レインド「晩餐」

圧しつけるむっと澱んでいた蒸し暑く濁った空気が、俺の身体の間接をぐにゃぐにゃにさせるように体力や精神を奪う。
既に夜なのにどうしてここまで暑いのか、誰もが思い悩むどうでもいい事を考えながら俺は帰路を辿っていた。
新しい会社に勤めてから数年、「電気屋さん」として生きて行くこの当たり前の生活をしていていいのかと
唐突に何かをしなければならないという使命感を胸に槍を突きつけられた気分になったりもする。



「今日は珍しく定時か」



ボソリと独り言を呟き、紺のリボンのように一直線に伸びる道路をただ只管に歩く。
出社時は着こなしていた黒いスーツは皺が残らない程度に折り曲げられ、肩にもたれかかっている。
端から見れば、一仕事終えた後という事は一目瞭然だろう。何せ仕事疲れが残ってるんだからな
道路を歩いていくとやっと家が見えた。闇夜に灯火を得た思いで肩にかけていたスーツを改めて着こなし、家の前に立つ。
家に入ってもいないのに安心した。施錠を解き、ゆっくりと扉を開けながら誰かに聞こえるようには言わずに「ただいま」と呟く。



「おかえり」



どんなに小さな声でも絶対に、俺の「ただいま」の後に付いてくるのんびりとした声に、俺は何故かやるせなくなった。
こんな俺に、毎日忙しい中、別に不味くはない飯を作ってくれる嫁さんがいるコトが、常々信じらくなるんだ。
息子は寝てる、そして……お腹にいる娘が毎日、迎え入れてくれている。



「カバン持つね」
「いいよ、妊娠してんだからあんまり動くなって」



買った当初は傷一つなく、光が当たれば反射して何処となく新しい気持ちにさせてくれていた黒いビジネスバックも、最早光りを持たなくなった。
嫁に奪われると、何処か恐れ入らぬかとでも言う様な快活な表情で俺を突くぐらいの時間を見た後、家の奥の方へと穏やかな足取りで進んで行った。
俺の言う事に嫌な顔一つせず、尽くしてくれる事を実感して更にやるせなく成った。困ったな……。
洗面所でしっかり手洗いうがいを施し、未使用の洗濯したタオルに濡れた口元を当てる。疲れが取れるようで気持ちいい。
スーツとネクタイをいつも通り、手慣れて来たこの手つきで脱ぎ、面倒ながらもハンガーにかけて適当にその辺にかける。
たまにこいつら落ちてくるからムカつくんだよなァ……



「レインド、ご飯にする?お風呂にする?それとも――」
「腹減った」
「は~い」



ワザと冷ややかしい表情でも、安堵させる軽い言いぶりで嫁は食器に手をかけた。
付き合った当初から、嫁になってもこの調子、新鮮味にはかけるが、安心させてくれるこの仕草や口調。
別に楽しい家事でもないのに、何故こんなにも楽しそうなんだろうかコイツ。



「お待たせ!」



家に入る以前に分かっていた事だが、差し出されたのはカレーだった。
嫁の料理は、決して不味くはないし、決して美味しい訳でもない。普通レベルだ。本当に普通。
だからこそ無駄に綺麗にカットされた野菜類に違和感を感じたが、今はお腹が空いている。考え事は止そうか。



「いただきます」



微かに水っぽいカレーを口にしては、一度水を飲み、再度視線を料理に落とす。



「なぁ……」
「何?」
「これ、レトルトだろ?」
「……どうしてわかったの?」
「美味いから」


表情こそ変わってないが、微かに困ったようなら笑い方をしている嫁に俺は視線を合わせた。多分、俺は笑ってたよ。
もぐもぐと口を唸らせ、何を言おうか迷う嫁には悪いが、そんな姿を見ていて俺は何処か楽しんでたかもしれない。
それからは何かを話す事なく、ただ黙々と「美味しい」料理を食事した。



「ごちそうさま」



席を立ち、食器を嫁に任せた。



「ごめんね」



たった一言、うまく作れていない笑顔で俺に声をかけてきた。
手抜きで申し訳ないという意味なのか、俺にとって『良い』料理を出来ずに申し訳ないという意味なのか
考えるだけ無駄だったが、とにかく俺は毛虫に撫でられたような嫌な感触に見舞われ、申し訳ない気持ちになったよ。

違うんだよ、俺にとって『良い』料理は、ただお前が作ってくれるだけでいいのに……
冗談半分で言った言葉がここまで突き刺す事になるとは思わなかった。



「今度はもっと美味しく作れる様に頑張るね!」



元気のいい声で、彼女は食器に水を打ちながら、俺に応答してくれた。




「ごめんな……俺にとってさ、味はどうだっていいよ」
「……」
「俺は、お前の手料理が大好きだよ」
「――うん!」



さっきよりも明るみを帯びた声で、眩しい笑顔を向けられちゃ
そら、抱きしめたくもなったけれど、家事中の嫁さんに手出すのはやっぱ拙いわな。
ヴィナミスにも言ったが、やっぱり、嫁さんの手料理程一日の中で楽しみな物はないと、改めて思ったよ。



「じゃあ!今度からガンガン、張り切って、頑張って!喜ばせてあげるからね!
レノも大きくなったらお母さんの料理が一番って言わせる様にして
お腹の娘も、釘付けにしちゃうからね♪」
「楽しみにしてるよ」



でもそれ以来、何故かカレーはレトルトのものしか出なくなっちまった。






ザァァァァァァァ――


「……」


「救急車!速く救急車!!」
「原型も留めてねーよ…ありゃ――」
「轢逃げだ轢逃げ、とりあえず連絡しろ」


…………



本当、全てを失った気分だ。






その日、家に付いたのは何時だったかも知らない
何時に寝たのかも分からない。何してたのかだって分からない。
朝になって、濡れた身体は一切起きようとしなかった。
ただ、台所からカレーの匂いがしたんだ少しだけ、鼻が反応してくれた。

冷えてた
ご飯も、俺も
全てが

いつの間にか、アイツが最後に洗ってくれた皿にソレを注ぎ、俺は口に運んだ。

レトルトなんかじゃなかった、嫁の手作り……
あいつは、最後の最後に、この俺に、カレーなんか作りやがった。
俺の為に今まで練習してくれたのか、それでも手間取った形跡のあるキッチンと隠すように冷蔵庫の上のレシピ本
それを見て、改めて実感したよ



「美味ぇよ」



誰もいない、その部屋で、俺はただ、最後の晩餐を独りで食べた
涙は出なかった







アレから幾度かの月日も立った。長い年月だ。


「お父さん、ただいま」
「おかえり」


小学生の息子のその大人しい清潔さを感じさせる口調に、俺は何処か妻と姿を合わせていた。
前までは、殆どの家事を任せていたが今では俺がお母さん役だ。気分あげる為にたまにエプロンしたりして主夫気分になったり


「ねぇ、今日もしかしてカレー?」
「聞かなくても分かんだろ。蓋してても換気扇回してもどうして香りは浸透するかね……
手洗って来い、バイキンだらけの手で飯食ったらお腹壊すぞ〜?」
「はいはい」


生意気な子供になったもんだ……
テーブルに対面するように、料理の盛った皿を二つ。
日に日に俺の食う量も減って来たな〜なんか……年って程老けちゃいないのにな



「お父さん」
「あいよ」



本当は俺とお前と、息子と……生まれるはずだったあの娘とさ食卓囲みたかったけれどさ
今、俺は自慢の息子と、日々過ごせています。
息子と席に座り、両手を合わせて「いただきます」生意気だが、礼儀正しいその姿は誇れるよ。それに、なんかよくわかんねーけど誰かに似て来たんだよ。
そんでもって俺の料理も誰かさんに似て来たらしい。



「ねぇ……」


「何?」


「これ、レトルトでしょ?」


「……どうして分かったんだ?」




「美味いから」




本当、誰に似たんだろうな、お互いさ




  • fin-

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年06月28日 14:20