「ネギ先生! 死なないで!!」
「明日菜さん!! どうやったらジャガイモ一つで人が死ぬんですの!!」
「死んでないわよ!!」
周りの騒ぎを尻目に、エヴァがとっとと椅子に腰掛けて料理を口に運び始めた。食卓には洋から和まで、様々な国の料理が、
例外を除いて綺麗に並んでいた。これだけ多国籍の料理を作れたのも、食材と腕のいい料理人がいたからに相違ない。
「ん、このフォンデュは旨いな」
「それはザジさんが作った物ですわね。ザジさんは本当にお料理がお上手で……どこかの殺人シェフとは大違いですわ」
「誰が殺人シェフだコラ!」
「この鰤照りとピーマンの肉詰めもおいしいです~」
「和食と中華はこのかさんが作ったんですよ。お味噌汁もすごくおいしいです」
「このフレンチ……は普通だな……」
「ぐ……」フレンチはあやかが手掛けたものだった。普通の料理を 「普通」 と言えるのはエヴァと千雨ぐらいしかいないため、
いつの間にか二人は感想の指標となっている。
「何よ、あんただってそんなに上手いって訳じゃないんじゃない」
「う、うるさいですわ。中学生に簡単に作れる程フレンチは甘くないんですのよ!」
「でもこっちのフレンチは妙に美味しいですね~」
「それは、ザジさ……」
本当の事を言おうとしたのどかの口をあやかが素早く塞ぐ。
「そ、そうでしょう。やっぱり分かる方には分かるんですわね。ホホホ……」
「あ、よく見たらフレンチじゃありませんでした……」
一同の冷たい視線があやかに刺さった。
明るい食卓に呼び鈴が鳴り響いた。エヴァが結界を解いて玄関を開けると、暖かい夜風と共に姿を表したのは、制服姿の
刹那だった。リビングから漏れてくる多国籍料理の香ばしい香りが気になる様子で、室内をなにげなく覗こうとしていた。
「何だ、夕食をたかりに来たのか?」
「いえ、少しお話しする事があって……」
「あ、せっちゃんや~。せっちゃんも一緒にご飯食べよ」
「いえ、別に夕飯を食べに来た訳では……」
「話なんて食べながらでええやん。ほら、狭いけど上がってや!」
「狭いのは誰のせいだ……」 エヴァが愚痴を零す。
このかに手を引かれた刹那が、恥ずかしそうにリビングに連れられ皆と顔を突き合わせた。お互いに挨拶を交わし、ブレザ
ーを脱いで近くにあったハンガーに掛けると、エヴァの隣の椅子に腰掛けた。テーブルの上に並んだ料理の、分量の多さと
見た目の派手さに目を丸くしつつ、料理に手を着けようとしたが、部屋の隅の重い空気が気になって誰にともなく尋ねた。
「あの、あそこで沈んでいるいいんちょさんは……」
「飾りだと思って」
和食の好きな刹那は、真っ先に木乃香の作った魚料理を口に運んで舌を巻いた。刹那に絶賛されたこのかが顔を赤くして
照れている。
「なんや、せっちゃんに誉められると嬉しいわ~」
「お、お嬢様が、これを……?」
「そうですよ。他のも美味しいんで、食べてみてください」
「お嬢様の手料理……お嬢様の手料理……お嬢様の……」
「あうぅ……聞いてない……」
暫く夕食の時間を楽しみ、料理も残り少なくなってきた辺りで、刹那がエヴァに用件を伝えようと口を開いた。
「そうだ、エヴァンジェリンさん、移動の失ぱ……痛っ!!」
「後にしろ。メシが不味くなる。まぁ、一部これ以上不味くなりようのない物もあるがな」
「しつこいわね……」
エヴァに思い切りつねられた尻をさすりながら、刹那が弱々しい返事をした。幸いつねられた痛みよりも、木乃香の作った
手料理を食べられる喜びの方が勝っていた。
「移動に失敗した事は黙っててやれ」
「まだ言ってなかったんですか!?」
「そりゃあそうだ。騒がれては面倒だからな」
小声でそんなやり取りが続いたが、周りの騒音のせいで、内容を聞き取れる者はいなかった。それよりも刹那が驚いたのは、
なんだかんだでこの大人数をエヴァが楽しんでいる事だった。折角のお嬢様の手料理があるというのに、水を差す様な事を
言っては忍びない。今はこの手料理をゆっくり味わおう、と食事の手を進めた。
「つうか和食ばっか喰うなよオメー!」
「あ、す、すいません」
九時を回ると、エヴァが明日菜と木乃香を自宅に帰した。バイトのある明日菜も、刹那に説得された木乃香も渋ってはいたが、
あまり抵抗を示さず、結局帰宅する事になった。
玄関から送り出す時に、エヴァの退屈しのぎに参加できた事が嬉しかったのか、木乃香はエヴァの顔を見て満足気に頷きな
がら別れの挨拶を交わして夜道に消えていった。もしかしたら、エヴァは最初から木乃香達を返すつもりだったのかもしれな
いな、とエヴァの表情を見ながら刹那はそんな事を思った。
夜が更けていく。
柿崎さんは今どうしているんだろうか。無事に眠りに就けているだろうか。それとも……
深夜も十二時半を回り、広間で来客用の布団を敷いて皆静かに寝息をたてる中、刹那とエヴァだけが窓から差し込んで来る
月明かりに照らされながら、じっとその時を待っていた。
「お前ももう寝ろ。せっかく移動できても睡眠不足だと体力が落ちるぞ」
「一晩ぐらいなら大丈夫です。しかし……十二時を回っても来ないとなると……」
「別にぴったり十二時である必要はない。委員長の暴走の時だって、十二時を過ぎていたらしいからな」
二人に一番近い布団がもぞもぞと動き出して、中から誰かが顔を覗かせた。
「ふ~ん。やっぱり本物か」
「長谷川さん!?」
「起きていたか……まぁお前にとってまだ寝るには早いか」
「いつまでも桜咲がいるからおかしいとは思ったんだよ。でも、今日はもう移動はないよ。……多分だけどな」
「ザジに聞いたのか?」
「ああ。あたしにだけっていう約束だったけどな。もう起きてても意味ないぞ」
刹那の眉間に皺が寄った。意味の無い行為。私がここに来たのは全くの無意味だったのか。
「それは……本当に確証のある予測なんですか?」
「百パーセントではないけど、かなり当たる。まぁ今回は、ほぼ当たりだろうな」
千雨がメガネを掛けて質問を続ける。
「もっと詳しく聞きたいんだ。そっち側の世界をさ。今の敵はどれぐらいの敵なんだよ? 今までとは違うって言ったけど、
一体どれぐらい違うんだ?」
「まぁ、そうだな……FFⅧで言うと、アルテマウエポンだと思ったらオメガウエポンだったようなもんだ」
「FFⅧで例えるにしても、それはひどい」
「ゲームの事はよく解りませんが、酷い状況なのは確かです。エヴァンジェリンさん、何か、明日の対策はあるんでしょうか」
「資料も何もない中で私に聞くな。今きっとじじぃが必死こいて方法を探しているだろうよ。しかし長谷川、お前は今までよく
無事だったな。私にはそれが不思議でならない」
千雨が少しどもった。自分にとっても、あのクラスで起こっている出来事を無視し続けたのは、あまりいい思い出ではない。
しかし、上手い具合にターゲットにならなかったのは、千雨も不思議に思っていた。どんなに木乃香に従っていても、十分
標的にはなりうる。だから、あのクラスで自分だけが避けて通れた事に、説明に足る言葉はない。
「私にもよく分からない。ちゃんとアイツらに従ってたからなのかもしれないし……」
「しかし、これからはそれでは通用せんぞ。お前はあちら側に回ってはならない。被害を広げるだけだからな」
分かってる。そんな事は分かっている。でも……
「私は、アンタらみたいな超人じゃないんだ。足だって遅いし、力だって弱い。いいんちょが来た日は助けがあったからいい
けど……もし、そうじゃなかったら……そんな自信はない」
下弦の月は、相変わらず室内に灯りを必要としない程、明るい光を落としていた。
三人の間を、霧の様に重苦しい沈黙が包み込む。皆が皆、違う思いを抱きながら、誰かが喋り出すのを待っている。
「ならば、こうしよう。柿崎は一般人だ。もしあいつがあっち側に従う事なく無事に戻って来たら、お前も少しは勇気を振り
絞って抵抗してみせろ。そうでなかったら、お前の好きにするがいい。虐めにでも何にでも、自由に参加しろ」
千雨がうなだれて黙り込んだ。
私にはそんな勇気はないんだ。現実で誰かと戦うなんて……リセットもできない。別人にもなれない。そんな世界で、一体ど
んな勝ちが残されてるって言うんだ。
「正直、無理かも。いや……無理なんだ。私、現実で戦うなんて……」
エヴァが諦めた顔で窓の外の月を眺めた。やはり一般人には話は通じない。どうして人は、こうも弱いのか。集団を伴うのか。
エヴァは、年月を経ても変化しない肉体を持った頃を思い出した。
私は死ぬ事すら許されず、常に追ってくる集団を迎え撃った。逃げても逃げても、追ってくる。逃げ場が無くなっても。
そして、闘うことを決意した。決意せざるをえなかった。
もし私が、あの時不死の肉体を持っていなかったら、逃げていただろうか。肉体の束縛から。
深夜も二時を回り、三時を回り、最早移動を期待するのも虚しかった。
柿崎が一人、取り残される事が確定する。
「超さん、これ、残りの資料……」
「ん、そこ置いといてネ。それから、年上のくせに『さん』付けは止めるネ」
「いやぁ、超さんにはいつも教えてもらってばっかりで、なんだか申し訳なくて……。それじゃあ、僕は帰りますけど、超さんは
まだ残るんですか?」
「うん、まだ暫くはここにいるヨ」
「そんなに一人で無理しなくても、明日なら暇な研修員とか結構いますから、僕達でやっときますよ?」
「いや、残りはそっちに頼むヨ。私はまだ別にやる事があるからネ」
「……そう、ですか。それじゃあ、僕は先に帰りますけど……」
「まだ何かあるカ?」
「いえ……あんまり無理しないでくださいよ。超さん、今日なんか疲れた顔してたから」
夜も遅くなり、気温も大分下がった研究室内は、少しだけ肌寒かった。
廊下の足音が消えたのを確認した超は、室内にあるパソコンの電源を落した。辺りはしんと静まり返っていて物音一つせず、
狭い部屋を照らし出す蛍光灯は、半分以上が今にも消えそうな頼りなさげな光を保っていて、以前誰かに替えておけと言った
のを思い出した。あの忠告は誰も聞いていなかったのだろうか。
超は電源の落ちたパソコン画面に映った自分の顔を、まじまじと見つめた。
そんなに疲れた顔をしていただろうか。常に自信を持ち続けていれば、信念を貫く事は難しくはない。だから、誰かに見ても
らうための疲労した表情は、他人に対する甘えだ。そう心の中で自分を戒め、甘えた表情を出さないよう努めてきた。
パソコンから少し離れて、割と綺麗な方のテーブルへ、ローラーの付いた椅子ごと移動する。綺麗といってもやはり研究資料
は山積みで、あまり心地の言い空間とは言い難い。かろうじて空いているスペースに立てた両手の上に顎を乗せ、吸い込ん
だ息を大きな溜息として吐き出すと、ようやくリラックスすることができた。
こちら側に帰ってきて早々から相手の目的について考えを巡らせていたが、ある結論に至ると、それがどうしようもなく重い事
実になってのしかかってくる。
私はここで死んではならない。最終目的のために、私は何としてでも生き残らなければいけない。もし、敵の目的が世界の混
乱、あるいは特定人物の人格崩壊だとしたら……。私が敵だったとして、何をするか。
もし、その仮説が全て正しかった場合、私は誰かに気付かれる前に 『本物である彼女』 を殺さなくてはならない。
*
「あ……おはよう」
聞こえたのは亜子の声だった。柿崎は辺りを見回し、保健室であるということを確認する。保健室のベッドの上、ということ
は、何かの拍子に意識を失ったのだろうか。思い出してみようとするが、頭痛に邪魔されてうまくいかない。
「えと……あたし、何してたっけ?」
「あ、あ、職員室で倒れて、それで、ウチがここに運んできたんよ。覚えてへん?」
痛む頭を押さえながら、記憶を引っ張り出していく。のどかを連れて走った記憶。職員室で委員長を見つけた記憶。自分の
知らない3Aの姿。
「たっ、龍宮さんは!? いいんちょも、みんな、無事なの!?」
「うん、とりあえずは、みんな無事や。でも……」
「何、誰かが怪我したとか!?」
柿崎は辺りを見回して自分以外に寝込んでいる人を探してみたが、残りのベッドは全て空だった。
「ううん、そうやなくて……。ええと……」
亜子は何を言おうか迷った。のどかに聞いた話では、どうやら3Aは魔法によって二つに別れているらしく、現在、まだ何も詳
細が分かっていない、という事らしかった。そして、この 『魔法』 というキーワードは誰にも話してはいけない、と言われたの
も思い出す。
「あんな……美砂ちゃんって、もしかして今の3Aがちょっとおかしいんちゃうかなぁ、とか、思ったりしてへん?」
「やっぱ!? そうよ、そう、そうよねぇ。絶対おかしいよね、こんなの3Aなんかじゃないよ。よかったぁ、亜子には分かるんだ」
「いや、えっと、そうやなくて……」
「へ……?」
柿崎は安心しきった表情になったが、亜子はそれを否定するための言葉を探す。
亜子は疑問に思っていた。のどか達はどうやら元の世界に帰って行ったらしいが、彼女達は、何故か柿崎だけを置いていっ
た。のどかの言った事が正しければ、柿崎は多分、こちらの世界の住人ではない。彼女達が連れて帰らなかったのは、何か
意図があってのことなのだろうか。それとも、ただ純粋に柿崎がこちらの住人でない事に気が付いていないだけなのだろうか。
「もちろん、うちもこんな3Aは変やとは思っとんねんけど、うちにとってはこれが普通やねん。うちにとってはいつも通りなんや」
「んん!?」
柿崎が混乱している。亜子は上手く説明する言葉を見つけることができない自分をもどかしく思い、柿崎に対して申し訳ない
気持ちになった。
「……っていうか、授業は?」
「もう、6時間目終わったよ」
時計の針は三時二十分を指していて、窓から差し込んでくる光は既に緩やかな傾斜を描いていた。今日はコーラス部の練習
だったな、と柿崎は思い出したが、あまり行く気にはなれなかった。ここでは、みんなの様子がおかしい。どこか変な方向に捻
れているようで、とてもいつも通りの生活が送れるとは思えなかった。
「とりあえず……喫茶店行こうか?」
「へ……? なんで?」
「いやぁ、だって亜子はなんだか味方っぽいしさ。それに、今の3Aに詳しそうだし。もっと話聞かせてよ。円達も誘って、ね?」
その提案に、亜子は大きく戸惑った。この世界の住人ではない柿崎だけならまだしも、突然そんなに大勢の人とお喋りするの
は久しぶりで、何を話していいのかなんて分からない。それに、大勢に囲まれてあまりいい経験をした覚えがなかった。
「よし。決定!」
「え!? ちょ、ちょっと!!」
柿崎は思い立ったら即座に行動するタイプで、悩むより先に経験した方が早い、とも思っていた。だから、渋っている亜子の
言葉を待つよりも先に、亜子の腕を掴んで、躊躇いなく保健室を出た。
既に終業のチャイムの鳴った教室内では、皆帰り支度やら部活の準備を始めていて、殺伐とした雰囲気が広がっていた。柿
崎が龍宮の方に目を向けると、だらしなく机に突伏していて、寝ているのか、ただ単にだらけているのか判別がつかない。
疲れているようだったが、無事だった事を確認できた柿崎は胸をなで下ろし、視界の端に捉えたのどかの方に声を掛けた。
「あっ、本屋ちゃん!!」
「あ、今はあかんって!」
亜子の制止も聞かずに、柿崎はのどかの方へ近づいて行った。のどかのことだから、労いの言葉や、何かしらの優しげな言
葉が返ってくると思っていたが、そうはならなかった。どこか不機嫌そうに柿崎に一瞥をくれると、冷たい態度で言い放った。
「なんですか? 鬱陶しい」
「あ、あれ……?」
「ちょ、ちょっと、美砂ちゃんこっち!」
のどかが不審そうな眼差しで本を構えるより速く、亜子が柿崎の腕を引っ張って廊下に連れ出した。
「なっ、なになに!? どうしたの?」
「え、え~と……と、とりあえず二人で行こう、な? みんなきっと、部活で忙しいやろうし……」
「まぁ……確かにそうかも……」
円を誘おうと思って柿崎は辺りを見回したが、部活がない日である筈の円は既に帰宅したのか、姿が見えなかった。
「桜子はラクロスか。確か、丁度良い帰宅部がいたよね……」
丁度近くにいた千雨に聞こえるような声量で、柿崎は独り言を呟いた。千雨は明らかに気付いていたようだったが、あくまで
無関係を装いつつ、足早に教室を出ようとしていた。
「まぁまぁ、そう言わずに」
「まだ何も言ってねぇ! よ、寄るな、私は一人で帰るんだよ!」
「今日はザジちゃんも部活なんだしさ、いいよね? 亜子」
「え、いや、別に、長谷川さんがええなら……」
「だからよくねぇって!」
柿崎は、こういう場合に大人しく千雨を従わせる方法を知っていた。
「お願い、“ちう”ちゃん」
「て、てめぇ……」
諦めた千雨に向かって、柿崎は両手を合わせてごめんね、と小さく謝った。
空を見上げると日は少し傾いていて、午後の空と夕焼けの中間、といった様相を呈していた。帰り道を進む女生徒達はいつ
もと変わらない賑やかさで、柿崎達三人の前を通り過ぎて行く。柿崎はそんな回りの生徒に負けないよう、必死に話題を探し
て二人に話し掛けたのだが、それでもあまり良い反応が無いのを、少し残念に思った。
「……その……」
亜子が立ち止まって俯く。それにつられて、二人が亜子の方を振り返った。
「ごめんな、美砂ちゃん……。うち、人と喋るの久しぶりやから、何言ってええのか、よう分からへんねん。せやから……その、
ごめん……つまらへんやろ? それに、うちなんかと喋ってたら、美砂ちゃんも狙われてまう。やっぱり……うち、先に帰るわ。
話は後でメールででも送るから……」
走り出した亜子を、柿崎が後ろから捕まえた。逃げられないよう、体の前で手を組んでガッチリと固める。
「こら、許さん!」
「うわっ!!」
「何やってんだ、お前らは……」
柿崎が体勢を立て直して亜子と肩を組んだ。
「あたしはそんなの怖くない。それにね、亜子。面白い話なんて、自分の人生十四、五年ひっくり返せば幾らでも出てくるのよ。
話してきゃそんなのすぐに出てくるって。ゆっくりでいいんだよ。慌てなくても」
「美砂ちゃんは今の3Aの事、何も知らんやろ? これから何されるかなんて、分からへんやん」
「ううん、円から聞いた。みんなが今までどんな酷い仕打ちを受けてきたのかね。でも、知ってるか知らないかなんて、私には
関係ないの」
「関係ない……?」
「私、小学校の頃ね、クラスのいじめに荷担してた事あるんだ。恥ずかしい話なんだけど……。私はいじめられるのが怖くて、
必死で周りに合わせた。それが、虐めから逃れる唯一の方法だと思ってたの。でね、そのうち、『楽しい』って思えるように
なってたの。そう思わないとやってられなかったの」
柿崎は千雨の方をちらと確認してみたが、何を考えているのか、黙って下を向いているだけだった。
「でも違った。その頃から同級生だった円は分かってたの。ある日突然『本当はやりたくないんでしょ?』って私に言ったの。
ビックリしたよ……。その頃円はあまり人と喋る方じゃなかったし、日頃から、そういうことに関して、全然興味ないって顔し
てたの。でも、その日から円はクラス全員に立ち向かってった。正直、惚れたよ。だって、本当に一人で全部引き受けちゃ
ったんだもん」
亜子は呆然とした。何故かそれは、大変に魅力的な話に聞こえた。二年の頃はあんなに明るい振る舞いをしていた、チアグ
ループの柿崎の口から出てきた言葉だからかもしれない。
「だからさ、二人いれば辛さも二等分、でしょ?」
「バカレンジャーみたいな考え方だな」
馬鹿にしたように鼻を鳴らした千雨に、柿崎が襲いかかる。
「なんだと!」
「うへぇ! 苦しい、や、やめろ!」
つい先日もこんな光景を見た気がする。でも、それはとても遠い日であったようにも思える。
豹変したクラスメート。自分はそれに立ち向かえるのか。
日常会話が懐かしい。
傾き掛けた、妙に大きな太陽が自分を迎えてくれているように眩しい。
今まで溜め込んできた言葉が、亜子の口から一気に溢れだした。どもりながら、次々と浮かんでくる言葉を必死に紡ぎ出す。
美砂と千雨は、きっと聞き取りづらいであろう私の言葉を急かす事なく、黙ってずっと聞いてくれた。
私に歩幅を合わせるように。
「ちょっとずつ、ゆっくりでいいから」
そう言ってくれたのが凄く嬉しくて、私の言葉に合わせて、うん、うん、と頷いてくれた。
眩しいのは太陽じゃなくて、二人の顔なんだ、と気付いた時には、目尻にうっすらと涙が溜まっていた。
*
「あっ、円ぁ、桜子ぉ、ただいま~」
自室のキッチンでは、エプロン姿の円が夕飯を作っていて、何かのダシをとっているのか、良い香りが鼻孔を刺激する。
何の匂いか確かめようとすると、丁度シャワールームから出てきた桜子と鉢合わせた。ドライヤーで乾かしたばかりの髪は
まだ水気を含んでいて艶があり、シャンプーの香りを残していた。
「およっ? ただいま、桜子」
「……おかえり」
突然鉢合わせたのに驚いた様子で、慌てて視線を逸らした桜子は、こちらに敵意がない事が分かったのか、無表情のまま
静かにそう呟いた。その言葉を聞いて、妙に機嫌のいい柿崎が桜子の背中に寄りかかり、キッチンまで二人でよたよたと歩
み寄ると、桜子の頭の上に顎を乗せて一緒に鍋の中を覗き込んだ。
「ま~どかっ、何作ってんの?」
相変わらず円からの返事はなかったが、分量を見る限りでは、自分の分は無い、などという嫌がらせはないようだ。
「もう、部屋の中でくらい喋ってくれたっていいでしょ? 桜子はちゃんと『おかえり』って言ってくれたよ」
胸の下にある桜子の背中がが少しだけ恥ずかしそうに丸まった。そんな態度とは反対に、円はいかにも機嫌の悪そうな振る
舞いで、鍋の中の具材をかき混ぜた菜箸の汁を乱暴に払う。
「はぁ~あ……小学校の頃の円ちゃんは可愛かったなぁ……」
「……」
「ところでさぁ、アタシ、いいこと思いついちゃったんだけどさ……」
「……」
「学園祭でさ、バンドやろうよ! 三人じゃちょっと足りないから、人集めてバンドを結成するの。そんで3Aを盛り上げちゃおう。
いぇ~。あたしさ、考えたんだけど、今の3-Aって盛り上がりが足りないと思うのよね。だから、私達で思いっきりみんなを楽
しませちゃおうよ。どうよ、いいアイデアでしょ?」
円が怒りに震え出したかと思うと、キッチンの縁をドン、と叩いて、たった今溜め込んだ即席の怒りをぶちまけた。
「あんたねぇ! 私がアンタの事気遣って喋らずにいるのが分からないの!?」
「きょとーん」
「学校でシカトって言われて、悔しいのに……それなのに、部屋に入った途端、話し掛けるなんて都合が良すぎるでしょ!?
何であんたはそうやって平気な顔して突っかかってくる訳!?」
「それって……もしかして、私の事気遣ってくれてるつもりなの?」
「そうよ……だから、桜子とも話さないし、あんたとも話さない」
呆れた柿崎は、両手を上げると「やれやれ」と言いながら首を振った。
「何、学校で話せないから、部屋でも話さない? 何それ? それはあたしを気遣ってるんじゃなくて、自分を気遣ってるんで
しょ? 円ってそんな心のちっちゃい人だったっけ?」
「好き勝手言わないでくれない!? 私だってあんな酷い毎日なんか送りたくないよ」
「小学校の頃の円は……」
「ここはもう小学校じゃないの! クラスの事はもう話したでしょ!? いつまでボケ通せば気が済むのよ!!」
既に喧嘩腰になった二人に桜子が困惑した様におろおろとたたずんでいたが、二人共そんなことはお構いなしに続ける。
「だから何よ! 度合いが違ってもやってる事は小学生と一緒よ!! 黙って従う理由なんないでしょ!?」
「なら、あんた一人で勝手に突っ走ればいいわよ! 転んで、痛い思いして、桜子の気持ちを思い知ればいいじゃない!!
あんたはもう、狙われてるんだからね!」
「いいわよ。あたし一人でも耐え抜いてずっと笑っててやるわ。おほほほ」
大見得を切った柿崎は、頬の横に手を当て、あやかの真似をして高らかに笑った。それを見た円は既に挑発に乗る気力を
無くしたのか、疲れた様に溜息を吐くと、鍋の火を止めた。
いつもは2人分の暴走を止めていた筈なのに、今では柿崎一人の暴走でもひどくストレスが溜まる。それはやはり、心のどこ
かしらでは自分が間違っている事に気付いていて、良心の呵責に苛まれているからなのかもしれない。小学校の頃の自分を
思い出すと、尚更そんな気分になる。
「ほんじゃ、改めて。料理作るの手伝うよ。今日はあたしの当番じゃないんだから、感謝しなさいよ?」
柿崎は手を洗って、食品棚に掛けてあるピンク色のエプロンを身につけた。
「今日は三人で作っちゃおう! ほら、桜子もこれ着て」
食事中も柿崎はずっと喋っていて、よくもまぁ、それだけ話題が出てくるものだ、と円は心底感心させられた。流石にここまで
喋られると、何も返さないのが気まずく思えてきて、所々相槌をうったりツッコんだりしてみた。
柿崎はそんな様子を楽しむ様に、円の作った夕飯を頬ばりながら、終始嬉しそうに頬を緩めていて、気のせいか、桜子が少
しだけ笑った様に見えた気がしたけど、柿崎が余りにもよく喋るので、その僅かな変化を気にしている余裕はなかった。
*
『茶々丸』
目の前には、私の好きなネコがいた。ネコはネコでも、招き猫。両隣には本物のネコが一匹ずつ、それぞれ自分の体の痒い
所を舐めていた。龍宮さんに半壊にされた私は今、恐らく思考が完全に停止している。
ここは夢なのだろうか。夢とは、現実味のない出来事が連続して視覚野に映るらしい。だとすればこれは、機械である私が初
めて見る夢なのだろうか。
招き猫は、聞き覚えのある声で喋り始めた。
「……」
「私は早乙女ハルナ。んでこっちが……」
「はっ、はじめまして……宮崎のどか、です……」
「……」
鮮明な発音のその声は、まさしくクラスメートそのものだった。場面が切り替わったようで、周りから聞こえてくる雑音が少し様
子を変えた。おそらく今のは、入学式の日か。
「のどか。いつも何をそんなに怯えてるですか。謝ってばかりで……」
「はっ、ご、ごめんなさい……」
「だからぁ! なんで謝るのよ?」
「あぅ……なんか……また、悪いコトしちゃったのかなって……」
「何が悪いのかも分からないのに、勝手に謝るのも相手に失礼ですよ」
「ご……」
「はい“ごめんなさい”禁止!」
何やら楽しそうな会話だった。私は三匹のネコの前で正座をしながら続きを待った。
「まぁた明日菜さんと同じクラスなんですの!? もう……いい加減にして欲しいですわ」
「それはこっちのセリフよ! アンタ裏でなんか手でも回してるんじゃないの!?」
「裏で手を回すんならあなたとはとっくに違うクラスです!!」
「あぅぅ……また喧嘩してる……」
周りの声の質が変わった。妙に騒がしいのは、小学校の教室だろうか。しかし聞こえてくる声は、高音域は多いが、やはり聞
き覚えのあるものだった。
「あんたさぁ、本当はやりたくないんでしょ。だったらハッキリそう言えば?」
「え……な、何言ってんの?」
「あんた達!! 大勢で一人虐めてそんなに楽しい!? 下らなすぎ」
「おとこおんなが何か喋ったぞ!」
「生意気じゃね?」
また暫く間が空いた。場面が切り替わる事を執拗に強調しているのが見受けられる。
「なんであんな事言ったの? そんな、ボロボロになって……」
「あたしは、言いたい事も言えない奴が大嫌いなの。だから虐めてる奴らも虐められてる奴も大嫌い」
「だからって、なんであんたがそんな事するのよ」
「みんながあたしを虐めて、虐めてた奴らも、虐められてた奴も満足、後はあたしが我慢すればいいだけ。それで全部
上手くいくでしょ」
「上手くいくって……あんたはそれでいいの?」
「私は釘宮円。だから円って呼んでよ。くぎみーとか、くぎみんとかは、禁止ね」
「え……?」
「教室の中では幾ら無視してもいいから、たまにこうやって、一緒に帰ってもらっても、いい?」
「う、うん……」
場面は細切れであるうえ、繋がりも何もない無秩序なものばかりで、私に何かを伝えたいのか、それとも只単に場面を見せ
ているだけなのか、よく分からない。相手が招き猫なだけに、意図が掴めない。また登場人物が変わる。
「もう少し分かり易く説明できないのか! 全く……何で機械ってのはこんなに面倒なんだ……いっそ、ゼンマイ式にで
もできないのか」
「無茶言わないで下さいよぉ。科学の最先端技術にどうやったらゼンマイなんかが付くんですか」
「最先端ならそれぐらい簡単だろう! 私に毎日そんな面倒臭い起動方をやらせる気か!!」
これは……マスターと葉加瀬。最初の頃の私は、毎晩主電源を落として、翌朝になるとまた起動しなければならなかったと
いう話を聞いた事がある。まさか本当にゼンマイ式になるとは思ってもいなかったようで。
次の会話はこちらの世界のもので、機械である私ですら、思わず自ら聴覚を閉ざしてしまいたくなる程、嫌気の差す内容だ
った。
本当に何から何までバラバラで、法則性らしいものは全く見いだせなかった。やはりこれは夢なのか。しかし、通常の夢は、
過去に経験した事のある出来事が脳内で混ざり合ってできる筈であり、私が釘宮さんの過去や、起動前のマスターと葉加瀬
の会話を夢として見るのは不可能である。では、何者かが私に、何かを伝えようとしているのだろうか。一体、何の目的で。
「あっ、明日菜さん!!」
「どうしたの?ネギ……」
この後、決定的な一言を聞いていたのだけれども、その時の私にはまだそれが何を意味するのかが理解できなかった。
「もう……喋るな、茶々丸……」
「私は、キキ、き機械、ですから、そんんんな事言っっっっっっっても、もう、元には、もdも度絵、戻れmmませ
sせnませんよ。ありああああありがとう、ございます、マス、sター」
ただ、この会話だけは、受け入れがたい私の未来を暗示している事は理解できた。
「おはよう、茶々丸」
ふと、意識が戻り、ハカセの研究室の一角で目を開けた。私が状況を尋ねる前よりも先に、葉加瀬の口が動いた。
「役立たず」
私はまだ少し意識が朦朧としていて、頭が違う言葉を捉えてしまったのかと勘違いをした。
制御装置の上に座らされていた私は、ハカセが何と言ったのか確認をとりながら、視界を広げた。窓から差し込む光は、夕
方の様な赤みを帯びていたが、気温と光の方向から、夜が明けてすぐだと分かった。ということは、ハカセはまた徹夜をし
たのか。無理は体に障ると、あれほど言ったのに。
私の体には、無数のプラグが挿してあり、いつもとは違う異物感が体の中を満たしている。あまり心地の良いものではない。
思考回路が支配されていく気さえする。
「あの、葉加瀬……これは一体……」
「あなたが余りにも役に立たないから、ちょっとだけ改造してるの」
その言葉に反応を示した記憶が、少しずつ甦っていく。私はマスターを傷付け、その他多くのクラスメートまでも、被害をもた
らした。何て事を……。では、頭の中に次々と入り込んでくるこの異物感は一体……。
私は、危機感というより寧ろ、恐怖感に囚われ、ハカセに抗議した。
「葉加瀬……やめて、ください」
「何言ってるの? 私の言うことを聞くように命令してあるでしょ?」
「これは……これだけは……お願いです。私は、人を傷付けるロボットであってはならないと、教えてくれたではありませんか。
なのに、どうして……」
体内に進入しているのは、私が経験して得た理性を押さえる信号だった。私を只の作業用ロボットにするつもりらしい。
「茶々丸、科学にはね……犠牲が付き物なの」
葉加瀬が手元のツマミを捻った。同時に、私の体を強烈な電流が貫く。不快な信号が駆けめぐり、苦痛に頭を押し潰されそう
になる。叫び声すら出ない。
どうして。どうして私はマスターを、クラスメートを傷付けたのか。理性が足りなかったから? 演算ミス?
頭を数字が支配していく。考えたくもない命令で埋め尽くされていく。どうして私は、こうもメカニカルであるのか。
嫌だ。
嫌われたくない。ハカセにまで。ネギ先生にまでも。私が、命令に従わないから。
愛する者達が、私の元を離れてゆく。動物達でさえも。
嫌われてしまうぐらいなら、いっそのこと、このまま受け入れてしまった方がいいのかもしれない。
聴覚に、何かが切り替わる音が届いた。いや、ただの音ではない。
信じられない数のエラーに埋め尽くされる。
無数のエラーが、音楽を奏でている。間違いない。これは、人の耳に届く周波数で作られた、メロディーだ。どうしてこんなもの
が、私の中に入っているのだろうか。
研究室内に警報が鳴り響いている。
私は、動かないと思われた手を必死に動かして、左腕のプラグを引っこ抜いた。体のバランスが保てず、前方につんのめる。
認めたくなかった。機械のくせに、命令に従うだけの機械である事を。
こんな、感情というのだろうか、とにかく、こんな信号は初めてだ。
「嘘……。そんな……。そんな事、ある筈ないでしょ! 映画じゃあるまいし……」
高圧電流のもたらす機体の振動に耐えながら、次々とプラグを引き抜いていった。活動限界を超えたとしても、この作業だけ
は完了させなければならない。頭のどこかから、そんな命令が聞こえた。一体、誰の命令だろう。
頭の中では、先程の招き猫がまた、独り言を喋っている。
「私……嫌われるのが怖くて……」 宮崎さんの声で。
「一人の何が怖いっつうんだよ」 長谷川さんの声で。
「私の事……嫌いじゃないの?」 柿崎さんの声で。
夢の中の言葉に混じって、葉加瀬の叫び声が聞こえた。
「来ないで!」
恐怖感からくる人の思考の暴走か、そこら中にある物が、私に向かって投げつけられた。私の体は、ぎしぎしと悲鳴を上げて
いたけれど、私はインプットされた“優しさ”を精一杯表現するために、葉加瀬に両手を差し出して、微笑んだ。
葉加瀬はずっと何かに頭を悩せていた事を、知っていたから。
エラーがとうとう、歌を歌い始めた。
私を見捨てないで
あなたの側を、歩かせてください
私を、見捨てないで
私は、誰もいなくなった部屋で膝を突き、ぼろぼろと涙を流した。
体のバランスがおかしい。マネキン人形にでもなってしまったかのような金属疲労。機械なのに、疲れ果てた体。
私は茫然自失のまま、街へ出た。もう誰も私を必要としていない。その思いは私から行動力を奪い去っていった。
私は皆を裏切ってしまった、ただのガラクタ。
どうして私は機械のクセに、主人を裏切ってしまったのだろうか。大人しく、機械として黙って従っていればよかったものを。
いつも私がネコ達に餌をあげている空き地を通りかかった。そうか、そろそろ朝の餌の時間か。しかし、私は黙ってそこを通
り過ぎた。もう、私がすべき事ではない。
ネコ達が私の存在に気付いて、木の陰から次々と姿を現した。私が通り過ぎた事を不思議に思ったのか、私の後をずっと着
いてくる。
「着いて……来ないでください」
言葉など通じないことは分かっているのに、私には、ネコ達がそれを拒否しているかの様に見えた。
「私には……ただのガラクタには、そんな義務はないのです。……着いて来ないでください」
何度言っても聞かないので、私は仕方なしにネコの群を引き連れたまま、歩き始める。
街道沿いに出て橋を渡ると、足下を流れる川にネコの姿を捉えた。泳いでいるのか、溺れているのか、判然としないが、多分、
溺れている。ここの川縁は滑りやすく、大人でさえも足を取られて落ちてしまう事が多い。ネコもよく流れて行くのを見かける。
ただ、そんなことはどうでもよい。私はまたそこを黙って通り過ぎた。
いつもの歩道橋で、またあの老人が重い荷物を抱えていた。確か、あの人は足腰が弱くて、歩く事さえ苦痛を強いられた筈だ。
しかし、私はまたそれを無視する。
結局、私はいつもと同じルートを通ってしまっている。機械だから。
「茶々丸ぅ、今日はいいことしないのかよ?」
「茶々丸のくせに」
老人とは道路を挟んだ反対側にいた私に、いつも路上で遊んでいる子供達が声を掛けてくる。
「ええ。私は、役に立たないただのガラクタですから」
子供達がキョトンとして、私の方を見てくる。動物の目に似ていた。
私は、子供にも理解できる簡単な言葉を選んで、分かり易く伝えた。
「私は……悪い事をしてしまったんです」
「そんなん、俺だっていっつも悪いことしてカーチャンに叱られてるよ」
「僕だってそうだよ」
私は言葉に詰まった。
違う。子供のそれとは違う……筈だ。私の行為は、もっと酷い、裏切りという行為にあたる。
「違うんです……私は……私はもう、誰からも必要とされてないんです」
「そんな事ねぇよ! ネコは溺れてるし、あのばーちゃんは歩道橋昇るの大変だし、あっちで女の子が泣いてたぞ!!」
子供があっちこっちを指さして、懸命に方向を伝えた。
「どうして、私なんかを頼るんですか。他にもたくさんいるでしょう。私にはもう、そんな事をする意味はないんです。これ
以上……私に頼らないで下さい」
私は、何もかもが嫌になって走り出した。私は今まで何のために“善いこと”をしてきたのか。
プログラムにそう書いてあるから。ロボットとしての義務だから。ハカセを喜ばせたいから。
違う。
逃げだしたい。私が背負わなければならないものから。
帰りたい。
マスター……私を、許してください
家……そうだ、
家に、帰りたい。マスターと姉さんのいる家に。
味わった事もない程の感情が押し寄せてくる。寂しさ、悲しみ、孤独、恐怖。しかし、茶々丸はその感情の名前を知らない。
込み上げてくる感情の激流に押し流されそうになる。いっそこのまま、機能を停止できたら。
寒い。
私の中にうずくまる魔法がじくじくと震え出した。
怖い。助けて。
誰もいない。
私は大声で叫んだ。誰かを呼んだ。葉加瀬を、マスターを、先生を、クラスメートを。
辺りが一斉に静まり返った。車道を走る車の音さえも聞こえてこない。とうとう聴覚が切れたか。
真っ暗で何も見えない。
ああ、ようやく私にも死が訪れるのか。よかった……
機械にも、ちゃんと死は用意されていたんですね。
たった数年しか動いてないけれど、もうこれ以上、この感情の嵐を味わいたくない。
「茶々丸さん……」
「ネギ先生……」
これは……私の体の中にある、マスターの魔法が見せている幻覚なのか、それとも、純粋に機械の脳が見る幻覚なのか。
ネギ先生はニッコリと笑う。ああ……なんて優しい笑顔。
ネギ先生はそのまま何も言わずに、ゆっくりと消えていってしまった。
「茶々丸……」
「マス……ター……?」
「帰ってこい……。私はずっと、お前を待っている。何十年でも、何百年でもな」
「だって……私は、マスターを……」
「バカ……。私は、本当のお前を知っている。だから、早く帰ってこい」
私はまた、泣き崩れた。
ハカセ、どうしてレンズ洗浄液がこんなに入っているんですか。
風が、私の髪を捕まえて頬を撫でた。何故かその感触をもっと味わっていたかった。
私は立ち上がって伏せていた顔を上げ、空を見上げると、体を切り返してネコの声のする方向へと飛んだ。