銃口が柿崎の額に当てられ、続いて亜子、のどか、と地面に座り込んだ3人の方へ順に向けられる。
「宮崎のどか。何故裏切ったんだ? 賢明な君らしくもない。あの秘密を打ち明けるのがどういう事か、分かっているんだろうな。
これはお前個人の問題ではないんだぞ」
「裏切った? 本屋ちゃんが!?」
柿崎にとっては初耳だった。しかし、悲痛な面持ちを浮かべたのどかは、裏切ったというよりは、無理矢理連れてこられた様な
印象を受ける。ついさっきまで敵の中心だった人物が、自分が気絶しているほんの数分間の間に裏切ったというのか。
「お前は知らなくてもいい話だ。これ以上被害を広げられても困るのでな」
亜子が逃げ切れなかった悔しさと、のどかを守りたい一心で、力一杯龍宮を睨んだ。その眼光を見て、龍宮が少し驚きながら、
「いい眼をするようになったじゃないか、和泉。以前は怯えた子犬の眼にそっくりで、私も気に入ってたのに。まるで今にも食ら
いついてきそうな狂犬のようだ」
亜子がのどかの呼吸が荒い事に気付いた。過度のストレスと緊張状態のせいで、軽い呼吸困難に陥っている。このまま放って
おいては危険だ。そう判断した亜子は、険しい表情を和らげ、龍宮に訴えた。
「なあ、龍宮さん。のどかが軽い呼吸困難みたいなんや。せめてのどかだけでも、保健室に連れてってあげたらあかんやろか?」
しかし、龍宮はその訴えを受け入れなかった。厳しい口調で亜子にピシャリと言い放つ。
「何を言ってるんだ? 私は宮崎を連れて来るように言われたんだ。その本人を保健室に連れて行けだと? そんな甘い考えが
通るのなら、3Aはここまで堕ちてなかっただろうよ。それに、お前が余計な事をしなければ、宮崎がそんな風になったんじゃあ
ないのか?」
「そんな……」
否定はできない。しかし、だからといってこのクラスをそのままにはしておくのは嫌だった。
「さあ、立て。調教師が待っているぞ」
亜子は訴えを続けようとしたが、言葉途中に呆然となった。龍宮の背後に何者かが立っている。~背中をこちらへ向けながら。
*
それが地面に降り立つ音を聞いた龍宮は、慌てて後ろを振り返り、銃を構えた。
彼女は丸めた背中を一気に引き伸ばし、その背中に付いた噴射口から勢い良く白煙を噴き出した。それはまるで、朝目覚めた
ばかりの天使が、思い切り羽根を伸ばした様にも見えた。
ライトグリーンの髪を風になびかせた天使は、いつもの様に眠たそうな抑揚のない声で、そして少しばかり元気のない声で、四人
に挨拶を交わした。
「おはようございます、皆さん」
「何をしに来た。私の弾丸の味が恋しくなったのか?」
銃口の片方が茶々丸の頭部を捉えた。
「いえ、ただのサボタージュです」
(アカン……茶々丸さんまで来てもうた……どないしたらええんや)
最早、事態は免れない所まで来ている。逃げ切れない。
頭の中にふと、ある疑問が浮かんだ。今、目の前にいる龍宮の記憶は、一体どうなっているんだろうか。
今の一言は、まるで茶々丸と一度闘った事があるかの様に捉えられる。しかし、実際に闘ったのは、自分を助けてくれた、別の
龍宮。では、今目の前にいる龍宮は、一体どんな理由で茶々丸に銃を突き付けているのだろうか。
亜子の疑問が出口を見つける前に、柿崎が声を上げた。
「茶々丸さん!? アンタ味方だよね?」
「美砂ちゃん、ちゃうねん、茶々丸さんは……」 亜子の静止を振り切って、柿崎が続ける。
「私には分かる。お願い茶々丸さん、のどかを助けてあげて! 危険な状態なの!」
柿崎の目は、いつもの優しい茶々丸を映し出していた。動物が好きで、いつもエヴァンジェリンにくっついていて、保護者を思わ
せる包容力を備え、そして、何か思い悩んでいる。
茶々丸は、反対側を向いたままのどかの呼吸数を計測した。不規則、不安定、と出る。自分の心もそんな感じだろうか、と思い
ながら、四人と顔を向き合わせた。
茶々丸はそのまま何も言わずに龍宮の横を通り抜け、柿崎、亜子、のどかを抱きかかえた。
「何勝手な事やってるんだ。動くと全員の頭をブチ抜くぞ」
背中のジェットエンジンをふかし始めた茶々丸は、龍宮の銃口には動じず、落ち着いた口調で答えた。
「……それならそれで」
片足で向きを変え、大地から足を放す。重厚な体は重力をまるで感じさせず、ふわりと宙に浮いたかと思うと、空高くまで急上
昇した。
銃口を下げた龍宮は、見逃してしまった自分の甘さに溜息を吐く。なぜだかこの時は、引き金を引く気がしなかった。誰かに止
められている様にも感じた。目の前にチラつく青い髪に、嫌気が差す。
「やれやれ……。面倒だが、追わなきゃな」
*
「マッツッケッンッサ~ン~バ~……いやぁ、今日はシスターもココネもいないし、適当にサボって帰るかな……しっかし、ヒドイ
なぁ。掃除だけ任せて帰るなんて……手伝ってくれる人は他に誰もいないし……嗚呼! 私ってば、なんて真面目なシスター
なんでしょう。きっとこの行いは神様も見てくれてるに違いないわ!!」
両手を組んでそう言い終えると、美空はとっとと掃除用具を仕舞って帰り支度を始めた。腹の虫が鳴って、昼食を摂る場所に
ついて考えを巡らせていたが、それは教会の扉を激しく叩く音に中断された。
「誰か! いる!? 美空とか!」
「ごめんなさい! 神様は今、帰省ラッシュに紛れてバカンスに言ってるんです!」
「春日さんを確認、私がこの扉を破壊する前に開けて下さい」 扉の奥から脅しともつかない、機械じみた声が聞こえる。
心の中で舌打ちをしながらも、渋々ドアを開けた。イタズラは好きだが、厄介事は嫌いだ。
「なんスか……」
「あんた、本当にシスター?」
「ちょっとぉ、入って来ないでよぉ、ここは懺悔をする場所で、厄介事を持ち込んでいい場所じゃないの」
「ご、ごめんな、美空ちゃん。のどかが今ちょっと危険な状態なんや……」
のどかの姿を確認した途端、慌てて逃げだそうとした美空の腕を、柿崎はしっかりと掴んでいた。
この際、あまり染まっていなさそうな美空は、今の内に引き込んでおきたい。
「コラ! ここまできて逃げるんじゃない!!」
「あ、アンタ達が勝手に来たんでしょうが! 自殺行為だって! ヤクザの頭を人質にとってるようなもんだって!!」
「茶々丸さん、入口塞いで! 逃げられないように!!」
「はぁ……」 茶々丸は柿崎に言われた通り、教会の出口を塞いだ。
「ヒィ!!」
「のどか、大丈夫……?」
教会の椅子にのどかを下ろして横にしてやると、亜子は自分の膝の上にのどかの頭を乗せた。相変わらず呼吸は乱れ、心
臓を手で押さえていたが、うわごとも数を減らし、大分安定してきてはいる。
「みんな……悪いんやけど、ちょっと席外してもらえへんかな? 二人だけで話したい事があんねん」
柿崎と美空が一瞬キョトンとしたが、二人共すぐに納得して、茶々丸を連れて外に出た。チャンスとばかりに裏口から外へ逃
げようとする美空だったが、柿崎にあっさりと捕まえられる。
神様は私の善行を見てくれていないのだろうか……
そうつぶやいたが、もしかしたら本当にバカンスに出かけているのかもしれない。
亜子は椅子に凭れながら、天井のステンドグラスを見上げた。自分の背丈よりも少し高い位置にある窓から気持ちの良い隙
間風が入り込んで、小窓をかたかたと揺らしている。
膝の上に仰向けになっているのどかの額に手をやり、前髪を掻き上げてやった。眠る様に目を瞑っていたのどかは、亜子の
掌の感触を感じ取って、うっすらと瞳を開いた。深呼吸の様な深い吐息のまま、亜子に尋ねる。
「どうして……今までの、復讐のつもりなの……?」
亜子は少し躊躇ってから、ゆっくりと紡ぎ出す様に喋った。
「復讐、とかやない……信じてもらえへんかもしれんけど、うちは、のどかを……みんなを助けたいんや。今は、のどかを貶め
てるみたいになってしもてるけど……でも、これはのどかの意志なんや」
のどかは再び目を閉じた。腹の底に怒りが吹き溜まりを作っている筈なのに、心地の良い風と、訳の分からない言葉の所為
で、相手を罵倒するための言葉が浮かばなかった。
泣きたい。
戻る事の出来なくなってしまった、幸せな日々を取り返したい。
「どうして……魔法の事を知ってたの……?」
震え始めた声を聴きながら、亜子は昨日の朝からの事の顛末を、のどかの頬を伝った涙を指で拭き取りながら、ゆっくりと
話し出した。勿論、魔法に関与しているのどかなら理解してくれるだろう、と踏んでの事だった。
「きっと……もう一人ののどかは、分かってたんとちゃうかなぁ。うちにはこれから先、どうしたらええのか、さっぱり分からへ
んけどな」 亜子は軽く微笑みかけて、のどかの反応を待った。
のどかは、自分の頭脳を選んだ。常にこちらにいる事のできないというネックを、もう一人の自分に託す事によって、解決に
導こうとした。それは、ある種の賭だったのではないのか。
「ふざけないでよ……」
「へ……?」
のどかがのそり、と体を起こして、長椅子の上に四つん這いになる。必死に上体を起こそうとしているが、全力で走った事が
祟ったのか、憔悴しきっていて、上手く起きあがれないでいる。最後の力を振り絞る様に、のどかの全身から痛い程大きな声
が発せられる。
「ふざけないでよっっ!!」
*
突然浴びせられた罵声に、亜子はしばし唖然となった。
「知らない……知らない知らない! そんなこと知らない!! 返して……返してよ!! 私は幸せだったの……平和な毎日
を送ってたの……なのに……何が『もう一人ののどか』よ。何が『みんなを助けたい』よ。私にどうしろって言うの!? 力も、
体力も無い……やっと、言い返せるようになったのに……言いたい事とか、言えるようになってきたのに……もう、私は……
虐められたくないの!!」
亜子の制服の襟をぐいぐいと引っ張って揺らした。ボロボロと涙を流して、腹の底に溜まっていた物を全て吐き出し、亜子に叩
きつけた。もはや力尽きようというのに、昔を思い立たせる自分が、私にその義務を押しつけようとしている。
その事実が異様に腹立たしかった。どうして、私が……。
私はこんなにも非力で、人の心を読む事のできない今も震えが止まらず、こんな程度の低い八つ当たりしかできないというのに。
もうお終いだ。既に魔法の事は知られている。アーティファクトを消すには、遅過ぎた。
「嫌よ。みんな、もう一人の私がやったって言うの……? もう嫌……魔法なんて、知らない。そんなの、一人でやってよ……。
私の幸せを……返してよ。馬鹿……亜子の馬鹿……私の馬鹿!!」
最早何が言いたいのか、自分でもよく解らなくなってきていた。亜子の胸に顔を埋め、力一杯叩いた。毎日毎日、またこうやって、
逃げ回らなきゃいけないのか。あの地獄の日々に戻るのか。
どうせ亜子は私を裏切って、いつかは木乃香側に付くに違いない。夕映もハルナも、そうなっていった。だから、復讐した。
非力な自分を捨てるために。
「……のどかはそれで、ほんとに幸せなん?」
うるさい。
「本当は、後悔してるんとちゃうん?」
私を貶めたくせに……
「うちは、裏切らへんよ」
誰が信じるか、そんな薄っぺらい言葉。一体誰に、この先ずっと人を裏切らない保証がある。人間である限り、それは無理な
話だ。私が信じているのは、アーティファクトだけ。他には何もない。
なのに……どうして亜子の胸はこんなにも、温かみを含んでるんだろう。
私は、肝心な何かを忘れている。
亜子がごそごそと、制服の内側の胸ポケットの辺りを探り始めた。取り出したそれを私の前に差し出すと、ニッコリと笑って、私
の掌の上にそっと乗せた。
一語一句、一文字、行間、ページ……全て、刻み込まれている。
幼い頃の記憶が甦っていく。
何百回と読んだ、その本。そう、覚えている。いや、何故か、完全に記憶に蓋をしていた。
『自分と同じ顔をした奴が、誰かを傷付けているなんて、そんなの嫌だろ?』
私はその本を力の限り抱きしめ、今まで私のしてきた事を、教会の長椅子の上で懺悔した。
もう一人の私は、全て知っていた。自分がいつか、こうなってしまう事を。
だから、忘れてしまわないように、幼い頃から何度も何度も、その本を読んでいた。
そして、その思いを亜子に託した。主人公のセリフを借りて、私に伝えるために。
私は、亜子の胸の中で、声が枯れ果てるまで泣いた。
*
世界樹は、シスターとチアリーダーとロボ、という、根本に座り込んだ奇妙な3人にも、悠然と木陰を落としていた。
生真面目な顔で真っ直ぐ前を見つめ、何か考え事に浸っている茶々丸。
寄りかかった樹の幹に背中を預け、頬に受ける風を気持ちよさそうに感じながら、時たま瞑っていた目を開けて、眩しそうに
太陽の方を見つめる柿崎。
膝を抱えながら呪いの言葉を呟く美空。
「……ねぇ、美空。それ、どこの国の言葉?」 柿崎が尋ねる。
「ンワガンポ島の呪いの言葉」
「……それにしても、あんたってさぁ……この世界にしては、随分明るいよね」
「え、そ、そうかな……」 美空はどこか後ろめたそうに口ごもる。
「やっぱり、こっちにいる人にとっては普通なの? 今の3Aって」
「普通だとは思ってないよ。昔はこんなんじゃなかった。みんなもっと……楽しそうだった。それより柿崎の方こそ、何か、昔に
戻ったみたい」
二人で暫く間を置いた。お互い、あまり話した事はなく、慣れない会話の距離を読み合うようにして、相手を知ろうとしている。
最も柿崎にとっては、変に意識している訳ではなかったが、美空の方は、突然明るくなった柿崎への対応に、少し戸惑いを感
じているようだった。
「美空も、今のクラスに虐められた事はあるの?」
「ううん、私はずっと逃げてた。それにほら、私存在感薄いし」
同時に二人がクスリ、と笑う。
「確かに。アンタなら逃げ切れるかもね」
「それは、私の足が速い事に対して言ってるの? それとも存在感の話?」
「想像に任せる」
美空の明るさは、それでもどこか垢抜けた感じがあって、何か自分の知らない裏の事情を知っているようにも感じ取れるが、そ
れが何なのかは、分からなかった。
何処から飛んできたのか、茶々丸の肩には、数羽の雀がとまっていた。茶々丸がそっと片手を持ち上げると、雀もそれにつら
れて、指に乗り換える。雀と見つめ合いながらも、憂鬱な表情の茶々丸。ジブリアニメを蜂起させる様な優雅な眺めに、二人共
しばし見入っていた。
暫くして柿崎が声を掛けると、茶々丸は視線を変えずに返事をした。
「……なんでしょうか」
「……かわいい雀だね」
「……可愛い……そうですね。そう言えるのでしょうね……私は機械ですから、よく解りませんが」
「何かあったの? いつもより、元気ないけど」
茶々丸は確か、本物と思しき龍宮と闘っていた。亜子の話を聞けば、どうやら今目の前にいる茶々丸は偽物らしいが、柿崎に
はそうは思えなかった。
あるいは、偽物だとしても、元の世界にあるような、極めて人間的な悩みを持ってしまった、そんな顔に見えて仕方がなかった。
仮に偽物だったとして、この世界で酷い仕打ちを受けてきたのかもしれない。だとしたら、尚更ほうってはおけない。
「私は、普段からこんな感じですが」
「嘘言わないの。私にはちゃんと分かるんだから。クラスメイトでしょ? たまには、何か相談でもしてよ」
「はいはい!」 美空が大げさに手を挙げて柿崎に訴えた。「迷惑なクラスメイトが厄介毎に巻き込もうとするんだけど、どうした
らいい?」
「身を粉々にして、手伝ってあげればいいんじゃない? シスターなんだし」
茶々丸が腕を下げると、雀が今度は膝の上に移動した。そんなに茶々丸の体は居心地がいいのだろうかと、雀をじっと見つめ
ながら柿崎は考えていた。下ろした手を地面に置いた茶々丸は、遠くのどこか一点を見つめながら、尋ねてきた。
「柿崎さん……柿崎さんは、ご両親に反抗した事はありますか?」
「そりゃあ、あるわよ。誰だって、自分の方が正しいって思う事はあるでしょ?」
茶々丸は迷っているのか、暫く間を置いてから続けた。
「私は、この世界の人達に酷い事をしてしまいました。しかし、それを止めようと、償おうとするほど、産みの親である葉加瀬の
期待を裏切ってしまうんです。マスターを裏切り、3-Aの皆さんを傷付け、それでも私は、まだ自分の意志で動こうとする。胸
の奥から、必要としない感情が押し寄せてきて、その苦しみから逃れるために、また罪を償おうとするんです。これが人の感
情だというのなら、私にはこんな感情、必要ありません。私はもう、何に従って行動を起こせばいいのか、分からなくなってし
まったんです」
自分の立場と、逆らえない、逆らってはいけない命令。それを拒絶するAI。
茶々丸の頭の中に芽生え始めた感情と、自分の置かれた立場に感じる違和感。そして、人を傷付けてしまった自分への恨み
で、雁字搦めになっていた。しかしそれは、柿崎にとっては思春期における少女の悩みと、なんら変わりないように思えた。
「難しい事は、あんまりよく分かんないけど、そういう時はさ……」
柿崎が立ち上がって茶々丸を見下ろすと、驚いた雀達が慌てて飛び去って行った。雀達が見えなくなるまで目で追い掛けた茶
々丸も、柿崎を見つめ返す。
「忘れちゃえば?」
ぱっと花が咲いた様な笑顔だった。しばし呆然と柿崎の顔を見る。美空も、何かを期待していたのか、少し拍子抜けしたような
顔になっている。
「とりあえずさ、今は目の前にある、茶々丸さんのやりたい事やってみたら?」
「私の……やりたい、事?」
「そっ。今日は土曜日だし、なんなら今日一日、茶々丸さんに付き合ったげるよ?」
私のやりたいこと……動物を助け、動物と触れ合い、人を助ける……
「そんな事で、いいのでしょうか……?」
それが、私の求めていた答えなのか。この複雑で、極めて難解な感情が、そんな事で。
「違うと、思います……。こんな複雑な感情プログラムのバグが、そんな事で収まるとは、とても思えません。柿崎さん、何故そ
う思われるのですか?」
単純な疑問をぶつけた。決して機械に詳しい訳ではない柿崎が、一体どんな考え方でその答えを導き出したのか、興味があっ
た。しかし、その答えを聞き出す前に、事件は起こる。巻き起こる悲鳴、慌てて逃げる他クラスの生徒達。
「何? 何が起こってるの!?」
「ダビデ像の方みたい」 美空がそちらを見渡す様にして、体を傾けた。
「3Aの生徒複数が、ダビデ像広場に集まっている模様です」
茶々丸の耳は、龍宮の撃つ多数の弾丸の音を聞き取っていた。
*
龍宮の銃弾が膝元を掠める。わざと外してくれているんだろうが、逃がすつもりはない、といったオーラは十分に感じ取れた。
のどかを抱え、教会の裏口から脱出には成功したものの、そろそろ体力が限界に近付いている。辺りには銃声に驚いて叫び
声を上げながら逃げまどう女子生徒の姿ばかりが目に飛び込んでくる。
亜子はのどかを逃がせる場所を必死に頭の中に巡らせた。制服の裾を握りしめながら震えるのどか。
大丈夫や……のどか。ウチが絶対に、絶対に逃がしたる。
のどかはこの世界を元の3-Aに戻すために、きっと、絶対に必要なんや。せやけどそれまではうちが……うちが守ってやらな。
背後から聞こえる、龍宮の声。
「どうした? 速度が落ちてるぞ。そんな足でこの先、私から逃げ切るつもりか? 笑わせるなよ。少なくとも春日よりは速くな
いとな」
明日からはランニングか。いっそ、陸上部に入った方が早いかもしれへん。今日、逃げ切れたらやけど。
背後の足音が消えた。立ち止まって辺りを見回すも、辺りには最早、誰もいなくなった広場がただ広がっているだけだった。
前を向き直すと同時に、視界一杯に飛び込んでくる銃口。慌てて一歩下がり、反対側に走り出す。広い場所に出たくはないが、
反対側にはダビデ像広場への階段しか残っていなかった。明らかに誘導されている、そう気付いたのはのどかだった。
*
もうお終いだ。今までのやり方なら、この先にはきっと絶望的な人数が待ち構えているに違いない。やりきれない気持ちに苛
まれながらも、のどかは目を瞑り、自分の心の声を聞いた。
『大丈夫、大変な時こそ、落ち着くんだ』
主人公の声に従い、ゆっくりと目を閉じて耳を澄ませる。亜子の呼吸の乱れが酷い。そっと胸に耳を近付ける。心臓の刻むビ
ートが心地良いリズムを刻んでいた。
息も切れ切れの、亜子の声が聞こえた。
「おめでとさん……よく、逃げ切ったな。もう大丈夫や」
ふと目を開けると、美空を捕まえながら、満面の笑みで親指を突き立てている柿崎と、斜めに構えてこちらを見下ろす茶々丸
の姿があった。
「茶々丸さん、みんなを連れて逃げてや!!」
「亜子はどうするのよ!?」
「うちはええ。とにかく、のどかはこの世界を元に戻すのに無事でいなきゃ、あかんねん。せやから早く……」
亜子のその言葉に、のどかが反対の意志を示した。
「そんなの嘘よ! 幻想よ!! 私にはそんなすごい事、できない……」
のどかが掴みかかる様な勢いで亜子の言葉を遮った。心は廃れてボロボロに崩れ去り、最早何を頼りに生きていけばいいの
かが分からなくなっていた。最後の支えである亜子を失う事は、今の自分にとってはあまりに大きい。
今まで自分のしてきた事を振り返る事をも恐れ、そんな自分勝手な考えを亜子に押しつけながらも、自分はやるべき事から逃
げている。それを自覚してしまうと、また更に心が締め付けられた。そんな薄汚い自分が、大業を成し遂げられよう筈もない。
小説の主人公はいつだって、綺麗な心を持っていた筈だ。
「でも、もう一人ののどかは……」
「あなたは……! 亜子は……偽物の私しか見てないの? 私にとっての本物は、私なの……。今、あなたの目の前にいる、
私なのよ……私の言葉も、受け入れてよ……。私は、亜子を置いてここから逃げるなんてできない」
「のどか……」
それは、突然鼓膜をつんざくように耳の中に入り込んできた。
茶々丸以外の4人がその銃声に驚いて、体を縮み上がらせた。皆誰が狙われたのかと心配そうに周りをきょろきょろと見回して
いたが、お互いに同じ動作をしていたことに、4人共安堵の色を浮かべる。柿崎が茶々丸の視線に気付いて後を追うと、天井に
銃口を向けた龍宮が立っているのが視界に飛び込んできた。
とうとう追いつかれた。
全員が龍宮の視線とかち合って凍り付いた。蛇に睨まれたかの様な、深い、刺すような視線に飲み込まれそうになる。
龍宮が銃身を地面と水平に戻し、今度こそ5人の方向を正確に捉えていた。
「そこから全員、一歩たりとも動くな。美空、お前もだ」
スタートラインに立った短距離選手のポーズを取っていた美空が、ビクリとして龍宮の方を振り返った。
「いや、私は関係ないんだってば。ねっ、たつみー。いいでしょ? 私、全っ然、龍宮さんの邪魔をするような事はしないし、この
人達とは本っ当に、全然関係ないから。ね? さっき突然教会に押し掛けてきただけだから」
「神様がそんな台詞を聞いたらきっと泣くぞ。お前の神様はバカンスにでも出かけてるのか?」
「ええ、まぁ……」
柿崎からの痛い視線が、美空を突き刺した。
ダビデ像を囲んだ四つの段差、その端二つに、それぞれが向かい合って互いに距離を取っていた。龍宮がスカートのポケット
からおもむろにコインを取り出したかと思うと、それを握った右手の親指に乗せた。
「昨日の勝負がどうしても忘れられなくてね。お前がどうして裏切ったのかは知らないが、もう一度味わいたいんだ。あの感覚を」
龍宮は一瞬たりとも目を逸らさず、茶々丸を睨んだまま唇の端に薄笑みを浮かべた。いつ切れるとも分からない争いの糸が、
そこら中に張り巡らされているかのような緊張だけが、ダビデ像の付近一帯を支配している。
「このコインが、絵柄、つまり表を出したのなら茶々丸、お前と闘う事を優先する。裏が出たら、私はそいつらを仕留める事を優
先し、お前と闘るのはその後にする。……なに、殺しはしないさ」
宙高く打ち上げられたコインがぐいんぐいんと回転音を上げ、空の一点で静止したかと思うと、回転速度を緩めずにそのまま真
っ直ぐに降下を始めた。龍宮はコインには目も向けずに、自分の目の前に来た瞬間、ジャストのタイミングでキャッチした。
「裏です」
龍宮が掌を開けるよりも速く、茶々丸が四人を庇って一列に固め、自分の体の後ろに隠した。それとほぼ同時に、無数の弾丸
が飛んでくる。茶々丸は両腕を顔前でクロスさせながら、必死に背中の四人の盾になった。
「残念、両方だ」 龍宮が冷徹な声でそう告げた。
今、私が成すべきこと。彼女達を守り抜いた先に、何がある。
マスター、あなたは、私が行き着いた先に立っていてくれますか。
熱源反応で彼女達の位置を確認し、龍宮さんの射角内で遮蔽物の役割を果たす。ブースターをほんの一瞬だけ全開にして、腕
をクロスさせたまま龍宮さんの懐へと突っ込んだ。例え私が修復不能になったとしても、背後だけは空けてはならない。
数十メートル程吹っ飛んだ龍宮が後方宙返りで体勢を立て直し、反撃を仕掛けてくる。
私は、彼女達の盾。剣であり、盾。
しかし、そう長くはもたない。先日の戦いの時よりも数段強化された龍宮さんの術が、銃弾の威力を更に上げてきている。装甲
の剥がれ落ちる速さがそれを物語っていた。そのうえ、午前中の酷いエラーのせいで反応速度が20%も落ちている。
幸いにも、実践用の装備は十分に積んであるから、無駄撃ちはせず、確実に狙いを定めて重量を減らしていけば、10%は回復
する筈。
手始めにマイクロミサイルを放ったが、これは予測通り撃ち落される。爆風で相手の視界を奪ったところで、一気に距離を詰め
た。壁を目前にした龍宮さんとの距離は僅かに2.5メートル。射角を外される前に体中のハッチを一斉に開き、レーザーを射出。
しかし、龍宮さんは一瞬驚いた表情を見せただけで、これを全てかわされる。追尾性能は付いていたのだが、もしかすると、龍
宮さんの魔眼には爆煙など物ともしない、『相手を完全にロックする効果』があるのかもしれない。だとすれば、相手の目を欺く
行為は全く意味を成さない。
銃弾の餌食になってしまうミサイルは温存しておき、今度はレーザーで龍宮の上、後方、左右を塞いだ。当然、脱出口は前方し
かなくなるため、正面から龍宮さんの元へ再び突進する。いくつか銃弾をもらいながらも、龍宮さんの両腕を掴み取る事に成功。
そのまま自分の体重を利用して、地面に倒れ込む。
「ふふっ、やるじゃないか。だが、いつまであの足手まといを守っていられるかな」
「私が廃棄物になるまで、です」
あろう事か、地面に押さえつけられた状態の龍宮が、茶々丸の身体をひっくり返そうとしていた。唇の端から漏れる凄まじい唸り
声と、手の甲から腕にかけて浮き上がった太い血管が茶々丸の重量を物語っている。持ち上げられた自分の身体を見て、茶々
丸が思わず驚きの声を上げた。
「そんな……」
身体を捻りながら脱出に成功した龍宮を捕らえようと手を伸ばしたが、あえなくかわされてしまう。
再び火を噴く銃口。しかし、照準をこちらのみに絞っていて、クラスメートを狙う様子はない。
「……ありがとうございます」
「なに、やはり相手だけがリスクを背負っているのは好ましくない。そう思っただけさ。私は本来、闘い方を強制しない方だ。消耗
戦にしても構わないし、単純な撃ち合いでもいい。私の方から闘いの幅を広げてやる事はあっても、狭める事はしたくない。奴
らがちょっとでも逃げる素振りを見せたら、その時は容赦なく打ち抜かせてもらうがな」
晴天だった筈の空には黒い雲が広がり、それまで見えていた太陽が完全に覆い尽くされ、周辺には不穏な空気が漂い始めた。
生体センサーが複数の熱源を探知したかと思うと、ダビデ像を取り囲むようにして、その人影は徐々に範囲を狭めてゆく。
雄然と、しかしどこか哀しみを纏った足音。
「諦めなさい、茶々丸さん」
牙を折られ、意志は潰え、飼い慣らされてしまった足音。
「これだけいたら、流石に茶々丸さんでも無理アルよ」
木陰から静かに、自分の目的と立場を噛みしめる足音。
「すまぬ。しかしこれも、拙者の役割故……」
己の立場と、状況のもたらす混乱との狭間で右往左往する足音。
「龍宮、お前は一度失敗している。手出し無用などとは言うまいな」
木乃香が武道派の三人と明日菜を連れ、茶々丸達を取り囲んだ。
「やっと追い付いたわぁ」
そして、茶々丸が今最も出会う事を拒む音。
「葉加瀬……」
轟音を撒き散らしながら巨大兵器に跨り、分厚いレンズの奥から覗く瞳は、しかとこちらを見つめていた。
「茶々丸……どうして……」
龍宮がやれやれといった仕草で首を横に振り、溜息混じりに呟く。
「戦場ではよくあることさ。一対一でやり合いたかったのはやまやまだが、仕方あるまい。これも戦地における運命だ。地雷を
踏んだと思って諦めるか……」
そこまで言うと、龍宮は一度銃を下ろして哀しげに目を伏せ、何かを思い出すように押し黙った。
茶々丸には、“地雷”という言葉の直後に龍宮の視線が不安定になったのを捉え、何かわだかまりがあるのか、と推測した。
龍宮の顔には、何か計り知れないものが眠っているのか、感情を押し殺しているように見える。しかし、すぐに元の厳しい目つ
きに戻って、言い放った。
「自分の手で切り開いて見せろ。廃棄物になるまでな」