないし、その通路自体が必要性の無いものだ。そのうえ壁の向こう側では同胞が破壊プログラムによって死んでいるというのだから、好んで近寄ろうとも思わなかった。
北に向かって、最小限の明かりしかない通路をベルトコンベアーの動きに並んで歩く。
横を羊が次々に、山積みで絶えず流れ去ってゆく。昨日の担当であった二人が消えてしまったために、どこかで滑って落ちたとしても拾うものなどいない。
早く二人を探し出して仕事を再開しなければ、このまま拾い上げられない羊が腐敗し始めているだろう。
流れを横目で見つつ、私は少しだけ足を速めた。
そうやってしばらく無言でつき進み、丁度コンベアーの七分目まで差し掛かったときだったろうか、ようやく暗がりに誰かが倒れ蹲っているのが見えた。

 そこにいたのは妹尾だった。
私は慌てて駆け寄り、側にしゃがんで肩を揺らした。反応はない。
とっさに呼吸を確認すると、微かながら息があった。まるで眠っているような、穏やかに周期の長い呼吸である。
それならばと私は名前を呼びつつ何度も揺すったが、妹尾の目は開かなかった。頬を叩いても、耳元で大声を出しても何も返ってはこない。
手探りで調べたところ、外傷も見当たらなかった。
興奮が冷てきて、落ち着いて眺めると、妹尾の顔は頬のところだけ私によって叩かれたせいで赤くなってはいたものの、概ね青褪めている程度だ。
眼球の動きからも、妹尾が眠っていることは分かった。
しかし目を覚まさないということは、かなり深い眠りに落ちてるのだろう。
その表情は、これまでに見た中で一番穏やかそうだった。
どうすることもできない私は、妹尾を背負って先を行くしかなかった。
羊をコンベアーに乗せる要領で妹尾を抱え上げ、前に足を踏み出した。

 所長は既に、事務所からの入口の対称角にあたるω(omega)ブロックの一番左端の角で待っていた。
その彼も私と同じように、所長より一回り大きいユウ君を担いでいた。しかし息切れもしていないところを見ると、余程前に着いたのか、見かけ以上の馬鹿力の持ち主かである。
所長は普段力仕事などしない。私は頭脳派だからとか言って、一日中PCの前に座っている。羊は元々強化繊維で造られているから力が強い。だからこそエン君のような雌にもこの仕事をこなすことが出来るのだ。
しかし所長は大分前に造られたから、部品も磨耗している。特に視神経糸が消耗しているらしく、新しいものに取りかえると金が掛かるため眼鏡をかけているくらいだ。それなのに今は平気そうにユウ君を抱えてきたというのだから、やはりこいつは厄介だ。
やっと来たかといった感じに座り込んでこちらを見上げる所長に、一応遅れてすみませんと断る。彼は当然のごとくそれを受け止め、立ち上がってユウ君を担ぎなおした。
その動きはスムーズだ。
私たちはひとりずつ担いで所長が来たほうをたどって事務所に戻ることにした。
事務所のソファーに二人を寝かせると、ボキボキ肩を鳴らせる私に所長が余裕のていで運動不足かと言ってくる。
馬鹿力め。
余計なお世話だと言いたかったが、そこはそれ、上司には死を覚悟しない限り言えやしない。
ソファーのふたりは、変わらず昏々と眠りつづけている。
滅多に吸わないタバコをくゆらせながら、所長が番ナシか、と呟いた。
私は愕然とした。
考えるまでもなく、この状況に番ナシが関わっていることは確実だった。
責任は、任された私にある。
『羊に夢を見せてくれるよ』
迷信が私の頭を駆け抜けた。
恐る恐る見下ろした先では、同僚である妹尾とユウ君が横たわっている。
その顔は白さを増して、もう二度と目覚めそうに見えなかった。
まんじりともせずに、さっき呟いたまま黙してタバコをぷかぷか吸いつづける所長を見つめる。
私は恐恐としながら、次に訪れるであろう宣告を待った。

 所長はおもむろに煙草から口を離して言った。
番ナシはまだ工場にいるね。
その時責任をとらされるとばかり思っていた私は、当然ながら拍子抜けした。
そしてその言葉を受けとめ、意味を吟味してみる。
ここの分別工場は、二重にロックされている。
二枚のうち事務所側の扉は、仕事が終わると固く錠前が掛けられ、その鍵は事務所にあるものと所長の持つスペアの二つだけだ。
しかし昨日は私が常より早めに切り上げて帰ったために、それは開いていたことになる。
では工場側の扉はどうかというと、これは自動的に開閉される代物で、しかもその開閉の度に鍵が掛かり、開く。扉は誰にでも反応しない。我々塚守だけの製造番号が登録されており、その製造番号を認証したときにだけ扉は開く仕組みになっているのだ。
そして、これにはまだおまけが付いている。
製造番号は、確認される際にその脳波を測定され、意識を保っていると分かってからようやく扉は開く。
つまり、この扉は昨日私が工場を出てから開いてはいなかったということになる。(この場合、他の同僚が開いて連れ去った可能性もある。しかしこれは、昨日出勤していなかったものには番ナシの存在を知ることができないという理由によって、可能性はないと言えるだろう)
だから、これらが示していることは明白だ。
番ナシはまだ、工場の中にいる。
こう所長に遅れて確信した私は、しかしまだスクラップを宣告されないのに疑問を覚えた。
こんなへまを犯した羊を生かしておくなど、普通は考えられない。
するとまた、所長が前振りなしで口を開いて言った。
番ナシは君に任せるといったよね?
今度はその言葉の意味を瞬時に、そしておそらく正確に理解した私は、今度こそ本気で逃げ出したくなった。
つまり、彼の言わんとするところはこうだ。
番ナシを君がどうにかしなさい。
意味が頭に浮かんだ一瞬、私の蝶器が暗転した。

 番ナシがまだ工場にいることだけは分かり、いなくなっていたふたりも見つけ出せたので、所長は一時自宅に帰るように言った。
しかし工場は相変わらずその機能を失ってはいない。
こんな事態が起こっても、世界では変わらず羊が捨てられつづけていて、ここに絶えず送られてきているのだ。今、工場を休ませれば、大量の羊が野外に放置されたまま腐敗していくだろう。
私と所長は手分けして、非番の同僚たちにメッセージを送った。と言っても、目覚めない二人と我々を除けば塚守はあと三人しかいない。
私はエン君と海老彦(ebihiko)君に、所長がコオロギ君にそれぞれあたった。
午後三時に工場へ緊急召集するという旨を通信端末で送る。
番ナシのことを伏せたのはしょうがないことだろう。説明するのは後からでも遅くない。
何故なら番ナシはまだ工場にいるのだから。
そしてきっと焦る我々を悠然と待ちうけているのだろう。

 私は部屋に戻ってすぐ、昨日事務所のロッカーに入れたまま放っておいた服をクリーニング機に突っ込んで、今朝封を切ったばかりの紅茶をまたいれてみた。
自動的に動きだすクリーニング機の音を聞くともなしに聞きながら、ポットの横に並べた砂時計の灰色の砂が落ちるのを眺めた。ゴウンゴウンという機械の音は、工場の光景を思い出させる。
実を言うと、私はまだ、あの工場の中に番ナシがいたのか半信半疑だった。
その存在自体が伝説とも言えるものであり、私が見たのは黒い髪の羊である。番ナシの姿は未だかつて耳にしたことはない。
そんなものいる筈ない、と言ってしまいたい。
しかしそれとともに、私は本音では既に、その存在を認めてしまっていた。
もっと正確に言うならば、番ナシの存在が認めざるおえないものなのである。
砂時計の砂が全て落ち、そっとポットを持ち上げて揺らして、カップに滑らかな動作で傾けた。
もわりと湯気が立ち上り、微かだった香気が一気に辺りに広がった。香りは良い。
朝よりも幾許か蒸らす時間を短くしたため、渋みは和らいだはずだった。
私は華奢なカップの柄を掴み上げて、口へと運んだ。
今度は前回よりもマシな味がした。しかし素直に美味しいと言い切れない後味が残る。
番ナシのことさえなければと思い、また溜息がこぼれた。
これは明らかに心因性の問題なのだ。
そう認めると、立ち上る湯気さえ見ただけで憂鬱になった。
時計を見れば、まだ十一時。
三時までは程遠く、だからといって何かをする気も起きない。
途方に暮れた私は何となく辺りを見まわした。
窓が開いていて、そこからやわらかい風が吹き込みカーテンが翻る。
屍の山が見えた。
そうだ、ここにはこんなに羊がいるではないか。
私は不思議な安堵感に包まれて、眠気を覚えた。
ベッドに横になると、すぐさま泥を被ったように意識が遠のく。
私は幸せだった。

 我々羊は夢を見ない。
睡眠をとり、意識は失う。しかし夢は絶対に訪れない。
それは目が覚めてしまったら忘れた、というわけでもない。その場合は必ず夢の余韻がある筈だ。
人間に教えられるまで、羊に一切の“夢”という観念はない。
観念を持ってからも、理解はしても実感がないそれは、それこそ夢のような話だ。
羊は目が覚めると、眠った前のことを思い出す。
しかしその間の記憶はといえば、すっぽりと抜け落ちている。
だから私は始め、睡眠がとても不思議な行為に思えた。
間の記憶がないために、眠る以前の記憶と、目覚めた時の記憶はがっちりと繋がってしまう。それなのに時間は何時間も過ぎ去っている。
それらを同時に理解した時、意識はとてつもない違和感にかられてしまうのだ。
きっとそれは、人間には理解の及ばない感覚だろう。
まるで、一部の記憶を抹消されてしまったかのような、そんな理不尽と矛盾への不安。
だから羊は皆、その疑いと不安を、既に本能的な領域に刻み付けている。
私たち羊には、おそらく完全な自由を持っているものなど存在しない。
常に柵に囚われて、柵の外に潜む何かに怯えている。
私は、だからだろうと思った。
羊が番ナシを待つのは。
早くこの柵から出たい、ここから解放してほしい、出してほしい、自由になりたい。
それらは羊ならば誰もが持つ願望だ。
勿論私も持っているし、おそらくは妹尾も、エン君も、あの所長でさえも持っているだろう。
羊は誰も彼も、そういう“臭い”がしている。
一目見れば分かってしまうのだ。
“ああ君もそうなのか”
それは羊にしか分からない、しかし確信できる事実だ。私と同じように蝶器で動く限り、その願望に縛られ続けている。
ただ、例外があるとすれば一匹だけ。
柵の外で、見張り番もいない自由な羊!
奇跡の羊、番ナシだけだ。

 私は突如、電子音によって呼ばれ目覚めた。
はっと身をバネのように引き起こす。前髪がバサッと浮いて、目の前に落ちた。
ピピピピピピピ……
鳴り響くのは通信端末で、メッセージが届いたことを意味している。
私はやんわりと時計を見上げ、驚いてベッドから飛び降りた。
時計が指すのは丁度、午後三時二十分。
完全な遅刻だ。焦って部屋の中を駆け回り、クリーニングされたつなぎを着て髪を手櫛で撫でた。それと同時進行でメッセージを読む。
スグ戻レ
読むまでもない簡潔な一言。私はそのメッセージをすぐさま削除した。
拙い。所長は遅刻に厳しいのだ。
別にどうこう煩く言われるわけではない。しかし彼は絶対零度の目で私を見てからこう言うだろう。
邦津君、確かに覚えておこう。
「確かに」のところだけ抑揚をつけて、穏やかに言い切るに違いない。そしてその言葉通り忘れずに、受け持ち予定表が私の名前で埋まるのだ。
しかしそれだけで済むならばまだ良いが、今日は常より更に状況が悪い。
今、工場に多大な被害を及ぼしている番ナシと、それを任されている私。
走りながら、鼻の奥がつんとして、目頭を抑えた。
出来る事ならば思いっきり泣いてしまいたい。

 事務所のドアを開けた瞬間、飛び込もうとしていた私は出てこようとした人影とぶつかりそうになって飛び退いた。
エン君がなかなか来ない私を呼んでくるよう所長に言われて、呼びに行こうと出てきたところだった。
飛び退いた私は情けなくドアにへばりついたが、エン君は持ち前の鋭い反射神経で後ろへ飛び退り、しっかりと立っていた。
その上、のろのろと起き上がる私に手を差し伸べてくれさえする。出来ればその手を取りたくはなかったが、ここで拒めば大人気ない。しぶしぶと掴まって立ち上がり、一言ありがとうと言って無理に微笑んだ。
事務所ではコオロギ君が、人の良さそうな顔を心配そうに歪めて目で大丈夫ですかと訊いてくる。
しかしそれは、先ほどの恥ずべき現場を見られた私を更に落ち込ませる効果しかない。
無表情のエン君と海老彦君のほうが、余程有り難かった。
所長はといえば、やはり惚けた表情に目だけひやりとさせて言う。
おはよう邦津君、よく眠れたかい?
僅かに腫れた瞼にすぐさま気づいたのだろう、あからさまな当て擦りだ。
私は完全に諦めきっていた。何もかもが私を柵のすみに追い込んで嬲り殺そうと棍棒を振り上げている。
所長は手短に番ナシが現れたことを説明し、今の状況を言った後、余計なことに私に番ナシの責任が任されていることまで付け加えた。これも遅刻の影響なのは明白で、私は今度から寝る時はタイマーをセットしようと胸に誓った。
所長の話を聞いた三人は、それぞれ程度に差ほど有れども、一様に驚きを露にした。
一番驚いたのはコオロギ君で、妹尾まではいかなくとも、エエッと声を上げて目を白黒させた。
他の二人はそれより随分と大人しかったが、エン君はひくりと肩を振るわせ目を見開き、海老彦君はその海老茶色の頭に手をやり直毛をかき混ぜて、苛立つように眉をしかめた。
それぞれ思うところがあるのだろう。
しかし所長はまったく意に介さずに説明を終えると、最後に私を見た。
その青い目はコンロで揺らめく炎のようで、私は彼から目を逸らせた。
小さくともそれは湯を沸騰させる熱を持つ。
番ナシを捕まえて来よう、それをどうするかは後で彼が決めることだ。
所長の言葉に、その場の視線が私に集まった。居たたまれなくなって自分の靴先を睨みつけた。
なんて滑稽なことだろう、柵の中から自由な羊を捕まえようとするなどとは。
私の蝶器はひっそり嘲笑した。

 工場の事務所側の扉は予想通りに開いていた。
そして中の扉も、やってきた我々に反応して開く。
工場は相変わらず動きつづけている。目の先を羊が流れて、すぐに視界から消えた。
黙り込んで動けなくなった我々の中から、ひとり所長が一歩踏み出した。それにつられるように海老彦君が進み、その後を三人が続く。
中は腐敗を防ぐための冷気が搬入口から洩れるため、適度に涼しい。
しかしそれは、この時の私にとって嬉しくなかった。
ここから出て、あの白い太陽の光を浴びたい。
その衝動を感じながらも私は無感動を装って、所長、二手に分かれましょうと提案した。
彼は私を一瞥し、そうだな、じゃぁエン君が私とこちら側を回ろうと西を指差した。では私たちはこちらを、と北を指した。所長は頷き、エン君と歩き出した。
私が同行者を促そうと後ろを見ると、そこにはコオロギしかいない。もしや、と思って東の方を見れば、海老彦君が先をさっさと進んでいるではないか。
その堂々とした様は、私の不安を曖昧にする。行こうか、とコオロギ君に微笑みさえして、私は進み出したのだった。

 私は進み出してから数分して、何かとても不思議なものを感じていた。空気のような、雰囲気のような、電波のような、奇妙な感覚を…。
これは私の何かと共鳴しているような、そう私の頭、蝶器が震えている。
―――そうだこれはパルスだ。
突然閃いたそれは、すぐに確信へと姿を変えた。
私のパルスと、何かが共鳴している。
静かな確信が胸を満たしてゆくのを感じ、私は自分で戸惑った。どうしたことだろう、この震えは。
コオロギ君が落ちつきなくきょろきょろとあたりを見回した。
それから本当に番ナシがいるんですかぁ?嘘でしょう、あんなのただの噂じゃないですかと気弱に言った。その犬のようなお人良しの性格を知っているため、私は今更何を言うのだと言うのを止めておいた。代わりにさっきの仮眠室の二人を見れば分かるだろうとやんわり諭す。
海老彦君は前を見たままこちらを一切気にした風もなくズンズン進んでいる。
私は酷く余裕があった。
コオロギ君は泣き言を言ったが、彼も分かっている筈なのだ、この感じを。
彼の蝶器も共鳴して、だからその未知の感覚に怯えているのだ。
私はそれを特に抵抗もなく受けとめた。これは番ナシだ。彼女が羊を呼んでいる。

 唐突に前を進む海老彦君が私を呼んだ。
邦津さん、あなた僕に番ナシを渡してくれませんか。
彼は普段のとはかけ離れた、なにか強い感情を抑えつけるように吐き出した。あの無色彩で乾いた声音はどこへ行ってしまったのだろう。
暗い通路ではその表情を窺うことが出来ない。しかし私は彼が、とてつもなく必死でいることが分かった。彼も私と同じものを感じているに違いなかった。
すると横で、その時私たちふたりが存在を忘れかけていたコオロギ君が、ホロリと零した。
番ナシなんて、番ナシなんて早く壊さなきゃ駄目ですよ。
コオロギ君が頬を戦慄かせ、興奮で顔を赤くする。
早くしないと、アイツが目を覚ましたんだ。番ナシの夢なんて俺は見たくないんです、早くしないと、見つけないと!俺は逃げるのはもう止めたんだ、番ナシは屍穴に放り込まなきゃ、
屍穴とは、あの自己破壊プログラムの仕込まれた穴のことである。それを聞いた途端、海老彦君はクルリと振り返ってコオロギ君に掴みかかった。
だまれよ、あれを屍穴に放り込むだって?そんなことしようとしたらお前を僕が突き落としてやるよ、そこで逃げずに自分を壊せば済むじゃないか、ええ?違うのか?
喚き散らす海老彦君など、紅茶とコーヒーを混ぜるよりも想像できなかった私は本当に驚いた。しばらくこれは私の妄想かなどと考えてしまったのも、普段の彼を見慣れた私では致し方ないだろう。
はっとして見たときには、海老彦君がコオロギを殴りつけ、その言葉を実行しようとしているではないか。
私はぎょっとして海老彦君の腕を掴み上げた。それでも彼は酷く暴れて抵抗し、すごい剣幕で、それこそコオロギ君を屍穴に放り込みそうな勢いでまくし立てた。
私はそれを扱いかねて、とうとう彼の首元の神経回路の辺りに手刀を打ち込んだ。
途端に彼の体からくらりと力が抜ける。
私はその体を受けとめてから横たえ、コオロギ君へと近寄った。彼は身を起こし、殴られた口の端から頬を手で押さえている。私が近寄ると、彼は興奮が冷めたのか、力無く笑って大丈夫です、と呟いた。
そしてすぐさま立ちあがって、気を失った海老彦君の腕を掴んだ。私は彼が海老彦君に何か危害を加えようとしているのかと一瞬思い、すぐにその考えを消した。彼の目に怒りはなく、ただ深い哀しみが宿っていた。
コオロギ君は無言で海老彦君を抱え上げ、肩に折りたたむように担ぎ上げた。そして振り返って一言行きましょうかと告げてくる。私はその言葉に何も言えず、目を伏せてその後を追った。

 我々が今朝所長が待っていた角まで着くと、しかしそこには誰もいなかった。
私はすぐにそれが意味するところを悟った。
所長達も、番ナシに会ったのだ。
あのパルスは微々たるものだが少しずつ強まってきている。つまり、我々は番ナシに近づいているのだ。
コオロギ君に目配せをして、所長達はもう眠っているかもしれないと言うと、彼は唇をくっとさせてから急ぎましょうと走り出した。その琥珀色の瞳には哀しみはなりをひそめ、強い決心が漲っている。
私は海老彦君を背負っているというのにすごいスピードで駆けて行く彼の後を必死に追った。差は縮まるどころか、ともすれば引き離されそうになる。
そうして後を追っていると、ある瞬間から私の感じていたパルスが急激に強くなったのを感じた。
番ナシが、所長たちを眠らせようとしている。
直感的に感じ取った私は拙い、所長、が、と息切れしながら前方を行くコオロギ君に叫ぶ。
それは彼も分かっているようで、何も答えずにそのまま走りつづけた。

 結局私とコオロギ君は、工場の一辺である通路を走りぬけ、最後の角を曲がった。
先ほど感じた強烈なパルスは元の微々たるものに戻っていて、私たちを焦らせる。しかしそれも角に近づくほどに強まっているのだから、番ナシはまだそこにいるはずだった。
しかし、その強烈なパルスが収まったという事は、所長たちの眠りを意味していることも予想できた。私はその嫌な予想が外れていることを祈る。所長が、エン君が、まだ目を開いていることを強く願った。
そしてようやく角に辿り着いて、息せき切って曲がる。
するとそこには予想していた通りに番ナシがいるではないか。
私はその姿を視界に収めて、それまで息切れしていたことすら忘れて立ち尽くした。
そしてそれはコオロギ君も同様だった。
そこにいるものは皆沈黙を強いられた。
私は呆然と、その幼い少女を見つめた。足元には誰かが転がっているが、それすらも私の視線を動かそうとしない。いや、出来ない。
そうやって見つめるふたりに、一拍置いて気づいた少女は、目を瞬かせて驚きを表した。その様は酷くいたいけである。
彼女は突然現れた闖入者を見て、何を思ったかその顔いっぱいに笑顔を造った。
コオロギ君ではなく、私を熱心に見詰めている。
そして嬉しそうに私を呼んだ。
「ドクター!」

 私に向けて「ドクター」と発した彼女に、ようやく瞬きを思い出したのかコオロギ君が口をあんぐりと開けて私を見た。
ドクター?
私が耳慣れぬ呼び名に目を剥いて少女を見ると、彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ひどいわドクター、私を置いて死ぬなんて、そんなわけないと思ったの。びっくりしたぁ、目が覚めたらこんな所にいるんだもの。ねぇ、ここはどこなの?ドクター。」
彼女の声音はとても不思議な響きだった。何なのだろうこれは。その声は強く何かを彷彿とさせる…。
「ねぇドクター聞いてるの?早くこんな辛気臭いところ出て、帰りましょう。私たちの家に帰って、また一緒に暮らしましょうよ!」
私の服を引っ張って明るく言う彼女の声に、物思いから引き戻された私は、ようやくその後ろに転がるものが、所長とエン君であることに気づいた。
コオロギ君というと、おろおろと私と少女を見比べている。あまりに驚いて海老彦君はずり落ちそうになっていた。
私は彼に所長だ!そこに所長とエン君がいると言うと、彼ははっとしたようにそちらを振り返った。それを見た途端、その目がさっと暗く翳る。
私はそれを見てやっと、今目の前にしている少女が、番ナシその人であることを思い出した。
コオロギ君の目は、暗い諦めを宿して所長たちを見、それを塗り替えるようにして先ほどの決心が満ちた。
うわぁぁと叫びながら番ナシへと突っ込んでくる。
少女は突然の悪意にびくりと体を震わせて、私にしがみついた。
「ドクター助けて!どうしたのあの人?!怖いわ、ねぇドクター!」
その時私は彼女の叫ぶ声に潜むパルスの正体に気づいてしまった。彼女の伸ばす手を振り払う。
やはりこの子は番ナシだ。
彼女の発するパルス、それはあの羊の山だ。
彼女はその声で、きっと羊を眠らせることが出来る。
とっさに沸き起こったのは恐怖だった。
未知の強大な力、私を捻じ伏せるものへの畏怖。
そうしてその手を振り払った私を、少女は信じられないものを見たかのように、その大きな目を剥いて驚愕した。
「どうしてドクター!私はもうドクターといられないなんて、どうしてなのドクター!」
悲痛な叫びが、私の細胞を一つ一つ轟々と揺さぶった。
そしてその番ナシに、憐れな羊が一匹襲いかかった。

 それは数秒のことだった。
今、私の目の前にはコオロギ君が昏倒して倒れ込み、番ナシが怯えて横にしゃがみ込んでいる。
そして目の前には羊が一匹佇んでいた。
海老彦君、と呟くだけでも息が詰まった。
目の前の彼は、酷く息を切らして目をぎらぎらさせている。手には鉄骨を持っており、その形状からそれが不燃物でできた羊の腕だと分かるまでにしばらく掛かった。
ここは解体エリアの傍だから、這ってコンベアーの上を流れるそれを必死に掴んだ彼が容易に想像できた。
ぜいぜい息をつく彼は興奮しきっている。普段の海老彦君とはまるで別人だった。
彼はなんとか息を整えようとして、しかしそれが出来ないことに気づくと喉を嗄らしきるような声を出した。
僕、を眠らせ、て夢、を見せても、うここ、から、出、して早くもう、こ、こにはもう、一、びょ、うだっていたくな、い、んだ、
そうしてついに嗄れたのだろう、海老彦君はついに沈黙して、激しく呼吸を繰り返した。もう彼の喉はヒューヒューという空気の通り抜ける音しか出さない。
それを聞かされた少女はといえば、その言葉を聞いた風もなく、呆然と俯いている。
始めは、さっき私が拒んだことにショックを受けているのかと思ったが、そのうちそれも理由の一つに過ぎないとわかった。
彼女のパルスが次第に弱りだしている。
私は不安に駆られて彼女の肩を掴んで顔を上げさせた。面を上げたその目は、さっきの明るさをゆっくりと失っていっているではないか。
私が彼女を揺さぶると、海老彦君が突然私にその手に持った鉄骨を振り上げた。
私はそれを見上げ、瞬時に避けられないと悟った。反射で目を閉じ、来るであろう痛みを待ち受ける。
そしてその鉄骨の影が降り、どすっと鈍い音がした。
その瞬間、番ナシのパルスは途絶えた。

 突然真っ暗になった視界を見、私は一時自失した。
ここはどこなのだ、今はいつなのだ、何故こんな所にいるのだ。
私はその暗闇がとてつもなく深いものに感じられ、もしかしてこれが夢なのだろうかと考えた。
だとすれば夢なんて大したことないのだな。
しかしその考えは間違っていた。
暗闇は私の顔の表面をずるり、ずるりと滑って、そして落ちた。
黒いレースの服を着た少女が、私の膝元に倒れ込んでいる。太ももの濡れた感触に手をやれば、少しねっとりとした液体が彼女から洩れていた。
ああこの子は羊なのか。
私がその子から目を離し、視線を上げると、そこには一匹の羊が、羊の腕を持って佇んでいた。
彼の目は虚ろで、私も、何もかも映してはいない。
ブツブツと何事かを呟くのが聞こえ、それはやがて端的に意味をなす単語をつくった。
夢…柵が…僕の…ここは…出して…見たくない…と人間の…番ナシ…
番ナシ。
私はゆっくりと引かれるように視線を下ろした。そこには変わらず少女が長い黒髪を乱して横たわっている。
横たわる…羊に…番ナシ…
私の中で、カチカチ、と何かが嵌って符合して行く。
これは、一体何を作り上げようとしているのだろうか。
私は困惑して、また前方の羊を見上げた。
彼は虚ろなその目に光を取り戻していた。それはぼんやりとしていて、先程よりずっと脆弱に見える。
そしてその光が瞬いた時、私は終わった、と知った。
羊は一筋の涙を流し、踵を返して去ってゆく。彼は屍穴に向かっているのだ。
その背中は、ふわふわとして頼りなく、私は彼の背中を押してやろうかと迷った。しかし、そうしようにも私の膝には変わらず少女が居座っているために動けそうもない。彼女の体液は私を濡らし、足はぐちゃぐちゃに濡れている。
私はしょうがなく、彼の背中を眺めつづけ、五分かけて向こうまで辿り着いた彼は横道へと消えた。
屍穴に落ちるために。
やがてどさっという音が聞こえた気がして、私は精一杯の哀れみを込めて目を瞑った。
彼に黙祷を捧げよう。

 私が目を開いた時、もそりと膝元で何かが動いた。
番ナシだ。
私の蝶器は、全てのピースを揃えたように整然とし、答えを直截的に下す。
番ナシはその左側を陥没させた頭を持ち上げてから、必死に私にすがり付いて耳元に口を寄せた。
「ど、クター、おねが、…だから捨て、ないで…!」
必死で囁くと、彼女は立たせて、と頼んだ。私は彼女の腋の下を支えてやる。
すると番ナシは精一杯の力を振り絞って顔を歪めた。それは笑おうとしてあえなく失敗した残骸だ。
「どうし、て?ドクター、わた、しはじ、ょうずに歌えるのに…。そ、でしょう?」
そう、彼女は歌えたのだろう。それは我々を永遠の眠りにいざなうパルスの正体。
私が微笑みかけてやると、彼女はやっと笑ってくれたと呟いた。
彼女の体液はもう洩れているのかも分からない。私の脚は、もうそれを感じないほど濡れそぼっている。
目の光がふらりふらりと揺れるのを見て、ああこの子も終わるのだと思った。
羊が死んで、番ナシも死ぬ。
では私は?
その時、おもむろに番ナシが口を開いた。それは私にデジャヴーを見せる。
揺れる画面、壊れたPC、酷い雑音、消えた番ナシ。
彼女は歌う。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹、羊が六匹、羊が七匹…」
私の視界がゆらゆらと揺らめく。違う、これは違うだろう。揺れるのは画面であって、私の視界ではない。
「羊が八匹、羊が九匹、羊が十匹、羊が十一匹、羊が十二匹、羊が十三匹、羊が十四匹、羊が十五匹…」
私の視界を温かな砂嵐がかけ抜ける。いや、これはあの風だ。廃棄場から吹く、羊の山の風。あの温かな潮風。
「羊が十六匹、羊が十七匹、羊が十八匹、羊が十九匹、羊が二十匹、羊が二十一匹、羊が二十二匹、羊が二十三匹、羊がニ十四匹…。」
私は潮風に拭かれてゆっくりと朽ち果てるあの羊だ。白い太陽の光を浴びて。冷たいフェンスに囲まれて。囲まれたまま朽ちる羊。私は朽ちる。私が無くなる。私は地面と交じり合う。私を雨が流してゆく。私を水は海へ運ぶ。私は海だ。
私は終わる。
私は眠った。

そして私は夢を見る。


「羊が千九百九十七匹、羊が千九百九十八匹、羊が千九百九十九匹、羊が二千匹。
…あれ?あなたはまだ眠れないの?しょうがないなぁ、じゃあまた始めから。
用意はいいかしら?
―――羊が一匹、…」






最終更新:2009年04月29日 16:20
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