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『 Trial2 』
起きてみると、明日菜は既にいなかった。おそらく、新聞配達だろう。
「じゃあ、私先に行くから」 美空はそう言って、先に寮を出た。
「全く、あの人は……」
「美空はあれでいいんだって」
夕映の不満はもっともだが、美空の良いところは、陰からフォローしてくれるところだ。外面は素っ気ないふりをする。
そういう人がいてもいいじゃないか、と夕映を納得させた。
「夕映っちも、先に行った方がいいよ。せっかく標的が私になったんだから」
「嫌です」 夕映ははっきりと否定した。「私は一緒に行くです」
「お、こころづよい」
学園に着いて、早速というか、上履きの中には硝子の破片が入っていた。人類は画鋲から進化した。朝倉がそう呟くと、
夕映は不快そうに顔を歪め、朝倉の代わりに破片をゴミ箱に捨ててきてくれた。
「それくらい、自分でやるのに」
「私は朝倉さんの味方です」 これくらいでは逃げない、という決心の表れだろうか。
破片を捨てたとはいえ、細かいものは捨てきれず、結局水洗いして乾かすことにした。教員用のスリッパを借りて教室の中
へと入ると、朝倉の机の上には何かの液体が撒かれていて、匂いからして水ではないことだけは分かった。ニスのような匂
いだ。おそらく、美術部である明日菜のものだろう。明日菜がやったとは限らないが、別に犯人は誰でもいい。結局、指導
者は一人なのだから。
「こんなことやってたら私達、きっと掃除のプロになれるよね」
そう言って笑いながら朝倉は、美術部室から借りてきた油取り用のシートで大まかに拭き取った後、雑巾で水拭きする。
掃除は十分程度で済んだのだが、何か引っ掛かるものがあった。夕映も同じ感想を持ったのか、二人で顔を見合わせる。
嫌な予感がした。
いつもよりやり方が手ぬるい。普段なら、ここに顔を擦り付けるぐらいは平気でやっていた集団なだけに、これだけで済む
と、かえって気味が悪い。
「何か……変です……」
物事には、特に大きな出来事の前には、必ずと言っていい程、前触れというものが存在する。きっと、明日菜の事でグル
ープ内にいざこざが起こり、それどころではないのだ。などという楽観的な考え方は今更できなかった。何が起こるのだ、
いつ起こすのだ。やるなら早くやってほしい。授業中そればかり考え、精神に負担を強いられていった。
そのまま何事もなく授業は進み、昼休みが過ぎ、あっという間に終業のチャイムが鳴った。二人で胸をなで下ろす。取り敢
えずは、このまま急いで帰るだけだ。それで今日は終わる。なんだ、案外切り抜けられるかもしれない。朝倉はそんな事を
思った。
私達は、忘れていたのだ。彼女らが、精神を追いつめることに関して、恐ろしい程知能を発揮することを。
「案外大丈夫だったね。このまま二人で行動してれば、平気かも」
「そうでしょうか……」
「片方が捕まったら、もう片方が先生に伝えればいいわけだし」
「先生は信用できません」
確かに、と朝倉は思う。私が裏切る前だって、誰一人として動こうとしないのを確認したのは、私だ。多分、ロープで全身を
縛られた生徒を発見したとしても、誰もが見て見ぬふりをする。ここは、そういうところだ。
スリッパを返却するために、朝倉と夕映は再び教員用ロッカーの並ぶ場所に足を運んだ。職員室のすぐ近くだったから、少
なからず安心してしまっていた。それが間違いだった。
出口の鍵は閉まっていた。手でロックを捻るだけなのだが、どんなに力を込めても回らない。嫌な汗が滲み出てくる。気付く
のが少し遅かったのだ。
「どうしたですか」
夕映の言葉に応えたのは、朝倉ではなかった。 「鍵が開かないんだよな」
龍宮、のどか、刹那、木乃香、明日菜。いつものメンバーだ。美空がいないことに、朝倉は少しほっとする。
「ああ、それで上履きにモノを入れるっていう古典的な手を使ったわけだ。閉じ込めるために」
「気付けてよかったなぁ。今更やけど」
まずは夕映を逃がす、それだけを考えた。体当たりの通用しそうな面子ではない。武道四天王の二人と、明日菜までいる。
「ねぇ、夕映っちは関係ないよね。あんた達の狙いは私だけなんでしょ。だったら帰してあげてもいいよね」
「ふふ……おかしいなぁ。かずみん」
朝倉は、考えうる最悪の形を思い浮かべていた。失敗だ。大きな誤算だ。何としてでも、夕映を先に逃がすべきだった。
夕映の手を引いて、走り出した。一番手薄な木乃香とのどかの隙間を走り抜けようとするが、失敗する。龍宮が素早い動き
で夕映を捕まえ、反対側に引っ張った。両側から強い力で引かれ、夕映が悲鳴を上げると、朝倉は力を緩めないわけには
いかなくなった。
「お前は何も分かってない」 私達は、どう足掻いても、彼女達の掌の上で転がされる運命だったのだ。
「今日からはな。お前なんだよ、朝倉。お前を苦しめるんだ」 力強い口調で、龍宮は繰り返す。口元は、微かに歪んでいた。
「お前を、苦しめるんだ」

さすがに教師が頻繁に通る場所だということで、私達は場所を体育倉庫へと移した。体育館を使っていた部活は既に下校を
終え、後は休憩所で喋っている生徒の声が微かに聞こえてくるだけだった。つまり、助けはほぼ来ないと言ってもいい。
倉庫には、バスケットボールの籠やらマットレスやら跳び箱で、それなりにスペースをとっていた。倉庫内を照らす蛍光灯も、
小さい窓一つしかない薄暗い室内では、不気味さしか醸し出していない。
椅子に縛り付けられた私達の目の前に、アルミ製の缶が三つ置かれる。よくペンキなんかが入っているやつで、大きさも大体
そのくらいに見えた。中には透明な液体が入っていて、考えたくはないが、今朝の私の机と同じ匂いが、狭い室内に充満して
いた。
「さて、かずみん」  背筋に寒気が走る。私が彼女達と一緒に行動していた頃、絶対に敵にまわしたくないと思った目を、
正面から向けられた。
「うちと遊ぼ」
「ねえ、お願い。何でもするから、夕映は放してあげてよ」 朝倉の懇願も虚しく、誰も話を聞いてはくれなかった。
朝倉は刹那の顔を見た。無表情ではあったが、心の内側にある感情は隠せていない。数日前、木乃香の事をどう思っている
のか尋ねた時、何を聞いても刹那はただ「お嬢様のため」と言うだけだった。
視線を明日菜の顔に移す。マットの上でつまらなそうに体育座りをしていた。私は知っている。明日菜は今まで、いじめを楽し
んでいるふりをしているだけだったのだ。その方が、木乃香が喜ぶからだ。多分、みんなもそれを知っている。明日菜は木乃
香の事を「友達」と呼んだ。みんなバカだ。これなら一人でいた方がよっぽどマシだ。
「ここに、三つの不思議な箱があります」 本を開きながら、のどかが楽しそうに説明を始めた。
夕映は、アルミ缶を挟んで朝倉の反対側、木乃香達のいる方に拘束されていた。どうやら、何か妙な事を始める気らしい。
「ルールは簡単です。この三つの缶の内、一つだけが水です」
「残りが何かは、やってみてのお楽しみや」
「朝倉さんがそれを選ぶんです。簡単でしょ?」
つまり、私に選ばせて、もし失敗してニス入りを選んでしまったとき、私のせいで夕映が苦しんでいる、という状況になるわけだ。
「さすが朝倉さん、理解が早いですね」
ニスは確か、乾性油や樹脂、シンナー、テレピン油などが含まれていて、多分、殆どが植物性だが、人体に及ぼす影響までは
考えたことがない。さすがに体内に入れられることはないだろう、と思ったが、彼女達なら何をするか分からない。
「体内に入れるのが怖いそうです」
のどかが朝倉の心の内をを読み上げる。そうだ、読まれているんだった。
「ふふ、大丈夫やえ。三分の一やん、かずみんなら当てられるって」
もう何を画策しても無駄じゃないか。全てが読まれてしまう。ここには、思想の自由すらない。頭の中で思うことすら、相手に
拘束権がある。
もう当てるしかない。朝倉は、ニス入りの缶を見据えた。目の前からワニスの放つシンナー臭はしているが、それが一体、三
つのうちのどれから出ているものなのか、判別がつかなかった。椅子に縛り付けられているため、近付いて匂いを嗅ぐことも
できない。水面は露出しているが、両方とも無色透明であるため、視覚での判別も不可能だ。僅かにレモンイエロー色をして
いるものもあるが、缶の内側の色のせいで、それすらも判別できない。
他には。他には何かないか。ニスと水の特徴の差は。考えろ考えろ。

美術の、油絵の授業を思い出す。ニスは乾燥するか、酸化すると硬化する性質がある。そうだ。それでキャンパスの表面を
保持するんだった。そのため、油絵の画材に入っていたニスは、キャップを密閉しなければならなかった。
何故か。空気に触れさせてはいけないのだ。
アルミ缶の上部の蓋は完全に解放されている。普通ニス入りの缶は、空気に触れさせる面積を減らすため、上部に付いて
いるキャップを捻って注ぐタイプの缶に入っている。だから恐らく、見やすいように中身を移し替えたのだろう。
倉庫に着いた時には、誰もそんな動作は起こさなかった。すると、移し替えたのは美術室か、少なくとも私達を追いつめる前
の筈だ。 もう一度アルミ缶の中身を確認する。
微かにだが、右の缶の内側には、埃が多いように思う。恐らく、硬化して固まったニスに張り付いたんだろう。
残り二つはどうだ。顔を出して覗き込んだが、はっきりとした差は見受けられない。のどかの顔を覗き込む。時間をくれれば
解りそうなのだが、果たしてそれを許してくれるだろうか。
「あと1分で決めてください」
駄目か……。ここで何かをされるのが、夕映ではなく私だったらまだ諦めがつくのに。
冷や汗が滲み出る。気温は高い筈なのに、体が寒い。
「あと30秒や」
ごめん、夕映。こうなるって分かってたら、大人しく従ってたのに。
「20秒前」

ふと、妙な空気に気が付いた。そういえば、さっきからのどかと木乃香しか喋ってない。
そりゃあ、一番積極的に楽しんでいるのはあの二人だけど、それにしても妙に静かだ。
それが一体何なのだ。
もっと根本的な問題があるんじゃないのか。
もう一度、頭の中を整理する。
私と夕映がここに連れて来られて、その時はまだ全員揃っていなかった。後から来た二人が、缶を置いたのだ。
誰が?  明日菜と、刹那だ。
何故。美術室に行って、アルミ缶を持ってくるためだ。
明日菜が運んできたのは二つ。刹那は一つ。
ニスの場所に一番詳しいのは。
明日菜。が、ニスを入れる姿を想像する。
わざわざ水と交互に入れるか。いや、それはない。ニスならニスで、缶を二つ並べていっぺんに入れる。
私ならそうする。
そうだ、『二つ持ってきた』のは、明日菜なんだ。
明日菜が並べたのは、右二つ。二人が喋らないのは、何故だ。迂闊なことを喋ってしまわないため?
でも、そんなに分かりやすい事をするだろうか。
昨日の出来事を思い返す。のどかに読まれていることを思い出し、慌てて思考を止める。

「他人を信用しないのは、 信用できない方が悪いのだ」

坂口安吾のその言葉だけを、頭の中で反復する。夕映から聞いたやつだ。
「左だ」 力を込めて、もう一度言った。 「左が、水だ」

木乃香が送った合図で、龍宮が動き出した。朝倉が縛り付けられた椅子を片手でひょいと持ち上げると、何の躊躇いもなく、
左側の缶の前に立った。
「え? ちょっと」
刹那が夕映を持ち上げて、真ん中の缶の目の前に位置取る。
「違うって。夕映っちが左でしょ!? ちょっと!」
「誰がそんなこと言うたん?」
ようは、どちらを選ぼうと関係なかったのだ。私は、選択を間違えた。ここに来た時点で、既に間違っていたのだ。
夕映と二人同時に、逆さまにされる。夕映は恐怖に目を瞑り、体を強張らせていた。
「ねえ、私がそっちだってば! やめてよ、ねえ! お願い!」
「暴れるな、落っこちるぞ」 龍宮の無機質な声は、もう届いていない。
鼻の中に水が入り込み、鼻孔の奥に痛みが走る。必死で中の空気を吐き出すが、肺の中身が底を尽きると、今度は窒息の
苦しみがやってくる。
意識を失いかけた頃になってようやく持ち上げられ、辺りを認識する間もなく再び缶の中に顔を浸されると、何も考えることが
できなくなった。死に物狂いで足をばたつかせ、早く出してくれと訴える。
苦しい。呼吸ができない。頭に血が上る。鼻の奥が痛い。
夕映のことなど忘れてしまうぐらいに、息苦しさと恐怖に支配される。それは、この世界に来たばかりの頃の感覚に似ていた。
余裕はなく、他人のことなど考えている暇もなく、ただひたすらに足掻きながら、死んでしまいそうな程の息苦しさと闘う。
窒息しそうな、死の恐怖。
私はそれを発散させるために、彼女達と一緒になって、他人を苦しめた。
この感覚は、私だけのものなのだろうか。もしかしたら、皆もそう感じているのかもしれない。
私だ。ここにいる皆は、私なのだ。

四度同じ事を繰り返し、やっと肺の中に入った水を出すことを許可された。夕映の方を見る。私と同じように咽せていた。
「夕映、大……丈夫?」
「だい、じょ……こっち、も、げほっ、水、です」
「……え?」
「あははっ!」 のどかが楽しそうに声を上げた。「あはっ、何、必死になって考えてるんですか。はははっ」
騙された。ニスが二つだなんて嘘だった。
何平気で信用してるんだろう。今更のことながら、自分の間抜けさが悔しい。
「教えてあげましょうか。朝倉さんが何を考えてたか」
のどかの瞳の奥が光った。何かを企む時の目だと分かったが、木乃香のように瞳の奥の黒い威圧感はなく、どちらかといえば
無邪気さの漂う目だった。
「夕映のことなんて助けるんじゃなかった」
「え?」
「こんな恥を晒して悔しい。あの時大人しく針を刺していればよかった」
「ちょっと、そんなこと考えてない!」
「せっかくこれだけ考えて答えを出したのに、嘘だったのか。もう面倒臭い。考えるだけ無駄だ。夕映のせいだ」
「違う! そんなの嘘だって!」
「分かってるです、朝倉さん」
夕映が朝倉の方を見る。その眼差しに、朝倉は安堵した。
「のどか。私は、のどかに対してひどい事をしてしまいました。あの時、私にだってのどかを助ける事ができたのに、私は
 それをしませんでした。だから、これぐらいの事をされても当然だと思ってるです。本当に、ごめんなさいです。だから……」
「夕映」 のどかが立ち上がり、夕映の方へと歩み寄る。
「人間の考えてることなんてね、夕映。そう簡単には解らないの」
のどかがアーティファクトを開いて夕映に見せた。そこには、今し方のどかが言った通りの内容が記されていた。
朝倉の前にもそのページがやってくる。椅子に縛り付けられた朝倉の姿と、その下に書いてある、ありもしない本心。
「嘘……嘘、こんなの……」
「私ね、朝倉さん。新しい力が手に入ったんです。明日菜さんみたいにね。明日菜さんは、本気を出したらハリセンが大きな
 剣に変わるんですけどね、私は、表層意識だけじゃなくて、本能の部分まで読みとれるようになったんです」
「そんな……違う! 本能だって、こんなこと考えるもんか! 嘘だよ、こんなの、絶対嘘だ」
恐る恐る夕映の方を確認すると、夕映は苦しげに瞼を下ろし、呼吸を荒げていた。長い間逆さ吊りにされ、身体に変調を来し
たのかもしれない。その表情に気付いた刹那が、夕映の身体をひっくり返して元に戻した。
「嘘? そんなのどうやって証明するんですか? 魔法は嘘を吐きませんよ。」
「夕映っち、信じて! 私こんなこと、絶対に考えてないから!」
「朝倉さん」 地面にへたりこんだ夕映が、重たそうに身体を両手で支え、瞼をうっすらと開いた。
「朝倉さんの言葉は、嘘だったですか」
「違う! 嘘なんかじゃない!」
「最も効果的な嘘は、本当の中に嘘を混ぜることです」
夕映の言葉は、とても冷静だった。まるで私とは正反対だ。私の頭はパニックになって、人身掌握、とか、信頼を得るには、
とか、どうでもいい言葉ばかりが浮かんだ。私は、人から信頼一つ得ることができないのか、と。
「なら……ならば、どうしてこんな紙切れ一つで、私が朝倉さんを疑うと思うですか」
人を信じてないのは、私の方だった。


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最終更新:2007年07月29日 02:30