この声が聞こえますか
どれだけ離れていても 私の時が止まっても
貴方の笑顔が曇る事の無い様に―
華道の家元である此の家の庭の外れには、桜の、それは見事な木がある。
幼い頃、春になると私はずっとこの木の下で、一人で遊んだ。
父と、母が周囲に余り温かいとは言えない眼差しの中で結婚した所為もあるのだろう。私は父から受け継いだ此の血が流れている、という理由だけで家で育てられた。しかし母は、周囲の所為か次第に病気がちになり、私が3歳の時に帰らぬ人になってしまった。
それを待っていたかの様に周囲は父に再婚話を持ちかけて、父は再婚し、腹違いの妹と弟が出来た。私の存在価値は、無いも同然だった。
此の様な事情も含め、私に近寄る者はいなかった。
―そう、5歳の春まで。
「何をしているのですか?」
庭の外れの桜の木の下。一面の薄紅の中で、縁の少し欠けた茶碗を使い、いつもの様にたった一人で飯事をしていた。
突然かけられた声に驚いて見上げると、黒い詰め襟の男の子が中腰で私に話しかけている。見慣れない人だった。
「ごはん作っているの」
「僕も、頂いていいですか?」
優しく、目を細めて彼は私の方を見つめる。私の「うん」という声を待って。
私は強く頷いた。彼は、新品の詰め襟が汚れぬ様に私の横にしゃがみ込む。
それが、彼との出会いだった。
彼の名は帯刀誠一。何故彼が此の家に引き取られたのか、詳しい事は今でもわからないが、付き人見習として連れてきたのだろうと、よく華道教室の生徒達が噂しているのを聞いた。
誠一は、私を妹のように可愛がって、私を護ってくれた。嫌な顔一つせずに私の遊び相手になり、私が学校に通う年になると勉強を見てくれた。
「誠一ぃ」
私が息を切らして彼の許へ駆けていくと、彼はいつも目を細めて温かく迎えてくれたものだった。
「はい、何でしょう?」
と。
「誠一、どうして私を一人にしたの?」
主の居ない部屋に私は一人、立ち尽くす。数年前の夏の午後のまま、止まってしまった様な部屋。静かに時計の音だけが響く部屋だ。
此の部屋で、私は彼と遊んだ。彼に勉強を教えてもらった。少女としての思い出は、ほとんど全部此の部屋でのものだ。
誠一がこの世から居なくなってから、此の部屋に近寄るのは私以外にはいなくなった。立て掛けられた彼の弓も、机の上の筆記具もそのままだ。
でも、其処にあの日まで居た彼は、もう何処にも居ない。
「うそつき」
私を独りにしないと、寂しい思いはさせないと、約束したではないか。
不可抗力に、過ぎた時に叫んでも仕方無い事は知っている。けれど、余りに失ったものが大きすぎる。
この孤独感に耐えられる術を、私は知らない。
逃げるように一階に戻っても誰も居ない所為かやたらと室内は暗くて寒々しい。ふと目をやった庭の柔らかい日の光に、半ば魅かれるように庭へ降り立った。
ところが思ったよりも風は肌にしみる。暖かそうなのは日差しだけだった。
「寒い」
(柚須子さん、風邪を引くからこちらに来ましょう)
彼は私をそうやってよく母屋に戻した。優しい声で、呼びかけた。
(まだ寒いですから。でも、もうじき桜が咲きますね)
黒い詰め襟と金釦と、温かくて大きな手。長い睫毛も、昨日の様に思い出せる。
幾つの時と限った事で無く、それが当たり前だった日常。此の庭に、此の場所に、当たり前に彼がいて、当たり前に私が傍にいた。
こんな寒さは、5歳の春に消えたと思っていたのに。この寒さは何なのだろう。
家の中に戻ろうとしたら、玄関で郵便配達のバイクの音がした。何か、届いたのだろう。
覗きに行くと一通、白い封筒が郵便受けに入っている。
読みやすくて丁寧な字。僅かに右上がりの文字。
“笹岡 柚須子様”
―彼の字だ。これは私宛の、彼からの手紙だ。
「うそでしょう?」
彼は死んだ。私はこの手で彼の骨を拾ったではないか。
裏返して差出人の名前を確かめてみる。ああ、紛れも無く彼だ。
これは夢か、何かの間違いか。
白い封筒を抱き締める様にして、私は家の中に戻った。体が震えている。
これは夢だと思った。でも畳の感触が、部屋の温度が、これが夢でない事を全身で証明していく。
そして私は封を切った。
柚須子さんへ
貴方に手紙を書くなんて、考えれば初めての事です。これを貴方が受け取る時、貴方は18になっているのですね。未来の貴方の姿を想像して書いています。
私が笹岡家に引き取られた理由を貴方は良く尋ねましたね。いつもはぐらかしていましたが、もうお教えしても良い頃だと、勝手に判断させて頂きます。
私が笹倉家に引き取られたのは貴方のお父様の “貴方を護るように”という考えからでした。あれはもう、10年以上も前の事になります。
私には帰る家が無い事を御存知でしょう。
私は幼い頃に父を亡くし、母と二人きりでした。母は新しい男が出来てから私が急に邪魔になったらしく、その男と共に私に暴力を振い始めました。あまりの暴力の酷さに学校の先生が間に入り、私を施設に入れる様にして下さって私はあの地獄から逃れられたのです。
貴方のお父様に会ったのは、施設に入って3年程の事。経済的支援をする代りに笹岡家での生活を、というものでした。
当時、私にとってこの世界は虚無そのもので、「誰からも必要とされない」という思いに縛られて、何をするのも無意味に思われました。生きる事に倦み、自傷行為を覚えたのもこの頃です。
最初は「自分を必要としてくれるなら何処でも構わない」という気分でした。でも、とても嬉しくて、必要とされる事が嬉しくて仕方ありませんでした。そんな中で貴方と出会ったのです。
よく「私は誰からも必要とされていない」と、貴方はおっしゃっていましたね。でも、決してそんな事はありません。
私には貴方が必要でした。いえ、今もずっと。笹岡家に引き取られたあの日から私の存在は、貴方に必要とされるかどうかで成り立っているのです。
貴方が「誠一」と呼んで下さる事で、何度救われた事か。
いつしか貴方が私と共に居る時に微笑んで下さる事が、私にとっての最上の幸福となっていました。本当に私には勿体無い幸せでした。
柚須子さん、貴方に謝らなくてはいけませんね。
貴方がこれを読む時は、私はもうこの世にいない事でしょうから。
出来る事ならもっと貴方を近くで見ていたかった。もっと貴方をお守りしたかった。貴方の笑顔をもっと目に焼き付けていたかった。
ごめんなさい、柚須子さん。
柚須子さん、私の最初で最期の私の望みを聞いて戴けますか?
どうか私の名前を呼んで下さい。私が本当に欲しいのは、貴方が「誠一」と私を呼び、必要としてくれる、その言葉です。
この体が灰になり、貴方の目には見えなくなっても、貴方が私を覚えていて下さり、私を必要として下さる限り、私の魂はいつも貴方の傍にあります。
忘れないで下さい。貴方は決して独りでは無いという事を。もう二度と、あの桜の下で貴方がひとりぼっちで遊ぶ事の無いように。貴方の幸せをいつまでも、いつまでも祈っています。
そして誰よりも、貴方を愛しています。
帯刀 誠一
どうして彼はこんなに優しいのだろう。
読んでいる最中から涙が止まらず、ついに私は声を上げて泣き出した。
「誠一、ごめんなさい」
私は彼が死んだ時、自分の悲しみ以外何も考えてはいなかった。
それどころか、彼を責めたのだ。
だけど
そんな私を貴方はその命が尽きる刹那まで案じてくれた
私の事を誰よりも深く愛してくれた
今改めて知る 彼の想い
その穢れない美しさはどんな言葉でも表す事は出来ない。
私の存在が彼の全て、と言ってくれた彼の言葉に私はまた救われる。
その彼が欲したのなら、私は震える唇でその言葉を紡ごう。
私もその言葉が一番、彼に伝えたいものだったから。
「誠一、ずっと傍にいて下さい」
―振り絞るように、祈りによく似た想いを口にした。
たとえ二人が出会った桜の花は色褪せたとしても
私の時が止まるまで
この想いが色褪せる事の無い様に
色褪せる事の 無い様に
最終更新:2009年05月01日 03:40