不意に響いた扉が叩かれる音にエリシアは思わず体をビクッと震わせた。
そういえば司書が帰宅してから随分な時間が経っている気がする。
机の上の燭台に据えられた蝋燭の長さも随分短くなっており、夜の帳が降りてから随分な時間が経っていた事を示していた。
手記の前で余りに深い思考に入っていた為にすっかり気が向いていなかった。
この時間だ、司書が忘れ物を取りに戻ってきたなどは考えにくい。
その来客の姿を迎えようと、エリシアは手の万年筆を静かに机の上に置き、開きっぱなしの手記をパタンと閉じて姿勢を整えた。
やがて扉は静かに開き、ランプを片手に一人の男がゆっくりと図書室に足を踏み入れた。


カインが手元の灯りを左右に振り、室内を確認すると窓際の一角に人影を発見する。
手のランプと、机の上の燭台とに照らされて仄暗く映る図書室の主の表情。
直接言葉を交わした経験こそ無いが、カインは確かにその顔を見知っていた。
城内を駆け回っている時に、幾度かすれ違った記憶がある。

一方でエリシアの方も、宵の来客の姿を存知していた。
特徴的な空色の髪の彩り。兵士団で指揮を執っている隊長のカイン・ラズワードその人であった。
王城の図書室で働いているから、では無く単純にルエンでは有名人なので顔に覚えがある。


「あっ……カインさん、ですよね? どうしたんですか?」

「ああ、悪い。帰る前に見回りをしててな、灯りが付いてるのが見えたんでちょっと覗いてみたんだ」


もうそんな時間だったのか、とエリシアは少し驚く。
兵士長が帰宅する時間となれば、既に人々が寝静まり始める時間なのは知っていた。
況してや現在の兵士団の多忙な現状も把握していた、恐らく今は相当に遅い時間なのだろう。
なるほど、燭台の蝋燭も短くなる筈である。
夕食も摂らずに考え事に耽っていた事実が分かった途端に自分が空腹であるのにも気付く。


「あっ!じゃあ私もそろそろ帰りますね!」


ガタッと椅子を引き、机の上に広がった参考書代わりの物語の一般書を積み重ね始める。
次々と斜め読みしていた為に随分な量になっていた。
書架に戻していくのにも一苦労だろう。


「別に作業中だったなら続けてていいぞ? 俺はただ見回りしてただけだし」


帰り支度を始めた賢者の姿をカインは制す。
元々、兵士団と図書室とは別々の集団なのだ。兵士団の業務が終了しようが図書室側には何の関係も無い。
今の状況ではまるで、自分が目の前の賢者の作業を邪魔したかのようでカインとしてはどうにも罰が悪い気がした。


「いえ、私もこんな遅い時間になってるとは思わなかったから……」


言いつつ、机の上の分厚い本のうち数冊を胸に抱えて本棚の方へ歩いていくエリシア。
カインが机上に目を遣るとまだ本が積み重なって何冊も残っていた。
大変な冊数だ。
目の前の小柄な賢者にとって、これを片付けるのは大仕事に違いない。
その小さな身に大量の本を抱え、よろよろと本棚のあちこちを行ったり来たりしている賢者の姿をカインはどうにも放っておけなかった。
左手のランプを司書机の上に置き、机上に残っている本を賢者と同じように抱える。


「えっ!?そんな、手伝って貰わなくても大丈夫ですよ!」


第一陣の書物を棚に帰らせ終えたエリシアは、目の前で本を抱えるカインに面食らう。
元々殆ど面識の無い相手である上に、彼女にとっては王都兵士長は目上の存在に思えたから。
散乱した書物にしたって自分が勝手に持ち出し、勝手に散らかした物だ。
それ故にこの光景は些か罪悪感に駆られる気がしていた。


「別にいいさ、この位ならすぐ終わるだろ」


机の上の頼りない燭台の炎がゆらっと一際大きく揺れた。
カインにとっては元々気紛れ、御節介の類の行動であって自分にメリットなんて何一つ無い。
ただただ放っておけなかっただけ。
兵士団は警備などの業務をこなすが、それは民々が困窮したりするのを防ぐというのが理由だ。
目の前で困っている人物を放っておけるような人間では兵士団なんて到底勤まらない。

しかしながら、未だに得心の行かない表情の賢者を見てカインは手を止めて少し考える。
なるべくなら互いに納得の行く形で後味良く作業を進めたい物だ。


「俺はこの通り、お前より一度に沢山の本を運べるだろ。一人でやるより何倍も効率が良いじゃないか」


“効率”
賢者や研究者と言った職種の物はこの手の言葉に弱いだろうと考え、カインは強調してみた。
安易な言葉選びだとはカイン自身が気付いていたが日常会話の迅速な流れの中ではこれが限度だった。

一方でエリシアはこの好意を無碍にするのも逆に失礼なのではないかという思考に至る。
元より拒む理由なんて無い。ただちょっと迷惑を掛けるのではと思っただけ。
ありがたく好意を受け取った方が互いに気持ちよく作業が出来る筈だ。


「はい……それじゃ、ありがとうございます!」


互いの思考過程は全く異なっていた。
しかし、至った結論は両者が求めていた物になった。
二人は時折日常会話なども挟みつつ、本を書架に戻す作業を続ける。
積み重なった書物の山が消える頃、燭台の火もふと役目を終えるかのように消えた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2015年07月14日 01:11