――物語の書き出しはいつも迷う。
窓の外の黄昏は紅の色を失い始め、禍時へと色を移ろわせ始めていた。
そろそろ手元も暗くなってきたな、と机の上のマッチを一つ擦り、燭台に火を灯す。
橙に映える手元の手記は未だに白紙のままだった。
王都ルエンの城の一角にある図書室。
彼女、エリシア・ヴィエントは広げられた手記の前、万年筆を片手に物思いに耽っていた。
一般客の入場時間は過ぎており、室内に残っているのは彼女一人きり。
司書は奥の書庫で書架の整理を執り行っており、事実上この図書室は今やエリシアの書斎と化していた。
火の灯った燭台を何の気なしにぼんやり眺め、被っていた魔女帽子を隣の席に置く。
揺らめく蝋燭の炎に照らされて彼女の姿がくっきりと映る。
青を基調としたローブに薄紫の髪色。物憂げに窓の外の薄闇を見晴らかすのは髪の色に似た紫の瞳。
ローブや魔女帽子と言った姿見から想像に易いように、彼女は魔法に精通している人物であった。
それも魔法学を志す者の間では彼女の名前を知らぬ者はいない、と断言して良い程の高名な人物。
現にこの薄暗い図書室の中、彼女が筆を執った魔法学に関する書史が書架の幾らかの空間を埋めている。
「うーん……どうしようかなぁ」
そんな魔法学の権威が直面している行き詰まりは目の前の手の付けられていない手記にあった。
戯れにと始めた物語の執筆作業。その第一文の書き出しに頭を悩ませていた。
漠然とした脚本(ストーリー)に形の定まらない序章(プロローグ)。
論に舌の根を乾かすかのような魔法学の論文なら、或いは彼女は一切の迷いも無く書き上げるのかもしれない。
しかし、慣れない「空想」の物語を手記上で展開するのは彼女にとって骨の折れる作業であった。
「ちょっと休憩しようかな」
一人そう呟き、彼女は窓際の席から司書机の方へと歩みを進め、棚から小さなティーポットに華奢なティーカップを持ち出す。
茶缶から紅茶の茶葉を掬い、ティーポットへ。そこに水を注ぐ。
すると不思議な事に、ポット内の水が忽ちに沸騰を始め、辺りに紅茶の香りが漂い始める。
これも彼女の魔法の力である。
湯の入ったポットと共に彼女は再び窓際の席へと舞い戻った。
薄々と彼女には分かっている事があった。
目の前の手記を埋められないのは何の事は無い、彼女に物語を描き出す想像力、経験が不足しているからだと。
振り返ってみれば物心付いた幼い時分には既に王都の図書室にいた。
両親に関しての記憶も無い。それほどに幼い頃。
それから彼女は殆ど毎日を図書室、王城内で過ごしていた。
王都から外に出た記憶など思い当たらない。
日々を魔法の研究に費やし、たまに触れる外の世界は誰かが記した空想上の物語の書籍の世界だけ。
今このように唐突に物語を執筆しようと思い立ったのも、そんな狭い世界にいる彼女自身への反抗なのかもしれない。
物語を一編書き上げる事が出来れば、少なくとも想像力と経験が不足した自分を否定できると思ったから。
頃合よく蒸らしが終わった紅茶をポットからカップへ注ぐ。
鼻腔を擽る爽やかなマスカット・フレーバー、体の芯から温まるような暖かな温度。
カップの中でオレンジ色の硝子球のように輝き、透き通る上質な紅茶。
それを以ってしても、彼女の心に巣食った小さな闇を晴らす事は適わなかった。
図書室に磔られたような生き方から離れて一度で良いから世界を知りたい。
もしも図書室に磔られなかった私。そんな本当の自分を知りたいという、願いが生む小さな闇。
すっかり禍時に変わった窓の外の空を見上げる。
こんな感情に囚われるのは今日が初めてなわけじゃなかった。
エリシア・ヴィエントは今日も遠い宵闇の空を眺めていた。
最終更新:2015年07月03日 19:58