「・・・・・・最近妙なことが起きるんだよ」
「はぁ」
古ぼけた暁書店の奥にある休憩室の広い机に、二人の高校生が向かい合って座っている。
稲益吟司(ぎんじ)は、向かいに座り真剣に話す高原祥吾を見て、ぬるい麦茶を口に含んだ。
店長の能美謡介(ようすけ)は、興味無さそうに椅子に座り、正面の扇風機の風に中途半端に伸ばされた髪を揺らして本を読んでいる。謡介の左目は半眼になっており、右目は完全に伏せている。左右非対称の表情は常時、不機嫌そうなオーラを発していた。
因みに、この本屋の店員は店長の謡介とバイトの吟司の二人だけで、今店には誰も出ていない。大体、午前中は閑古鳥が狂喜乱舞しているようなものなので、大して問題は無いのだが。
眠たそうに聞いている吟司に、祥吾は芝居がかった表情で話を進める。
「知らない人が家の中に居るんだ」
「ほぉ・・・・・・とりあえず、警察に行けよ」
吟司は簡潔な答えを返す。はたから見ると冷たい一言だが、的を射ている。
「いやいや、いるのは見覚えの無い七歳くらいの女の子なんだよ」
――ロ、ロリ・・・・・・(以下自主規制)
白い目を祥吾に向ける。
「ギン。お前、今すっごく失礼な事考えただろ」
祥吾が吟司を上目で睨む。
「いや、別に。まぁ続けろよ」
「初めは玄関の外にいたから近所の子供かと思ってたんだけど、だんだん家の中に入ってきて少しずつ俺の部屋に近付いて来るんだよ。よく考えたら、夜の二時頃に子供がいるのはおかしいよな」
あはは、と祥吾は快活に笑った。
――そこは笑う所じゃないだろう!・・・・・・時々、高原の頭ん中が分からなくなるな。
吟司は心の中でツッコミを入れ、苦笑いを浮かべた。
「んで、昨日、とうとう俺の部屋の前に佇んでたんだよ。まぁ、さすがの俺も気味悪いし。なぁ、頼む、泊めてくれ。今日一晩で良いから」
祥吾は手を合わせ、吟司を拝むように頭を下げた。
「えー、面倒くさいから嫌だ」
ふい、と吟司は祥吾から目を逸らした。
「へぇ、そんなこと言って良い訳?なんなら高良さんに言っても良いんだよ。お前が・・・・・・」
「ちょ・・・・・・お前っ!」
祥吾の言葉は吟司のアイアンクローによって遮られた。
「・・・・・・ふうん、高良さんねぇ」
今まで無関心に本を読んでいた謡介は、本から目を離さず、にやりと珍しく楽しそうな笑みを浮かべた。
――い、一番弱みを握られてはいけない人に!
吟司に戦慄が走った。この店長に知られたら一、二週間はからかわれることを覚悟しなければならない。
「その話、よく聞かせてくれないか」
――やっぱり聞き出そうとしてるっ!!
「えーっとですねぇ・・・・・・」
嬉々として祥吾が口を開く。
「分かった。分かりました。泊めるよ。ただし俺の部屋はそんなに広くないぞ」
「わー、ギンってば優しい!」
わざとらしく満面の笑みで喜ぶ祥吾の向かいで、がっくりと吟司は肩を落とした。
夜の十時過ぎ。明日の準備も終え、吟司が帰り支度を始めると、どこからともなく祥吾が近付いてきた。
どうやら終わるまで吟司を待っていたらしい。
その時、謡介は初めて左右両方の目で祥吾を見、少し遠くを見るように眉根を寄せた。
謡介の眉間に皺が三本ほどできた。一見怒っているような表情で二人をじっと凝視している。
――珍しいな。店長が両目を開けてる。
心の中で吟司は呟いた。見慣れない色彩が吟司の目に映る。
左の瞳は少し茶色がかった黒。そして右の瞳はまるで空の色をそのまま写し取ったような、鮮やかな青色だった。
――やっぱり、何回見ても慣れないな。苦手だ。店長の右目って・・・・・・
そう思い、吟司は謡介から視線をはずした。
「わぁ、店長さん、右目青いんですね。カラコンですか?それとも先祖に外国の人とかいるんですか?」
祥吾が明るく、好奇心に満ちた声で謡介に話し掛ける。
「・・・・・・いや、もともと色素が抜けてたらしい。先祖に外国人の血が入っているとは聞いた事が無いな」
謡介は慣れた様子で答えた。おそらく何度も聞かれた質問なのだろう。
「なんで、いつも右目つぶってるんですか?」
「右目は視力がほとんど無いんでね、両目で見ると余計見にくいんだ」
「へぇ。じゃあ、コンタクトレンズつければ良いんじゃないですか」
「・・・・・・あんな異物を目に入れるなんざ、信じられん」
「あははは、意外と怖がりなんですねぇ」
次々と繰り出される祥吾の言葉に、吟司は謡介の機嫌が悪くならないかとハラハラした。謡介は他人と関わることはあまり好きではない。しかし謡介の顔を盗み見ると、それほど怖い顔はしていない。
「意外だ・・・・・・」
ポツリと吟司は呟いた。実は謡介と祥吾は何か波動が合うのかもしれない。
「『見鬼』というものを知っているか?」
カウンターの上に腰をおろしている謡介が唐突に言う。店の入り口のところで談笑していた吟司と祥吾には覚えが無いらしく、店の入り口を開けたまま、ん?と首をひねった。声のした方を見ると、謡介は少しうつむくように顔を伏せており、表情が読み取れない。
「昔の中国で『青い目』を持つ人間は『見鬼』と呼ばれ、『鬼』ようするに『死者』が見えると思われていた。・・・・・・俺のこの右目は何を見ていると思う?」
そう言い、謡介は顔を上げる。見えないはずの青い瞳が正確に二人を捉えた、気がした。全てを見透かされそうな視線にゾクッとする。背後に息づく暗闇が何か得体の知れ無いモノのように思えてきた。
「・・・・・・ま、冗談だ。いつまでも喋ってないでさっさと帰れ」
そう言うと、謡介は住居スペースの方へ踵を返した。一瞬だけ見えた謡介の、人を小馬鹿にしたような表情に、ようやく吟司は自分がおちょくられている事に気付いた。
「なぁ、ギン。起きてるか?」
暗闇の中で声が掛かった。吟司はもぞもぞと身体を動かし、前日まで自分が寝ていたベッドを見上げた。一応客の祥吾に譲ってやったのだ。
「昼に話した事なんだけど、俺、見覚えの無い女の子って言ったよな。本当は知ってる子だったんだよ」
「・・・・・・小学校時代、こっぴどく振った女子生徒か?」
「いや、違うし。小さい時、『鬼ごっこ』って流行らなかったか?俺たちのところでは『目隠し鬼』っていう室内で遊ぶ鬼ごっこが流行ってな。そのの遊び方は、一人鬼を決めて目隠しをする。そして他の子供は鬼から離れて、手を叩くんだ。『鬼さんこちら。手の鳴るほうへ』って。結構一般的な遊びだと思うけど」
「知らないな。『高鬼』とか『氷鬼』は流行ったが。で、その『目隠し鬼』がどうかしたのか?」
吟司は布団の上に体を起こした。
「うん、さっき室内の遊びって言ったろ。俺たちは若槻山(地元の山)の近くの誰も住んでない家の中で遊んでた。いくら無人の家だからって一応持ち主が居ただろうし、今から考えりゃ不法侵入だな。
で、ある日俺が鬼になって、いつものように目隠しをして遊び始めた。でも、その日は日が暮れる時間になっても一人だけ捕まえられなくて、みんなで探したんだけど、とうとう見つからなかった。
もともと目隠しをして遊ぶ遊びだから、そんなに遊ぶ範囲は広くないんだけどな。
家に帰ったのかと思って、俺たちも各自宅に帰ったんだけど、その子は結局戻ってなくて。翌日、大人の人と探したんだけどやっぱり見つからなかった。・・・・・・今もまだ、行方不明らしい」
そこまで言い、祥吾はふぅ、と息をついた。
「ふうん・・・・・・で、夜な夜なお前に近付いてくるのは、その行方不明になった子ということか?」
「そう、みたいなんだ。・・・・・・残さず捕まえるのは鬼の仕事なのに。俺はあの子を置いて来ちまった」
いつもあっけらかんとしている祥吾の声が、微かに震えていた。
「でも、事故って事もあるだろう?高原の所為とも限らないじゃないか」
――なんで高原を励ましてるんだろう
そう思い、吟司は気付かれないように首をひねった。
「店長さんに『見鬼』の話をされた時、ふと思い出したんだ。それだけ。んじゃ、寝る」
一方的に宣言し、祥吾はタオルケットを自分の身体に掛け直した。吟司はしばらく祥吾の後頭部を見つめ、やがて自分もタオルケットを被り、目をつぶった。
暗闇の中、祥吾が目を開けると見覚えの無い天井が見えた。
「あ、そうか。ギンの家に泊まってたんだっけ」
窓の外はまだ薄暗く、起きる時間にしては早すぎるようだ。下に寝ている吟司を見下ろすと、自分の身体にタオルケットを巻きつけるようにして眠っていた。夏休みといえども夜明け前の気温はかなり低い。放射冷却というやつだ。
「ミノムシみたいでマヌケ。・・・・・・もう一回寝るか」
再び寝ようとすると、ヒタッヒタッと裸足でフローリングを歩くような音が聞こえた。
無意識のうちに部屋のドアの方を見ると、祥吾は心臓を鷲掴みされたような感覚をおぼえた。少し開いたドアの隙間から小さな子供の両手が差し込まれている。薄暗い部屋の中、青白い両手は明らかに異質なものだった。
そして、その両手はちょうど拍手をするような感じでピタンピタンと手を鳴らし始めた。
朝の放射冷却現象とはまた違った冷気が部屋の中に満ちる。ひんやりとした空気の中、祥吾は自分の背中に汗が浮かんでいるのを感じた。
部屋に差し込まれている両手から目を逸らすことが出来ず、視線だけドアの向こうへ腕をたどった。細い腕、白い半そでのTシャツ、茶色いハーフパンツ、見覚えのある幼い顔。活発そうな目は真っ直ぐ祥吾を見つめていたが、その瞳は純粋な狂気を含んでいた。
「・・・・・・みずき」
祥吾はうめくような掠れた声で少女の名前呟いた。
「オニさんこちら、手のなるほうへ」
少女ははまるで歌うように言ってから手を叩き、祥吾を招いた。
祥吾が着ているジャージのポケットに手を入れると、指先に布の感触がした。それをつまんで取り出してみると、薄汚れた白いハチマキのような――いつも『目隠し鬼』で使っていた――布だった。あの行方不明事件の後に無くしたと思っていたが。
――まだ『目隠し鬼』は続いている。自分は最後まで『鬼』の責任を果たさなければならない。
祥吾は昔と同じように白い布で目隠しをした。
目の前に白い闇が下りてくる。その感覚に懐かしさを覚え、無意識のうちに口元がほころんだ。
そして祥吾は、まるで夢遊病患者のような危うい足取りで少女の声と手を叩く音に導かれ、吟司の部屋を後にした。
「――っくしゅっ!ん?」
吟司が朝の冷気にくしゃみをし、体を起こすと、ベッドに寝ているはずの祥吾の姿が見当たらなかった。
ベッドを触ってみると、まだ微かに温かみがある。抜け出してから時間はあまり経っていないのだろう。
――ま、そのうち戻ってくるだろう
そう思い、扇風機の前に座りうつらうつらしていると、ゴンッと扇風機に頭突きをくらわしてしまった。
「――ってぇ」
勢いよくぶつけた額をさする。再び時計を見ると、だいたい十分位うたた寝をしていたようだ。
まだ祥吾はベッドに戻って来ていなかった。トイレで寝こけているのかと思い、一応トイレも見てきたが、祥吾はトイレにもダイニングにも居なかった。
「ったく、どこに行ったんだ。高原の奴」
どうやらもう家の中にはいないようだ。こんな早朝、というか明け方前からどこへ行ったというのか。
「ラジオ体操か?いや、放送は六時半からだ。・・・・・・どーも、ヤな予感がするな」
昨日の夜も少し様子がおかしかったし。そう呟き、吟司は黒いタンクトップの上に地味目のアロハシャツを羽織り、外へ飛び出した。
謡介から預かった合鍵で書店の表玄関を開けて、奥にある謡介の住居スペースの方へ足を運び、扉の前に立つと、深呼吸を一回して吟司はノックをした。
「て、店長っ!起きてください。高原が居なくなりました」
数秒ドアの前で待つと、中から恐ろしく機嫌の悪い謡介が顔を出した。
「何だ、こんな夜明け前に」
謡介は長い前髪を掻き上げると、左右違う色の目で吟司を睨みつけた。鋭い目つきに一瞬吟司はたじろぐが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「高原が消えたんですよ」
「そんな事は知らん。自分で探せ。というか何故ここに来る?」
いつも通りの冷淡な対応。しかも寝起きで相当危険な状態だ。
「だって親は寝てるし」
「俺も寝ていた」
目つきの悪い謡介の眉間に皺が寄る。はっきり言って凶悪な顔だ。眉間の皺はいつもより一本多い四本だな、と吟司はぼんやり思った。
「でも、店長だったら免許持ってて、一緒に探してくれるかと・・・・・・」
最後の方になると、だんだん声が小さくなっていく。吟司はしゅん、と頭を垂れた。
「・・・・・・で、友人の行き先の検討はついてるんだろうな」
どうやら協力してくれる気になったらしい。
「いや、それがまったく・・・・・・」
ふう、と謡介がため息をつき、部屋の中に戻ろうとする。
「あぁー、店長、ちょっと待ってください。えーっとですね、昨日の夜に・・・・・・」
昨晩、祥吾が喋った、ある意味悔恨の念を含んだような話を、所々かいつまんで謡介に話した。
「ふむ、その女の子はショートカットの活発そうな女の子じゃないか?」
「高原もそんな事を言ってたような・・・・・・っていうか、何で知ってんですか?」
吟司は首を傾げた。
「とりあえず、その若槻山の方へ行くか。お前の家からはそう遠くはないはずだ」
謡介は吟司の質問を軽く無視し、まだ日の昇っていない東の方を見た。
「詳しいんですね」
「まあ、地元人だからな。・・・・・・そういえば、お前は俺の免許をアテにして来たと言ったな」
「はぁ、そうですけど」
嫌な予感がした。そういえば、この謡介の住居をも兼ねた暁書店には駐車スペースが無い。
「免許は持っているが、ウチに車は無いぞ」
「・・・・・・え、えぇ――――っ!」
「やかましいっ!今何時だと思っていやがる」
パシンッと小気味のいい音が、夜明け前の町に響いた。
「車は無いが、コレはある」
そう言って謡介は、暁書店の隣の狭い路地から、黒くて大きな物を引きずるようにして取り出した。
「・・・・・・でっかいバイク」
謡介が取り出したのは、おそらくナナハンと呼ばれる位の大型のバイクだった。
「て、店長、大型自動二輪免許持ってたんですか?」
「もちろんだ。何故免許も持ってないのにバイクを買わねばいかんのだ」
意外だった。謡介は細いし小柄だ。店でも力仕事は全くと言って良いほどしない。吟司に命令をするだけだ。その謡介に二百四十キロ以上もあるバイクを操れるとは到底思えなかった。
「・・・・・・しかし、倒れると起こしきらん」
「駄目じゃないですか!そんなんでどうやって免許取ったんですか!初歩の初歩ですよ!」
「・・・・・・まぁ、気にするな」
謡介はニヤリと口元に笑いを浮かべた。
「さ、最後にこのバイクに乗ったのはいつですか?」
「免許を取った当時に何度か。だから・・・・・・ざっと7,8年前か。あとは車検の時とか」
くらっと吟司は目の前が暗くなった。
――ヤバイ、死ぬ。絶対死ぬ!
「で、乗るのか、乗らないのか」
両手に黒い皮の手袋をつけながら、謡介が冷たい声で問い掛ける。究極の選択だった。
「・・・・・・の、乗ります」
吟司は謡介から軽いヘルメットを渡された。
――これが俺の命綱か・・・・・・
早くも数秒前の返事を後悔し始めた吟司だった。
暗闇の中、祥吾は小さな女の子の声を頼りに足を進める。
微かな埃の匂いに、祥吾は懐かしさを感じた。
「ここは・・・・・・あの家か?」
顔を上げてみるが、視界は相変わらず白い闇が支配していた。
ギシギシと鳴る床を裸足のまま、頼りない足取りで進む。
「オニさん、こちら。手のなるほうへ」
声が近い。手を伸ばすと、何かに触れた。
「こんどこそ・・・・・・」
もう一度手を伸ばすと、ひんやりとした腕を捕まえた。
「捕まえたよ、みずき」
そして、祥吾は今まで視界を遮っていた白い布をはずした。
屋根の崩れ落ちた廃屋の中、少女は青い薄明かりの中立っていた。
「次は、みずきが鬼だ」
四十センチ以上身長差がある少女に祥吾は目隠しをかけた。その動作は神聖な儀式のそれのようだった。
「おい、着いたぞ」
目を開けると五体満足の姿で、吟司は謡介にしがみ付いていた。
謡介の運転は暴走族顔負けの乱暴な運転だったが、幸運な事に、国道に車は一台も走っていなかった。おそらく、警官がいたら一発で免停になるくらい違反キップを切られていた事だろう。
「若槻山の近くの廃屋って言ったらこれしかないからな・・・・・・おい、いつまでくっ付いている」
謡介に睨まれ、吟司は慌ててバイクから飛び降りる。
「・・・・・・俺、生きて地面を踏めた事を神に感謝します」
吟司は静かに天を仰いだ。まだ足元の地面がぐらぐらする。
「何を言っている。とりあえず、中に入ってさっさと友達を見つけて来い」
「えっ、店長は行かないんですか」
「何故お前の友達を探しに行かねばならんのだ。連れて来てやっただけでもありがたいと思え」
突き放すような謡介の物言いに、吟司はがっくりと肩を下ろした。
靴のまま廃屋に上がると、ギシッギシッと床が鳴る。吟司は少々ビビりつつも勢いよく扉を開けた。
部屋の真ん中のほうに祥吾が倒れていた。そして、倒れている祥吾のすぐ近くに、小学一、二年生くらいの少女が立っていた。少女は顔を伏せており、全くと言って良いほど表情が読み取れない。
「お前、何やって・・・・・・」
その女の子に掛けようとした言葉は途中で途切れた。少女が吟司の方へ顔を向けたのだ。
女の子の目には、白い布でかたく目隠しがされていた。そしてその少女は、目隠しをされて見えないはずの両目で、ぴたりと吟司をとらえ、とても楽しそうに笑った。無邪気な笑顔の中には純粋な狂気がたたえられており、その異様な姿に吟司は息を呑んだ。
「お兄ちゃん、しょうちゃんの友だち?」
「あ、あぁ」
――しょうちゃん、とは高原の事だろうな
爽やかな声で喋り始めた少女に、思わず答えてしまった。
「じゃあ、あそぼう。『目かくしオニ』だよ。私がオニ。お兄ちゃんがにげるの」
周囲の冷気に、吟司は思わず腕をさする。
「イヤだ。俺は遊ばない。高原を連れ帰って、もう一眠りするんだ」
吟司の拒絶の言葉に、少女は楽しそうに笑う。
「ダメだよ。もう『目かくしオニ』ははじまってるんだから」
そう言い、少女は歩き出す。目は完全に見えないはずなのに、正確に吟司の方へ。
――なんか、ヤバい雰囲気だな・・・・・・
吟司は身体を強張らせ、一、二歩後ずさる。ギシッと古い床板が鳴った。
その瞬間、少女はものすごい速さで吟司の方へ走り出した。
「うわっ!」
某映画の貞子がテレビから出てくる恐怖を(新しい単位風に)一Sdc(サダコ)とすると、それは約二十四Sdc位の恐怖だった。
思わず少女に背を向け全速力で走り出した吟司を、誰も責められはしないだろう。
吟司が全速力で走りながら後ろの少女振り向くと、小学校に入るか入らないか位の年とは思えないほどの速度で追いかけてくる。ギッ、ギッ、ギッと走る吟司の足の動きに合わせて古びた床が鳴った。
――うわぁ~、追ってくるよ。
運動神経は人並み以上にあると自負する吟司だが、限界というものがある。
一体どれだけのドアを開け、どれだけ廊下の角を曲がっただろうか。数分間走りつづけ、さすがに吟司の走る速度が落ちてきた。呼吸も荒くなる。
すると突然真横の障子が開き、何者かの手が吟司の胸元を掴み、部屋の中に引きずり込んだ。吟司は瞬時に口をふさがれ、畳の床に組み伏せられた。かび臭い畳に後頭部を押し付けられる。
「――っ!」
吟司はテンパっている頭を無理に落ち着かせ、自分を組み伏せている相手を見上げる。
中途半端に伸ばされた髪。左右色違いの瞳。
――て、店長・・・・・・なんで此処に?
「しっ、黙ってろ」
謡介の凶悪ともいえる目つきに、吟司は大人しく従った。
「あれぇ、お兄ちゃん、ドコ?『オニさんこちら』って言ってくれないと分かんないよ」
幼い声が近付き、狭い障子の隙間から青白い素足が見え、吟司は身体を強張らせる。
キシッ、キシッという軽い足音はだんだん遠ざかり、やがて聞こえなくなる。その時になってようやく、吟司は謡介から解放された。
「ぷはっ。あ、ありがとうございました。何ですか、あの女の子は」
少女に聞こえないよう小声で喋る。
「知るか。目隠し鬼の『オニ』だろう?」
「そうですけど・・・・・・」
冷たく言い放った謡介に二の句が告げれない。周囲を見回すと、相当広い部屋のようだった。
「目隠ししてるのに正確に俺の後追ってくるし、走るのもめっちゃ速かったですよ」
「まぁ、正確に追ってくるのは音の所為だろう。視覚が遮られるとそれ以外の他の感覚が良く働くらしい。ここは床も良く鳴るしな。・・・・・・それより稲益、お前、あの子は生きている人間だと思うか?」
「ど、どういうことですか?」
思わず吟司は声をあげた。
「おいっ、馬鹿。声がでかい」
吟司はとっさに自分の口元を抑えるが、時既に遅し。
「見つけた。ここにいたんだね」
廊下に少女が立っているのが障子の隙間から見えた。
「・・・・・・良いか、あの子の二、三メートル先を見るように目のピントを外せ。ちょうど交差法で3Dを見るような感じだ」
ボソリと吟司にしか聞こえないくらいの小さい声で謡介が命じた。一度頷き、吟司は謡介に言われたように目のピントを外していく。大体寄り目の要領なのだが、これがなかなか難しい。
だんだん視界がぼやけていき、それがまったく違うところでピントが合い鮮明になる。
「――っ!」
目隠しをした少女の顔に頭蓋骨が浮き上がって見え、吟司は息を呑む。
「見えたか。何に見える?」
「・・・・・・頭蓋骨。いや、全身の骨格、かな。小学校の理科室で見たような感じの」
「それがアレの正体だ。風化具合から見て、目隠し鬼の最中に行方不明になった少女本人のものだろう。事故で死んだようだが、今まで発見されなかったみたいだな」
ぽそぽそと小声で喋りながら後退している間にも、ゆっくりと目隠しをした少女が近付いてくる。
「いいか、本体は骨だ。しかも風化して相当脆くなっている筈だ。そしてアレは二本足で歩いている。アレの歩みを止めるにはどうしたら良いと思う?」
「・・・・・・足を狙う」
そう言うなり吟司は早足で少女に近付き、素早く畳に手をつけ、右足を軸にして足払いの要領で、左足を青白く細い少女の足に叩きつけた。
メキャ、と嫌な感触がして、少女が崩れ落ちた。
「両足とも折れた、かな・・・・・・脛が痛い」
「上手いな」
「一時期、カポエラに凝ってたんですよ。俺」
そう呟き、吟司は立ち上がった。足元には少女が倒れている。先ほどの衝撃からか、目隠しが外れかけていた。
「・・・・・・あれ?」
両足を砕かれた少女は、突然動かなくなった足を不思議に思うように小さな声をあげる。しかし、足が動かないと悟ると、両肘を畳に立て、匍匐前進の要領でふたたび凄まじい速度で吟司の方へ進んできた。
――て、テケテケっ?
「うわっ!」
とっさに少女を跨ぎ、後ろに下がるが、背後にはすぐ壁があり、背中が壁にぶつかる。
――やべっ、逃げ場が・・・・・・
既に少女は吟司の数十センチ手前にまで迫っている。
――捕まるっ!
そう思い、とっさに吟司が目をつぶると、カチッと金属音が鳴った。数秒経ったが何も起こらない。そっと目を開けると、少女は背中を踏みつけられて動きを止められており、側頭部には、二インチくらいで小さな手のひらサイズの小銃が押し付けられていた。少女の背中を踏みつけ、小銃を持っているのはいつもと変わらない冷淡な表情の謡介だった。
「店長・・・・・・その銃、おもちゃですよね?」
「そんなわけないだろう」
恐る恐る問い掛けた吟司に、謡介は悠然と答えた。
「銃刀法違反ですよ?」
「いまどき、こんなのは何処でも手に入るんだよ」
銃を突きつけられている少女は、何故自分がこのような状態になっているのか理解できないという様子で、きょとん、としていた。目隠しは完全に外れて、少女の首にぶら下がっている。
「I therefore commit her body to ground. Earth to earth, ashes to ashes, dust to dust.」(※暇があったら訳してみよう)
謡介は短い英文をぞっとするような低い声で呟き、引き金に掛けた人差し指に力を込めた。
「ちょっ、待ってください!何する気ですか?」
なんとなく英文の聞き取れた吟司は、慌てて吟司は謡介の右腕を掴んだ。
「決まっているだろう。もう一度コイツには死んでもらう」
「なんで・・・・・・?」
「何故だと?」
ギロッとそれこそ鬼のような目つきで謡介は吟司を睨んだ。
「いいか、稲益。コイツは既に死んでいる。死んでいる者は此の世にいてはいけない。それが世の理というモノだ。しかし、コイツはいまだに此の世に居座っている。コレは異常な事だ。では正常に戻すにはどうすれば良い?簡単だ。もう一度コイツを此の世から消せば良い。灰は灰へ。塵は塵へ、だ」
謡介は畳み掛けるように言った。
「だ、駄目です!」
「何故だ!コイツは死んでいるんだぞ」
「こ、この子は、此処に居るんですよ!」
必死な吟司の眼差しと、感情を全く排除した謡介の冷たい視線が交錯した。
この空間に、確かにこの少女は存在している。それは事実。しかし真実ではない。
「・・・・・・ではお前の好きにしろ」
謡介は小銃を無造作に吟司の方へ放り、踵をかえした。
「なっ、どうしろって言うんですか・・・・・・俺に」
思わず謡介が放った小銃を受け取り、消え入りそうな声で問い掛ける。
「知るか。自分で考えろ」
謡介は吐き捨てるように言うと、ガタン、と立て付けの悪い障子を蹴飛ばしながら部屋を出た。
かび臭い和室の中には、糸の切れた操り人形のように動かない少女と、小銃を左手に握り、半ば呆然とした様子で畳に座り込んだ少年だけが残された。
どれくらいそうしていただろうか。小銃に視線を落としたまま、吟司は口を開いた。
「・・・・・・君は、何を望んでいるんだ?」
――『オニ』という存在になっても此処に居たいのか。それとも・・・・・・
「・・・・・・」
少女は答えない。ただ真っ直ぐな眼差しで、吟司を見つめている。
『一度死んだ人間はけっして生き返らない。それが自然の摂理だ』
謡介が障子を蹴飛ばしながら小声で言った言葉が、吟司の頭をよぎる。一度天井を仰ぐと深呼吸をした。
――自分は引き金を引く。それはこの少女の望みでも店長の所為でもなく、まぎれもなく自分の意志で。
吟司は真っ直ぐ正面を見据えると、震えの止まった左手で小銃を握り、ゆるゆると少女の眉間に構えた。
少女のガラス玉のような目と視線が合う。
「全部、俺の所為にして良いから。俺の事怨んでくれても構わないから。だから・・・・・・ごめんな」
聞き取りにくい小さな声で吟司は呟き、小銃の引き金を引く。
パンッ、と軽い音が白々と明けてきた暁の空に響いた。
「やはり、君だったか・・・・・・」
謡介が低い声で呟く。広い部屋の中には、崩れ落ちた天井からは夜明けを告げる淡い光が差し込んでおり、その真ん中に佇んでいる祥吾は、まるで聖者かなにかのようだった。
「えぇ」
パタパタと服についた埃を叩き落とすと、微かに祥吾は笑った。
「俺がみずきを『鬼』にしたんですよ。まぁ、貴方は既に気付いているようですが」
服の埃を大方叩き落とした後で、祥吾は謡介と正面から対峙した。
「みずき、とは少女の名前か。・・・・・・何故、そのような事をする?君にプラスになることは無いだろう」
「理由、理由ですか・・・・・」
うーん、と祥吾は僅かに首をかしげる。
「しいて言えば、俺も彼女もそれを望んだからででしょうね」
「望んだ?」
祥吾の答えに謡介は眉間に皺を寄せる。
「あれ、ギンから聞いてませんか?俺は目隠し鬼の『鬼』だったんですよ」
謡介が怪訝な顔をすると、祥吾はくすくすと笑った。
「『鬼ごっこ』の起源は知っていますか?昔の宗教的儀式だったらしいです。『鬼』というモノは人では持ちえない力を持っています。その『鬼』を人に降ろす、という儀式が始まりだったらしいです。それが子供達の遊びとなり、全国に広まった。
その『鬼ごっこ』から派生したのが『目隠し鬼』という遊びです。コレは『鬼ごっこ』より、もっと儀式的で、まず『目隠し鬼』では当然目隠しをしますよね。目隠しをすると視覚が全く利かなくなります。それによって『鬼』している人はある種のトランス状態に陥るらしいです。つまり、『鬼』に憑かれた時と同じ状態になる。
- 遊びのなかで一人くらい本物の『鬼』に憑かれたって分からないと思いません?」
数拍、間を置いて謡介が口を開く。
「『鬼憑き』か?」
「う・・・・・・ん、あまり憑かれているという感じはありませんね。既に俺の一部になっているのかもしれない。貴方と同じですよ。・・・・・・貴方の右目には『鬼』がいる。いや、それとも貴方自身が『鬼』なのか」
「・・・・・・ふうん」
謡介が興味なさげに呟く。
そんな謡介を気にする様子も無く、祥吾は続けて喋る。
「俺が初めにみずきを見つけた時、彼女は何故自分が死んだのか分からないままこの家で彷徨っていた。俺はみずきにもう一度生きて欲しかったわけです。だって、俺が見つけてやれなかった所為で、みずきは死んだのだから」
そう言うと、祥吾は自嘲気味に微笑んだ。
「たとえ、人間で無くなったとしても、か?」
「生きるのに人間である必要は無いんですよ。『生きる』という行為そのものに意味がある。だから俺は、みずきに『鬼』というポジションを与えた。ただそれだけです」
数秒、謡介と祥吾の間に沈黙が流れる。
パンッ、と軽い音が少し遠くから聞こえた。
その瞬間、弾かれたように祥吾は音がした方向へ首をめぐらせた。
「・・・・・・ギンが?」
「あぁ。思いのほか早い決断だったな」
そう呟いた謡介の足元を、ピョコピョコと小さいモノがすりぬけて行く。その小さいモノを目で追うと、祥吾の左肩にちょこんと腰掛けた。赤黒い身体に、骨に皮しかついていないかのような細い手足。栄養失調の子供のように腹は膨らんでおり、幾筋も血管の浮いている頭には二つの小さな角が覗いていた。
――鬼、か・・・・・・。
祥吾の左肩に乗っている『鬼』を謡介が冷ややかな目で見つめると、顔の中央についている琥珀色の一つ目と視線がかち合った。目を凝らすようによく見てみると、一匹だけでなくもう一匹祥吾の肩に乗っている。もう一匹の方は青黒い身体で、一つしかない瞳は鮮やかな紅色だった。どうやら少女に憑いていた赤黒い鬼一匹だけで、青い方は祥吾と一緒に居たらしい。
「キキッ」
鬼が甲高い声をあげた。耳障りだとでもいうように、謡介は眉をしかめる。
「君は、役小角にでもなったつもりか?」
謡介が『鬼』がいる空間に冷たい視線を送る。役小角とは飛鳥時代に『前鬼』『後鬼』という二匹の鬼を従え、数々の超能力を起こしたとされる人物である(もちろん真偽の程は定かではないが)。
「使役しているつもりはありませんよ・・・・・・ま、あえて言うなら共存というところです」
もう戻っていいよ、と祥吾が呟くと、二匹の鬼は掻き消えた。
薄暗い和室の中、古い畳に膝をついて呆然としていた吟司は一度瞬きをした。ようやく目の焦点が合う。
「あ、そういえば高原を探しに来たんだっけ・・・・・・」
呟いた吟司は、のろのろと立ち上がった。カラン、と爪先に何かあたった感触がして、吟司が足元を見下ろすと、両足が砕かれ、頭蓋骨に穴のあいた小さな白骨死体が横たわっている。
「ごめんな」
変わり果てた少女――だったモノ――に声を掛け、吟司は謡介が蹴飛ばして余計立て付けの悪くなった障子を外し、この家に初めて入った時に祥吾を見つけた大きな部屋を目指した。
ふぅ、と謡介は一度ゆっくりと息を吐き、言葉をつむぐ。
「何故、あいつを巻き込んだ。君は初めから稲益の家に泊まるつもりだっただろう?」
「そうですね。・・・・・・俺がギンの家に泊まらせてもらったのは『必然』。そして、俺が貴方に会ったのは『偶然』です。でも、ギンが貴方の店で働いていたのは『必然』だったかもしれない」
祥吾が口の端を引き上げるようにして笑った。
その時、謡介の背後の扉が開き、長身の人影が入ってきた。
「あ、高原・・・・・・良かったー。お前、大丈夫だったんだな?」
吟司は前に立っている祥吾を確認すると、へなへなと謡介の隣に座り込むなり、口元を抑えた。
「ギン、どうした?」
心配した様子で祥吾が吟司の傍に近付く。
「なんか、色々あって・・・・・・気持ち悪い。吐きそう」
「「はぁ?」」
祥吾と謡介の言葉が見事にハモった。吟司の顔色は土気色、というほどでもないが青白かった。
「・・・・・・とりあえず、帰るか」
「ですね」
――バイクで三人乗りは出来んが・・・・・・
謡介は大きくため息をつき、バイクの鍵を探すため、ズボンのポケットに手を差し込んだ。
翌日
「何故、君がココに居る?」
謡介のむっとした表情を、祥吾はへらっという笑顔で受け流した。
「何でって、そりゃあ、ギンの具合が悪かったからですよ」
たしかに昨日は吟司の体調は万全ではなく、店は謡介の気まぐれで『臨時休業』になっていたが、今日からは吟司がバイトに来るので店を開けていた。
「ところで、この店で俺を雇ってくれませんか?」
「・・・・・・何故だ?」
「稲益吟司だけじゃなく、貴方やこの本屋そのもの、この本屋に居るモノについて興味があるからです」
にっこりと微笑んだ祥吾に、謡介が何か言おうと口を開いた時、暁書店の入り口が勢いよく開いた音が響くと同時に、ゴンッと何かがぶつかった音がした。
「――つぅ」
謡介と祥吾が入り口の方に顔を出すと、吟司が自分の額を抑えている姿が目に入った。どうやら入り口の鴨居で頭を打ち付けたらしい。これだから長身の人間は不便だ。
「稲益、身体はもう大丈夫なのか?」
「俺、丈夫だから寝たら治るんですよ。稲益吟司、元気になりました」
目に涙を溜めたまま、吟司は謡介に笑いかけた。空元気に少しの悲しみを混ぜたような、微妙な笑顔。
「・・・・・・昨日、季丹社の新刊を入荷した。平台に並べろ」
「はいっ」
吟司は、店の裏にある倉庫から大きめのダンボールを二箱抱えてきて、平台の上に中の本を並べ始めた。
「あれ、何で高原が居るんだ?」
祥吾に問いかけながらも、吟司は平台に本を並べる作業を続ける。
「俺も此処で働く事になったんだ」
「へぇ、良かったな。店長はちょっと怖いが、なかなか楽しいぞ」
「だろうね」
祥吾は目を細めるようにして謡介を見上げた。
――いいでしょう?
「・・・・・・かまわん。好きにしろ」
謡介は右目を伏せた左右非対称の表情で、吐き捨てるように呟いた。
「あ、倉庫にケータイ忘れてきた。ちょっと取ってきます」
平台に新刊を大方並べ終わると、吟司は立ち上がり、小走りで裏の倉庫へ向かった。
店の中は、再び謡介と祥吾の二人だけになる。
「何故、君は稲益に興味がある?」
手元の本に視線を落とし、謡介は無関心そうな声で問い掛けた。
「何ででしょうねぇ・・・・・・多分ギン本人は無意識なんだろうけど、なんか、そういうモノを引き寄せる雰囲気があるんですよ、あいつには。それにギンは全てに対して無条件に優しい」
謡介は吟司が廃屋で言った「この子は此処に居る」という言葉を思い出した。それが優しさか。
まだ謡介の右腕には吟司に捉まれた跡がうっすらと残っている。よほど強く捉まれたのだろう。
「ギンがどんなモノを引き寄せるか、俺はそれを見てみたいんですよ」
そう言い、祥吾は子供のように無邪気な顔で笑った。
「優しさねぇ・・・・・・只の甘い奴だと思うが。まぁ好きなようにするが良い。俺は二階に居る。詳しい事は稲益の仕事を見て覚えろ。あと、何か用があったら下から叫べ。上がって来るなよ」
「はいっ!・・・・・・あ、これ因みに営業用の笑顔なんで」
祥吾はにっこりと爽やかな笑顔を浮かべるが、謡介は一瞥しただけで、何も言わず店の奥に向かった。
――色んなモノに懐かれる、ねぇ・・・・・・
薄暗い六畳ほどの狭い和室の壁は一面本棚で、みつしりと隙間無く本が並べてある。その部屋で一つしかない窓のある壁に背中を当て、謡介は片膝を立てて床に座った。部屋の中は真夏の昼間だというのに日光はほとんど入らず、薄暗い。
謡介の正面には十歳くらいで赤い浴衣を来た髪の長い少女がぼんやりと座っている。
祥吾は人間である必要は無く、『生きる』という行動そのものに意味がある、と言った。では家族からも拒絶され、自分で自分を否定し、全ての物を――家族も、そして自分さえも――無くしたこの少女は、存在だけが有るこの少女は、はたして『生きている』と言えるのだろうか。この娘が此処に居る意味は?
そんな事を漠然と考えつつ、謡介は柔らかそうな少女の頬に、ゆっくりと腕を伸ばす。謡介の長い指が少女の頬に触れる寸前、少女はまるで霞のように消えた。伸ばされた謡介の腕がむなしく空を切る。
「幾ら年月が経とうとも、やはり貴女は俺を拒絶し続けるのだな・・・・・・」
続く言葉を舌の上で転がしながら、謡介は寂しい笑みを口元に浮かべた。
一階の書店からは吟司と祥吾の明るい話し声が遠く聞こえてくる。若いってのは羨ましいねぇ・・・・・・。
――そういえば、この店を『暁書店』と名付けたのは、先代のこの店のオーナーだったように思える。もう二十年も前の事だが。
『夜と昼の境目――暁――には混沌とした美しさがあると私は思うんですよ。・・・・・・でも、けっして闇を見入ってはいけない。闇には全てを魅了する妖艶さがあるから。さ、顔を上げて下さい。群青色の空の中に綺麗な朝焼けが見えるでしょう?これが暁です。この店の名前は『暁書店』。生まれながらにして闇に魅入られた謡介に暁、夜明けが来るように。・・・・・・此処には私も、君と彼女のことを一番心配している私の孫も居ます。だから・・・・・・』
――もう、泣かないで下さい、謡介。
物腰の柔らかい初老の男性が、幼い謡介に語りかける。
謡介は幼い頃の記憶を振り払うように一度首を振ると、ほとんど視力の無い右目を手でおさえ、天井を仰いだ。祥吾の肩に乗った『鬼』を思い出す。少年はあの異形のモノを受け入れていたのだろうか。
――この右目が映すのは、闇。此の世のものでは無いモノ。生まれた時から、かれこれ三十年近い付き合いだが・・・・・・俺はいまだに受け入れられそうにない。
自分は何度この青い目玉を抉り出そうかと思ったか。その回数はおそらく両手の指の数では足るまい。
「闇と光の狭間で・・・・・・それでも光の方を見つめていたい。そう思うのは俺の我侭なんだろうか・・・・・・」
弱々しく呟いた謡介の言葉は、誰にも聞かれる事も無く、湿気の少ない夏の空気に溶けていった。
<了>
最終更新:2009年04月30日 00:03