庭から見上げた二階の部屋に、若い娘がいるのを知っていた。
吸血鬼から逃れるためだろうか。
「無駄な事を・・・」
地を蹴って、木の上に音もなく飛び上がる。窓は、しっかりと閉じられていた。
しかしそんな事は関係ない。ただ窓を見つめていればいい。
―窓は静かに開き、私は部屋に入った。
寝台の上の娘の前に立つ。
血を吸うために首に手をかけようと、娘の顔を覗き込んだ。
「あ・・・あ・・・」
其処に寝ていたのは遠い昔、この身になる前に愛した人にあまりにも酷似していた。
首にかける手に、躊躇いが走る。
金色の波打つ巻き毛、月光の下に輝く白い肌。安らかに規則正しく上下に動く胸。
私が血を吸えば消えてしまう動き。愛した人の残像がその寝顔に重なる。
一瞬の眩暈。思わずサイドテーブルに手をついた。写真立てが、倒れて音を立てる。
「誰・・・?!」
拙い。とっさに娘の目と口を塞ぐ。
「大人しくして、何もしない。その代わり、薔薇を、あの飾られた薔薇を全て頂けまいか」
「殺さないで殺さないで殺さないで!!」
塞いだ手の下で、必死に懇願する声。
「わかっている。だからあの薔薇を・・・」
「薔薇・・・?貴方、もしかして・・・」
「薔薇さえ頂ければ何もしない!!」
そう。生き血が無い時吸血鬼は薔薇の精気を糧にする。この辺りの人々はそれを知っている故に、庭に薔薇を溢れさせるかの如く植える。吸血鬼を避けるために。
「ほ、本当に・・・?」
手を放し、寝台の傍に跪いた。瞳は、合わせない。ただ、頷いた。
「ただ、貴女の手で私に薔薇を渡して欲しい」
彼女は寝台から走り降り、飾ってある薔薇を花瓶から引き抜いて私に渡した。
言葉は発せられない。震えるような息だけが耳に聞こえてくる。
瞳を合わせぬまま、其の束を受け取り「ありがとう」と呟いた。
「今宵の事は口外しないで。貴女のためにも・・・」
頷いたのを見て、私は窓から飛び降りた。
薔薇に、僅かに血がついている。
甘い味が、舌先に広がった。
本当はそれで満足は出来ない。けれども良かった。
薔薇に顔をうずめると、薔薇は音を立てて枯れた。
あの日以来、私は夜毎あの庭の木から彼女を眺め続けている。
彼女は部屋に十字架を置いていない。今宵も薔薇を飾った。本能が、騒いだ。
ア ノ 薔 薇 ガ 欲 シ イ
「ノスフェラトゥ!!」
「騒がないで」
彼女は私から逃れる為部屋のドアに手をかける。けれどもドアは開かない。私が開かないようにしているから。
「また薔薇を頂きたい。それだけでいい、貴女の血は吸わないから―」
何も喋らないで欲しい。貴女を殺してしまいたくない。
愛した人に、余りにも似ている貴女だから。
「あ、あ、上げるわ。だから、もう、私を見ないで!何故なの、ノスフェラトゥ。
何故私なの!?そして薔薇ばかり貰うの?本当は薔薇じゃ足りないのでしょう、 知っているわ!私の・・・」
彼女は両手で顔を覆う。堪らずに悲鳴のような其の声を遮った。
「貴女が、余りに似ているのです」
花瓶から抜いた薔薇の束から一輪、彼女に差し出した。
「だからきっと毎晩来てしまう。貴女が私を厭うと知っていても。貴女が愛しくて愛しくて仕方がなくなっている」
「貴女の血は絶対吸わない。その代わり毎晩薔薇を窓辺に置いておいて欲しい。貴女に気づかれる前に薔薇を取って帰るから・・・貴女が見ていたいのです」
彼女の返事は、無かった。差し出した薔薇を彼女の髪に挿す。金色の髪に、薄い紅色の薔薇が、美しかった。
其の姿を名残惜しく眺めて、窓に歩み寄った。
「薔薇を・・・置いておけば、私は、無事でいられるの?」
先程の悲鳴とは違い、懐かしい声がした。思わず振り返る。
―目が合った。
「絶対に。貴女に触れません」
体温など無い筈の体に、熱さが甦り駆け巡る。
「分った・・・差し上げるわ、薔薇」
懐かしい夢を見た。
まだ私が夜を彷徨うこの身になる前の頃。日の光が降り注ぐ庭で、愛した人が笑っている。風を受けて立ち上がろうとする。金色の髪が靡いて、息を飲む程美しい。
「薔薇が咲いたわ」
庭の向こうを指したあの人は、嬉しそうに微笑んだ。
「行きましょう。差し上げるわ、薔薇」
溢れかえる薔薇の方に並んで歩き出す。私は尋ねた。
「いいのですか?咲いているのはまだ少しなのに」
「構わないわ。後から沢山咲くでしょうし。貴方、薔薇がお好きじゃない。私は、貴方が好きなものを貴方に差し上げたいの。それが嬉しいのよ」
少し恥ずかしげに言葉を紡ぐ。
「だから、差し上げるわ、薔薇」
―遠い昔の話だ。あれから幾度、薔薇の咲き乱れる季節を独りで過ごしただろう。
あの日が最後だった。あの人を守るために、日の光に背を向けた。
感情を内に仕舞込み、「自分」を死なせた。
夕暮れの風に運ばれてくる薔薇の香り。あの頃と違い、精気を吸い込む様に香る。
死なない身、死ねない身。老いる事なく永遠を生きる。
人間(ひと)はそれを幸せのように言うが、この堪え難い孤独感を知らないでいられる彼等の方が、余程幸福だ。
生も無く、死も無く、滅びも無い代償に、愛してくれる者も居ない。
たとえ誰かを愛したとしても・・・だけど、それでいいのかも知れない。
この呪われた孤独に、愛する人を巻き込みたくない。
「らしくもない・・・」
其処まで考えると、自嘲気味に嗤って呟いた。
今夜は薔薇がよく香る。血を求め彷徨わなくてもよさそうだ。
薔薇を貰いに行こう。夢の中のあの人の、生き写しの彼女の許へ。
約束通り毎晩薔薇は飾られる。
其れを取りに行く時もあれば、そのままにしておく夜もある。そのままの夜は遠い場所で、若い娘の命が消える。彼女の耳にも噂が届いているだろう。
今夜は余りにも薔薇が香る。あんな夢を見た所為だろうか。
まだ少し夢見心地のまま、いつもの木の上に飛んだ。
窓からはいつもの薔薇の束が・・・
「一輪だけ?」
其の薔薇の下に、白い封筒が置いてある。
罠、だろうか。
暫く眺めて、辺りの気配を探る。不穏なものは何も感じられない。
それでも辺りを警戒しながら部屋に侵入(はい)った。
一輪だけの薔薇を手にし、白い封筒に目をやる。
“ノスフェラトゥへ”
其れが自分に宛てられた物だと気付くのに、一瞬の間が要った。
彼女は寝ている。
「此処で読んでもいいだろうか」
いつもの自分ならこんな事は考えもしないだろう。余りに危険すぎる。万が一人間に見られたら、その時は悲劇以外の結末はない。
けれども夢の中のあの人が、頭から離れない今夜。あの熱さがまた、私の中に甦る。
あの人によく似た彼女を、もっと知りたかった。
「ノスフェラトゥへ、か・・・」
思わず笑みが広がった。確かにこれ以外、自分に宛てて書けないだろう。
しかしこんな風に、改めて自分が吸血鬼(ノスフェラトゥ)と認識させられる事も珍しい。
何時以来か知れない、自分に当てられた手紙―宛名は違うが―の封を切る。
彼女の香水の匂いだろうか。少しだけ、儚い甘い香りがした。
ノスフェラトゥへ
あれ以来約束通り薔薇を束で置いています。
薔薇は毎日、貴方が来ない日も絶やしてません。
貴方が取っていかない時の後は、必ずな程、若い女性が死んだという話を聴きます。
正直に訊きます、貴方の仕業なのですね?
けれども、私には信じられない。貴方がノスフェラトゥであると分っているのに。
周囲は貴方達を恐ろしい、醜い化け物だと言います。私もそう思ってました。でも貴方は確かに怖いけれど、醜くは無かった。血を吸う野蛮なものどころか、今まで会った男性の中でも一番知的でした。そう、みんなが言うのとは違うのです。
私は貴方に会ってから、何だか変です。貴方の事を悪く言う人に怒りを覚え、怖いのに貴方が入れるようにと十字架を置かない。本当は血を吸うかも知れない貴方を、信じきっている。貴方が怖いのに、何処かで逢いたいと願っている私がいるのです。
目が合った時の、貴方の緋い瞳が忘れられない。
貴方の瞳の色は、貴方が人間出ない事をはっきり示していた。
それでもいいの、貴方と話がしたい―
「・・・馬鹿な」
手紙を読んで、呆然とした。この私を見て、彼女は何を考えているのだろう。
私の緋色の瞳。明らかな人間ではない証。
彼女はそんな私を見て、それでもこれを書いている。
脳裏に、先程までの不安が掠めていく。
「罠か―」
「違う、罠なんかじゃないわ」
寝台の彼女が、声を発した。驚き、目を見張る。
「まさかずっと、起きていたのですか」
「いいえ、先程目を覚ましたの。・・・罠じゃないわ、信じて。私が貴方を信じているように、私を信じて頂戴」
彼女は、寝台からそっと抜け出して床に立った。遠目からでも分る位、怯えている。
「冗談はおやめなさい。貴女も分っているでしょう?私はノスフェラトゥ、人間でない。貴女の周りが言う様に、血を吸う、野蛮な醜い化け物なんです」
「うそよ。た、確かに少し怖いわ。だけど貴方はそんなのじゃない。野蛮な生き物ならもっと早くに私を殺している筈よ。私との約束なんて、簡単に破ってしまうでしょう。でも、貴方はそんな事しなかった」
「貴女の血を吸わないのは、理由が」
「理由が在っても・・・私を生かしてくれたじゃない。こんな小娘1人、殺そうと思えば容易い事でしょうに。そうよ、どうして」
「貴女が、似ていたから、余りに。遠い昔に愛した人に」
口に出す言葉が苦い。目の前の彼女は矢張り違う人なのだ。
「自分はただ、その人の幻を追い求めていただけだったんです。その幻が形になったような貴女を殺したくなかっただけ・・・。失望するでしょう?所詮私は其の程度のエゴで、貴女を惑わせていただけなのです」
彼女はこれで私に憎しみを抱くだろう。それで良かった。
私なんか、愛される資格など無い・・・
「だから、貴方の瞳は悲しそうなの?」
「え―」
「貴方が私を見る瞳が、悲しい目をしてる、今も。だから貴方が気になるの。貴方が皆が言うノスフェラトゥと違うの。
貴方が誰かの幻を私に見ていたとしてもいい。貴方は優しい」
思いもかけなかった言葉。碧の双眸が私を捕えて離さない。
信じられない。けれど紡がれる言葉の一つ一つに嘘が見当たらない。
「本気で、そうお思いになるのですか・・・この私を?血を吸う、日の下を歩めぬ呪われた身である私を?」
「そうよ、貴方がたとえ違うと言っても。大切な物を持っていて、其の大切な物を忘れずにいるのに、野蛮なわけが無いわ。呪われた身であっても」
「・・・それは、貴女自身でお考えになった事ですか?」
彼女は答える代りに頷いた。
気が遠くなりそうに甘い電流が、体を走る。
信じるか、信じないか。
―目を閉じると甘い香水の匂いがした。
生き血を求めて私が遠い町を訪れる度に、若い娘の命が消える。
噂は風に乗って広がり、人は恐怖に震える。
「貴女は怖くないのですか?」
薔薇を渡す白い手に問うと、その手の持ち主は私の方をじっと見て、答えた。
「怖くないわ」
「貴女の血を吸わないから?」
「それはあるけど・・・」
彼女はもう止めましょう、と私の髪に触れて言った。
「貴方の昔の話をして?」
薔薇の香りを味わいながら、私はその要求に応える。
日の光を浴びて飽きるまで続けたクリケット。兎狩り。庭でのダンス。
人間の頃の事など忘れていた筈なのに、次から次へと話せた。
彼女が、私の話に声を立てて笑う。その軽やかな笑い声を聞くだけで満ち足りた気持ちになって、私もまた笑った。
「ねえ、もっと話して?」
「いいえ、今夜はこれまで。これ以上夜風に当ると毒ですよ。さあ、御休みなさい」
「もう少しだけ・・・」
首を振り、薔薇の束を持って立ち上がる。彼女を布団の中へと急き立てた。
「さあ、眠って下さい」
また来るから、と囁くと彼女はようやく目を瞑った。
眠りに落ちていく横顔を見つめ、そっと部屋を抜け出した。
―こんな日をもう何日過ごしただろうか。
彼女に逢うと、人間に戻れる気がした。呪われたこの身に、光が満ちた。
蒼白い月光を浴びながら、この幸せを噛みしめる。
永遠を願ってはならない。しかしこの幸せを、少しでも、ほんの少しでも長く引き止めておきたかった。
人間でない身分で人並みの幸せを味わおうなど、滑稽なのは承知している。
罠でも構わない、彼女の言葉を信じようと決めたあの日。危険と引き換えに手にしたものは、こんなにも私を満たしてくれている。
もしかしたらと薔薇を抱きしめた。
けれどそんな思いを余所に薔薇は、音を立てて枯れていく。
「ふふふ・・・駄目なものは、駄目だな」
夢から覚めた心地がした。
そうだ、自分はノスフェラトゥ。忘れてはならない。
枯れずに残った一輪の深紅の薔薇が月明かりに照らされて紫色に見えた。
紫は、あの人の瞳の色だ。
薔薇の季節もそろそろ終わる。
私は此処よりも薔薇の咲きが遅い場所を探さなければならない。また深い眠りにつくためにも、もう少し血や薔薇が必要だった。
いつもより少しだけ早く、私は彼女の許へ訪れた。
明かり・・・?
「嫌よ!」
彼女の怒声と宥めるような声―母親だろう―が聞こえてくる。
「そんな見ず知らずの人に嫁ぐなんて嫌よ!父様も母様も、あんまりだわ」
「お前のためよ。遠い所に嫁げば、ノスフェラトゥに血を吸われずに済むでしょう?
その人はお父様の知り合いの方で・・・」
「私が知らないわ!それにノスフェラトゥは、母様の言うようなものじゃない!」
「何を考えているの?!ノスフェラトゥの肩を持つなんてどうかしてるわ。お前、ノスフェラトゥが何か、分って言っているの?人の生き血を吸う、日の下を歩けない背徳の化け物よ!!」
「違う・・・」
もういい、この話は無かった事にして、と彼女は一方的に話を打ち切る。
彼女が二階に駈け上がり、部屋に入ったのを確認していつもの窓へ向かった。
窓を開けると、彼女が気付いて私に向かって駆け寄ってきた。碧の目に、涙がうっすら浮かんでいる。
「助けて、私―」
「・・・聞こえてました」
「嫌よ、お嫁になんか行きたくない。遠い所に一人きりだなんて嫌よ。私は此処にいたいのに、父様も母様も何も分ってくれやしないの。おまけに、貴方の事・・・」
「私の事は仕方がありません。事実、若い娘の命を奪って此処にいるのですから。貴女は傍から見れば運のいい女性。何時ノスフェラトゥの餌食になるか分らない、今のうちに安全な所へ逃がそうというのは自然な事ですよ」
「でも、私は納得いかないわ・・・貴方と、貴方とずっと居たいのに」
両目から溢れた涙が、彼女の頬を伝い落ちていく。滴をそっと指先で拭った。
「遠くへ行っても、私は逢いに行けますよ?」
「でも、誰かの物になりたくない!貴方と此処にいたい。いつまでも薔薇を貴方の為に飾りたいのよ」
「あ―」
彼女に触れようとした刹那の事だった。
「部屋にいるのは誰だ!!」
「父様の声!」
しまった。彼女の声が、漏れていたのだ。
彼女は私に薔薇を渡し、早く逃げてと急き立てた。
「明日も来て、待ってるから。絶対に来て。私、貴方が―」
其の言葉が終わらぬうちに、外へ身を投げ出した。
そう、薔薇が落ちたのも分らずに。
口から吐く息すら苦味を帯びる。
「拙いな、今のままは」
あらゆる意味で、今の自分の状況は危険だ。
このままでは自分も彼女も、未来(さき)が無いのは明らかだった。
「ならばどうする?」
決まっている、自分はノスフェラトゥだ。
眩い日の光に背を向けた、背徳の亡霊。生も無く死も無い、愛も無い亡霊だ。
「選択するカードなど、始めから無かったではないか」
自分が引くカードは一枚きりだ。
ゆっくり立ち上がり、空を見上げた。
夜空に君臨する月は、相変わらず蒼白い光を放っている。
あの人を守るためだった。
あの人を守るには、私がノスフェラトゥになる以外になかった。
薔薇の茂みの先にあったのは希望と絶望。
望んだものは愛した人の幸せ。
差し出したものは自分の幸せ。
「忘れるところだった」
迷いは要らない。残された道は一つなのだから。
薔薇の中で交わされた契約が消える事はないのだ。
自分がとらなければならない行動が、目の前に形をもって現れる。
月から目を離した。
「運命の歯車・・・か。よく言ったものだ。一つが動き出したら全部が動く。どれか一つでも、勝手に止まる事など許されない」
自分は歯車だ。自由意志など持っていない。動きにつられていくだけだ。
「歯車を動かしたのは誰だろう」
しかし、もうそんな事はどうでも良かった。
答えの無い問いに費やしている時間はもう私には残っていない。
目を閉じて耳を澄ますと、彼女の声が聞こえてきたから―
家の周りの空気が痛い。
頭痛がする。ふと見ると、聖句が地面に描かれていた。
「誰の仕業だ」
左足でその言葉を踏みにじる。その左足に矢張り鋭い痛みが走った。
痛い足を引きずり、何度も訪れた庭に足を踏み入れると、庭には薔薇の香りがまだ残っていて幾分か体が楽になった。呼吸も落ち着いてくる。
見上げると、窓には彼女の姿があった。
泣き腫した目をしている。
「目が、赤くなっていますよ・・・可哀想に」
木の上に飛び上がり、窓を開けた彼女に声をかけた。
「あ・・・」
「約束通り、来ました。危険を承知で」
彼女は私を迎え入れると、胸に飛び込んできた。
「あの後父様が私をずっと問い詰めたの、『部屋にいたのは誰だ』って。ずっと1人だったって言い張ったわ。独り言を言っていただけ、と。
だけど今朝、父様が血相を変えて部屋に飛び込んできたわ。私の目の前に薔薇を突きだして『薔薇が落ちていた』って・・・」
オ前ノ部屋ノ窓ノスグ下ニ、薔薇ガ落チテイタ。ドウイウコトダ?
「もう、言い逃れが出来なくて・・・朝からずっと部屋に閉じこめられているわ。貴方がノスフェラトゥだという事は言ってないけど・・・」
体に、電流の様なものが駆けていく。
咄嗟に部屋の全ての扉と窓を開かないようにした。同時に体中が締め付けられたように痛み出す。
外が、騒がしくなった。彼女の父親の声と母親の悲鳴が耳に届く。
「どうしたの、一体何が起こっているの?!」
彼女が私から身を離すと、私はその場にもう立っていられなくなった。
「正体に・・・周りが気付いた・・・」
父親は教会に向かった様だ。彼女は息を飲む。
「なんですって」
「私が・・・此処に訪れる前、道にあった聖句を踏みにじったのを・・・悟られたのでしょう。あの聖句はきっと貴女を部屋に閉じこめた後、教会に・・・」
苦しい。息が出来ない。
「逃げて、逃げて!ねえ、まだ動ける?私が助けるから、此処から逃げて!!」
「お父様が・・・教会に行かれた。もうじき神父を連れてくる・・・」
「今ならまだ間に合うわ!ねえ、お願いよ。逃げて」
部屋の扉が激しく敲かれる。母様・・・と彼女が呟いた。
「開けなさい!お前は惑わされているのよ、その化け物に。目を覚まして頂戴。今、父様が神父様を連れてこられるわ」
「惑わされてなんかいないわ!母様達に何が分って?私の大事な方を苦しめて嬉しいの?其れを見て私が何も感じないと思っているの?!」
「・・・もう、止めて下さい」
気力を振り絞って、私は立ち上がった。
「これ以上、もう無駄です。お父様が連れてこられる神父に打ち勝つ力も・・・もうありません」
「そんな―」
「もし私を救いたいのであれば」
朦朧としてくる頭を振り、たった一つの方法を口にした。
「殺して下さい、私を。貴女自身の手で」
神父が此方に近づいてきている。
私の言葉に、彼女は訳が分らない、と首を振った。
「どうして・・・」
「それ以外に方法が無いから。私は灰になり、形と意志を持った私は消えます。それがノスフェラトゥの“終わり”です。・・・人間にとっての“死”」
「出来ないわ。貴方を殺すなんて、出来ない」
「どのみち、私は死にます。神父に殺される位なら、私は、貴女に殺されたい。寝台の下に、・・・銀の短剣をお持ちでしたよね?あれで・・・私の胸を刺して」
銀はノスフェラトゥなど魔物を殺す。
「お願いだから・・・貴女がもし、本当に私を僅かでも愛していたならば、殺して下さい」
外で声がする。神父が到着したのだ。
彼女に無理矢理短剣を持って来させ、握らせた。
「さあ、早く―
神父が二階に来る前に。
「貴女が本当に愛しかった。いつしかあの人の幻でなくて、貴女自身を本当に愛してました」
階段を駆け上がる音がする。彼女も、もう悟った。
「私も貴方が・・・大好き」
神父の声より先に、彼女の短剣が体に刺さった。
途端に扉を閉めていた力が消えていく。
「愛しい人・・・どうか泣かないで。自分を・・・責めないで下さい」
体が固まっていく。これが“終わり”なのか。
神父達が扉をこじ開けようとしているのが見えた。
倒れていく私の体を彼女は狂ったように掻き抱く。
「私もすぐ」
「後を追わないで・・・私との最後の約束をしてくれますか?」
彼女は静かに、だけど力強く頷いた。私は、口を開く。
「絶対に、後を追わないで。私の代りに、人間(ひと)として生きて」
扉が開いて、神父や彼女の両親らが入ってきた。
「自分を責めないで―」
貴女は私を救ってくれたのだから。
愛の無い亡霊に、忘れていた温もりをくれた。
彼女は引き離そうとする手に、もう何も反応しないでいた。
ただひたすらに私を抱いて、私の言葉に耳を傾け続けていた。
「約束ですよ」
泣き顔に優しく語りかけた。さあ、もう泣かないで笑って?
貴女は“永遠”の呪縛から私を解き放ってくれた。
「有り難う」
この声は、届いただろうか?
―ああ、届いたようだ。笑ってくれた。
ああ、よく笑顔を見せて。そう、その・・・
最終更新:2009年05月01日 03:44