騒がしい蝉の声。世界を埋め尽くそうとするように降り注ぐ。うるさいのにどこか無音の世界にも似て。心臓の音も聞こえそうだ。汗が首筋を伝い、胸元を流れ落ちた。風が吹き抜けてワンピースの裾を揺らす。水色と白のストライプ。木陰からスカートの影がはみ出て消えた。地面をアリが這っていた。
目指す白い建物は見えなくなっていた。山に近づいているからだ。民家の塀からアサガオの蔓が溢れ出している。しぼんだ紫のアサガオ。項垂れたヒマワリ。汗を握った手で、フルーツ詰め合わせを持ちなおした。街で買った一番安い籠のやつ。財布には帰りのバス代しか残っていない。サンダルの底が汗でちょっとすべった。
長いゆるやかな坂道を登って、民家が途切れた。山の入口にさしかかる。そこにまぶしい白いバンが止まっていた。見知らぬおばさんが手を振っていた。前もって電話したら、「山の中を歩いてくるのは大変だから迎えをやりましょう」と親切にも申し出てくれたのだ。手招きに応じて駆け寄ると助手席の窓が開いた。
「笹井さん?」
「そうです」
外よりちょっと薄暗い車内で、おばさんのふんわりした笑顔。
「早くのんなさい」
スカートがドアに挟まらないよう気をつけてドアを閉めた。
「暑かったでしょう」
車内はよく冷房が効いていた。ハンドルを片手で掴んだまま、もう片方の手でタオルを差し出された。温かくて、ふわふわの清潔な白いタオル。
「携帯の番号聞いていればバス停まで迎えに行ったんだけど。うっかりしてたわ」
「いえ、私携帯持ってないんです」
膝のつば広な麦わら帽子をフルーツの籠の下に敷いて答えると、おばさんは
「あら、それは珍しいんでしょう?」
と言って「ほら私も持ってるのよ」とごそごそ携帯を取り出した。手渡されたパールピンクの携帯を開くと待ちうけ画像には知らない子供。「可愛いですね」と言っておばさんに返した。おばさんは「いとこの子供よ、抱っこしてもあまり泣かないの」と嬉しそうに笑った。そして器用に前を見たまま携帯を受けとってポケットにしまった。
「今、忙しかったんじゃないですか?」
遠慮した風に言ってみると、
「あら、今はちょうど休憩で暇だったのよ」
とからっとした笑い声。
「そんな、休憩時間を潰してしまって…」
「ごめんなさい」と続けようとしたんだけど、
「いいのいいの、本当に暇だったんだから。あなたみたいな若い女の子と話せて嬉しいし」
と言っておばさんは悪戯っぽくフフフと笑った。車は快調に山を登っていく。
○
3分ほどで目的地に着いた。
「受付で名前を言えばいいからね」
私が汗を拭いたタオルを首にかけて、おばさんは建物の向こうに車を走らせた。駐車場は表にあるのだ。
私も表に回り込むことにした。車は建物の裏から入ったから、職員用入口以外に扉は見当たらない。
その《関係者以外立ち入り禁止》と書かれた扉の前で、メガネをかけたお兄さんが煙草を吸っていた。座り込んで、ぼーっと空を見上げているようだ。近くに寄るとメガネじゃなくてうっすら黄色のサングラスだとわかった。私が見ているとすぐに気づいて咥えていた煙草を指で摘んでにっこり笑った。私も笑い返す。するとお兄さんはちょいちょいっと《おいでおいで》の仕草をした。ジーンズのポケットに手を突っ込んで何か取り出した。
「アゲル」
ドロップの缶だ。
「ありがとうございます」
受け取ったそれはカラカラと音を立てる。缶を帽子の中に入れて去ろうとすると、「ちょっと待って」と呼びとめられた。
なんだろうと思って向き直ると、手を差し出すお兄さん。
「一個ちょうだい」
あわてて缶を開けて、お兄さんの手の上で振った。なかなか出ないと思ったら、勢いで二個飛び出した。
「じゃあ僕イチゴ」
金に近い茶色の髪で大きな手をした《僕》がかわいくて、残ったハッカを口に放り込んで誤魔化すようにモゴモゴ舐めた。それから、なんとなくまた目が合って、笑い合って、
「じゃあまたね」
手だけ振ってお兄さんと別れた。
いい声だ。少し掠れているのは煙草のせい?
受付で、顎にほくろのあるお姉さんが事務的に「面会は6時までです。お泊まりする場合は5時までに必ず届けてください」と説明してから部屋番号を教えてくれた。
閑散とした建物の中で、みんな好きなことをして過ごしている。すれ違う人と挨拶して、教えてもらった部屋を探した。
正直、後ろめたさがあった。母さんにも、誰にも内緒でここに来たのだ。
母さんの妹、つまりおばさんであるキョン姉がここにいるって偶然知って。それまでキョン姉はずっとおじさんと一緒に暮らしているんだって思ってた。一年くらい前からいつ結婚式あげるんだろうって考えてたくらいだったのに。
ある日来た葉書は、《私たち結婚しました》じゃなくて《暑中見舞い申し上げます》だった。そんな何の変哲もない出だし。だから部活から帰ってきて郵便ポストから郵便物を取って来て、一番上にその葉書を見つけて、お母さんに渡さなきゃなァって何気なく文章を追って、あれっと思った。
《―ここはとても静かです。私がこんな事になって、姉さんにはすまなく思っています。でも、私はきっと何かが欠けてしまったんです。いえ、元から欠けていたのかもしれません。とにかく私は姉さんに不愉快な思いをさせているでしょう。けれどまだ、私はそちらに戻る事はできません。本当にごめんなさい。―》
思わず葉書を裏っ返して目を走らせた。送り主の住所は、予想と違っていて。そして知らない地名の消印が押されていた。もう一度文面を読み返した。頭の中で言葉の欠片がぐるぐると渦を巻く。《ここ》?《こんな事になって》?《すまなく思って》…?…《何かが欠けて》……?
……《ごめんなさい》……?
言葉の意味が何一つわからなかった。ただ、おばさんの何かが壊れてしまって、どこかへ行ってしまったのだと、ぼんやり思った。他は、本当に何も分からなかった。何も。
仕事から帰って来た母さんに、何気ない振りして聞いてみた。
「おばさんから葉書来てたよ」
「おばさん?どこの?」
母さんは仕事から帰ったというのに忙しなくキッチンをうろうろして夜食を作った。
「響子おばさん」
その言葉にフッと母さんの動きが抑止された。ああ、やっぱり禁句だったかな…。分かるよう葉書を食卓に置いた。
「響子おばさん何かあったの」
母さんはイライラと開いた冷蔵庫の扉を一度バタン!と強く閉じた。それからまた開いて牛乳のパックと取り出してコップに注ぐと一息に煽った。
「あの人は頭がおかしくなっちゃったの。だから仕事もせずに親の脛かじってのんびり療養中。そのうち死ぬかもね!」
吐き捨てるように言ってトイレに行ってしまった。実の妹に向かって酷い言葉を使って。口の中に唾が溜まって気持ち悪かった。流しに唾を吐いた。コンロで母さんが火にかけた薬缶がヒューヒュー微かに叫んでいた。頭の中に同じ薬缶をイメージ。少しだけ気が和らいで、自分の部屋に戻った。
大丈夫、ちゃんと住所は書き留めておいたじゃない。今度の部活の休みにでもキョン姉に会いに行こう。
何も不安がる事なんて無いんだ。
○
部屋番号を一個一個確認して、あといくつか数えながら進んだ。廊下は明るい薄ピンクの壁。規則正しく白い横開きのドアとネーム・プレートがお揃いに並んでいる。
《木島 響子》
少しだけ、ドキッとした。別に偶然辿りついたわけでもないのに。
部屋のドアは開いていた。なるべく足が走り出そうとするのを押さえてゆっくり歩こうとした。でも無理。あと三歩というところで押さえきれなくなって駆け出して、部屋に飛び込んだ。
何を言って入れば、どんな顔をして、何を見ればいいのか分からなくなって、プレッシャーが足を追いたてた。
「キョン姉!」
部屋は、明るかった。お日様の光り。窓は片面だけカーテンが引かれて、ゆらゆらとベッドの上の方にだけ影を作っていた。
そして、そこにいたのがキョン姉こと木島響子さん。
「いらっしゃい、いっちゃん」
昔のように呼んでくれたことが嬉しくて、答えが返ってくるのが嬉しくて、でもどういう顔したらいいのか分からなかった。
「変な顔」
くすくす笑うキョン姉。あれ?でも何か違う。
清潔そうなベッドに駆け寄って、始めに気づいたのは細くなった手首。それだけじゃない。全体的にキョン姉は小さく見えた。
「いっちゃん大きくなったねェ」
「そりゃそうだよ、私もう中学生だよ。背もね、クラスで三番目くらいに高いし」
「三番目ね」
「そう」
一緒に笑って、でも《違う》って何かが言ってた。大きくなったよ。でもそれだけじゃなくて。キョン姉が…。
「あ、そうだ。いっちゃんグレープ・フルーツ好き?」
「うん、なに、あるの?」
「そう、ちょっと待ってね…」
ごそごそとベッドから出てスリッパを履いたら腕から点滴の管が垂れ下がった。
「え、いいよ!キョン姉は寝てて」
止めようとするけど、どこを掴めばいいか分からずおろおろしてしまう。本当は体に触れるのすら怖かったのかもしれない。触って、その感触を知るのが。
その間にキョン姉は足もとの台の下にあったダンボールを引っ張り出した。
「これはちょっと前にもらったのだからまだ大丈夫と思う」
ダンボールは未開封だった。キョン姉が「開けて」と言うようにこっちを見るからバリバリバリっとテープをゆっくり剥がして開くと、黄色いグレープ・フルーツが六個並んでいた。
「ね、美味しそうでしょ?」
「うん」
「そうだ、果物ナイフがいるね。いっちゃん、悪いけど食堂まで取りに行ってもらえるかな?」
もちろんすぐ了解して、食堂への道順を聞いて、キョン姉にはベッドに寝ているよう強めに言って部屋を出た。
下へ行くエレベーターを待っている間、昔のキョン姉の面影を思い出そうとしてみた。
姉妹でも癇癪持ちで神経質なところのある母さんとは対称的な、朗らかで笑顔の可愛い人。今思えばお年寄りやおばさんたちにも受けが良かった。
優等生っぽくて、実際成績も良かったらしい(母さんも良かったらしいけど)。料理が上手で、お酒に弱くて、5歳年上のおじさんとお付き合いしていた。
おじさんもすごく優しい人。お人好しで、ちょっと優柔不断そうだったけど、包み込むようにいつもニコニコしてた。おじさんは時々キョン姉と一緒に遊びにつれて行ってくれた。欲しいものは何でも買ってもらえたし。
でも、キョン姉はここに来た。おじさんとはどうなったの?
あんなにいい人なんて他にいないって親戚とかみんな言ってた。羨ましがられて、「結婚はいつ?」なんて挨拶代わり。
一体何が起こったんだろう。それともあれは夢みたいなものだったんだろうか。
《いえ、元から欠けていたのかもしれません》
欠けているのは、何?
食堂に行くと色んな人がいた。
テレビを見る人たち、お茶を飲みながら談笑する人、端の方で車椅子に乗ってハーモニカを吹く人…。
奥の厨房らしき方に行くと、間仕切りに小さな窓口があった。コンコンとノックして、ガラスのそれをスライドさせた。
「あのー、果物ナイフ貸してください」
「あれっ、駄目だよ勝手に覗いちゃ。ナイフ使うの?」
「すみません、あの借りられないんですか」
不躾だったかなとガラス戸を閉めようとしたら、まだ声が聞こえた。
「ナイフは患者さんところにも持っていくんでしょ?だったら一度受付で許可をもらってからじゃないと貸せない決まり!」
何かを炒める音や刻む音なんかの厨房に充満した音に負けないように女の人が声を張り上げた。
なんというか、生命力に溢れた感じだなァ。
「わかりました、おじゃましました!」
こっちも競うように声を出して、ガラス戸を閉めた。
よく考えてみたら、ここは病人のための療養地なんだからそうホイホイとナイフなんて貸してくれるはず無かったのかもしれない。自殺…とか考える人だっているかもしれないんだから。
嫌な焦りのようなものが湧いて来て、せかせかと受付に向かった。
ちゃんとナイフ、貸してもらえるよね。キョン姉のところに持っていくって言って、許可されないんじゃないかなんて、考えたくも無かったけど、その考えは頭の片隅から消えようとはしてくれなかった。
「木島響子さんね、少しお待ちください」
受付にいたのはやっぱり顎にほくろのあるお姉さんだった。黒いカーディガンを羽織っていた。受け付けはもろに冷房の風がくるから肌寒いのだろう。
奥の棚から名前別に整理されたカルテらしきものを探って、数枚の紙を取り出した。ぺらっと捲って元にしまって、こっちに戻ってきた。
「大丈夫のようですから、先に部屋へ戻っていてください。すぐに持っていきますから」
事務的な言い方から、多分何度も同じ事を言ってきてるんだろうなァと感じ取れた。
お礼だけ言って、踵を返した。
繰り返されるのは事務的な言葉の繰り返しなのに、少しだけ、気分と足が軽くなった。
○
部屋に戻ると、ドアが閉まっていた。ちょっと迷ってノックすると、キョン姉の声が「どうぞ」と呼んだ。
ドアを開けると白衣を着たお医者さんが、ベッド脇の椅子に座っていた。
しゃがみ込んでいる看護婦さんの手に持っている器具から考えて、血圧を測っているんだろう。体を検査しているんだ。
キョン姉はどこか、悪いのだろうか。
「キョン姉…」
答えを求めるように見たら、「こっちにおいで」と反対側に手招かれた。足取りはとぼとぼと心もとない。
「すぐ、持ってきてくれるって」
小さな声で隠し事をするように耳元で告げた。
「そう、じゃあスプーンとお皿どうしよっか」
「あ、忘れてた」
ちょっと二人で見詰め合って、しょうがないなあって風に笑った。
そこに、ちょうど誰かがノックする音。
「どうぞ」
さっきと同じようにキョン姉が答えて、ドアが開いた。
「失礼します、頼まれていたもの持ってきました」
ひょっこり顔を出したのは金色の頭をしたお兄さん。あ、ちがう。日の光りに透けてるだけで、本当は茶色。ちゃんと知ってる。
「あ、さっきの」
内心びっくりした。お兄さんが差し出しすナイフを、こわごわ受け取った。
「三谷君ありがとう」
キョン姉がお礼を言った。《三谷君》それがお兄さんの名前らしい。
「それと、グレープフルーツ食べたいの、スプーンとお皿持ってきてくれないかな」
「いいですよ、忘れてたんですね」
「そうみたい」
「ごめんなさいね」と笑うキョン姉に《三谷君》は「いえいえ」と言ってすぐ部屋を出て行った。
検査が終わって、キョン姉がグレープ・フルーツを二つに切った。でも切ろうとして、危うく切る方向を間違えそうになった。
「どっちかすごく悩んだんだけど、結局外れだったのか」
本気で残念そうに言うキョン姉を笑いながら果肉にスプーンを突きたてた。
「あれ?キョン姉食べないの?」
鈍いことに、食べようとしてからおにいさんがスプーンとお皿を一つずつしか持ってきてない事に気づいた。
「私はいいの。グレープ・フルーツは苦くて酸っぱくてちょっと苦手だから。でもよく送られてくるの。いっちゃん食べてくれると助かる」
「え、苦手なのに送ってくるの?それって言った方が良いんじゃない」
するとキョン姉は困ったように笑った。笑顔に翳り。たぶん、これは言わない方がよかったんだ。でも、言わなきゃよかったなんて思わなかった。
言わないで済ませられればそれでいいんだけど、言わないと、このままもやもやしつずけて、悩み込んでしまう。
だから、もう少しだけ、頑張って踏み込んでみようと思った。
「ねえ、雅(まさ)おじさんは今日来ないの?」
なるべく遠まわしにそっと踏み込もうと思ってたんだけど、結局上手い言葉なんて思いつかなかった。それならと、正面から門を叩く。
「…それ、雅史さんからもらったのよ」
キョン姉の返事は返事になっていなかった。
「あのねいっちゃん、私雅史さんとはもう会わないことに決めたの」
「……」
ずれていると思ったのは早過ぎたみたいだ。
それにしても、キョン姉が正直にそこから教えてくれるとは予想できなかった。
「決めたの?」
「そう」
あ、もう一個思い出した。
キョン姉は優しいけどすごく頑固。
キョン姉は下を向いたまま話し出そうと口を開いた。
グレープフルーツはスプーンが刺さったまま。
「雅史さんには私から一方的に別れるよう頼んだの」
キョン姉は膝までブランケットを手繰りあげた。窓からは軽く風が舞い込む程度で、その上部屋はエアコンも運転してたからちっとも寒くなんてなかった。
でもキョン姉は少し青ざめていた。曖昧な表情で俯いて。
窓を閉めてあげると静かに「ありがとう」と言った。顔は俯いたままだ。
「いっちゃん、長くなるけどごめんね」
訊いたのはこっちなのにキョン姉はまだ謝った。
「いいんだよ、私、ただキョン姉が好きだよ」
「…ありがとう」
お礼を言うのに躊躇う人じゃなかった。どうして?
答えは急かさなくともちゃんと待ってる。
キョン姉の話はこのようだった。
順を追ってなるべく齟齬の無いように話してみようと思う。
私はずっと何も知らないまま生きていた。恵まれていた。
幸運にも、ほぼ何事にも飢えることがなかったと言っていい。
優しい両親、収入の安定した中流家庭、友達もたくさんいたし、成績も悪くなかった。運動神経もいい方で、走り幅跳びでは県大会に出場した事もある。毎日学校が楽しくて、楽しい家庭で、そこそこに恋愛らしきものも経験した。
高校からは推薦で東京の有名大学に入学。目まぐるしく日々は過ぎて行った。
その頃雅史さんとも知り合った。バイト先の付き合いで行った飲み屋で話して偶然好きな歌手とか映画とかで意気投合。
話すほど雅史さんとは馬が合った。性格も性質も好感がもてた。
何年か付き合ううちに流れで家族に紹介し、結婚を考えるようになり、同棲を始めた。
よく言われる年の差も人柄でカバー。どちらの親も祝福してくれたし、この先には結婚が待っていると、本人たちも、まわりの者たちも信じて疑わなかった。
そう、すべて(、、、)に(、)満たされて(、、、、、)いた(、、)。
次々と差し出される手を取っては軽々と、いっそ転がるように上手い具合に事が運んで行く。
明解な道筋。振り返れば見通しの良い一直線の道がずっと続いていて、そして前を見れば地平まで一直線に続いている。
ああこれが終わりなんだ。
私は唐突に、雷に討たれたように愕然とした。
想像して?
私があなたと結婚する。可愛い子供を産んで、育てて、あなたはそれを嬉しそうに見て駆け寄って抱きしめる。たまには旅行へ行って、子供は進学して、きっと私もあなたも成績が良かったから子供も良いわ。もしかしたら悪いかもしれない。程々に世話をかけられて、ちょっとがんばって、でもきっと尊敬されて、そのうち誰か相手を見つけて、私たちに紹介しにくるかもしれない。結婚式には泣いて、孫ができて遊びに来て可愛がるの。おじいちゃんおばあちゃんになっても仲良く二人で助け合って、ご近所では評判のおしどり夫婦になって、時々手を繋いで一緒に映画を見に行くかもしれない。そしてどちらかが死ぬわ。
ねぇ、もっと想像して?
想像で足りない人生がここにあるかしら?
ここにはいない雅史さんへの狂気のような悲鳴。
姉さん、いっちゃんのお母さんね。
いつも私を見てた。私の周りじゃなくて、芯に近いところ。
もしかしたら姉さんだけが知ってたのかもしれない。私の満たされて、実のところスカスカに終わる全てを。
それは私だけじゃなくて、なんにでもそうだった。
家族で笑っているのに、見えないように一瞬だけ嘲るのを私だけは知ってた。一緒に食卓を囲みながら、本当は抜け殻を残して一人外でくだらないとでも言うようにつまらなさそうに眺めて、時々見せる嘲り。
友達は数えるほどしかいなくて、いつも小難しそうな本を読んで、大学でも似たような事を続けていた。そのまま大学の助教授と早々に結婚して、いっちゃんを産んで。
何もかも私と違った。
でもどうしてだろう。私よりも少しだけマシなところを生きているように見えるのは。
私よりもここのことを知っているように思えてしかたがないのは、どうして。
グレープフルーツは、先の尖ったスプーンを突き立てると、思いがけず果汁が散った。
蝉の遠い声が聞こえる沈黙の中、するりと隙間に入り込んだスプーンを抉って果肉を取り出した。
「あっ、おいしい」
想像より少しだけ甘い。それにちっとも苦味なんて気にならなかった。
いつも食べていたものとはちょっと違う。
おいしい。
「ねえ、キョン姉、これおいしいよ。たべて」
「いいよ、」
頼りなく首を振るキョン姉に、殆ど無理やりスプーンと皿を押しつけてやった。
困ったようにこっちを見て、皿を見て、またこっちを見て、やっと諦めたようにスプーンを果肉にさす。
「…おいしい」
ちょっとビックリしたように瞬きして、もう一回果肉にスプーンをさす。
「あ、いたっ…」
勢い良く噴き出した果汁が目に入ってしまったらしい。
「だいじょうぶ?!」
するとキョン姉は破顔して笑い出した。
心配したのに、勢い込んで言ったのが面白かったのだろう。ちょっと面白くない顔をして、すぐ一緒になって笑い出した。笑いは移るものだ。
「ね、想像以上においしかったでしょう」
「うん、そうだね」
笑いを堪えて泣きそうな顔になりながらキョン姉は言った。
○
その日、もう一度検査があった。
細い手の脈は確かに息づいている筈なのに。
すごく不安だった。
途中でキョン姉に「外見てくるね」と断って部屋を出た。
廊下を歩きながらお腹が空いたなァとぼんやりしていると、ふとポケットにドロップを入れていることを思い出した。なんとなく周りを見回して、一つだけ誰も座っていない長椅子に腰掛けた。ポケットから缶を出すとからからと愉快そうな音が聞こえた。
蓋を取って中身を振り出した。
メロンとレモン。
「僕にもちょうだい」
突然かけられた声に驚いて顔を上げると、目の前に茶色い髪のお兄さん《三谷くん》がいた。
「メロンがいいな」
「いい?」って訊くようにお兄さんはのっぽだから上の方で首を傾げた。
「もちろん」
「グレープ・フルーツおいしかったでしょ」
カラカラとレモンドロップが歯にあたる音を聞いていたら、お兄さんの脈絡ない発言。
「はい」
本当はどぎまぎしながら顔だけは何でもないようにドロップをモゴモゴさせた。
別に感情を隠すのが上手いわけじゃなくて、知り合って始めの頃は誰にでも無意識に体を固くしてしまうのだ。人見知りの気があるのだと思う。
「あれねぇ、いつも僕がもらってるの。ホントによく送ってくるけどさ、キョーコさんちっとも食べないから。もったいないよね。あんなにおいしいグレープ・フルーツ」
掠れた声がポンポン吐く言葉は耳に心地良い。
キョン姉もそう思ってるのかなァと考えつつ「そうですね」と適当な相槌を打った。
「キョーコさんね、もう先が長くないよ」
そう、お兄さんは世間話するみたいに切り出した。流れのまま「そうなんですか」と相槌を打ちつつ「そうなの?!」と驚愕が胸を襲った。
「お医者が言うにはキョーコさんはもう生きる気持ちが無いんだって。普通体は生きようとしてるんだけど、キョーコさんの体はそれを拒否してるんだって。シンタイキノウが麻痺しつつあって、余命幾許も無し。―死期は近いぞ」
「僕あのジジイ嫌いなんだよね」って言うお兄さんもそっちのけで、ガタガタいう体を押さえるので精一杯だった。
ヨメイイクバクモナシ?
記号が理解を受けつけない。
「グレープ・フルーツさァ、あれね、キョーコさんへのコイブミなんだよ」
お兄さんがガリッとメロン味のドロップを噛み砕いた。
「マサシサンが送ってくれるんだ」
「忠犬みたいだよね」って微笑むお兄さんに「そうですね」と相槌を打った。
バタバタと騒がしい足音が聞こえた。
「三谷くん掃除サボってるでしょう」
「あ、呉サン」
「ヤッベ!」と椅子から飛びあがってお兄さんはそのまま駆け出した。
「バカ谷走るなー!」
叫び声に覚えがあった。あ、これってあの時聞いた声だ。
生命力に満ち溢れた。
「あの、さっきはお邪魔して済みませんでした」
ぺこりと頭を下げると、《呉サン》は「なんだっけ?」と不思議そうにして
「えっと、あなたのこと知らないんだけど」
とすぐ訊いてきた。アッサリ、さばさばした人なんだろうなァ。
「ちょっと前に食堂にナイフを借りに行った者です」
「ああ!」
納得がいったのか、おねえさんはバシバシとこっちの肩を叩いて喜色満面にする。
「別に、今日始めて来たんでしょ。知らなくてトーゼン。もう帰るの?」
「いえ、ちょっと色々見て回ってるだけです」
「探検かーって、そういえば三谷と話してたけど知り合い?」
「いえ、今日初めて会いました」
「ナンパか?」とおねえさんはちょっと眉根を寄せたけど、また笑顔に戻って
「夕ご飯食べてきなよ。ちょっと早いけど外来の人はいつでも食べれるし、なんなら今注文聞こうか?」
と言ってくれた。
ちょうど良かった、お腹が空いていたのだ。(ラッキー)と思いながら「ありがとうございます!」と喜んだら「じゃあメニュー見に行こうか」と言うお姉さんと一緒に食堂へ向かった。
親子丼を食べていると、呉さんはよく世話を焼いてくれた。お茶を注いでくれたり、食器を片付けてくれたり。
話していてはた、と「そういえば人見知りしてないなァ」と気づいた。呉さんは気持ちが良いくらいまっすぐな人で、話すと楽しくて人見知りする暇も与えてくれないんだろう。簡単に扉を開けてこっちに飛び込んでくる。
「バカ谷に変なことされなかった?」
っておもしろ半分、心配半分で訊くから、
「ちっとも。ドロップもらいました」
と笑顔で返した。
「あいつのポケットにはいつも甘いものが入ってるんだよ」
おかしくて堪らないように噴き出すのを堪えて呉さんは教えてくれた。
「今度見せてもらうといいよ」
「そうします」としたり顔で答えながら、内心本当にそんな機会があるかなぁと思った。
もうすぐ帰るし、また(、、)来る(、、)こと(、、)が(、、)できる(、、、)だろう(、、、)か(、)と、考えてしまったのだ。
さっと、血の気が引くような気分だった。
呉さんは変わらず話しているけれど、もう相槌しか返せない。それもどんどんおなざりになってく。
「ごめん呉さん」と心の中で謝りつつ、その心の大半はグルグルと自己嫌悪で一杯だった。
バカな事を考えるな!
親子丼の味もわからなくなってしまった。
部屋に戻ると、お兄さんがいた。
キョン姉と一緒にグレープ・フルーツを食べていた。その横顔がすごく嬉しそうだった。
「あ、いっちゃん」
お姉さんがこっちに気づいて、
「あ、いっちゃん」
とお兄さんも真似した。
すごく楽しそう。すごく。たぶん、お兄さんはキョン姉と一緒にグレープ・フルーツが食べれる事が嬉しいのだ。
「一緒に食べよ」
お兄さんがドロップを差し出すように誘う。
「うん」
お兄さんが丸椅子を占領していたから、キョン姉のベッドの端に腰掛けて、お兄さんが切ったグレープ・フルーツをお皿に受け取った。
やっぱりそれは、すごくおいしくて。
「おいしいよね」
お兄さんの言葉に
「うん」
「うん」
二人で返せることが嬉しかった。
カーテンが風に膨らむ。生暖かい風が頬を撫でる。
どうしよう、私泣きそうだ。
先に食べ終わったお兄さんに、2番目に食べ終わってからポケットの中身を見せてもらった。
「チョコボール…溶けてるよ」
「うん、だからドロップにしたの」
やっぱりポケットの中には甘いものが入っていた。
「いっちゃん、ドロップちょうだい」
「もう食べちゃったじゃないですか」
「お兄さんが最後に食べたのに」と呆れたら、「三谷サンね」と前置きして「先にそれ言ってよー!」と心底残念そうにしょげてしまった。
「最後のなら噛まないでちゃんと舐めたのに…」ぼそっと呟くあたり、相当残念そうだ。
落ち込んだ三谷さんに、キョン姉は「しょうがないなぁ」というように苦笑した。
「もう一個グレープ・フルーツあげるから」
「やった!」
一気に立ち直ったお兄さんは生き生きとナイフを持ち出す。年上の人なのにどうしても可愛いなァと思わずにいられないのはこういうところだ。
「ハイ、いっちゃん」
半分に切った片割れを、にっこり笑って差し出した。
実のところ、グレープ・フルーツ食べて、親子丼食べて、またグレープ・フルーツ食べてお腹は一杯だったんだけど。「もう入らないです」って断ろうと思ったんだけど。
「ありがとう」
口は勝手にお礼を言って手がささっと受け取ってしまった。
いいじゃない、お腹一杯。そう思ってスプーンを握った。
○
太陽が夕日に色を変えようとして、ようやく帰ろうという気持ちになった。
あの赤い色は、「帰ろう」と思わせるものがある。こういうのって帰巣本能というのだろうか。
「キョン姉、今何時?」
「六時五十四分」
三谷さんはもう行ってしまった。呉さんが来る前に仕事をする気になったのかもしれない。
「もうそろそろバスが来るなァ」
何気なく窓の外を見ると、キョン姉がぽんっと肩に手を置いて囁いた。
「姉さんに宜しくね」
そんな悲しそうな声出さないで。
母さんはここに来た事知らないよ。
でもそんな事キョン姉に言えなかった。
隠して来なきゃならない状況を知らせたくなかった。
本当は、キョン姉はその事も知っていてわざと言ったのかもしれない。
「いっちゃん、これ持ってって」
帰るために持ち物を確認していると、キョン姉がダンボール箱から残りのグレープ・フルーツを取り出した。
「いいよ、キョン姉が食べなよ」
絶対に断ろうと思った。
赤い光りに黄色いグレープ・フルーツのでこぼこした表面が輝く。
「また、私のところには来るから」
そう言われたら、持って帰るしかなかった。心配は要らなかったんだって、そう思って良いんだよね?
「ありがとう」
受け取った二個のグレープ・フルーツをカバンにしまった。
早く帰らないと、バスに間に合わない。そしたら今日はもう家に帰れない。まだ、壊すべきじゃないものがある。
「じゃあね、キョン姉」
「うん、気をつけて、いっちゃん」
か細い声。細い手首。手を振るキョン姉。
「じゃあ、またね」
そうやって、後ろ髪引かれる思いをしまい込んで部屋を後にした。
薄暗い山道を、白いバンが走って下る。
揺られながら、グレープ・フルーツの言い訳を考えた。
でもなんとなく、上手くいく気がする。グレープ・フルーツはおいしいし。
「楽しかった?」
おばさんが訊くから、
「はい、とても」
と答えておいた。
また、来ればいい。キョン姉に会いに、呉さんとか、三谷さんとか、おばさんとか、ほくろのあるお姉さんとかいるし…。
雅おじさんのグレープ・フルーツ食べれるし……。
夕日が眩しくて、俯いた。
どうして悲しいんだろう。あんなに幸せでお腹一杯になって笑ってきたのに。
バンがもと来た山の入口に着いたから、顔を曇らせたまま、なんとか笑顔をつくっておばさんにお礼を言った。
去って行く白いバンは夕日の中だと汚れがよく分かった。
涙を堪えてひとりバス停まで歩く。なんて長い道のり。
―零れたら、負けだ。
空気を震わせない叫びは体を震わせて夕日に溶けた。
最終更新:2009年05月05日 15:10