400 : プラセーボ 2006/01/01(日) 22:28:34 ID:???
NGワード ID:bndWk7tT
「ねむい……。茶々丸何か面白いことはないか?」
ログハウスの窓からは冬の陽光が差し込んでいた。
暖房が効いているので、部屋の中は冷たさとは無縁。
ゆっくりとした時間が流れている。それは朝だからと云うだけでなく、
学校が冬休みに突入している事も一役買っていただろう。
思わず眠くなってしまうそうな空気に、ログハウスの主にして最強最悪の吸血鬼
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは染まりきっていた。寝間着姿のまま、
ソファーに外見年齢10歳の幼い身体を投げ出している。
敵と対峙した時は永久氷河の凍てつきを煌く蒼い瞳も、どこか焦点を失って、
凪いだ春先の海のように穏やかだ。彼女はふとリモコンを持ち上げ、スイッチを入れた。
タレントやCMの音声が入るよりも早くチャンネルを廻した。
全部のチャンネルをチェックすると、溜息を一つついてスイッチを切った。
リモコンを放り出す。エヴァンジェリンはニュース番組を見るのが好きだが、
この時間帯は既につまらないバラエティーか料理番組に取ってかわられている。
暗いTV画面に映るのは、うとうととしかけたエヴァンジェリンの幼い顔だけ。
腰まで伸びた金髪をなんとなくいじくる外見だけ最高級フランス人形のような少女は、
この退屈を紛らわすべく、自らの忠実な従者に声をかけることにしたのだ。
「茶々丸、眠気が吹っ飛ぶようなイベントはないのか?」
「……マスター。言葉の定義が曖昧な為に返答できません。
質問の意図を限定して下さい」
エヴァンジェリンによって命を吹き込まれた女性型ロボット、
茶々丸は感情の籠もらぬ無機質な声で答えた。
エヴァンジェリンはムッと頬を膨らませたが、茶々丸は気にするそぶりもしない。
それは茶々丸が人間の感情など理解できないロボットだから……ではない。
彼女(?)はメイド服を着用し、両脇に洗濯籠を抱えていた。
それにはエヴァンジェリンの下着や洋服が山のように詰っている。
茶々丸は庭に出ると、物干し竿に手際良く洗濯物をかけていった。
数分後、家の中に戻ると今度は窓拭きをはじめる。
「茶々丸、答えろ。お前は私の従者を何年務めているんだ。
お前は私の命令に従う従者であろうが。
主人が退屈を紛らわす『面白いこと』を私に提供しろ、と云っているんだ。
命をかけても全うしろ」
「マスター。私は家の掃除で忙しいのです。
これは現時点におけるあなたの要求より優先事項であると認識しています。
それに退屈ならば、素晴らしい解決手段を提案致します。私を手伝ってくれませんか?」
「うっ……」
エヴァンジェリンは呻いた。窓拭きを終えた茶々丸は掃除機を剣のように構えて仁王立ちだ。
要するに「ソファーにマスターがいると掃除機がかけられません。
さっさとどいてください」と遠まわしに云っているのだ。
「お、覚えてろ茶々丸」
「何をですか?」
「うるさい!」
最後の捨て台詞は掃除機の騒音に掻き消されてしまった。
エヴァンジェリンは2階の寝室に行くと、寝間着を脱ぎ捨て普段着に着替える。
今日はベルトのアクセサリーがついたワンピースだ。
大人向けの商品を特注してエヴァンジェリンサイズに仕立てたものだ。
気替えを終えたエヴァンジェリン。全身鏡の前でプレイボーイにのるようなポーズを取った。
だが、エヴァンジェリンの外観は所詮10歳であり、
子供のモデルが子供服を着ている姿にしか見えない。
「どうして私はこんなに子供っぽいんだ!」
そりゃ貴女が10歳で吸血鬼になったからでしょう、と云うのが正解なのだが、
500年近い時間を10歳の姿で過ごしてきたエヴァンジェリンの怒りが
理性の箍でおさまるわけがない。突っ込みと共に鏡にパンチを入れた。
重量50トン以上の重戦車を軽いジャブで100mも吹っ飛ばすような彼女のパンチに
単なる鏡は耐えられない。大音響と共に粉々になって砕け散る。
「マスター、どうかなされましたか?」
「な、なんでもない」
階下から茶々丸が声をかけてきた。
心から心配している素振りなど欠片もない。
それどころかエヴァンジェリンが如何にして鏡を割ったかをシュミレートして
笑っているようなニュアンスさえある。こんな姿、茶々丸には見せられない。
エヴァンジェリンは慌てて魔法を唱え、鏡を元通りにした。
「くそっ、ナギの奴がかけた呪いがなければなぁ。
幻術を使って大人の姿を取れるのに」
「ダケドヨ、20歳ノ姿ニ成ルノモ不都合アルゼ」
エヴァンジェリンの嘆息に答えた者がいる。
エヴァンジェリンは顔を上げた。天井の梁に赤ん坊よりも大きい人形が腰掛けていた。
人形用メイド服から突き出た手足は、陶器ともプラスチックとも違う白い肌に包まれている。
一方で、人形特有の丸型関節剥き出しだった。顔のつくりは整っているが、
ガラス玉のように人工的で冷たい目玉がキョロキョロと向きをかえる。
声は、その人形の喉から発せられたものだった。
「チャチャゼロ、なんで私が大人になると問題があるのだ」
チャチャゼロ。
魔法使いであるエヴァンジェリンを守護する生きた人形だ。
日常生活のサポートも可能な茶々丸と違って、チャチャゼロは戦闘に特化している。
既に200年以上エヴァンジェリンと共に在り、歴史の裏側で、
主人エヴァンジェリンと共に返り血を浴びてきた仲でもある。
チャチャゼロはケタケタと笑うと、ふらりと立ち上がった。
だが、糸の切れた操り人形のようにバランスを失ってふらつくと、ガ
シャリとまっさかさまに天井から落ちる。やれやれとエヴァンジェリンは溜息をつき、
床からチャチャゼロを拾い上げた。人形のメイド服から埃を払うエヴァンジェリンの顔を、
チャチャゼロの無機質な瞳が追う。
「マスタートなぎトジャ体格ガ違イ過ギルゼ。
ソレヨリ、ナギノ子供トナラピッタシジャネェカ。背丈モ体格モ。
組ミ敷カレテモ乗ッテモオ互イ重クナイコト請ケ合イダ」
「な、なんだと」
エヴァンジェリンの脳裏に、チャチャゼロが指摘した光景が浮かぶ。
ナギの子供、ネギ・スプリングフィールドが振り向き、
エヴァンジェリンに微笑みかける。彼は父親ナギそっくりの10歳の少年だ。
だが、いい加減で気まぐれな父親よりもずっと誠実で、ひたむきで、
そしてエヴァンジェリンの心に近い所にいる。エヴァンジェリンの胸が高鳴った。
ネギがゆっくりと手をのばし、彼女の頬に触れる、
触れると思いきや長い金髪に矛先を向け、最高級の絹を扱うように梳く。
その動きにエヴァンジェリンはうっとりと目を閉じ、気がつけばネギの腕にの中だ。
「まて、ぼーや」と拘束から脱出しようとするが、少年の力は思った以上に強くて引き離せない。
「だめだ、ぼーや! 離せっ、私を……」エヴァンジェリンの言葉はそこで途切れた。
ネギが少女の唇に自らの唇を重ねたからだ。
唇から直接感じる自分以外の人間の温かさにエヴァンジェリンの動きが鈍くなり、そして……。
「ヤッパリ自分デモ満更ジャネェカ」
「はっ、わ、私は!?」
エヴァンジェリンは自分を冷静に観察する視線に気がつき、我に返った。
視線の主など捜すまでもない。腕の中でチャチャゼロがケタケタと笑っている。
主人に命を吹き込まれた生きた人形は、抱き上げられていなければ、
主人を指差して腹を抱えて笑っていただろう。
「この馬鹿!!」
エヴァンジェリンの額に血管が浮かびあがり、心臓の音がドクドクと響く。
階下の茶々丸は主人の怒りの波動を感じ取り、
掃除機をかける手を休めて2階をちょっと見上げたが、
彼女は主人と姉にあたる人形が繰り広げるこの手の喧嘩には慣れている。
たいして気にすべき事項でないと判断し、
2秒後には再びスイッチを入れて掃除を続行した。
暫くすると、エヴァンジェリンが長い金髪をマントのようにたなびかせて
2階から降りてきた。肩をいからせ、顔が興奮によって上気している。
「茶々丸、私は地下のアトリエにいる」
「お手伝いしますか?」
「いや、いい。一人で出来る。ぼーやが来たら知らせてくれ。
そうだ。寝室でチャチャゼロがバラバラになっているから直しておけ」
「わかりました」
茶々丸に云い残すと、エヴァンジェリンは地下室への扉を開いた。
コンクリート剥き出しの壁と階段が少女の前に広がる。
温かくほんわかとした1階・2階とはうってかわり、
冷気がエヴァンジェリンの頬に吹き寄せた。
それをものともせずに地下へと下る。
30段降りると、裸電球に照らされたドアがあった。
何の変哲もない市販のドアだが、周りがコンクリート壁なだけに、
ドアまでが殺風景の中に沈んでいる。
エヴァンジェリンは扉を開けた。
小さな廊下があり、地下室の扉と同じ仕様のドアが4つ並んでいる。
エヴァンジェリンはその一つをくぐった。真っ暗な空間が広がる。
吸血鬼の少女は迷い無く電気のスイッチを捻った。馴れた手つきだ。
「さて、魔法薬を造って溜めておくか」
エヴァンジェリンは引き出しから何種類か魔法薬の材料となる石を取り出した。
薬品棚からも薬瓶を取り、小脇に抱えてテーブルの上に置く。
関係の無いメモや本を片付け、今から調合しようとする薬品の構成を書いたページを開く。
今、エヴァンジェリンが調合しようとしているのは、魔法詠唱の時に使う触媒液だ。
さらに、投げつけるだけで魔法が発動するタイプの、
攻撃魔法を封じたフラスコもつくるつもりだ。これら補助魔法薬は、
強大な魔力を持つエヴァンジェリンにとって絶対必要と云う物ではないが、
魔力の節約になる。長期戦では戦闘の行方を決めかねない重要な要素だ。
「ぼーやの周りには危険が一杯だからな。
私がフォローしてやらないと、危なっかしくてみておれん。
ふん、神楽坂明日菜や桜崎刹那がいくら保護者面しようが、私には適うまい。
だが、その為には色々と準備をしなくてはな。
ぼーやを護るのは、この私だ」
鉱石の量を計り、薬草を乳鉢ですりつぶしながら、エヴァンジェリンは呟いた。
退屈は何時の間にか忘れていた。
「師匠、遅れてすみませんでした!」
エヴァンジェリン家の玄関が勢い良く開いた。
拭き掃除を終え、ソファーに腰掛けてくつろぎながら
昼の健康バラエティ番組を見ていた茶々丸は、
予期せぬ訪問客の存在に慌てて立ち上がった。
いや、訪問客が来ることは判っていた。
これほど早く来るとは思っていなかっただけだ。
「ネギ先生!」
茶々丸の視線の先に、背広を着た少年の姿があった。
やや癖のある、ミルクをたっぷりといれた紅茶色の髪。
小柄な身体を特注のスーツで包んでいる。
肉体はまだ大人への階段を登りかけた少年のものだが、小さなメガネの奥にある瞳には、
内面に蓄えられたエネルギーが弾けて溢れださんばかりだ。
ネギ・スプリングフィールド。
魔大戦の英雄サウザンドマスターことナギ・スプリングフィールドの1人息子にして、
麻帆良学園英語教師、クラス3A担任、そしてエヴァンジェリンの1番弟子である。
ネギは、彼など足元にも及ばない程強い魔法使いであるエヴァンジェリンに乞い、
彼女に鍛えて貰っているのだ。今日も教師としての仕事を午前中で済ますと(どうせ冬休みだ)、
一刻もはやく彼女と修行をすべく、脇目もふらずエヴァンジェリン宅に飛び込んだのである。
「ネギ先生、約束の時間には遅れていませんよ。むしろ早いぐらいです」
「あれ? 腕時計を見たら遅刻するって焦ったのですが……。
僕の時計狂っているのかな……」
ネギは顔を赤くして腕時計を指先で軽く叩いた。
彼の額に浮かぶ汗からその意味を見抜いた茶々丸は
(嘆息とはこう云う時に用いるのですね)と新たな発見をしていた。
残念ながら茶々丸に肺に溜めた空気を吐き出す行為は出来ないので、
茶々丸は軽く首を振る動作で代用した。
「師匠は?」
「地下のアトリエにいます。お呼びしましょう」
「いえ、僕がいきます」
ネギがエヴァンジェリンに弟子入りしてから半年が過ぎた。
毎日のようにこの家を訪れたので、ネギが知らない場所はもはや無い。
ネギは茶々丸を制すると、我が家のように気楽に地下室へと降りた。
ネギは見なかったが、またしても茶々丸は首を振っていた。
今度は首をちぎれそうな程深く、長く。
「えっと、これは別荘がある倉庫に繋がっている扉だ。
これが別の物置で、そうそう、こっちがアトリエだった。
エヴァンジェリンさん、何しているのかな?」
ネギはドアノブに手を伸ばした。
エヴァンジェリンは魔法薬の調合を終えてアトリエから出ようとしていた。
彼女の様子はいつもと違っていた。頬が僅かに上気している。
いつもはキリリと一文字に結んだ唇が、幽かな笑みを形作っているではないか。
実は、吸血鬼の少女は調合を終えてからアトリエを出ようとするまでに葛藤を経験していた。
遡ること、5分と30秒。
「忘れ物はないな、よし」
エヴァンジェリンは調合した魔法薬を試験管に入れ、手際良く冷蔵保管場所に収める。
これはいつものこと。完成した魔法薬をいとおしげに眺め、扉を閉めようとして、
彼女の眉がひそめられた。冷蔵庫の一番下段、その更に奥に、
大きな丸底フラスコが静かに眠っているのを見つけたのだ。
丸底フラスコには青に近い紫色の液体が満ちていた。
しゃがみ込んだエヴァンジェリンはしばらく無言でフラスコを見下ろしたた。
「なんだ、この薬品は。見た事がないぞ」
エヴァンジェリンはフラスコを顔の前に持ってくると、中身を見据えた。
傾けると液体はしばらく傾きを維持した。粘度が高い
。コルク栓を抜き、薬液の臭いを慎重に嗅いだ。
甘く、だが後を引かない心地よい香りが漂う。
「このアトリエに他人が侵入したら私にわからないはずがない。
よしんば侵入者があったとしても、蔵書も材料も盗まず、
薬を化合して帰っていくなんて事があるわけがない。
では茶々丸か? いや、あいつが私に無断で薬を作るなどと、それも無いな。
太陽が西から登るなら別だが」
エヴァンジェリンは細い指を桜色の小さな唇に当てて思案した。
心当たりが無かった。ふぅと溜息をつき、フラスコを保管庫に戻し、扉をしめる。
「あっっ!!」
電気を流されたようにエヴァンジェリンは背中をそらして固まった。
記憶の検索結果がようやく出たのだ。
彼女はフラスコが冷蔵庫に置かれた理由、そして中味の正体を悟った。
「ふーむ、そういえば2ヶ月ぐらい熟成させなければならないんだったな。
すっかり忘れていた。いかんいかん、歳を取ると忘れっぽくなって困る」
実年齢500歳、外見年齢+精神年齢10代前半の吸血鬼は軽く自分の頭を叩いた。
エヴァンジェリンは再び思考に没頭した。細い指先を顎に当て、左手は腰に当て、
人差し指でトントンとリズムを取った。彼女は悩んでいた。
(果物からこんな物が出来るとはな、我ながら驚きだ。だが、あくまで理論だ。
実際に試してみないことには効果を証明できない。しかし、これを使うと大変なことになる。
私が実験台になる? だが相手は……ぼーやに? ぼーやか。それもいい。
ふふっ、ぼーやの奴、驚くぞ。ぼーやだけでなく、神楽坂や近衛、ことによったら刹那も……。
い、いや待て待て。これを使ってぼーやとなんて、その、違う!
やっぱりぼーやと神楽坂や近衛で試すか。そうしたら相部屋のことだ、さぞや……。
い、いやだ! そんなのは絶対に嫌!
うっ、私は今なんて。なんで、ぼーやと神楽坂の姿を想像すると、心が痛いのだ……)
結局エヴァンジェリンは、丸底フラスコを冷蔵庫から再び取り出してしまった。
紫色の液体は、保管庫に放置して忘れるには存在が大きすぎ、
さりとてネギに使うには躊躇されるべき性質を(理論上は)持っていた。
エヴァンジェリンは何かに取り付かれたようにフラスコを胸に抱えると、
アトリエを後にしようとした。
そして、無邪気に扉を開けたネギ・スプリングフィールドと正面衝突することになる。
「うわっっ!!」
「あっっっ!!」
アトリエに入ろうとしたネギ・スプリングフィールド。
アトリエから出ようとしたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
物理的運動エネルギーは前者の方が大きかった。
エヴァンジェリンが先にドアノブを捻り、扉を手前に開けてしまったので、
ネギはつんのめるようにしてアトリエに入った。
そこにはフラスコを抱えたエヴァンジェリンがいる。
衝突を避けようとしても遅い。
咄嗟に壁に手をつきささようとしたネギの左手は虚しく空を切った。
少年は少女の胸に飛び込む格好となった。ネギの視界に、
蒼い瞳を見開いたエヴァンジェリンの幼いながら端整な顔立ちが一杯に広がる。
ネギの理性とは関係ない場所が叫んでいる。これから起こることを決して忘れるなと。
雲一つ無い夏空の青。澄みきった青に間抜け顔のネギが映りこんだ。
倒れ込むネギとエヴァンジェリン。
(このままではエヴァンジェリンさんを下敷きにしてしまう!)
ネギは迫る地面を睨みながら、エヴァンジェリンの両脇に手をつくべく腕を突き出した。
ダンッ、とタイルにエヴァンジェリンの身体が打ちつけられる。
それでも、少女の身体の上に激突する筈だったネギの身体は
かろうじて衝突を免れた。ネギの反応が効を奏したのだ。
だが……
倒れこんだネギの身体は、地球の重力に引き寄せられていた。
体重そのものがエヴァンジェリンの華奢な身体にかかることはなかったが、
ネギは彼女の上に覆いかぶさった。世界から音が消える。
身体の感覚が無くなる。手足の動かし方も忘れた。
そもそも手足があったかどうかさえ覚えていない。
今、ネギの感覚は一つ。
重なった粘膜から伝わる、エヴァンジェリンの鼓動。
「エヴァンジェリンさん……」
ネギは少しだけ身をおこした。エヴァンジェリンは無言だ。
ピクリとも動かない。偶然にも、ネギのそれぞれの腕が
エヴァンジェリンの肢体を拘束していたから。
何より、ネギが自分の唇を奪ったことに。
吸血鬼の少女の蒼い瞳が困惑に揺れている。
状況把握が出来なかったのは少年も少女も一緒だったが、
先に理解したのは上にいるネギの方だった。彼は気が付いた。
自分がエヴァンジェリンを組み敷き、そしてキスをしてしまったことに。
「う、うわああぁぁぁあ」
ネギは悲鳴を上げてエヴァンジェリンの上から飛びのいた。
勢いで後に転がり、尻もちをついて止まる。
汗がだらだらと額を、頬を伝わり、指はタイルでも剥がそうというのか、
意味も無く床を這い回っていた。
「ごめんなさい、エヴァンジェリンさん!!」
ネギは平謝りをした。冷静に考えれば、これが事故だと云うことはわかる。
だからといって事実を覆すことは出来ない。
ネギは既に姉やイギリス時代の同級生や幾人かの生徒とキスを経験しているが、
挨拶程度の軽いキスとは意味が違う。エヴァンジェリン。
異性として認識し、その上でネギがのどかや刹那と並んで好意を抱いている相手だ。
そんなエヴァンジェリンとの予期せぬ接触。動揺の桁が違う。
ネギはエヴァンジェリンが烈火の如く怒るかと思った。
或いは虫けらをに肌を汚されたような嫌悪をぶつけてくるのか。
いずれにせよ、よくない傾向だろう。
恐る恐る、ネギは視線を向けた。
エヴァンジェリンは怒っていなかった。
軽蔑も嫌悪もなく、さりとて歓喜も羞恥もない。
無表情、無感情だ。魂が抜けたように虚脱している。
気のせいか、身体全体の色彩まで薄くなったようにネギには見えた。
地下のアトリエに、時間だけが流れる。
物音はネギの心臓の鼓動だけ。(もう耐えられない)、
とネギが口を開きかけた瞬間、エヴァンジェリンが蒼眼をネギに向けた。
「ぼーや」
ネギは吸血鬼の少女の口からどんな言葉が飛び出してくるのか身構えた。
それに対し、エヴァンジェリンは呼びかけ以外の言葉を紡がない。
コミュニケーションを取ろうとする意志はあるのだろうが、
次の単語が出て来ないようだ。
「こ、これ……」エヴァンジェリンの視線が下がり、つられてネギの目も追いかける。
横倒しになった丸底フラスコ。
コルク栓が開き、中味が流れ出していた。
残る紫の液体は1/3に満たない。
「え、エヴァンジェリンさん、この液体って……ああ!」
ネギは悲鳴を上げた。
液体が、エヴァンジェリンの左腕から胸にかけてかかっていた。
服にもかかり、大きな染みを縁取っている。
ネギの顔から音を立てて血の気が引いた。
危険な液体をエヴァンジェリンにかけてしまったのかと思った。
「大丈夫ですか、エヴァンジェリンさん!!」
広いアトリエに幾重にもネギの声が木霊した。
ネギはエヴァンジェリンの傍に瞬間移動すると、
彼女の腕を掴むようにして引き寄せ、薬液がかかった部分を見た。
紫色の液体はゲル状の粘膜となって陶器のような肌に張り付いている。
ネギの額に恐怖と焦りの汗が浮かぶ。ネギは無我夢中で薬液を剥ぎ取った。
エヴァンジェリンが自分の失敗で怪我をすることに耐えられなかった。
これほど真剣に何かを作業するなど、ネギの短い人生の中でも始めての事だ。
額からしたたり落ちる汗を拭いもせず薬液を剥がすと、
エヴァンジェリンの肌は多少赤くなっている程度で、火傷やかぶれも無かった。
吸血鬼の少女の無事をとりあえず悟り、ネギの身体から一気に力が抜けた。
へなへなと崩れ落ちる。
エヴァンジェリンが「あっ」と小さな叫びを漏らした時には、
ネギの指先は既に薬液で濡れていた。
「ぼーや、それを早く拭え!!」
「えっ、どうしてですか?」
「いいから!」
今度はエヴァンジェリンがネギの腕を引き寄せる番だった。
彼女はネギの手を穴が開くほど観察する。
ネギは自分の頬に血が上るのを感じた。無意味にどぎまぎしてしまう。
だが、エヴァンジェリンはネギの肌の状態を真剣に観察し続けた。
医者が患者を診察する時の態度そのもの。ネギの思いなど何処吹く風だ。
ネギは体内に溜まった熱が急速に冷まされていくのを感じ、
ネギのリアクションを見た先程の茶々丸同様、深い溜息をついた。
「エヴァンジェリンさん。この薬にはどんな効果があるんですか?
まさか毒薬とか。でも肌にかかっても大丈夫な所を見ると、毒薬じゃあないですよね」
「私に毒が効くと思うか? 私は吸血鬼だ。たとえ青酸カリを飲まされても、
河豚の毒を喰らおうと、毒に犯された肉体を捨て、
新たに健康な肉体を再構成すれば済むだけのこと。
だが、ぼーやは人間だ」
エヴァンジェリンはネギの腕から手を離すと、顔を伏せた。
ネギは我が耳を疑った。氷水につき落とされたように体温が奪われていく。
心臓を死神の冷たい手が力強く握り締めた。
下半身の力が抜け、ネギは仰向けにひっくり返った。
ネギ・スプリングフィールド。
イギリスに生まれ、6歳のとき魔族の襲撃により家族と故郷を喪い、
10歳にして教師として訪日。かの地で世界最強無敵の真祖吸血鬼と遭遇し、
仲良くなれたものの、不慮の事故により死亡。
我ながら波乱万丈の人生だと、ネギは遠ざかりつつある意識の中で述懐した。
「エヴァンジェリンさん……。なんだか、眠くなってきました。
手足の感覚もない。冷たさも感じられない。むしろ気持ち良くなってきました……
。ああ、天使がやってきて、僕の手を包みこんでくれているのですね。
師匠、今までありがとうございました。
最期のお願いです。僕のお墓は、ネカネ姉さんのいる所に……」
「馬鹿」
エヴァンジェリンはポカリとネギの頭を引っぱたき、
「勘違いするな」とネギを嗜めた。相変らず俯いたままだ。
ネギと視線を合わせようとしない。
彼女は「寝たままでは話が出来ない」とネギを起き上がらせた。
ネギは目を白黒させながら正座し、話を聞く体勢を作った。
エヴァンジェリンを注視する。彼女は小刻みに震えていた。
身体も、そして声も。ネギは思わず息を飲み込む。
「この薬は……」
横倒しになった丸底フラスコ。
床に広がる紫色の薬液。
汚れた服や肌を見ながらエヴァンジェリンは呟いた。
「惚れ薬なんだ」
「えっ」
時間が、止まった。
ピントがずれたように薄くなってく意識が一瞬にして精度を取り戻した。
脳細胞が活動を再開するや否や、エヴァンジェリンの言葉を分析し、
そこから事実と過程と結果を導き出す。つまり、エヴァンジェリンは「惚れ薬」を作り、
ネギとぶつかった為に、「薬」が双方にかかってしまった……と。
「冗談ですよね、師匠」
やっとのことで喉から搾り出したネギの声はかすれていた。
ネギは解答を期待してエヴァンジェリンの顔を見た。
ペタンと座り込んだ吸血鬼の少女はネギと顔を合わせようともしなかった。
俯き、顔どころか身体全体をネギに対して背けている。
アトリエの蛍光灯の影に入った彼女の頬は、暗さの中でも、
内側から熱を持つように赤く輝いていた。言葉はいらない。
ネギは解答を得た。少年が望んでいたのとは180度違う現実を。
(まさか、エヴァンジェリンさんは僕のことを?)
ネギは信じ難い推論を一笑に伏そうとした。
「惚れ薬」云々はエヴァンジェリンがネギをからかおうとしているのだと思った。
正確には思いこもうとした。根拠はある。エヴァンジェリンは真っ赤になっているが、
自分にはさしたる変化が起こっていない。
「師匠、いつまでもここにいても仕方がありません。
アトリエを閉めて家に上がりましょう。
薬で汚れた服をいつまでも着ているのも身体に良く無いですよ。
早く着替えないと……着替える!!?」
ネギは自分の言葉に飛び上がって驚いた。
着替える、それはエヴァンジェリンの裸体が露になると云うこと。
クローゼットは彼女の寝室にある。ネギ自身はベッドに座っている。
自分の前でエヴァンジェリンが背を向けつつ服を脱ぎ捨てる。
華奢な背中がネギの前に晒される。長い金髪の間から透けて見える肌は
雪よりも白い。彼女は俯き、良く観察すれば肩が震えている。
もちろんネギは気付いている。でも態度には出さない。
「ぼーや、私は……怖い……。
なんだか私が変わってしまいそうな気がして……」
「大丈夫ですよ、エヴァンジェリンさん。
どんなことがあろうと、僕が受け止めます。さあ」
ネギはベッドから立ち上がり、吸血鬼の少女の肩にそっと手を置く。
エヴァンジェリンが肩越しに振り返る。
いつも凍てつくような冷たさをたたえる瞳は、今は熱く潤んでいた。
ネギは深く頷くと、彼女の胸にゆっくりと手を伸ばし……。
「僕は教師なんだああぁぁぁぁぁぁ!!」
ネギは弾道ミサイルもかくやの勢いで立ち上がると、
アトリエの壁に激しく頭を打ちつけ始めた。
衝撃で漆喰がパラパラと床にこぼれ落ちる。
振動は薬品棚も襲った。薬液にさざ波が起こっていたほどだ。
「教師ともあろう者が」ゴン!
「教え子に淫らな」ゴン!
「想像をするなんて」ゴン!
「僕は、僕は」ゴン!
音節ごとに額を打ちつける音がアトリエに重なった。
「僕は最低だぁ!
ニュースで見る最低鬼畜教師の仲間入りだぁぁ!!」」
一際大きく振りかぶったネギは頭蓋骨も砕けよと自分の額を壁に叩きつけようとした。
だが、音は鳴らなかった。エヴァンジェリンが、後からネギの首筋に抱きついて、
少年の動きを止めているからである。
「止めないでください、師匠! これは僕のケジメなんです。
教師として教壇に立つからには、一人一人の生徒を公平に扱わなくてはならないんです。
誰か一人を愛してしまったら、その人だけが特別になってしまう。
生徒に懸想するなんて許されることではないんです。だから僕はこうして責任を取って」
「ぼーや」
尚も喚こうとしたネギの言葉は途切れた。
エヴァンジェリンの冷たい手が……心地良い冷たさの指先が、
ネギの頬に触れるや否や力が籠められた。ネギは身体ごと裏返しにされ、
漆喰の壁に背中を預ける格好になった。
そんな彼の目の前には膝をついたエヴァンジェリン。
ネギは彼女と向き合う格好となる。
「エヴァンジェリンさん、僕は」
ネギが吸血鬼の少女の決意を秘めた表情を確認する間も無く、
彼の唇を柔らかい衝撃が襲った。偶然は重ならない。
ネギは自らの視覚を疑った。エヴァンジェリンの閉じられた瞳が目の前にある。
長い睫毛が艶やかに輝く。彼女の前髪がネギの鼻先をくすぐり、
ネギは思わず鼻から空気を取り込んだ。
甘い。
舌先で溶けてしまう砂糖菓子のように淡く柔らかい香りがネギの鼻腔一杯に広がり、
それは唇の感触と絡まって、目の前にあるエヴァンジェリンと云う存在を再確認する鍵となる。
ネギは人形の腕のようにダラリと垂らしていた腕に血を通わせた。
最初はおずおずと、右手をエヴァンジェリンの背に回した。
そこからは躊躇無かった。両腕で思いきり彼女を抱き寄せる。
吸血鬼の少女は抵抗せず、ネギに身を預けた。
ネギは少女の柔らかい唇の感触を味わいつくした。
唇と唇が離される。2人の唾液が名残惜しそうに糸を引いた。
ネギは、未だ自分の腕の中にエヴァンジェリンがいることが信じられなかった。
しかし、唇と唇が触れ合っている間は確かにエヴァンジェリンそのものと
触れていたと云う実感があった。今知ったばかりの感覚を失いたくない。
ネギは再びエヴァンジェリンの唇を求めた。
ところが、エヴァンジェリンはネギの求めを拒み、ネギから身を引き離した。
振り解かれたネギの腕が虚しく宙を掴む。
エヴァンジェリンは追いすがるネギの視線を振り払うようにして立った。
「私は、こんなことでお前とキスしたくなかった」
自嘲するような笑みを吸血鬼の少女は浮かべた。
少なくともネギはそう思ったし、それは的外れではなかった。
エヴァンジェリンは肩を落すと、ネギに顔を背けてうつむいた。
ネギは壁際にもたれたまま、言葉の裏にひそむものを捉え損ねて戸惑っていた。
エヴァンジェリンが急に態度を変えた理由が全くわからない。納得出来無い。
ネギは壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がると、エヴァンジェリンに詰め寄る。
「僕にキスをしたのは、同情からですか?」
「違う! ぼーやはこの音が聞こえないのか!?」
エヴァンジェリンはネギの右腕をひっつかむと、
有無を言わさず自分の胸に引き寄せた。
ネギの皮膚は、少女の膨らみかけた胸の下で高鳴る鼓動を確かに聴き取った。
ネギは目を見開いて顔を上げた。エヴァンジェリンの美しい顔が眼前にある。
苦しげに寄せられた金色の細い眉。血がめぐり、薔薇のように上気した頬。
閉じられた瞳に、長い睫毛が風もないのに揺れた。
ネギが何度も夢見た光景であり、決して触れる事の出来ない幻想でもあった。
一つ違う所があるとすれば、それは掌から伝わるエヴァンジェリンの鼓動。
早鐘のように打ち鳴らされているではないか。
ネギは左手をエヴァンジェリンの頬に伸ばした。
触れるだけで壊れそうな宝石細工を扱うように、
ネギはエヴァンジェリンとの間の僅か数十cmの空間を数分かけて縮めた。
当人達にとってみれば、永劫の長さでもあり、同時に一瞬であった。
ネギの指先がエヴァンジェリンの肌に触れる。
エヴァンジェリンの肌は陶器のようにすべやかで、
冷たく、それでいて芯に温かみがあった。
夢や幻想では掴むことの出来ない絶対的触感にネギの脳は沸騰する。
喉は乾き、言葉が出ない。手足の筋肉も硬直して何も動かせない。
ネギは蜘蛛の巣にがんじがらめにされた獲物のように指先一つ動かせず、
呼吸すら忘れてエヴァンジェリンの鼓動を聞き続けた。
「ぼーや」
エヴァンジェリンは瞳を開いた。
艶やかに濡れた蒼い瞳に、ネギの強張った顔が映る。
ネギは吸血鬼の少女の瞳に映る自分の姿を見つけ、
その自分の中にさらに小さく映る彼女の姿を見つけた。
鏡だけの世界に閉じ込められたようだ。
もちろん1人だけではない。自分と、エヴァンジェリンの2人だけで。
「ぼーやの心臓も高鳴っているな」
ふとネギが気がつけば、
エヴァンジェリンの右手がネギの心臓の上にあてがわれていた。
2人とも、抱きあいながらお互いが互いの心臓の上に手をあてている格好だ。
「ぼーや」
エヴァンジェリンが口を開いた。
「この鼓動が誰からも強いられることなく、
自らの行動の積み重ねの結果こうなったのならば、
私は天地天命にかけて恥じることはない。私は全力でお前を求める。
だが、私も、お前も、こうなったのは外部的な要因、私が作った薬によるものだ。
そんなものは、偽りの感情に過ぎない」
「違います、僕は」
「違わない」
エヴァンジェリンは秋風に身をすくませる立ち木のように小さく笑うと、ネギの傍から離れた。
「ぼーやは【惚れ薬】の効果による興奮を、自分の感情だと勘違いしているだけだ。
恥じることはない。この私でさえ、気を強くしなければ薬によってもたらされた効果を
思わず本物だと信じそうになっているんだ。
歳若いぼーやがこの手の薬の効果に誤魔化されるのも無理はない」
「…エヴァンジェリンさんも、本物だと信じかけているんですね」
ネギは、先ほどまで為す術無く固まっていたのが信じられぬ程素早く
エヴァンジェリンの腕を取った。音速を超える銃弾さえ片手で掴み上げる
反射神経を持つエヴァンジェリンが反応出来無いほどの速さだった。
エヴァンジェリンが抗議の声を上げたが、ネギは気にしない。
「例えきっかけが偶然であったとしても、意図せざるものだったとしても、
利用できるものは利用すれば良いのです。
この薬の効果は一時的なものなのでしょう? いずれ効果は切れる。
その時こそ本当の始まりです。そこから確かな関係を築いていけば良いのです」
「だからって今から関係を始めることはないだろう!
こういうのはもっとお互いをわかりあってから行うものだ」
「じゃあ、あとからなら良いんですね」
ネギが満面の笑みでエヴァンジェリンを見つめている。
「ち、ちがうぞぼーや!!」
「どう違うのですか?」
その瞬間、エヴァンジェリンは自分が犯した致命的失敗に気付いた。
「今だとか、後だとかは関係ない! ええとだな、男と女と云うものは
まずお互いがどういう存在なのかを確かめあって、
それでお互い身も心も預けられるとわかったのならば次の段階へ進むわけだ」
「じゃあ、次の段階に進みましょう」
「どうしてそう云う結論が出るんだ!」
「思い出してください、エヴァンジェリンさん。
僕とあなたが寝起きを共にするようになってもう半年ですよ。
一週間のうち、6日は朝から夜までずっと一緒。
相性が悪かったり気に入らなかったのなら、
どちらかが厭になって関係は終わっています。そうならず続いているのは、
僕もエヴァンジェリンさんも、少なくともエヴァンジェリンさんは僕と一緒にいて
『嫌』ではないと云うことでしょう? だってエヴァンジェリンさんは吸血鬼の真祖。
あなたは世界を相手にして『NO』を云える人ですから、修行のためとはいえ、
僕ごときに気をつかうはずがない」
「ま、まあ、ぼーやの云う通りだな。
私は好きじゃないことは嫌だと云う。云えるだけの力がある。
うん、まぁ、ぼーやの言葉は間違っていない。ぼーやが私の傍にいても、
その、なんだ、嫌じゃない」
「僕はあなたのことが嫌いじゃない。
いえ、嫌いだなんてマイナスのベクトルじゃない。
僕はあなたのことが好きです。あなたと一緒にいたい。
確かにこの鼓動の高まりは【惚れ薬】のせいかもしれません。
けれど、僕がエヴァンジェリンさんを好きだと云う気持ちは本物です」
「ぼーや……」
エヴァンジェリンは蒼い目を見開いてネギを見ていた。
喉が震え、彼女は言葉を喋ることが出来ない。
ただネギの名前をうわ言のように呟くだけだ。
ネギは小さな溜息を一つすると、哀しげに目を伏せ、寂し気に尋ねた。
「エヴァンジェリンさんは違うのですか?
僕のことが嫌いですか?」
「違う! 私だってぼーやのことが……!!」
エヴァンジェリンの声は中途で途切れた。
断ち切られた声が地下室に虚しく響き渡る。
エヴァンジェリンはすがるようにネギを見た。
言葉の端から察してくれ、そう全身で訴えていた。
これ以上は私の口から云わせないでくれ、と。
表情から、切羽詰った態度から察してくれ、と。
しかし、ネギはエヴァンジェリンの願いを無情にも聞き届けない。
「僕のことが、何ですか?」
ネギは教壇で生徒達を教える時のような朗らかな笑顔で
エヴァンジェリンに優しく声をかけた。エヴァンジェリンは
奈落の底につき落とされるような気分に捕らわれた。
もしかしたら、自分は最悪の相手に入れ込んでしまったのではないかと。
エヴァンジェリンを包み込むネギの笑み、
それは勝利を確信した狩人が浮かべる会心の笑みだった。
「お、お前は残酷な奴だ!」
「うーん、そう云われるのは初めてですね」
ネギは軽く受け流す。
「腹黒くて、性格が悪くて、悪戯好きで」
「うんうん」
「ナギそっくりじゃないか!!」
「最高の褒め言葉です、エヴァンジェリンさん」
ネギは満面の笑みを浮かべた。
獲物が傷つき弱っても全力で狩りだすのがイギリス人クオリティ。
そう云えばドイツの戦艦ビスマルクも舵が壊れて航行不能になった所を
イギリス戦艦に追いつめられて袋叩きにされたっけ……。
エヴァンジェリンが無駄に記憶を掘り出している間にも、
ネギはエヴァンジェリンに顔を近づけていた。
「一言云ってください。そうしたら、今は何もしませんよ」
「ほんとう、だな?」
吸血鬼の少女は弱々しく聞き返した。
ネギは深く頷く。エヴァンジェリンは深呼吸を一つすると、
ネギの瞳を正面から見据えた。
「わ、私も……、お前のことが好きだ」
「エヴァンジェリンさん……」
「ぼーや……」
今度こそ、2人は同時に前に進み出た。
どちらかが受身になるのではなく、双方がお互いを求めて。
飽きる程に相手の唇をむさぼる。ネギがエヴァンジェリンの服に手をかけた時も、
エヴァンジェリンは僅かに身を震わせただけで、黙って少年の行動を許した。
肩かけが外され、少女の白い肌が露になる。ネギは唇を離すと、
エヴァンジェリンの肩筋に顔を埋めた。
吸血鬼の少女は、ネギの手が肩甲骨を触れる感触に小さな声を上げつつ、
自分もネギの背中に手を回した。
「何をしているのですか、マスター。ネギ先生」
ネギは動きを止めた。
エヴァンジェリンも、声の方に顔を向けた。
太陽の光を背景に、エヴァンジェリンの忠実なる執事にしてパートナー、
女性二足歩行御茶酌みロボット『絡繰茶々丸』が仁王立ちになっていた。
右手にデッキブラシを持ち、左手は腰の位置にある。
茶々丸の獲物が薙刀であったとしてもなんの違和感もない迫力であった。
「うわぁ、ちゃ、茶々丸さん!」
「茶々丸!!」
外見だけは幼い2人は慌てて距離を取った。
エヴァンジェリンは胸をはだけてしまっていたので、
服を手でたくしあげて押さえている状態。白い背中は剥き出しだ。
ネギは目のやり場に困り、かといって正面の茶々丸は怖くて見上げられず、
壁ばかりを見つめることにした。
茶々丸は刑を云い渡す裁判官のように静かに語りかける。
「先程から妙な臭いが居間に漂っていたので原因を探してみたのです」
「臭いだと!? なんだ、それは」
エヴァンジェリンが指摘すると、茶々丸は肌も露な主人を鼻先で笑った。
「先日から早乙女ハルナ様が、私に対して直々に教育を施してくださっています。
その過程で『ラブ臭』なる概念があることを知り、既にその探知装置を装備しました。
センサーを作動させた瞬間、当家の数値は異常値に達していました」
「なぜお前の主人たる私に黙っていたんだ!」
「ラブ臭の発生源を捜索した所、マスター自身であるとの結果が出ました。
しかし原因がわからず、なぜマスターが発生源になっているか、
理由をつき止めるまでは告げないことを選択したのです」
「……」
「しかし、まさかこのような原因があったとは驚きです。
マスター。ここまで私を出し抜いたあなたの手腕は評価します。
ですが、あなたはやりすぎました。やってくれましたね。
私の主人とはいえ、到底許し得る行為ではありません」
茶々丸はデッキブラシを投げ捨てた。
茶々丸の長い緑の髪が重力の制約を解かれてフワリと舞った。
彼女の髪は放熱板を兼ねている。つまり、今の茶々丸の体内では
膨大な熱量が産み出されていると云うことだ。一体何に使われているのか?
「エヴァンジェリンさん。あの、茶々丸さんの腕が細長く変形して、
先端がフォークみたいに割れたと見えるのですが、僕の気のせいでしょうか」
「魔力を利用して空気中の荷電粒子を加速させるビーム砲だ。
この間暇を見つけて改造してみたんだが、どうだろう。
試し撃ちはさせていないが、私の計算では、フルパワーで撃てば
麻帆良学園が丸ごと吹き飛ぶだろうな」
「なんて改造するんですかぁぁ!!」
ネギの悲鳴をBGMにエヴァンジェリンは従僕の叛逆を何としても収めようと試みた。
エヴァンジェリンの頭脳は素早く回転する。落ち着いて話さなくては駄目だ。
こちらがパニックになると、それが伝染する可能性は極めて高い。
だが茶々丸が狂った原因はなんだろう。
エヴァンジェリンは思案し、すぐに「そうか!」と思い当たった。
(茶々丸もぼーやに惚れていたのか!
ロボットで、かつ私の下僕の癖に生意気な……)
ネギとキスをして、エヴァンジェリンの女の部分が研ぎ澄まされていたからだろう。
女の直感によってエヴァンジェリンは茶々丸反乱事件の真相を悟った。
となれば、対処方法もおのずと定まってくる。はらわたが煮えくり返るが、
今回のネギとのキスは事件だと説得すれば良い。
(荷電粒子砲は危険すぎる。今度外しておこう)と内心決意しつつ、
エヴァンジェリンは茶々丸を説得にかかった。
冷静に、ゆっくりと、事件の顛末を説明する。惚れ薬を作ってしまったこと、
それが事故によってエヴァンジェリンとネギ双方にかかり、
両者一時的な興奮状態になってしまったこと。
「なるほど、そんな理由があったのですね」
茶々丸は、弁護士・検察双方の言い分を静かに聞き届ける裁判官よろしくゆったりと頷いた。
「では早速解毒薬を作って頂きましょう。
薬の残りはどこにありますか? 私が成分分析します」
茶々丸は床から丸底フラスコを取り上げると、ゼリー状になった薬液を舌先に乗せた。
目を閉じ、味わうように成分を吟味する。 暫くして、茶々丸は目を開いた。
エヴァンジェリンもネギも見た事が無いほど爽やかな笑みを浮かべていた。
「マスター」
茶々丸は云った。
「これ、ブドウゼリーです」
『えっ』
「マスター。2ヶ月程前、ワインで酔っ払ったマスターは
『ワインだって惚れ薬の一種だ。私が相手と一緒にワインを飲んで語らえば、
どんな奴だって落せるさ。よし、惚れ薬を作ってぼーや相手に試してみよう』と仰って、
ゼリーの作り方の本とブドウをアトリエに持ち込みました。もちろん、私に手伝わせて」
「エヴァンジェリンさん……」
「当時のマスターの行動を記録したファイルを再生します」
茶々丸の目が光ると、コンクリートの壁にエヴァンジェリンが映し出された。
テーブルの上には空のワインボトルが10本並んでいる
。ビール缶も転がっている。ソファーの上にはチャチャゼロがひっくり返っている。
『なあ茶々丸』と酔っ払いエヴァンジェリンは云った。
顔は猿のように真っ赤だ。
蒼い瞳は焦点を無くして据わっている。
『ワインをぼーやに飲ませたらどうなるかなぁ』
『ネギ先生は未成年です。お酒を飲ませて良い年頃ではありません』
『なにを~! おい茶々丸。20歳からしか酒を飲めないなんて、
人類の歴史の中では異常極まりない。例外だ、例外。
10歳になったら酒を飲み、契る。別に問題はなかろう』
『ですからマスター』
『ぼーやにその気がないなら、その気にさせてしまえばいいんだ。
決めた、茶々丸! 私の特性惚れ薬でぼーやと、うふふ、うはははは!!
材料は何が良いかな、ワインか、原材料はブドウ…。そうか、ブドウでいいや!
確か冷蔵庫に入っていたな。しかしあれでは足りないか。近くのスーパーで買ってこい』
『この時間帯、既にスーパーは閉まっています』
『なら叩き起せ。外壁を破壊してでも手に入れるんだ』
「そう云えば、麻帆良スーパーが夜間強盗の被害にあったって
ニュースがありましたね。なぜか果物だけ盗まれたとか……。
あれ、エヴァンジェリンさんの仕業だったんですか」
ネギが憐れみを含んだ視線をエヴァンジェリンに向けた。
「違うぞ、ぼーや! 襲ったのは茶々丸」
「私に命令を下したのはマスターですが」
茶々丸はピシャリと云った。
「ですが、【惚れ薬】の製作は失敗しました。
泥酔状態でつくってロクなものが出来るわけがなく、
そもそも果物から【惚れ薬】を作るなんて如何なる賢者も成功しておりません。
そうです、ネギ先生。これは【惚れ薬】ではなく、出来損ないの【ブドウゼリー】です。
心拍数を上げることも、フェロモンを出すことも、
相手が気になって仕方が無くなるなんて効果は、ブドウゼリーにはありません」
「と云うことは」
「僕達は勘違いしていただけで」
「胸の高まりも、キスも、みんな、私の意志?」
エヴァンジェリンとネギは顔を見合わせ、相手の顔をまじましと見た。
洪水に川の水位が急上昇するように、エヴァンジェリンは真紅に染まった。
「ぼ、ぼーや、これは、その」
「エヴァンジェリンさん」
ネギはエヴァンジェリンの釈明を遮った。
一言一言を噛みしめるように語る。
「誰に憚ることも、誰かの強制でもなく、僕は自分の意志で云います。
僕は、エヴァンジェリンさんが好きです」
エヴァンジェリンは答えられない。
そのかわり「こくん」と頷き、自分の身体をネギに預けた。
ネギがエヴァンジェリンの身体に腕を回す。
エヴァンジェリンは小さく「ぼーや」と呟いた。
「続きはマスターの寝室でして下さいね。
おふたりとも、ここで脱ぐと風邪を引きますよ」
茶々丸は深い溜息をつくと、かがんでデッキブラシを拾った。
そして処置無しと云った風に首を振りながら出ていった。
「さあ、続きをしましょうか」
「続きってなんのこと……うわっ」
エヴァンジェリンは小さな悲鳴をあげた。
ネギに抱きかかえられていたからである。いわゆる「お姫様だっこ」だ。
急に重力が消失し、落ちる不安から思わずネギの首筋に抱きつく格好となり、
すぐに自分が他者から見てどのような状況になっているかを思って赤面する。
「だって何の問題もないですよ。
僕はあなたのことが好き。あなたも僕のことが好き。
お互いをもっと知り合うのに何の障害もありません。
それにエヴァンジェリンさんだって望んでくれているではないですか。
だって、あんなにも僕のことを求めてくれたのですからね」
「そ、それは……」
エヴァンジェリンは否定しようとしたが、ネギを見ているうちに、
拒絶の心が薄らいでいくのを止めることは出来なかった。
ネギの顔はエヴァンジェリンに求められたことに心からの喜びを表わしていた。
恥ずかしさに泣き笑いともつかず顔をゆがめるエヴァンジェリンの唇を、
再びネギの温もりが包み込む。
麻帆良学園に降り注ぐ冬の陽射しのように、やさしく、ほのかに、だがしっかりと。
fin