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 【マリアナ・ウェブ # XXX】


 朧な記憶が、瞼の裏に再生される。
 閉ざされたカーテン。落とされた室内灯。あえて半開きにされた背後の扉。
 目の前には、座椅子に腰掛けて、当時でも骨董品扱いだったブラウン管テレビを眺める影。

 液晶の中では、変哲もないホームビデオが流されていた。
 画質が粗いが、どうやら子どもの誕生日会か何かのようだ。
 ロウソクの灯ったバースデーケーキ。橙色の淡光に照らされて、顔にモザイクのかかった幼女がはしゃいでいる。

 きゃあきゃあと響く声。
 両親に促されて、ふー、と息を吹けば火が消え、画面は闇に覆われる。
 かちりという音。室内灯が点く。色とりどりの輪飾りで装飾されたリビングが映し出される。

 幼女の後ろに、もうひとりの子どもが立っている。
 女の子だ。土気色の肌で、左の眼球が異様に小さい。
 娘は気付いていない。その両親は無言だったが、息の詰まる音が聞こえた。凍りついているのだろう。

 娘が振り向く。劈く悲鳴と共にカメラが床を転がり、映像は終わる。
 お分かりいただけただろうか。無機質な男性のナレーション。暗転した画面に表示される、『REPLAY』の文字。
 テレビの前に座った彼がリモコンを手に取り、ビデオを停止させて振り向いた。

『――■■。俺は、神は恐怖の中に棲むと考えている』

 ■■、と呼ばれた少女は、大層立腹しているようだ。
 それもその筈だろう。いきなり部屋に招かれたと思えば、悪趣味この上ない心霊映像の上映会に付き合わされたのだから。
 だが目の前の青年は意に介した様子もなく、悪びれもせず言葉を重ねる。

『例えば日本人は明確に特定宗教への帰属意識が低い民族だが、神に祈ったことのない人間はいないだろう。
 その際、キリストや釈迦の名体を具体的にイメージして祈るか? これも十中八九はノーの筈だ。
 意識が低いと罵りたいのではない。教徒でない者達は一体、どこの何に祈っているのか、という話だ』

 ■■は考えあぐねている。
 頼んでもないのに繰り広げられる講釈はまあ適当に聞き流すとして、一体この人は自分に何を伝えたいのだろうか。
 しばし悩んで、とりあえず相槌だけでも打ってみる。それを目の前の男は、関心を持っているものと看做したようだ。

『食べ物を粗末にすると罰が当たる。悪いことをすれば、お天道様に見られる。窮地に際して祈りを捧げれば、神様が助けてくれる。
 名も形も持たない、想像(イメージ)上の神を、我々はごく日常的に意識しているな。
 だがこれを想うシチュエーションは概ね、共通している。何かを恐れている時だ』

 嫌いな食べ物を残した時に感じる後ろめたさ。
 悪事が露見するのではないかという焦り。
 或いはもっと純粋に、藁にも縋っての神頼み。

『つまりは側頭葉の扁桃体。我らの神はその辺りに大社を構えていると考えられるわけだ』
『……あの、お兄ちゃん』

 表情一つ変えず、しかし何故だか満足そうに結論づけた兄に、とうとう耐えかねて口を開いた。

『なんで私にそんな話するの……? あとそのめっちゃ怖いホラー動画は何の関係が……?』
『兄貴は優秀だ。あの男が健在である限り、まずスペアの俺にお鉢は回ってこないだろう。
 となれば俺が魔術師として価値を示すには、メインプランと違った形でアプローチを深める必要がある。
 これはその受験勉強のようなものだ。ジャパニーズ・ホラーは実に有用だぞ、特にこの『マジ呪』シリーズは白眉で――』
『い、一個目の方! 一個目の方が気になるかも!!』

 答えてくれたのはいいが、まずい、あんまり興味ない。 
 そしてこの流れは確実に話が長くなる。
 そう察知した■■は食い気味に方向の誘導を試みた。

 出来るなら早く話を終わらせて自室に戻りたいのだ。
 何せこの部屋、ホラー動画云々以前に死ぬほど不気味なのだから。
 棚に所狭しと飾られた呪物、呪物、呪物、呪物。
 前、一番上の[その名前を出さないで]お兄ちゃんにそれとなく尋ねてみたところ、笑いながら「ああ、あんまり近付かない方がいいぞ」と忠告されてしまった。
 あの[思い出してはいけません。それとも]お兄ちゃんが言うってことは、つまりマジってことじゃないですかヤダ――
 ……と心胆を凍りつかせた経験のある■■にとってこの部屋はすっかりトラウマなのである。

『■■。お前は恐らく、魔術師にはならないだろう』

 兄貴や俺のように。
 そう続ける声はさっきまでの淡々としたものではなく、一握の優しさと、そして哀れみが入り混じったものだった。

『……その話、やめてよ。お父さん達の耳に入るとすごい剣幕で怒られるんだから』
『まあ聞いておけ。お前がどう思おうと勝手だが、この家に生まれてしまったという現実はどこへ逃げても変えられない。
 地に足着けて生きる道を選ぼうが、鳥は鳥なんだ。
 十中八九――いや、九割九分は杞憂で済むだろうが、何があるか分からないのが人生だ』
『じゃあ、どうしろっていうの?』

 普通の家に生まれたかった。
 そう思ったことは一度や二度ではない。
 幸いにして優秀な兄に恵まれ、一番辛い部分には関わらず済んだ身だが、それでも末子なりに生家の異常性は嗅ぎ取っていた。

 分かるのだ。
 漠然と、自分は此処にいてはならないと思える。
 この家は怖い。パースの狂った絵を見ているような不安感が、ふとした拍子に込み上げてくる。
 そんな十余年だった。単純に愚鈍な性分だったことも理由ではあるものの、そうでなくとも、なるべくなら両親や兄が傾倒する分野に関わりたくない気持ちがずっとあった。
 なのに普段ろくに話もしない次兄から見透かしたような、知ったようなことを言われて、ムッとしなかったと言えば嘘になる。

『その恐さを忘れるな。この家では、それを忘れた者から壊れていく』

 不貞腐れたような顔で問う妹に、兄は端的に答えた。

『神は恐怖の中に棲む。どんなに恐ろしい絶望の中でも、神だけはそこにいて、寄り添ってくれる』

 ――それを忘れたその時こそ、真の孤独で。
 ――縋るもののいない、真の恐怖なのだ。

『だから、お前は……』

 兄は、ぽん、と■■の頭に手を置いた。
 多分、一度もやったことがないのだろう。
 ひどく不器用で、がさつな撫で方だった。

『――――[聖餐の再開を望みますか?]のようには、なるなよ』

 半開きの蓋の隙間から覗いた、過去というシチューの中身。
 懐かしい光景が掠れて、千々に乱れて、あの心霊映像のように暗転していく。

 REPLAY、の文字は出ない。

 でも、その代わりに。



『もう分かったかな? それとも、まだ分からない?』



 そんな、男とも女ともつかない、誰(なに)かの嘲笑が、響いて――少女は今日も、煌星満天として目を覚ます。



◇◇


 【無限の草原 # 1】


「――マンテン! しっかりせんかッ!!」
「…………っ、は」

 私は、瞼を開いた。
 そこでようやく、自分が意識を飛ばしていたことに気付く。

 次の瞬間全身を襲ったのは、凄まじいまでの鈍痛だった。
 レッスン後の筋肉痛を何十倍にもしたみたいな、立ち上がるのもしんどいほどの痛み。
 目の前には和装の弓手――アンジェさんのサーヴァント・アーチャーが庇うように立っていた。

「あれ……わた、し……」
「煌星さん。申し訳ありませんが、説明は後です」

 今度は真隣から、喘鳴混じりの声が聞こえる。
 咄嗟にそっちを見て、私は息を呑み。
 血まみれの"プロデューサー"……キャスターの姿をきっかけに、すべてを思い出した。

 今。私達の目の前には、化け物が立っている。
 にーとさんのサーヴァント、ウートガルザ・ロキ。
 私にとっても苦い思い出のある、北欧の奇術王。
 でも彼はもう、とっくにこの針音都市を去ってしまったと聞く。
 なら相対しているこいつは嘘偽り、つまらないマジックの賜物だと頭じゃ分かっているのに。
 私達が味わされた絶望はそんな楽観的な考えを二度と抱けなくなるほど、強烈無比なものだった。

「気をしっかり保ち、前を向いて立ってください。そうでなければ私もアーチャーも、貴女を守れる確証がありません」

 絶望のカタチは単純にして明快。
 何も通じない。
 こちらが繰り出す何もかもが、一つたりとも届かないのだ。

 キャスターの魔術は、触れた瞬間に霧散した。
 アーチャーの矢は、腕の一振りで薙ぎ払われた。
 私の爆発も、髪の毛をわずかに揺らすくらいが精々だった。

 それでも、粘り強く戦えば光明を探すこともできたかもしれない。
 私だけなら荷が重くても、此処にはアンジェさんのアーチャーがいる。
 少しずつでも希望を探って、じっくり腰を据えて向き合えばきっと――そんな考えが甘すぎたと、思い知らされるまでに十秒もかからなかった。

 確かに。ただ圧倒的に強い個人というだけなら、通じるかどうかはともかく試す余地くらいはあったろう。
 でも駄目だ。アレは駄目。ロキが仁王立ちしている、あの巨大な機神(ロボ)は駄目すぎる。


「雑■どもが。蟻■幾らか集■って、この俺に勝■■とでも夢想■たかよ」


 佇むロボの頭上から、傲慢を極めたような嘲笑が降ってくる。
 奇術王が駆る黄金の機体は圧倒的に雄々しくて、一体どっちが悪役だか分からなくなりそうだ。
 未だに信じられない。あれだけしこたま撃ち込んでやったのに、ちっぽけな破損一つ刻めてない現実に目眩がする。

 ――馬鹿げてる。あんなの、誰がどうやって立ち向かえばいいの?

 ほんの牽制に放った攻撃がもう、私に出せる最高火力を超えていた。
 私とアーチャーが並んで打ち込んだ爆撃は、弾数も密度も桁違いな槍の雨霰で返された。
 〈蝗害〉を乗り越え、幹線道路で大立ち回りを演じ……培われたなけなしの自信。
 それが砕け散る音を聞きながら――私は目の前で炸裂した閃光と衝撃に包まれ、意識を失ったのだ。

「■姫■まの夢に、無■なモ■は必要■いんだ■」

 悪夢が再び駆動する。
 輝きを灯す機械剣。片手の指で足りるくらいの場数しか踏んでいない私にさえ、その恐ろしさは直感できた。

「■け。てめ■ら揃■て、俺様のや■れ役だ」

 逆さの親指が下す死刑宣告。
 それを聞き終えたかどうかのタイミングで、手足が千切れそうなほどの烈風が襲う。
 現象の正体は斬撃。なんてことのない、距離を詰めて振り抜くだけの近接攻撃だ。
 だけど疾い。疾すぎる。もし私とキャスターだけだったなら、この一閃で二人纏めて即死していたやもしれない。

「づ……ぐ、ぅ……!」

 未熟な私と、非力なキャスター。
 いや、非力も一緒か。
 となると必然、私達の防波堤は一人にしか務まらない。

「ほざくではないか、幻が……!
 月姫ならばいざ知らず、その飼い犬如きに遅れを取る私ではないぞッ!!」

 アーチャーだ。剛弓を引き、大仰な外見に見合う強射を叩き込んでいく。
 機剣の一閃を凌ぐには到底足りなかったけど、あるのとないのとじゃ雲泥の差だ。

 剣戟がこちらに到達するまでのわずか一秒にも満たない時間。
 そこに必死こいて滑り込んで、なんとか命を拾う。
 犬みたいな格好悪い戦い方だ。でも当然、取り繕ってる余裕はない。

「すぅ――ぅ、ぅううぅう――!」

 肺いっぱいに、パンクするんじゃないかってくらい酸素を吸い込む。
 気合いを入れろ。死ぬ気で謡え。
 アーチャーの言う通りだ。こんな幻なんかに轢かれて終わりなんて、あの子に顔向けできないだろう!

「『微(キ)』、『笑(ラ)』、『む(キラ)』――――ッ、『爆弾(ボシ)』…………!」

 風圧に押し流されそうな身体を押し止めながら指を突き出す。
 拳銃の形にして、銃口代わりの爪先にありったけの魔力を集中させる。
 悪魔だとか恒星だとか、正直未だに実感があやふやだけれど。
 それでも、袋小路をぶち壊す力、って響きは正直気に入っていた。

 そうだ、私は一度やってるじゃないか。
 こうなる前の渋谷で、〈蝗害〉という死をねじ伏せた。
 絶望をぶち壊して、あの恐ろしい災害を自分のファンに変えたんだ。
 なら夢幻の一つくらい、消し飛ばせなくてどうするんだ――!

「――――『星の鏃(ブレイザー)』ッ!!」

 微笑む爆弾・星の鏃。
 完全なる即興だ。私の頭で咄嗟に思いつくような技なんだから、コンセプトも非常にシンプル。
 指先に集めた爆薬(マナ)を、極限まで圧縮して弾丸として放つ。これだけ。

 だけどその分、『星の花』や『星の瀑』よりも一点凝縮した破壊力が実現できる筈だった。
 私の狙いは機神ではなく、それを操るロキの方である。
 つまりは精密射撃、ヘッドショットによる一撃必殺。
 それなら面の制圧力よりも、点の貫通力が求められる。
 無い頭を捻って必死に考えたロジカルを、火事場のインスピレーションで技に昇華させた。

 風を捩じ切り、夢に駆けていく赤色の妖星。
 私にできる精一杯、十八番の大爆発。
 本物の銃弾にも引けを取らない高速で、星の鏃が奇術の王を撃ち抜く――


「何コレ。馬■に■てんの■?」


 ――そんな甘い夢が砕け散る。
 指先から放った魔弾は、同じく指先で受け止められた。
 ロキの指に触れた星の鏃が、回転しながら甲高い異音を立てる。
 それは悲鳴。断末魔。私の星が、恐怖と苦痛に泣き喚いているのだ。

「ヘタ■女が。一■前にキレ■んじゃね■よ、みっ■もない」

 聞き覚えのある侮蔑は、但し今度はただの罵倒じゃ済まない。
 鏃の悲鳴が止んだかと思えば、弾丸が空中で翻った。
 力学的に決してあり得ない現象を、この奇術王は息吐くように引き起こせる。

 私の中から産まれ落ち、意義を否定された爆弾。
 星の光が幻に食われて、置き換えられて、満天(わたし)の想いが夢になる。
 籠絡された爆弾は、微笑む相手をころりと変えた。
 独裁者から反逆者へ。ロキから私へ。まずい、と悟った時にはもう遅かった。

「『微■む■弾・■の鏃』、改め――『嗤う爆弾・月の星屑(コラプション・スペースデブリ)』」

 一点特化、確殺狙いの貫通爆弾。
 私の狙いがそっくりそのまま、私の死線に変わり襲いかかってくる。

 速度が速度だ、避けるなんて現実的じゃない。
 となるともう一発星の鏃をぶちかまして相殺するしかないけれど、それだって間に合うかどうか。

(馬鹿――やるしか、ないでしょ――!)

 弱気に駆られかけた自分を蹴飛ばして、無我夢中で指を構える。
 そうだ、燃え上がれ。怖がってもいいけど諦めるな。
 私は、それだけは! それだけは許されてないんだから!

「いいぞ、そのまま合わせろ、マンテン!」
「っ……アーチャーさん……!?」
「ウートガルザ・ロキを直接狙う発想やよし。私もそのつもりだったからな、二人三脚で行くぞ!」

 こくりと頷き、キャスターにアイコンタクトを送る。
 アーチャーの目論見は完全には読めてないけども、とにかく私が失敗したらご破算ってことだ。
 なら使える要素は全部使って、さっき以上の火力を実現しなきゃお話にもならない。

 簡 易 契 約      霊 魂 自 壊
「Einfach Vertrag――――Selbstmordattentatッ!」

 キャスターが人工霊を、惜しげなく大盤振る舞いで展開。
 したかと思えば、鼓膜が吹き飛びそうなほどの大音量でそいつらが大爆発を引き起こす。
 打ち合わせなんかしてなかった即興だけど、それでも私は驚かない。
 意図が分かるからだ。これは幹線道路でやったのと原理的には同じ、つまり偶像(アイドル)のためのお膳立て。

 励起(ウェイク)、記号(コード)=爆発(コンカッション)!
 盛大な爆発が舞台を整え、私は瞬間的にボルテージを上げていく。
 本当なら何曲もかけてやっとありつけるだろう極上の盛り上げが、そっくりそのまま力になる。

 『星の瀑』の時の応用だ。
 会場を味方につけられれば、私の出力は格段に向上する。
 恩恵が体中を駆け巡っていくのを感じながら、突き出した指先を再び銃口に変える!

「ぶ、っ、飛べぇえぇえぇえええ――!!!」

 『微笑む爆弾・星の鏃』、第二射!
 パクってんじゃない、それは私の輝きだ!
 震える身体に鞭打って撃った魔弾は、迫る星屑(デブリ)と激突し。

 一瞬の拮抗の後、敵方を打ち砕きながら競り勝った。
 相殺ではなく、ちゃんとこっちが乗り越えた格好だ。
 これなら文句はないだろう。達成感で脱力しかけながら、アーチャーに向けて叫ぶ。

「後は、お願いします……っ!」
「ああ、しかと受け取った!」

 魔弾と並走しながら、アーチャーが矢を番える。
 文字通りの二の矢だ。
 しかもそれは、予備動作の段階からして此処まで放ってきたものとは格が違った。

「『害滅一矢』――」

 こんな状況だってのに、彼の指の動きに思わず魅入られる。
 凄く綺麗で神々しくて、何より頼もしい。
 自分は正しい側にいるのだと無条件に安心させてくれる、そんな雄々しさがあった。
 神さまと一緒に戦えたなら、きっとこういう気持ちになるのだろう。
 これぞまさしく極上の二の矢。私の爆弾よりもずっと、ロキの首に肉薄できる本命の一撃。

「――『天羽々矢』!!」

 銀の閃光と化した矢が、星の鏃と並んで機体頭上のロキを狙う。
 右からは魔弾。左からは天羽々矢。
 さっきは威力も数も足りなかった、でもこれならどうだ!

 私が、キャスターが、アーチャーが。
 固唾を呑んで見守る前で、夢幻の奇術王は甘いマスクを歪め――

「全■解■、ワル■ュ■レ・シ■テム■剰励起」

 ――ない。
 紡がれる祝詞(コマンドワード)、黄金の機神がメインカメラを感光させる。
 胸部装甲が静かに開き、集合体恐怖症が見たなら卒倒しそうな数の砲口が顔を覗かせた。

「――――ラ■ナ■ク・■ーヴ■ラ■ル」

 そうして私達は、またひとつ絶望を識る。

 あの"御使い"達が使っていたのと同じ、だけど比較にならない魔力を宿した聖槍が、無数の砲口から次々にばら撒かれた。
 二本の矢、正確には一本の矢と一発の弾丸が、飛行する槍衾の中に隠されて見えなくなる。
 吹き荒れた槍の暴風は、こちらの連携攻撃の成否が明らかになるのを待たず、地を這う私達へ降り注いできた。

「ッ……馬鹿を言うな、どこまで出鱈目なのだ――!」
「煌星さん、下がりなさいッ!」

 戦慄に歯を軋らせるアーチャー。
 キャスターの指示を聞くまでもなく、私は地を蹴って後退る。

 なにこれ。なんなのこれ。馬鹿じゃないの?
 こんなの、星の瀑でも迎撃しきれない。
 星の花を誘爆させたって、押し潰される方が早いだろう。
 アーチャーの言う通り、本当に出鱈目だ。
 こっちに勝負をさせようという気がない――私があの時出遭った男は、これほどまでの怪物だったのか……!

(――――え?)

 命を繋ぎつつ、出来る限りの爆発で耐え凌ぐ。
 大混乱の脳髄でなけなしの策を編み上げて、顔を上げた時、私はそれを見た。

 逃げも隠れもせず、定位置に佇んだままのウートガルザ・ロキ。
 その右手に、へし折られた天羽々矢が握られているのを。
 私の全力なんかより余程脅威的だった筈の、アーチャーの全力全霊。
 それを当然のように封殺したロキの姿を見た途端、私は、耳慣れた足音を聞いた。

 ――諦める? いま諦めた? それともこれから諦める?

 月の、にーとさんの声とは違う、もっと邪悪な恍惚に歪んだ声。
 頭を抱えたくなる。こいつの声、こんなに煩かったっけ。

(だめ、だめ、諦めちゃだめ、絶望しちゃだめ、ぁ、ぁ、ぁ……)

 一瞬鈍る、頭と身体。
 それは言わずもがな、大空襲の最中に見せる隙としては致命的すぎて。
 ハッと気付いた時にはもう、私に向けて数え切れないほどの槍が圧し迫っていた。

(ぁ――)

 キャスターの手に、魔方陣が浮かんでいるのが見える。
 こいつ、こんな必死そうな顔も出来るんだな。

 アーチャーも、こっちを向いて何事か叫んでる。
 だけど私には、言葉を返す時間も残されちゃいない。

(え……終わ、り……?)

 かつてない死の予感に、自分は特別などではないのだと、分かり切った現実を突き付けられた気になる。
 たまたま〈古びた懐中時計〉なんて呪物を手に入れて、この都市に迷い込んで、優秀なプロデューサーを得ただけの石ころ。
 天梨という大切な友人を、好敵手を得て思い上がっていたけど、そうだ。私の本来の身の丈なんて所詮こんなものだった。

 何者にもなれない。
 どこにも行けない。
 映画だったら、主役の活躍の脇で呆気なく死んで、戦いの無情さを示す道具になるのがお似合いのモブキャラA。
 ならこの終わりはきっと必然で。夢を見た馬鹿が現実を思い知らされる、それ以上でも以下でもなくて。

(や、だ)

 頭じゃそう分かってるのに――ああ、どうあがいても私は骨の髄まで凡人だから。

(やだ、こんなの――こんなところで、死にたくない)

 千分の一に切り刻まれた今際の際で、見苦しく泣き言を喚いてしまうのだ。
 生きていたって、何かを成し遂げられる保証なんかどこにもないのに。
 またどこかで現実の壁にぶち当たって、墜落して朽ち果てるのが関の山なのは見えてるのに。
 それでも脳裏に焼き付いた憧れの姿が、辿り着きたかった未来の空想が、潔い死に際をさせてくれない。

(だって、私、約束したもん)

 キャスターと。
 天梨と。
 二つも契約を交わして、そのどっちもを反故にして、ゴミみたいに死ぬなんて嫌だ。

(トップアイドルになりたい。あの子を助けられる、最凶無敵のアイドルになりたい。もっと見たい景色が、未来が、いっぱいあったのに)

 なのに、こんなところで死ぬのか。
 実体もない、女神の見る夢なんかに踏み潰されて。
 一生負け犬のまま、汚名返上も出来ないまま終わってしまうのか。
 直面した絶望。逃れようのない詰みに際して、魂が意味のない爆発を引き起こす。

(死にたくない……っ、助けて、誰でもいいから、満天(わたし)を――満点(わたし)を――……!)

 誰か。
 この地獄から、引っ張り上げてくれ。
 そんな叶うべくもない、誰にも届かない願いの言葉を吐いた時。


『――――――――Mariana Web』


 私は、懐かしいひとの声を聞いた。



◇◇


 【天望の丘 # 1】


「――アンジェリカ・アルロニカ」

 呆れも一周回ると戦慄に変わるのだと、少女はこの時初めて知った。
 天枷仁杜。話には聞いていたが、率直に言って想像以上だ。
 想像以上のダメ人間。神の領域にまで届くほどの、自堕落自己中社会不適合者。

 だが呑まれてはいけない。
 不測の事態で散らされた布陣が次に整うまで、どれだけかかるか分からないのだ。
 いやそれどころか、その"次"が実現するかどうかも疑問視される状況。
 なら必要な行動は暗中模索。そして自分こそが、多分他の誰よりも重要なポイントを割り振られている。

「言っとくけど二回は名乗らないわよ。いい加減、敵の名前くらい覚えなさいっての」
「ああ、そうだそうだ。アンジェちゃんね。んふふ、なんか同人ゲームでえっちなことされてそうな名前だね……へへ……」

 スケベオヤジみたいな顔で放ってきた放言は無視する。
 無視するったら無視する。この女の戯言に目くじら立ててたら身が保たない。
 亡き高天小都音の苦労が察せられた。自分なら多分一時間も無理だ。絶対にド突いている自信があった。

 それはさておき。
 アンジェリカの認識は正しい。
 ある者は絶望、ある者は放浪、またある者は放逐。
 多種多様な行き先に分散された砕月勢力の中で、彼女は当たり籤を引き当てた。

 即ち、月女神・天枷仁杜との謁見。
 マンツーマンで対話し、読み解く権利を得た。
 尤もそれは薄氷の上を歩かされるようなもので、どこに奈落行きの穴が潜んでいるか分かったものではないのだが――

「ニート、だったわよね」
「んむむ。その発音だと直球すぎるから、もっと柔らかいトーンで呼んでほしいな。にーと。にーとちゃん。さんはい」
「ニ…………にーとちゃん。わたしは、あんたに聞かなくちゃいけないことがあるの」

 アンジェリカ個人としても、仁杜との対決は避けて通れない命題だった。
 彼女は星の否定者。破滅の未来を防ぐために奔走する、〈未来改変者(タイムリーパー)〉。
 そんなアンジェリカにとって、完成した恒星神は究極の試金石だ。
 天梨、満天、まだ見ぬ誰か――都市に散らばる資格者達へ如何様に関わるべきか、その指針を得られるかもしれない。

「なぁに? いいよ、答えてあげる。わたしに分からないことなんてないんだから。アンジェちゃんは何が知りたいの?」
「あんたさ。なんで、こんなコトしてるわけ?」

 "お城"……月の内海で起こったことを指しての問いではない。
 彼女の降臨を以って、東京は堕落者の溢れる地獄と化した。
 いや、ある意味では楽園か。アンジェも堕落にあてられた人間を見たが、誰も彼も本当に幸福そうな表情で、制限時間のない陶酔(トリップ)に微睡んでいたから。

 論ずるまでもなく――それは単なる現実逃避だ。
 月の女神は夢を見せる。だが、彼女がやるのはそこまで。
 堕ちた者達のその後に、女神は何も関知しない。

 だからこれは、救済の皮を被った大量虐殺なのだ。
 致死率100%の伝染病を蔓延させているのと何ら変わらない。
 では、何故に天枷仁杜という神はこんな法を溢れ出させるに至ったのか。
 そこを知ることが砕月の、ひいては恒星抑止の鍵にもなると考え、アンジェリカは問うた。

「……ん? んん? 聞きたいことって、まさかそんなこと?」

 だが当の仁杜は心底拍子抜けしたような顔で、小首を傾げて。

「そんなこと……じゃ、ないでしょ。
 あんたのせいで外は滅茶苦茶よ。右を見ても左も見ても、正気な人間なんて見当たりやしない。
 みんながみんな"星"じゃないんだ。仮にあんたの理想(セカイ)が完成したら、世界中の人間が怠け腐りながら野垂れ死ぬことになる」
「はぁ、はぁ。あーなるほど、そういう……アンジェちゃんって、あれだね。ナシロちゃんみたいなこと言うんだね」

 その名前を、アンジェリカは知らないが。
 過去にも仁杜の前で、失われていく人命に憤った者がいた。
 琴峯ナシロという少女の信じる倫理を、かつて仁杜は悪びれもせず全否定している。

「逆に聞くけど、考えるまでもなくない?
 現実は辛いことでいっぱい。勉強就職人間関係、加齢金銭将来の不安……アンジェちゃんだって覚えはあるでしょ?
 だったら簡単、考えなきゃいいんだよ。考えない、向き合わない、見ない聞かない付き合わない。頭まで毛布を被って、しあわせな夢を見ればいい」

 やり取りが微妙に噛み合ってないのがいい証拠。
 アンジェリカは月の救済の陥穽を指摘しているのに、仁杜はそれには触れず、自分の理想を滔々と語り聞かせるばかり。
 舌鋒を交わし合うまでもなく、両者の価値観は根本的に断絶している。

「あなたはもう十分がんばった。楽になっていいんだよ、サボっていいんだよ、しあわせになっていいんだよ――そう言ってくれる誰かがほしいって、思ったことがないとは言わせない」

 この女が"みんな"の救済を謳うなんて何かの冗談だ。
 そも天枷仁杜は、尊重すべき人間の範囲が極端に狭い。
 自分によくしてくれる人、仲のいい人。もっと身も蓋もなく言えば、好きな人。
 それ以外の誰も彼も、仁杜は人間と認識してすらいないのだ。

 ナシロに説いた生命へのゲーム的視点は、何も針音都市という被造された世界に限った話ではない。
 此処が仮想ではない現実の東京だったとしても、彼女は他者の犠牲なぞ何とも思わないだろう。
 これはそういう生き物だ。
 あまりに破滅的なパーソナリティを有して生まれた、全能者の卵。
 塀から落っこちたハンプティ・ダンプティは、もう誰にも起こせない。

「だからわたしが叶えてあげましょう。
 わたしは恒星、わたしは神さま、わたしこそが魔法使い。
 夕焼け色の魔法でちょちょいと、アンジェちゃんのお悩みも解消してあげるよ」

 恒星の資格は、あらゆる間違いの帰結によって生まれる。
 ならば天枷仁杜のそれは、きっと生を享けた瞬間から始まっていた。
 破綻と全能の板挟み。どちらの要素を排除しても人間として暮らせないこの女が二十過ぎまで生き延びられたことはひとつの奇跡である。

「ねえ、教えて? アンジェちゃんは、一体どんな夢が見たい?」

 仁杜が、神が、回答を放棄して逆に問い返す。
 アンジェリカは、俯きながらぐっと拳を握り締めた。

(――これが恒星か。ホムンクルスの奴、後でゲンコツ入れてやる)

 もし此処で素直に願いを口にしたなら。
 魔術から解放された、新しい人生が欲しいと伝えたなら。
 その願いは直ちに叶うのだろう。重責から解放されて身軽になりたいだなんて、まさしく月と相性良好な望みではないか。

 だが耳を傾けてはならない。
 今の自分がすべきは怒ること、目の前の"成れの果て"を記憶に焼き付けること。そして、もう一つ。

「……夢を見て終われたら、死んでも満足だろう、って言いたいの?」
「え?」

 自分如きの言葉など届かない、だとしても諦めずに反駁すること。
 鍵たり得ないこの身は女神に何も出来ないが、言葉ならまだ届く筈だ。
 耳でも塞がれたら話は別だが、そんな反応を引き出せた時点で十二分の戦果だろう。

「――わたしは、そんな夢なんか見たくない」
「……、……」
「だってなんの意味があるの? 夢は夢でしょ。どんなに精巧でも現実じゃない」

 天枷仁杜は、厳密には少女と呼ばれるような年齢ではない。
 しかしこの女の精神年齢は、間違いなくアンジェリカが出会ってきたどの演者よりも下だ。

 都合の悪いことは見ない。聞かない。信じない。
 世界は自分の視界だけで完結していて、外側に思いを馳せるのは馬鹿のやること。
 何もかも放り捨ててのんびりだらけてしまえば万事万端円満解決――頭抜けた力の持ち主が吐いているからそれらしく聞こえるだけで、言っていることは中学生レベルの幼稚な人生哲学である。
 壺や札を高値で売りつけるカルト宗教だってもう少しマシな理屈を捏ねるだろう。

「たまたま人の形に見える霧に囲まれていたら満足なの? 辛いことから目を背けて、見ないふりをしてたらしあわせなの? あんたの嘯く魔法とやらは、ガキの不貞寝と何が違うのよ」

 何が言いたいって、他人を巻き込むなということだ。
 こんなモノに成り果てなきゃいけなかった境遇に同情する気持ちは無論ある。
 だけどそれはそれとして、傍迷惑な妄信を撒き散らかすにやけ面を張ってやりたい感情もまた存在するのだ。

「あんたは逃げてるだけでしょ、天枷仁杜。こんな星(カミサマ)、わたしはありがたいなんて思えない」

 いい大人なんだから、人を巻き添えにして泣くのはやめろと。
 アンジェリカは神の前に立ち、人として糺した。

 仁杜も、まさかサーヴァントも連れていない年下にこうまで大きく出られるとは思わなかったのか。
 驚いたように大きな眼をぱちくりさせ、やがて。

「ふぅん……」

 それこそ子どものような露骨さで、思いっきりふて腐れた。
 半目になり、眉を顰めて、一切のオブラートなしに不快を表明する。

「そっか。そんなこと言うんだ」

 天枷仁杜は、子ども大人である。
 医学的に言うならピーターパン・シンドローム。
 大人になれないお姫さまは、お説教されることが大嫌い。

「ごめんね。えと、アンジェちゃん?」

 せっかくの親切を無碍にした挙句、頼んでもない小言をごちゃごちゃ宣う小虫。
 女神の不興を買うには十分すぎる狼藉だ。
 この神さまは万人の救済を謳いながら、その実びっくりするほど心が狭いから。

 寝台に座ったまま、仁杜がアンジェリカに向けて右手を翳した。
 出不精が一目で分かる白い肌、小枝のように細い指、されどこの腕は少女にとってのギロチン。


「わたし、あなたのこと、嫌いかも」


 よって、雷光の継嗣の命運は此処で尽きる。
 善悪の区別が付かない子どもは、虫の命など何とも思わない。


◇◇


 【不毛の沼地 # 1】


 〈はじまりの六人〉の中で最強を問うのなら、議論は紛糾するだろう。
 生物として未熟なホムンクルス36号は置くとして、後の五人はどれもがその名に能うポテンシャルを持っている。

 知識量に飽かした圧倒的完成度ならば、蛇杖堂寂句。
 策謀を用いた詰め将棋ならば、ノクト・サムスタンプ。
 魔眼が壊れても赤坂亜切の殺傷力は依然として脅威で、こと生存力に懸けてなら山越風夏も侮れない。
 だがこと純粋な戦闘能力に焦点を絞るのであれば、間違いなくトップランカーは楪依里朱だ。

 大英雄ルー・マク・エスリンを一時とはいえ抑え込む手数。
 色彩定義による節操のない小技の数々は茨の王子をして反則と言わしめた。
 無論火力も群を抜いたものを持ち、英霊の域に手を掛けていると言っても過言ではあるまい。

 そんな彼女は、現在――

「……っ、チ――!」

 香篤井希彦という新参の狂人に、泥臭い苦戦を強いられていた。

「悪いのは機嫌だけじゃないようですね。体調も頗る悪そうじゃありませんか」
「ほざけ……!」

 イリスの衣服がはためいて、白黒のノイズ模様が鏡面と化し、弾丸を生成して希彦を襲う。
 だが〈恋慕〉の男は逃げも隠れもせず、右手で握った長刀を一振りするだけで悉く両断してのけた。
 そこから怖じることなく踏み込んで魔女の間合いに入り、脾臓を狙った刺突を放つ。
 防御を試みるイリスだったが、用立てた障壁は簡単に切り刻まれ、刃の切っ先が脇腹を浅く滑った。

「彼女ほどではないにしろ、貴女もなかなかにお美しい。
 ぜひとも介抱してあげたいところですが、しかし些か残念です。
 一度死んでまで狂人の座を得たというのに、肝心の先輩がこの体たらくとは」

 魔女の身体には、既に十を超える刀傷が走っている。
 幸いどれも浅い、掠めただけと言っていいものだが、対する希彦はまったくの無傷だ。
 六凶最強の純粋暴力が、不遜な新人から一方的に嬲られているという奇怪な状況。

 その要因は、大きく分けて二つ存在した。
 まず、此処までの戦いでイリスに蓄積した疲労。
 色間魔術による土地からの魔力吸奪で多少はマシになっていたものの、それでも本調子には程遠い。
 だが次の問題に比べればそんなもの些事だ。希彦もそれを分かった上で、皮肉として敢えて此方だけを揶揄したのだろう。

「あんたといい、薊美といい……他人の武器で偉そうにするのが流行りなのかしら」

 希彦の振るっている、馬鹿げた切れ味の刀である。
 これが、出力でも経験でも劣る筈の希彦を優勢たらしめている最大の要因だった。

 イリスはもう、刀の正体に気付いている。
 この無体な殺傷性能は間違いなく、亡き高天小都音のセイバー……トバルカインの凶剣だ。
 直視するだけで眼圧が異常に上昇し、背筋に氷柱をねじ込まれたような悪寒が走る。
 理屈も経緯もさっぱり想像出来ないが、希彦が我が物顔で扱っている剣は、どうやらあの殺人鬼そのものであるらしい。

「今更そんな綺麗事を言われましてもね。戦場に事の善悪を問う方が無粋でしょうよ、それとも"前回"は余程ヌルかったのでしょうか」

 伊原薊美は、科せられた試練をやり遂げた。
 ならばこの剣は、トバルカインが彼女に贈った報酬である可能性が高い。
 それを世界再構成のどさくさで掠め取った、というところか。

「別に卑怯とは言わないわよ。女の腐ったみたいなやり方でダサいとは思うけど」
「これは手厳しい。ですが僕は、欲しいものは全て手に入れると決めているものでね」

 実際、手段に固執しない敵の恐ろしさはよく知っている。
 ノクトとジャックがいい例だ。
 恥や外聞に囚われず清濁併せ呑める手合いは日常なら軽蔑の対象でも、戦場では規格を超えた脅威になる。

「伊原さんでしたっけ、彼女には感謝しています。おかげで労することなく位階を上げられた」

 希彦が、名刀(トバルカイン)を上段突に構えた。
 対するイリスは、空間にツートンカラーのブロックノイズを走らせ、白黒の大剣を創造する。
 認めるのは癪だったが、本気を出さなければこの剣は手に余ると踏んだ。
 獣化術式を除けば、現在イリスが体得している中で最も質の高い色間操作である。

「しかし先にも述べた通り、僕は欲張りなものでね。まだまだ搾り取らせて貰いますよ、かわいい先輩さん」
「やってみろよ、お坊ちゃん」

 火花を散らす舌鋒。
 次の刹那に、狂人同士の戦いは次元を変えた。

「ッはァ――!」
「……ッ、ぉおおぉぉッ!」

 狂笑をあげながら斬り込んでくる希彦に、イリスが大剣で応戦する。
 剣戟を交わして改めて、彼の握る得物がどれだけ異常な代物か思い知らされた。

 重い。細身の刀による一撃とは思えないほどの威力に、一合打ち合っただけで此方の剣身が軋む。
 その上、使い手の練度も目を瞠るものがあった。
 少なく見積もっても達人級、狂気による士気向上(バフ)も加えれば脅威度はもう一段上を行く。
 対するイリスは剣術の心得に乏しく、頼みの綱は破壊力に物を言わせたゴリ押しのみ。
 だがそれもトバルカインという銘(な)の名刀が相手では霞んでしまい、総じて下位互換めいた様相だ。

「あぁ、しかし想像以上に素晴らしい。術師であることに誇りはありますが、こうして雄々しく戦うのも悪くないですね」
「……全身ガチガチに強化(エンチャント)してる分際でよく言うわ」

 よく回る舌とは裏腹に、希彦は二重三重の勝算を用意した上でこの決闘に臨んでいる。
 イリスの指摘通り、彼の肉体性能は明らかに尋常の域を超えていた。
 恐らく相棒の老陰陽師から能力強化を受けている。無論イリスも同じことをしていたが、現代の魔術師と古の陰陽師がやるのとでは文字通りレベルが違う。

 見かけ上は希彦の名刀よりずっと毅そうな大剣が、流美さすら感じさせる細やかな太刀筋に容易く弾かれる。
 祓葉とさえ切った張ったの大立ち回りを演じた色間操作の究極を、希彦は身も蓋もなくねじ伏せていく。
 暴力という剛と計略という柔を一体にした彼の立ち回りは全数値が偏りなく高水準な万能型で、故に付け入る隙がない。

「しかし意外ですね。〈蝗害〉には頼らないのですか?」

 通用している。それどころか同じ狂人を食う未来さえ現実味を帯びてきた。
 フライフェイスを喜悦に歪めながら、〈恋慕〉は〈未練〉に問いかける。

「羽音が聞こえましたから、今も傍に侍らせているのでしょう。強がってないで助けを仰いでは?」
「――――」
「とはいえ、まあ、渋る理由は想像出来ますが。
 天枷さんの領域は結界内の全生物に堕落を強いる。
 脳の構造が単純な下等生物であれば、殊更に強く影響を受けても不思議じゃありません」

 此処まで、イリスは一度も蝗害・シストセルカを頼っていない。
 彼らを出せばこうまで苦戦することはなかろうに、頑なに使用を渋り続けていた。

「となると戦力として運用するには、相当な個体数を用立てる必要がある。
 魔力の消費も大きくなってしまうため、本命との戦いまでは極力温存したい。違いますか?」

 香篤井希彦は、あくまで厄介なお邪魔虫に過ぎない。
 そんな相手に貴重なリソースを割きたくないと考えるのは当然だ。
 尤も現に押されているのだから、意固地になり続けても本末転倒。

「飛蝗共を頼るにしても、数を絞って消費を抑えながら使うのが妥当なところですかね。
 いやはや、ありがたい話ですよ。
 キャスターによって強化された肉体とこの名刀、そして僕自身の技量が合わされば、押し切るのはそう難しくない筈だ」
「呆れた慢心ね。私の性格知らないの? あんたみたいなムカつく男、衝動任せに全力ですり潰させるかもしれないわよ」
「それならそれで本望です。〈はじまり〉の凶星を必死こかせるほどの男になれた、ってことですから。
 ……とはいえ、強がりは感心しませんね。貴女の性格を考えれば、その択は絶対に取れないと分かりますよ」

 ある程度食い下がられることを承知の上で、規模の小さな蝗害を出すか。
 もしくは一時の激情に任せて、総軍を展開してしまうか。
 イリスの択が後者だったなら、香篤井希彦に出来ることは何もない。
 されど若き麒麟は、彼女がそうすることは無いと高を括っていた。

「赤坂亜切といい貴女といい、狂人達は極星の衛星という立場にプライドを持っている。
 此処までのやり取りで分かりましたが、貴女は特にその傾向が強そうだ。
 生意気な新参者を全力で叩き潰して気分スッキリ、なんて出来ないですよね。そんな月並みなことをしていたら、彼女の特別でいられないから」

 何故なら狂人とは、そもそも不合理な生き物だから。
 狂気に憑かれた彼らは、たとえ命の危機に直面したとしても己の感情を優先してしまう。
 六凶の中でも一際メンタル面が未成熟で、且つ祓葉に女々しい想いを燻ぶらせているイリスは特に。
 その陥穽を、新参の狂人は見抜いた。繰り返すがこの男は、幾つもの勝算を抱えた上で白黒の魔女に挑んでいる。

「涙ぐましい生き方ですね、楪依里朱さん。殺す前に慰めてあげましょうか? 女性を喜ばせることには多少含蓄があるんです」

 嘲りを隠そうともせずに、希彦が剣舞を放つ。
 イリスの防御の構えを力ずくで押し破り、切っ先が頬を掠めた。
 涙のように伝い落ちる赤い雫。たたらを踏み、足ががくんと崩れて片膝を突く。

 無傷のまま、汗一つ流さずに佇む希彦とはえらい差だ。
 しかし――

「調子に乗ってられるのも今の内よ」
「ふはっ」

 イリスは苦境の中、弱音一つ零さずに敵を睥睨する。
 滑稽な姿であった。
 希彦も思わず噴き出してしまう。こんなにもお手本のような負け惜しみを、まさか先達の口から聞けるとは。

「残念通り越して不愉快ですね。僕は、この程度の連中に舐められていたのか」

 魔女の血を滴らせる剣先が、銀の軌跡を描いて翻った。
 悔恨と恋情の戦いは、活路の見えないまま続いていく。
 老醜を晒す魔女をせせら笑いながら、貪欲な天才は際限のない増長に酔う。


◇◇


 【マリアナ・ウェブ # 2】


「――――、え?」

 何が起きたのか分からなかった。
 訪れる筈の衝撃や激痛が、いつまで経ってもやってこない。
 それどころか、見える景色すら変わっていた。
 暗い部屋だ。ブラウン管のテレビだけが光源で、棚にはおどろおどろしい物品がびっしり。
 仄かに漂う香りは線香だろうか。この部屋は相変わらず、あらゆる不吉で囲まれている。

「ここ、は……」

 ――そうだ、思い出した。

 私は、知っている。
 暮昏満点はこの部屋を知っている!
 まだ実家にいた頃の曖昧な記憶。
 蓋の隙間から溢れてきた思い出を自覚するのと、人の姿を認めるのは同時だった。

 この人のことも、知っていた。
 年頃は多分、私と同じくらいだろう。
 私が最後に見た、あの夜と同じ背格好だった。
 まるで彼の周りだけ、時間が止まっているみたいに。
 ならこれは夢なのか。死にゆく私が見た、最後の最期の走馬灯?

「違う。此処は現実……という表現が正しいかは議論の余地があるが、とにかくお前は死んでいない」

 その考えは、抱いた瞬間に否定された。
 私が思い付くことなんて全部お見通しだと、そう言われてるような気分になる。

「深層隔離術式マリアナ・ウェブ。術者を含む最高二人の思考速度を極限まで遅延させ、一時的な精神界への没入を実現する。
 肝心な時には使えずじまいだった奥の手だが……こんな形で活きることになるとはな。興味深い展開だ」
「なんで……ここに、いるの……?」

 墨で塗ったような黒髪に、喪服を思わす黒ずくめの辛気臭い格好。
 雰囲気さえまともなら引く手数多の美男子だろうに、理屈っぽい言動と周りを顧みない知識の虫っぷりが台無しにしていた、記憶の通りの姿だ。

「光点……お兄ちゃん……」
「久しぶりだな、満点。と言っても今の俺は、お前の記憶が創り出した再現体に過ぎない。再会を祝するのは不適当だと言っておこう」

 暮昏光点。
 魔術師一家の次男坊にして、怪異限定の生き字引――呪物蒐集家(コレクター)。
 "何故か"もう二度と顔を合わせることはないと確信していた兄の登場に、私は幽霊でも見たような顔をするしかなかった。

「さておき、まずは状況の説明からしておこうか。
 お前がいたのは恒星神・天枷仁杜の居城。夢と現が境界を失った、終わらないかわたれ時の世界だ。これは理解しているな?」
「う、うん――」
「では問おう。そも、夢とは何か」
「ひ、久しぶりに会ってもほんっと変わんないなぁ!? 説明が聞きたいんであって授業されたいわけじゃないんですけど!? ……まぁ、えーと……現実じゃ出来ないことも、なんでも出来るようになっちゃう異世界――みたいな?」
「そう、夢とは無法の領域。
 夢の中であれば人は空を飛べるし、車に撥ねられても傷を負わない。
 それどころか、現実で会うことが出来ない人間との面会も可能となる」

 そんな幽霊が、なけなしの記憶に残ってる通りの饒舌を開幕から捲し立ててきたものだからずっこけそうになる。
 本当に、びっくりするほど変わってない。
 普段は石か何かかってくらい寡黙な癖して、スイッチが入ると教授ばりの講釈を垂れてくる。
 私とは別なベクトルでコミュ障っていうか。他人とのコミュニケーションすら知識探究の一環にしか思ってないっていうか。
 とにかくそういう人なのだ、私の二番目のお兄ちゃんは。

 さておき、私もそこまで鈍くない。
 目の前の幽霊(あに)が何を言いたいのか、理解できてしまった。
 付き合いが薄かったとはいえ血を分けた家族だ。胸の痛むものがなかったと言えば嘘になる。

「例えば、死んだ人間、とかな」
「……、……やっぱりそうなんだ」
「ああ。詳細は伝えられないが、暮昏光点は既に死亡している。
 頑張る妹を見かねて草葉の陰から力添え、なんて綺麗な話では生憎ない。
 今の俺はお前の大脳皮質から垂れ落ちた記憶の雫……白昼夢のようなものだ」
「っ、待って待って。それっておかしくない!?」

 だけど感傷を振り払って、私は声を張り上げた。
 そうだ、そんなことをしている場合じゃない。

 こんがらがった頭を整理する。
 私はロキの無茶苦茶な殲滅攻撃に曝され、死ぬ筈だった。
 しかしそこで私の夢が光点お兄ちゃんという"もういない人"を顕現させ、間一髪のところで結末を先延ばすことが出来た。それが今置かれている状況だ。
 正直起こってることが非現実的すぎてふわっと理解するだけで精一杯だったけど、半分ほど噛み砕いたところで疑問が生まれる。

「私達はにーとさんの敵なのに、こっちを助ける夢が出てくるなんてヘンでしょ。
 いやまあ、あの人一から十までめちゃくちゃ適当だし、そういうこともあるかもだけど!
 でも、流石に、いくら何でも私に都合よすぎるっていうか……」
「……つくづく見違えたな。お前、本当にあの満点か?」

 イリスさんの行動で、にーとさんは癇癪を起こしてしまった。
 結果出てきたのがウートガルザ・ロキで、つまり私達はあの人の世界を害する異物と認識されたわけだ。
 それを駆除する白血球を差し向けておきながら、今度はその邪魔をする夢を編み出すなんて、論理が破綻している。
 私が頭を抱えながらぶつけた疑問に、お兄ちゃんはちょっとだけ驚いた顔をして。

「まあいい、その疑問には解を用意できる。
 確かに俺という夢は、満点、お前を助けるだけの存在だ」
「……どうして? なんでにーとさんの世界に出てきた夢(あなた)が、敵の私を助けてくれるの?」
「満点――いや、今は満天か。胸に手を当てて考えてみろ、お前は何だ?」

 あまりにも端的に、謎の答えを教えてくれた。

「恒星の、資格者……」
「意に沿わない現実を爆破してねじ伏せる妖星の権能。
 死に瀕した瞬間にそれが作用し、夢界の法に瞬間的なバグを生じさせたのだろう」

 そんな馬鹿な、とは言えなかった。
 だって私は、似たような状況に一度遭遇している。
 〈蝗害〉に追い詰められてにっちもさっちも行かなくなった時、内側から込み上げてきた身の丈に合わない莫大な力。
 キャスター曰く、商売あがったりのイカサマ。超新星の爆発が生む、劇的な可能性飛躍(レベルアップ)。

 この時私は改めて、自分はにーとさんと同じ存在なのだと実感した。
 めちゃくちゃだ。安堵より自分への恐れが先に立つ。
 天梨と引き離され、我を忘れたあの時。アンジェさん達が止めてくれなかったら、一体私はどうなっていたのだろう。

「そうだ……」

 補充された恐怖が、ビジー状態の思考を先鋭化させる。
 にーとさんの干渉で呼び起こされた、忘れていた記憶。多分思い出すべきじゃなかった、過去の断片。
 あくまで断片は断片で、私の記憶は今も穴だらけだ。
 意識して振り返ってみると不自然も不自然。3ページから7ページへ、7ページから15ページへ、15ページから30ページへ……といった具合に、ものの見事に部分部分の思い出が欠落している。

「あのねお兄ちゃん、もう一つ聞きたいことがあって――」
「駄目だ」

 私の記憶から生まれた幽霊なら、そこを埋められるのかもしれない。
 そう思っての発言を、今度はみなまで聞かずに遮られた。

「俺はお前の脳を子宮に生まれた影法師だ。
 そんな俺なら確かに、お前が抱く疑問と不安、全てに解答出来るだろう」

 じゃあなんで、と食ってかかることは、出来なかった。
 私を見据える昏い眼光が、理屈のない後ろめたさを抱かせる。
 知らない、知るべきでない、蓋を被せられた真実と。
 あえて知らないように装っている、膜を掛けられた欺瞞。
 全部見通されていると思っただけで背筋が凍えた。
 だってそれは私にとって、心臓を握られたのと同じことだから。

「そうだ、それでいい。今はまだ、その恐怖を忘れるな」
「でも……だけど……っ」

 それでいいの?
 本当に、これでいいの?

「このままじゃ私、あの人に勝てないよ。だってあの人は、にーとさんは、私と同じ――」
「本懐を見誤ってどうする。お前の見据える星は、月の女神などではないだろう」

 吐露した不安を、この人らしくもない穏やかな声音で諭されて。
 私はそこでやっと、追いつきたいヒカリの姿を思い出した。

 神も仏もない冷たい世界に、天使がいるのだと初めて知った。
 生まれてこの方、気に入らない奴も許せない奴も山ほどいたけれど。
 勝ちたいと願いながら、救いたいと感じた人は他にいなかった。
 多分後にも先にも彼女だけだろう。友達で、憧れで、ラスボスの、私だけのお星さま。

「流石に二度目の奇跡は起こるまい。よってこの際伝えてしまうが、俺は、お前がどちらに転んでもいいと思っている。
 暮昏光点が封じた記憶を掘り起こさず、走り抜ける未来。或いはすべてを知り、その上で乗り越える未来。
 無責任と言われれば返す言葉はないがな、これでも俺なりに妹を想って伝えているつもりだ」
「……長ったらしい言い回しで煙に巻かないでよ。その心は?」
「"そしていつか、お前も恋をするのだろう。あの馬鹿兄貴と同じように"。
 "願わくばその初恋が、春の木漏れ日のように美しくあたたかなものであるように、最後に祈っておこうか"」

 それは。
 にーとさんに頭を穿られた際に聞いたのと、一言一句同じ科白だった。

「お前は、お前のユメを手に入れた。ならば後は、どうあっても走り続けるしかない」

 暗い部屋が罅割れる。
 ブラウン管テレビの画面に、砂嵐が走り始めた。
 意識が深層(マリアナ)から、水面(リアル)に引き戻されていくのを感じる。
 夢の終わり。夢はいつか醒めるもの。どんな無茶をやらかそうと、その定めだけには逆らえない。

「だが気をつけろよ。人間誰しも、どこかに醜い地金を秘めているものだ。お前の星も、恐らく例外ではないぞ」
「お兄――ちゃん――!」
「更に言うなら、相方の胡散臭い男もだ。知っての通り、アレはお前に隠し事をしている。機を見て腹を割らせておくべきだ。俺としても妹が良からぬ男に担がれている光景は少々腸が煮え」
「そうじゃなくて――これ終わったらどうすればいいか――それ教えて――! 私――このまま放り出されたら――ソッコーで死んじゃうから――!!! ちょっと延命しただけになっちゃうからぁ――ッ!!」
「…………ん。すまん、忘れていた」
「語るだけ語って気持ちよくなんなバカぁあぁあああっ!!」

 いや、確かに大事な話だったけど!
 虫食いだらけの私だが、なんでこの兄と交流した記憶がろくにないのか気が付いた。
 昔からこうだったからだ。ひとしきり喋るだけ喋ったら満足して、本題とか話のオチとか放り投げてどっか行っちゃうマイペースっぷりに子どもながら辟易してたんだ。
 なんなんだ、コミュ障は暮昏の血筋なのか。そりゃ私もちょっと心許した相手に距離感バグっちゃったり、口数多くなりすぎて引かれることとかいっぱいあったけども! けども!! アッ、思い出したら死にたくなってきた、イジメヌンデ……。

「ウートガルザ・ロキの幻術は確かに脅威だが、所詮は夢だ。
 夢は夢で、形を持って存在する現実には敵わない。
 そういう認識を強く持ち続けていれば、恐らく五割程度は威力を軽減できる筈だ。
 目が覚めたなら、まずはなりふり構わずに『微笑む爆弾』をぶちかませ。俺の見立てが正しければ、ひとまずそれで命は繋げる」

 幻は幻、夢は夢。
 伝授された心得を忘れないように胸へ刻み付ける。
 私は、死ぬわけにはいかない。
 こんなところじゃ死ねない。
 よしんば負けて死ぬにしたって、それに相応しいステージってもんがある筈だ。


 ――私の死神は、強いだけの幻なんかより、ずっと綺麗で可愛くて素敵だったろうが。しっかり思い出せ、煌星満天!


「ついぞ、お前に何もしてやれなかった情けない兄だが。
 最後にもう一つ、呪いを残して逝くとしよう」

 朝が来る。絶望の朝が。
 夢が醒める。束の間の逃避先が、また別な悪夢に喰われる。
 その今際の際に、私は、多分最後になるであろう、兄の声を聞いた。


「幸せになれよ、満点。お前ならきっと、そのユメを叶えられるさ」



◇◇


 【無限の草原 # 2】


 意識が浮上する。
 夢から現へ。精神から物質へ。
 瞼を開いた時、見上げた先には百を超える神の槍が迫っていた。

 御使い(ワルキューレ)の槍。
 それを武装として搭載した、装甲機神の殲滅爆撃。
 私という人間を今度こそ、欠片も残さず消し飛ばす筈だった篠突く雨。

 でも私は、諦めるわけにはいかないし。
 諦めずに抗うための手段も、頭に確と刻まれている。
 だから右手を伸ばした、死の蠢く空へと向けて。
 猶予は一秒未満。上手くやれたとしても絶対に無傷じゃ済まない。
 つまりは分の悪い賭けだ。だけどその勝率は、私が自分を信じれば信じただけ高くなる。

「――煌星さ、」
「『微笑む爆弾』――ッ!!」

 キャスターが、私の窮地を察して声をあげようとした。
 私はそれを遮って、教えてもらった唯一の最適解を叩きつける。

 爆ぜ飛ぶ、万華鏡の如き童心の花火。
 すべては殺し切れない。
 当たり前だ、これは花でも鏃でも、もちろん瀑でもないただの爆撃だ。
 神槍の弾幕を打ち破るには甚だ足りず、定められた死を覆すにも至らない。

(――しっかり見ろ、煌星満天。おまえは本当に、こんなものが怖いのか?)

 でも、ほんの数秒――自分に鞭打つ時間なら作れる。

 叱咤と共に追憶するのは区民センターの大ホール。
 あの場所で、あの舞台で、私は見た。
 味わった筈だ、最も美(おそろ)しい極光(ぜつぼう)というものを。

 こんな夢幻なんかよりずっと無慈悲に私の灯火を摘み取る、天上の光輝。
 愛されるべき光。私の前に現れた、悪魔よりも恐ろしい死神(ロミオ)。
 私は勝たなければならない。彼女に。私は救わなければならない。彼女を。
 そう誓ったんなら、ガタガタ震えながら精一杯挑んで魅せろ――そして、そのためには。

(これが、あの天使より――)

 この"死"は邪魔だ。
 いつもみたいにキレて喚いて、感情の爆発でぶっ飛ばしてしまえ!

(――怖いっていうのかよ、えぇッ!)

 歯を食い縛って目を閉じた。
 熱感と激痛が全身を舐める。
 痛い。苦しい。辛すぎる、でもその程度。

「ふ、ぅ……ッ、ぐ、ぅぅううぅう……!!」

 噛み締めた奥歯が砕けた。
 歯茎から血が滲み、口の中が不快な味わいで満たされる。
 拳に力を込めすぎて、爪が柔肉を切り裂いた。

 でも――死んでない。
 耐えている。
 その事実を希望と信じながら、足を前に出して無理やり突っ切った。
 誰が見ても分かる無茶苦茶。だけど文字通り身を以て理解できた、これが、これだけが最適解なんだ。

「キャスター! アーチャーさん!!」

 喉が裂けるんじゃないかってくらいの大声で吠え立てる。

「心を強く持ち続けて! こんなの、全部ただのユメだから!!」

 ウートガルザ・ロキは、たぶんこの都市で最強のサーヴァントだったんだろう。
 いい思い出なんて欠片もないし、そもそもあれこれ語れるほど長く付き合ったわけでもないけど、そこだけは断言できる。
 自分の意のままに現実を歪めて、好き放題に理不尽な夢を取り出し続ける無敵の奇術師。

 でも――だからと言って、弱点がないわけじゃない。
 私達が彼を無敵と信じなければ、彼の描く夢を疑い続けていれば、全能の幻術は必ず綻ぶ。
 幻とは受け手の信用ありきで成立する概念だ。
 どんなに巧みな手品でも、所詮ペテンと斜に構えて受け止めたら生まれる感動は半減してしまう。
 アイドルの私としてはそういう塩客には思うところがあるけども、今はこっちが塩を利かせて臨まなきゃいけない。

「これはユメで、嘘で、幻なの――だからぜんぜん、怖くなんかないんだよッ!!」

 月に勝ちたくば、夢から醒める必要がある。
 夢の対義語とは現実。痛くて苦しくて、怖くて辛い。
 そういうモノを直視している間だけは、無敵の幻想が超絶脅威度の強敵にまで落魄れる。
 言うは易く行うは難しを地で行く発想だったが、私の投じた一石はちゃんと波紋を作ってくれた。

「心得た。こういうことだな、得心行ったぞ」

 死線を超えた私に照準を合わせ、形成される十重二十重の弾幕。
 名刀、名槍、あらゆる武具の暴風雨。
 狙われる偶像と夢の死線、その間に小柄な影が割って入る。
 記憶の兄に教えられた攻略法は無理難題の極致。私だけじゃ活かす余地はたかが知れてるだろう。だけど今、煌星満天は一人じゃない。

「キャスターよ。正直其方は、いまいち信用ならん男だが……これだけは認めてやろう。良い主を持ったな」

 アーチャーの矢が、これまでのとは比較にならない破壊力で以って、迫る凶弾の驟雨を堰き止めた。
 質も弾数もガグンラーズが繰り出すものに遠く及ばない筈が、理屈の悉くをねじ伏せて拮抗を成立させる。

「ええ。頭を抱えたくなるようなへっぽこですが、時々こうして予想もしない金星をあげてくれる。それがウチの煌星の売りでして」
「う、うっさいなぁ……! うまくやった時くらい素直に褒めてよ、もう……!!」
「失礼、半分は冗談です」
「もう半分は!?」
「そこはそれ、合理的にスルーしておくとして――」

 相変わらず、ウチのプロデューサーは可愛げのない冷血インテリ野郎だ。
 けれど実際、私が精神世界から持ち帰った成果は金星と呼べるものだったようで。
 ひび割れた眼鏡の底で、叡智の双眸が煌く。
 その顔を見て少し安心した。知っているからだ。こういう表情をしてる時のキャスターは、ムカつくけどとんでもなく頼りになると。

「一欠片ほどですが光明が見えました。つきましてはアーチャー。一つ仕事を頼んでも?」
「つくづくいい性格をしているな、其方。マンテンに免じて使われてやる、言ってみろ」
「風除けをお願いします。もっと直球で言うなら、最前線での防衛をお任せしたい」

 黄金色の巨体が、霞のように揺らめく。
 来る、と思った次の瞬間には、機剣の一閃が天地を割っていた。
 さっきまでなら恐らく、この場の誰であろうと即死。
 けれどアーチャーが渾身の一矢で威力を殺し、必殺の斬波をたかだか致命的の範疇にまで貶めてくれる。

「――何を今更。それなら見ての通り、先程からずっとやっているだろう!」
「いえ、もっと徹底的にです。
 ウートガルザ・ロキの恐ろしさは強さだけに非ず、その狡猾さも然り。
 白痴を脱した煌星のことを、今後はより集中的に狙ってくるでしょう。貴方には、その阻害を頼みたいのですよ」

 血を吐きながら殺し切った彼に、キャスターはしかしにべもなく要求した。
 思わず平謝りしたくなったけど、残念ながらそんな暇はない。
 何故ならどこまでも人使いの荒いこいつが、手前の担当アイドルを例外にするなんてあり得ないからだ。

「大きく出たな。私はアンジェリカ・アルロニカのサーヴァントだぞ? それを知りながら、貴様のマスターのために殉死せよと申すか」
「生きるか死ぬかは貴方の働き次第ですが、体よく使い潰されるのが不安ならご心配には及びません。こちらはより巨大な難題を引き受けますので」
「ええい、いちいち言葉の足りん男だな! 詳細を言え詳細を! 貴様といいホムンクルスといい、長ったらしい迂遠な物言いはどうにかならんのか!?」
「ウートガルザ・ロキは、こちらで倒します」

 ほら出た。
 ほら来た。
 いつものヤツだ、〈蝗害〉とモメた時からなんにも変わってない。

「……勝算は」
「煌星満天は、誰よりも"恐怖"に精通している。
 私も全貌を見透かせたわけではありませんが、少なくとも下手に胆が据わった英傑よりかは適役でしょう」

 息を整えながら語られた根拠に胸が跳ねる。
 ああ、やっぱりバレてるのか。本当にこのプロデューサーは底が知れなくて嫌になる。

 天枷仁杜は、私にとっての天敵。
 だけど光点お兄ちゃんの言う通りなら、何も出来ないってことはない筈だ。
 だって私ほど、ずぅっと現実ばかり見てきた人間はそういない。
 夢を見ながら夢を否定できる、今此処にある現実を怖がれる、そういう素質が私には染み付いているから。

「臆病者ほど、時に芯を食うものです。
 実際対面した身として断言しますが、"この"ウートガルザ・ロキは根底の部分を狂わされている。
 病態を特定できれば、付け入る隙も見つかるかもしれない。彼の狂乱を確かめる、雉の鳴女が必要なのですよ」
「――今が修羅場でよかったな。素面なら撃ち抜いているところだぞ」
「無論、承知の上での不敬ですのでご安心を。して、御返事は如何に?」

 それに私も、現在のロキには言語化出来ない違和感を覚えていた。
 ホテルで会った時は一方的に嫌がらせされて脅かされて、正直会話らしい会話もしなかったけれど。
 私は誰より怖がりだから、そうでなくちゃ生きていけない存在だから、分かるのだ。

「はぁ……いいだろう、毒を食らわば皿までだ。精々上手く使ってみせろ」

 ――このウートガルザ・ロキは、あの時よりも怖くない。
 その不明な差異が、キャスターの言う通り光明を抉じ開けることに繋がるのならば。
 私も――私だって。

「煌星さん――」
「やる。やれば、いいんでしょ」

 幻相手ではあるけれど、いつかの仕返しをしてやろう。
 散々ヘタレだの何だの煽ってくれたんだ、事実だとしてもぶん殴ってやりたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。
 キャスターがみなまで言う前に、科白を遮って前に出た。
 手足は震えている。ちょっとでも気を抜いたら奥歯が奇妙な楽曲を演奏しそうだ。
 でもこれでいい。私は今、ちゃんと夢を疑えている。

「キャスターが色々無茶苦茶言ってごめん。だけど私からもお願い、力を貸して」

 恐怖しながら爆発しろ。
 狂える夢に現実のメスを突っ込んでやれ。

「よし■し、もう大■夫だよ■ーと■ゃん。■の■しの月、お姫■ま。
 ご■んな、怖■思いさ■ちゃ■たな■。でも■う■丈夫。ニ■モ■の星は俺が■麗さっ■り掃除し■くか■さ」

 私が見つけ出すんだ、月の近衛を蝕む病巣を。
 完璧な守護者に後付けされた陥穽、それが未来を作ると信じて。
 震えを受け入れつつ押し殺して魔力を滾らせ、なけなしの虚勢を張って睥睨する。
 そしたら後は口を動かすだけ。どんなに不格好でも似合わなくても、この男と向き合うにはそれが必要だから。

「いつまでも好き勝手なんか言わせない。私の曲でぶっ爆(と)ばしてやるから、覚悟しろ――!」

 這い寄ってきた無数の腕。
 私を摘み取ろうとする恐怖の幻影を、今度は自前の爆弾/星光で消し晴らした。
 これが私の宣戦布告。出来るなら本物に一泡吹かせてやりたかったけど、この際贅沢は言うまい。

 二体の英霊に支えられて。
 自分の正體も知らない私が、手術(オペ)に挑む。
 難易度は絶望通り越して無情の域。
 ある意味では私にとって、これ以上ない独壇場。

 ――黄金の機神が神威を露わにし。
 ――私は、アーチャーの躍動を陰に導火線へ火を点ける。
 ――そうして夢と現実の血戦は、第二幕へと突入していった。


◇◇


 【不毛の沼地 # 2】


「っ……はぁ、はぁ……」

 片膝を突く、白黒の魔女。
 細身の肢体から滴り落ちた血液が、戦況の天秤を冷酷に示している。
 交戦開始から既に五分以上は経っていた。
 それだけの時間でイリスはこうも流血しているのに、対する希彦は未だに無傷のままだ。

「神寂さんが哀れでなりませんよ。こんな不甲斐ない友人に囲まれていたら、戦いに飢えるのも理解できます」

 彼にとってこの光景は望み通りだったが、同時に退屈でもあった。
 超越者の集団と思っていた〈はじまりの六人〉、そのトップランカーですらこれなのか。
 天才とは孤独なもの。物心つく前から才気に恵まれていた希彦も、いつもそうだった。

 普通に生きているだけで、隣を歩いていた筈の人間が消えていく。
 打ち負かしてやるぞと威勢のいい科白を吠えた輩が、気付けばどこにも見当たらない。
 祓葉の飢餓を理解できると語ったのは、自惚れ抜きの本心だ。
 希彦もそれを知っている。世界の全てが無味乾燥なイージーモードにしか思えない、持つ者特有の苦しみを知っている。

「僕らはベストを尽くすことを許されない。ただやるべきことをやっているだけで、人でなしの悪役を見るような目を向けられるんです。
 困った話ですよね。自分の努力不足を棚に上げて、よくもまあ恥知らずに嫉めるものだ」

 希彦は、やるべきことをやっただけだ。
 月の女神に謁見し、助力を認めさせた。
 彼女の癇癪に乗じて、トバルカインの遺剣を奪い取った。
 真備に肉体強化を施させ、超人の身体能力を手に入れた。

 人はそれを小心と笑うかもしれないが、希彦に言わせれば怠け者の言い訳だ。
 勝負事にて最も重要なのは勝つことであり、そのために形振り構わないのは当然だろう。
 彼がそうやって貪欲に準備をした結果、最強格の演者である白黒の魔女さえこの体たらく。

 怠けず休まず全力で走るウサギに、カメは逆立ちしたって追い付けない。
 努力する天才に、凡人が都合よく比肩する方法など存在しないのだ。
 そんなこの世の真理を、此処にある絵面は残酷なほど明確に示していた。

「聞きなさい、魔女のお嬢さん。これから僕は貴女を殺しますが、その前に懺悔の機会を与えましょう」

 名刀の切っ先を喉笛に突き付けて、天才が嗤う。

「貴女は神寂祓葉に相応しくない。烏滸がましくも彼女の衛星を僭称した罪、頭を垂れて詫びなさい」

 既に格付けは完了した。
 矜持を捨てて〈蝗害〉に頼るならそれでもいいが、どちらにせよ狂人としての楪依里朱は死んだも同然である。
 八つ裂きにしても飽き足らない恋敵も、これだけ無様だと哀れさが勝つというもの。
 よって希彦は王手をかけるのと同時に、負け犬の少女へ慈悲を提案する。

「何も靴を舐めろなんて言いませんよ。頭を下げて、自分は役者じゃありませんでしたと認めてくれればそれでいい。
 ちゃんと出来たら、一息で首を飛ばしてあげましょう。これ以上恥を晒さないようにね」

 〈はじまりの六人〉など、もう自分の敵でさえない。
 この月を出た後には、赤坂亜切にもきちんとお礼参りをしてやろう。
 苟も自分と同格を名乗る身の程知らず共に、本物の狂気というものを教授せねば気が済まない。

「さあ、返事は――」

 如何に、と、言いかけたところで。
 希彦の頬に、べちゃりと粘っこい水が触れた。

「ごめん、寒すぎて途中から聞いてなかったわ。
 自分語りしたけりゃキャバクラでも行っとけよ、非モテが」
「……愚かな人ですね」

 イリスは彼の勧告を突っ撥ね、その顔に唾を吐いたのだ。
 半面を灼かれてさえ妖しい魅力が健在の美貌を、血混じりの涎が伝い落ちる。

 怒りなど湧いてこない。ただただ哀れなだけだ。
 死を超えて立つ狂人も、素体が悪ければこうまで耄碌するものなのか。
 プライドを重んじる余り、引き際も弁えず恥を晒し続ける愚者。
 膾切りにでもしてやろうと思っていたが、もうそんな気さえ失せた。

「約束とは違いますが、やはり一息に殺すことにしました。
 貴女のような醜い女の記憶を、これ以上僕のナカに残したくない」

 死ね。
 最大限の軽蔑を込めて、刀剣を振り被る。
 防御などさせない、したところで意味はないと証明済みだ。

 完膚無きまでの詰みを突き付け、妄執の墓標をまた一つ増やす。
 〈畏怖〉と〈再演〉の横に、〈未練〉の墓石を拵えようと。
 得物を振り下ろしたまさにその瞬間、希彦の脳裏を一抹の疑念が過ぎった。

(――本当か?)

 例えるならばそれは、マークシート式の検定試験で、同じ数字が五つも六つも並んだような。

(――本当に、これでいいのか?)

 ごく漠然とした、しかし何とも据わりの悪い懐疑の情。
 もっと率直に言うのなら、上手く行きすぎている。
 確かに自分はこの状況を作り出すためにあらゆる暗躍を惜しまず、全力を尽くした。
 間違いはない。不足などない筈だ。なら不意に湧いたこの疑念は、それこそ単なる小心なのか。

 失望の無表情を貼り付けた顔に、僅かな焦燥の色が浮かぶ。
 一瞬前まではイリスという見苦しい敗者をさっさと消し去るためだったのに、剣を振り下ろす理由が変わっていた。

 一刻も早く、この不吉な予感を払拭したい。
 眼前の魔女を死体に変えて、胸を撫で下ろしたい。
 勝ち誇るのはその後ゆっくりやればいい――そんな希彦の心根を洞見したように。

「惜しかったわね。あと一秒早く気付けてれば、そのままあんたの勝ちだったのに」

 詰んでいた魔女の唇が、緩やかな弧を描く。
 希彦の心臓が跳ねた。イリスの眼球が、自分を見ている。


 白い球体の中に浮かぶ、深い闇を湛えた黒き瞳。


「――――し、まっ」

 地雷を踏み抜いたと理解した瞬間には、もう遅い。
 希彦は勝負を急ぐべきではなかったのだ。
 なのにイリスの挑発に誘われて、まんまと勇み足を踏み出してしまった。

 白黒の眼球が、水面の如くに波を打つ。
 刀の一閃が間に合って、彼女の首を刎ね飛ばすよりも早く。

「言ったでしょ、お坊ちゃん。調子に乗ってられるのは今の内だけだって」

 ――魔女の双眸から溢れ出した飛蝗の群れが、香篤井希彦の全身に纏わり付いた。


◇◇


 【静寂の山麓 # 1】


 英霊ハリー・フーディーニ、正史の山越風奇(ツー)は逡巡していた。
 〈脱出王〉らしからぬ姿と思うかもしれないが、異聞の山越兄妹が異常なだけで、座に登録された"灼かれていない"ハリーの系譜はあそこまでエキセントリックな人間性ではない。
 強いて言うなら第五生の耄碌爺と、第一生が多少逸脱している程度のもの。
 なので風奇は出たとこ勝負の奇行に走ることなく、至って常識的に、この窮状へどう向き合ったものか思案する。

(うん、何かのトリックってことはなさそうだな。狂人の脱出王(ぼく)は確実に死亡している。
 誰に殺られたのかは推測するしか出来ないが、最後の令呪の内容を鑑みるに、事故みたいな死に様だったんだろう)

 自業自得である。
 特に悲しむ気持ちはなかったものの、こうなるともう風見鶏をやってもいられない。
 ステージスターの端くれとして、相棒を失ったからと舞台を投げ出すのは論外。
 風夏亡き今、これからは自分の頭で道筋を考え、奇術を弄していく運びになるだろう。

(となると正式に再契約してしまいたいところだけども……状況が状況だ。軽々には動けないんだよね)

 狂人の〈脱出王〉の遺志を継ぐこと自体は、風奇としても吝かでなかった。
 マスター亡きサーヴァントは著しく弱体化するし、正式に新たな雇用主を立てる必要もある――しかし問題は、この状況だ。

 華村悠灯は性格上、腹芸の出来る人間ではない。
 山越風夏死亡の報せを伝えれば確実に反応してしまう。
 再契約の話も、シッティング・ブルのことがある以上、易々と頷いてくれるかは疑わしかった。
 そこをあの見るからに老獪そうな老陰陽師に気取られるのが、想定される最悪の展開。

(バレたら初手で押さえられるよなぁ。スカディがその隙に復活してくれればどうにかなるかもしれないが、そうならなかった場合は纏めて詰みだ。有り金全部ぶっ込むには、ちぃと具合の悪いギャンブルだよね――)

 ではどうするか。
 考えても、結論はひとつしか出ない。
 さっき悠灯へ伝えた通りだ、何かあちらの気を引くきっかけが要る。

「……逆にそれさえ用意して貰えたら、こっちも腹を括れるんだが」
「ん? ツー、なんか言ったか?」
「いや、ただの独り言。僕も大概じっと待つのが苦手な性分だからさ」

 状況は変わらないままだ。
 今はまだ。
 舞い込むかどうかも知れない幸運に望みをかけて、〈再演〉の忘れ形見は牙を研ぐ。


◇◇


 【不毛の沼地 # 3】


「ご――ぁ、が――ッ、この、ォッ……!!」

 先の余裕はどこへやら、香篤井希彦は声をあげて悶絶していた。
 イリスがけしかけた飛蝗は精々百匹から二百匹程度で、シストセルカ・グレガリアの総体規模を考えれば一摘みにも満たない数だ。

 先刻までの希彦は、堪りかねたイリスが本格的に〈蝗害〉を呼び出しても対応してみせる腹積もりだった。
 強化された身体と極上の名刀に物を言わせ、斬り伏せながら突破して、無理やりマスターを仕留めれば罷り通ると踏んでいた。
 その認識は正しかったろう。月の法則と相性の悪い飛蝗達は、持ち前の脅威性をとことんまでに削ぎ落とされている。
 膨大な魔力を消費する総軍運用でなければ並の英霊にも劣る、少し凶暴な魔蟲の群れレベルのスペックしか発揮できない。
 トバルカインの遺剣はA++ランクに相当する極上の大業物。担い手が超人なら、確かに正面突破も可能だった筈だ。

 イリスもそれは分かっていた。
 だから真っ向から勝つことを諦め、雌伏に徹したのだ。
 たった一発、最高のカウンターパンチを叩き込むために。

「私の魔術は、世界を白黒の二色で定義する。
 他人は万能だの反則だの言うけど、私に言わせればこれの真価は隠し玉での一発逆転でね。
 色彩操作での局所的な空間転移、魔力の吸奪、忍ばせておいた白黒アイテムからの奇襲攻撃――前回の私は今ほど強くなかったから、そういう小技で慎ましくやりくりしてたっけ」

 楪依里朱は、元々今のような武闘派ではなかった。
 むしろその逆。出力に乏しい魔術をどうにか捏ねくり回して食い繋ぐ、涙ぐましい戦い方が常だった。
 そういう意味では、こちらこそ彼女の本領と言える。

「眼球にね、予め飛蝗を仕込んでおいたのよ。
 正確には他の狂人を見越しての仕掛けだったけど、備えあれば憂いなしってやつね」
「ぐ、ぁ……ッ、貴、様ァ……!」

 人間の眼球は、白目と黒目で構成されている。
 ならばこれもまた、色間魔術師にとっては便利なポケットだ。
 流石に千や二千とは行かないが、百匹そこらなら飛蝗も隠せる。
 灯台下暗し。楪依里朱の切り札は、常に希彦の視界に存在していた。

「辛そうねぇ、おかげでこっちは胸がすいたわ。
 命があったら覚えときなさい? 術師が直接私の前に出てくるなんて、自殺行為もいいとこだから」

 近接でとどめを刺しに来る一瞬を突き、飢えた飛蝗の群れを直接ぶつける。
 刀という武器はその性質上、肌に食い付いた大量の虫を一息に殺し切るなど専門外だ。
 よってこの奇策が決まった時点で、希彦はある程度の時間、サバクトビバッタの牙に曝されることが確定した。
 とはいえ弱体化した現在の彼らでは、与えられる痛手はどうしても限られてしまう――だが構わない。
 イリスの狙いは、虫螻の眷属達が捕食を行う際に生まれる、とある副産物の方だった。

 ――ああ、アレは無理じゃ無理。伝え聞く限りでも分かる。
 ――よしんば儂が無い事全力出してあれこれしても、むしろ飛蝗どもに餌くれてやるだけよ。

 かつて〈蝗害〉を評して言った、吉備真備の科白が苦悶の脳内に再生される。
 そう。針音都市を脅かす飛蝗の群れは、魔力を食うのだ。
 正しくは魔力"も"食うというべきか。結界、霊脈、諸々の区別なく食い荒らす。
 更に食事のついでとばかりに、彼らはその立食会場に糞を垂れていく。

(キャスターの術が……消え……ッ!?)

 アンジェリカ・アルロニカという少女を、一度は死に瀕させた――呪毒という名の糞だ。
 施されたエンチャントを旨い旨いと食い荒らし、ズタズタになった術式の上に毒を塗る。

 〈蝗害〉とは針音都市最悪の術師殺し。
 希彦は感謝すべきだろう、彼らが弱体化していた幸運に。
 もしそうでなかったなら、第七の狂人はこの場で役目を終えていた。

「おい」

 されど。
 仮令、飛蝗に食い殺されず済んだとしても。

「何だんまりしてんの? なんとか言えよ。お前、女を喜ばせるのは得意なんだろ?」
「――が、ごォ……ッ!」

 苦しむ彼の目の前では、六凶最強の武闘派が怒髪天を衝いている。
 悪漢(ヤクザ)宛らの前蹴りが、強化の九割方を失った希彦の鳩尾を打ち抜いた。

「新入りが舐めやがって。もっぺん言ってみなよ、誰が誰を殺すって? あ?」
「ぐぁッ、ぎ、がッ……!!」

 吹き荒れる暴力は、複雑なプログラミングから繰り出す色彩操作とは打って変わって単純なものだ。
 魔力を載せて強化した徒手空拳。
 原理はそれだけ、されど飛蝗に強化を剥がされた希彦にとっては、一撃一撃が本職格闘家の全力を超える衝撃となって襲いかかる。

 胃液と血反吐を零しながら揺すられ、小刻みに跳ねる美青年の五体。
 剣で防御しようにも隙のない拳打は動作を挟む余地を与えず、一方的に磨り潰されるしかない。
 となれば希彦に切れるカードは令呪を用いての英霊招聘しかなかったが――

 ――希彦の令呪は、祓葉との戦闘で全損している。

 令呪とは、サーヴァントに対する回数制限付きの絶対命令権。
 究極と言っていい鬼札だが、故に失った時の代償はあらゆる意味で大きい。
 絶え間ない打撃は死を想起して余りあるものだというのに、希彦にはそこから逃れる術がない。

 わずか一つの浅慮。
 その失策が、完成していた王手盤面をひっくり返した。
 気付けば詰みに追いやられているのは自分の方。
 これが戦場。この理不尽が、実戦。かつてない恐怖に、希彦は心の底から震える。

(死ぬのか――――この僕が?)

 絶頂の高みから、狂人の座を得る前の劣等感に溢れた時間へ転落していく心。
 間近に迫った死は、祓葉へ挑んだ時のものとは重さが違う。
 今度は本当に先がない。奇跡が跋扈する針音都市でさえ、三度目の正直が起こり得ないことは周知の事実。

「ぃ゛……な、だ……!!」

 否。断じて否。
 これで終わるなどあり得ない、己を誰だと思っている!

 希彦は血の泡をごぼごぼと吹き溢し、拙い発音でそれでも叫んだ。
 脳裏に思い描くのは、愛しい想い人の花咲く微笑み。
 生まれて初めて、誰かを本気で欲しいと思った。
 求めても手に入らないもどかしさを初めて知れた。
 ならその運命を胸に抱き、可能性を飛翔させなければ嘘だろう。

 奪取し、体内に収めた林檎の欠片。
 ウートガルザ・ロキの心臓――
 切り札を抱えていたのはイリスだけに非ず。

「ぉぉお゛ぉおぉ゛ぉおぉ――――!!」

 希彦が吠える。
 この美青年が、こうも生き汚く咆哮する光景など誰が想像できたか。
 死地に置かれ、改めて痛感した。
 これが狂気。どこまでも燃え盛って止まらない感情の鬼火。

 邪魔だぞ運命、邪魔だぞ楪依里朱。
 熱暴走する〈恋慕〉が、眠れる炉心を叩き起こす。
 希彦の胸が神々しく輝き、目の前の障害を打破する奇蹟を纏装させて――




『誰だよ、テメェ』




 成った、と確信したその瞬間に。




『見ねえ顔がしゃしゃってんじゃねえぞ、首でも吊らせてやろうか?』




 香篤井希彦の自我は、悪寒の顎に噛み砕かれた。


 膝から崩れ落ち、その場に吐瀉物を撒き散らす。
 バケツを引っくり返したような嘔吐には血が混ざっており、顔は今度こそ先の増上慢が嘘のように青褪めていた。

 ――なんだ、今のは。

 理解が出来ない。いや、あれは理解してはならないモノだ。
 強いて言語化するのなら、破滅。
 死など生易しく思える、尊厳という尊厳が千々に引き裂かれる感覚の一端を味わった。

「バカな……何故……」

 黄金の林檎の正体は、ウートガルザ・ロキの心臓。
 しかも奪い取れたのはそのごく一欠片で、一口分にも満たないサイズでしかない。
 なのにそれでさえ、一瞬完全に意識を持っていかれた。
 これを全て取り込んだ天枷仁杜という女は、一体どれだけの器を持っているというのか。一体どれだけ、ウートガルザ・ロキに愛されていたというのか。

「言わんこっちゃない。盗品で威張り散らしてるからそうなるのよ」

 起き上がることも出来ず這い蹲っている希彦に、イリスの声音は冷ややかだった。

「とはいえ、改めて認めてあげる。あんたは確かに、私達の位階まで昇ってきた。紛うことなき第七の狂人だ」

 しかし、続く言葉は実に彼女らしくないもの。
 希彦を同格の存在、不倶戴天の同胞と正式に認めた。
 これで喜ぶほど彼の性根は浅くないが、意義ある一歩には違いないだろう。

「だから信用したの。
 総軍で殺されても本望? 狂人(わたしたち)ならそんな浅はかな考えはしない。
 悟ったような科白を聞いた瞬間にピンと来たわ。私がいざ飛蝗共を出したら、したり顔で奥の手でも使う気なんだって」

 香篤井希彦は、先達たる〈未練〉の魔女を認めさせた。
 格下扱いも端役呼ばわりも晴れて卒業だ。
 希彦は魔女をして恐れる、油断ならない狂人になった。
 だがその瞬間、イリスから油断や慢心、衛星特有のプライドという陥穽も消滅する。

 狂人は互いを忌み嫌うが、一方で誰より互いを買っている。
 だから知恵を凝らす。疑念を尽くす。本能を限界まで尖らせて警戒する。

「手癖が悪くて節操もないあんたのことだから、隠し玉の正体は簡単に想像できた。あんた、にーとからも何かくすねたのね」

 あまりに理不尽な話だ。
 死を超えた狂人にならなければ、彼らの境地に届けなく。
 位階を上げて並んでしまえば、最高パフォーマンスの先達が襲いかかってくる。

 とはいえ希彦はやはり十全を期していた。
 一手の誤りで逆転こそ許したが、そこから立て直せる備えまで用意していたのだから。
 事実こう言っているイリスも、彼の切り札が正しく機能していたなら手段を選んではいられなかったろう。
 虎の子の〈蝗害〉全開運用を雇われの傭兵相手に使わされ、挙句まんまと逃げられ、一人負けの様相となっていた筈だ。

「発想は悪くないと思うわ。でも時期尚早、それとリサーチ不足ね。天枷仁杜が生きてる内にあのクソ野郎を利用しようなんて、アレの人となりをちょっとでも知ってたら出ない考えよ」

 だが、彼は知らない。
 知る由もないのだ、希彦はすべてが終わった後に女神の世界へ入門した新参である。

「ウートガルザ・ロキは、天枷仁杜を愛している」

 たとえ肉体が滅び、自我も意思も、現世に関与するあらゆる手段を失ったとしても。
 ロキがロキである限り、仁杜が健在の内に彼女以外の方を向くなどあり得ない。
 無知の不知。七番目の狂人が福音と信じて喰らった果実は、考えられる限り最悪の毒物だったのだ。

「かは、げほ、ごぇ……ッ、は、は……! なるほど、なるほど……それは、確かに。僕の失策、でしたね……」

 されど希彦は、この不測を前に感嘆さえしていた。
 遠目に伺った程度にしか知らなかったロキという男の生き様に、恋に殉ずる者として敬意を払いたくなる。
 死してさえ揺るがぬ愛。失われてさえ、貫き続ける恋慕。これほど美しい生き様が、果たして他にあるだろうか。

「――――ええ認めましょう。今回は此方が折れることにします。負け犬らしくなりふり構わず、恥を晒して勝ちに行く」

 血色の戻らない顔のまま、剣を杖代わりに立ち上がる。
 最悪の形ではあったが、またひとつ学ぶことが出来た。
 なら経験を喰らって次に進もう。前へ、前へ、前へ前へ前へ――止まることなく貪欲の旅路を征くのみ。

「こんな事もあろうかと、逃げる準備はしてあるんですよ。流石に殴られてる最中だと厳しかったですがね、手を止めてくれて助かりました」

 戦場の恥は掻き捨て。
 事前に展開していた陣を起動させ、一先ずイリスから距離を取る。
 その判断は確かに賢明。最適解と言ってもいいだろう。

「何言ってんの? あんたもう終わりだけど」
「――、は?」

 だが、王手と詰みは違う。
 王手とは回避可能な破滅。
 一方で詰みとは、回避不能の破滅を指すのだ。

「人の話は最後まで聞くこと。私があんたの奥の手にビビらなかった理由は、ロキの愛どうこうだけじゃないわ」
「何、だ。これは」
「もっかい言うけど、時期尚早とリサーチ不足。首尾よくにーとの私物を分捕れたなら、あんたはそれを全力で隠し通さなきゃいけなかったのよ。あいつが倒れるまで、ね」

 希彦の耳に、果たしてイリスの言葉がどれほど届いていたか。
 身体が動かない。今度は悪寒による硬直ではなく、不可視の腕で物理的に握り締められている。
 神の見えざる手。こんな超常を引き起こせる存在は、月世界でただの一人だけだ。

「知らないようだから教えてあげる。オタクってね、自分のモノを盗られるのが大ッ嫌いなの」
「ぁ……」
「よりにもよってあのバカ女の腹の中で、堂々と盗品を見せびらかしたんだもん。そりゃキレられるわよ」
「――ち、違う! 天枷さん、誤解です、これは、僕は、貴女のために……!!」

 香篤井希彦は、女神の宝物に手をつけた。
 当初彼女はそれに気付いていなかったが、自分の庭で喧伝されたら話は別だ。
 信用し、招き入れて"あげた"男が働いた卑劣な裏切り。
 月の女神は幼心の極み。天枷仁杜は負の感情に極めて従順である。

 油断も無知も霞む正真正銘最大の失敗に、希彦は慌てて叫んだ。
 女の扱いは心得ている。どんな甘い言葉でも弄し、媚び諂ってでも難を逃れるつもりだったが、しかし。


『うるさい。希彦さんなんてもうきらいだよ、ばいばい』
「ぅあ、待っ、――――くそぉおおおぉぉおッ!!」


 それでコントロール出来る程度の女なら、仁杜は恒星になどなっていない。
 天から響く裁定が、希彦の弁解を切って捨て。
 月の手のひらが彼を、有無を言わさず現実へと摘み出していく。
 有無を言わさぬ強制退去が執行される瞬間、イリスはようやく手駒を動かした。

「ライダー」
「あいよ。いやぁ、ムカつくイケメンの吠え面ほど気持ちイイもんはねぇな」
「そうね。初めてあんたに同感かも」

 帯になって走った飛蝗の一軍が、追放されゆく希彦の腕から頼みの名刀を没収する。
 名刀トバルカイン。彼自身の才覚も相俟って、この剣はイリスをして死を覚悟させるほどの脅威だった。
 だがそうでなかったとしても、これを香篤井希彦の手に渡らせるわけにはいかない。
 他でもない高天小都音のサーヴァントが遺した逸品……みすみす見送るなど論外甚だしい。

「返――それは――僕、の――!」
「狂人がねだるなよ。悔しかったら取り返してみれば?」

 神の意思は、つつがなく為すべきを為した。
 希彦の姿は虚空に溶け、やがて影も形も残さず消え失せる。
 その去り際を見届けると、イリスはようやく身体の力を抜いた。

「……ま。頭を下げて詫びでもしたら、考えてやってもよかったけどね」

 最強VS.最新。
 勝者は――白黒の魔女。


◇◇


 【静寂の山麓 # 2】


「――――阿呆が、しくじりおったな」

 くつくつと響いた笑い声。
 だがそれとは裏腹に、事態は吉備真備の想定とは異なる方向へ転がり出していた。

 希彦の失策。楪依里朱に負けるまでならまだ尻の拭きようはあったが、月からの追放となればさしもの真備もどうにもならない。
 結界術の極致に指をかけた偉大な陰陽師をして、全く次元が違うと評価するしかないのがこの月の領域だ。
 内外を繋ぐ出口があると分かったのは吉報。されど結局、意図せぬ異分子の侵入は女神に弾かれてしまうというのは凶報。
 ならばさしずめ、自分の要石が放逐されてしまったことは大凶報か。只でさえ一度失われた信頼を取り戻すのは大変なのに、あの幼気が服を着て歩いているようなお姫さまが相手ではどう頑張っても温情は期待出来まい。

「はてさて、どうしたもんかね」

 希彦が不興を買ったなら、相方の自分にも累が及ぶのは自明の理。
 どうするか。何を為すべきか。
 動じず思索に切り替えた真備の柔軟性は流石と言えたが、こうなれば如何に冠位手前の陰陽師と言えど、盤石の体制は保てない。


 戦況変化をいち早く読み取ったのは、機を待っていた脱出の王子であった。


「――悠灯」

 物陰に隠れたまま、英霊・山越風奇は託された狼少女の名前を呼ぶ。

「なんだよ。改まって」
「如何せん時間がない。
 今から色々と矢継ぎ早に伝えるが、何も言わずに最後まで聞いてくれるかい?」
「はぁ……? ……、……分かったよ。だけどアタシはあんまり頭良くねえからな、まどろっこしい言い方は勘弁してくれよ」

 これぞまさに、千載一遇の好機。
 飛びつかない理由はない。
 こうなるに至った経緯は杳として知れないが、顕れた以上は利用するまでだ。

「僕のマスター、山越風夏が死んだ。
 〈はじまり〉を知る〈脱出王〉、神寂祓葉の衛星はもういない」
「っ――」

 前置きがあったとはいえ、あまりにも衝撃的な告白に息を呑む悠灯。
 視線が"もっと早く言えよ"と訴えていたが、肩を竦める余裕もなかった。
 何しろ事は一刻を争う。不測の事態に遭遇した老陰陽師が何か考え出す前に、必要な条件をすべて満たさねばならないのだ。
 それに、まだ伝えたいことが幾つもある。

「彼女は今際の際、僕と君が正式な主従関係になることを望んでいた節がある。
 少なくとも君を放り出して、好き勝手に暴れさせようとは考えなかったわけだね。
 僕としても、なるべくなら君との繋がりは保っておきたい。
 君が亡き相棒に操を立てているのは重々承知だが、もし可能なら、どうか僕と再契約を結んでほしい」

 第一に、再契約の打診だ。
 脆弱惰弱な近代英霊、ハリー・フーディーニが価値を保つにあたってマスターの存在は必要不可欠である。
 そして、吉備真備の君臨を崩す上でも同様。
 ただ、単に申し出に頷いて貰うだけでは不十分だった。

 自分を華村悠灯へ託すにあたり、山越風夏が施していた錠前。
 もし再契約の懇願を呑んで貰えたとして、此処については絶対に話しておかねばいけない。

「で、次だが。
 僕(ツー)や医者(スリー)、猫(ナイン)はその呼び名からも分かる通り、厳密には本来のハリー・フーディーニではないんだ。
 正史の僕らじゃ引き出しようもない永久欠番を除けば最古、原典のハリー。風夏の死に伴い、僕らはそれを開帳する許可を得た」

 第二。

「即ち、第一生(ワン)のハリー・フーディーニだ。
 ただ……その、まあ、なんだ。すっごく言いづらいんだが、うーん」
「口挟むなって言ったヤツが吃るなよ」
「……分かりやすく言うと、非常に、非っっっ常に変わったヤツでね。
 だから引かないでほしいし、なるべく優しくしてあげてほしい。臍を曲げると大変面倒臭いから」

 ――この状況を解決し得る、英霊ハリー・フーディーニ一座の虎の子。第一生について。

 山越風夏、異聞の〈脱出王〉は存在そのものがワイルドカードにして特異点。
 そんな女をして、解放の瞬間をなるべく絞りたがったいわば正規の切り札が第一生だ。
 実力は折り紙付き。第二生以降のハリー達は、夢のないことを言えば彼のコピー。
 こと脱出の技能に関して言えば、間違いなく第一生(ワン)がずば抜けている。

 しかし、蛇杖堂寂尊が彼を指して"あまり触りたくない"と評したように。
 風奇もまた、可能なら第一の棺に手を付けることは無いといいなあ、と思っていた。
 要は筋金入りのキワモノなのだ。実力だけでなく、性格的にも。

「まあそもそも、僕との契約を呑むかどうかも君の――」
「いいよ。やろう」

 自由だ、と続けようとしたところで、それを遮って悠灯が頷く。

「――いいのかい?」
「なんだよ。そっちから持ちかけてきた話だろうが」
「それはそうだが……」
「アタシの心配ならしなくていいよ。第一、四の五の言ってられる状況でもねえだろ。アタシは馬鹿だが、流石にそのくらい分かるさ」

 砕月の計画は、仁杜の乱心と陰陽師主従の暗躍により崩れ始めている。
 にっちもさっちも行かず足踏みしていたところに、かつてないチャンスが舞い降りた。
 時間がないというのは確かにそうだったが、だとしてもこうもあっけらかんと呑んで貰えるとは思わなかった。

「アタシは生きなくちゃいけないし、何よりもうアタシだけの問題じゃあないんだ。
 そんな時にガキみてえなワガママ言って周りの足引っ張るなんざ、それこそ"アイツ"に顔向け出来ねえ無様だろ」

 華村悠灯にとって、シッティング・ブルは並ぶ者なき永遠の相棒だ。
 だとしても、思い出と心中してその願いを無碍にしてしまったら本末転倒だろう。
 寂尊に怒気を剥き出したのは彼が軽口を叩いたからであって、一線を超えてこないなら悠灯とて強情は張らない。

「お前と契約するのはいいよ。ナインといいツーといい、悪いヤツじゃないのは分かったからな。
 けど、アタシ達の再契約をあのハゲ坊主が黙って見逃してくれるとは思えねえぞ。そこはどうすんだ?」
「それは問題ないよ。契約を結ぶと同時に、さっき言った第一生の棺を開ける」
「……大丈夫、なんだろうな? そいつ」
「腕は保証する。思う通りに動いてくれるかは、正直僕にもわからない」

 再契約、からの電撃作戦で吉備真備を制圧する。
 伝えられたプランはこの青年らしからぬ煮え切らないものだったが。
 何度も言うが時間がない。悠灯は弱気に駆られかけた自分を叱咤し、ずい、と腕を突き出した。

「しゃーねえ、出たとこ勝負だ。アタシも賭けるよ、そいつに」
「恩に着る。では――」
「ああ。アタシは、お前ら(ハリー・フーディーニ)を受け入れる!」

 片や従者を、片や主君を失った人間と英霊。
 両者の合意を以って、その体内を電線(パス)が駆け抜ける。
 風夏の死で減耗していた力が、英霊ハリー・フーディーニへと回帰した。

「ライダーの名に懸け誓いを受ける。君を共演者として認めよう、悠灯」

 斯くして成った、再契約。
 針音都市にまた一つ、新たな主従が補充される。
 だが此処で、悠灯の懸念がすぐさま的中した。

「おう、バレないとでも思ったかい。
 人の火事場を狙ってちょこまかやりおって、こン悪餓鬼共が」
「……!」

 スカディを封じたままの真備が、明確に悠灯達に向けて言葉を紡ぐ。
 声色こそいつも通りの磊落さだが、聞く者の本能を震撼させる威圧がそこに付加されていた。

「『棺からの脱出(ナインライブズコフィン)』――第一生解放(リリース・ワン)!」

 吹雪のように岩陰へ殺到する、無数の形代。
 一つ一つに特大の魔力が込められていることは言うに及ばず、人類最古の誘導ミサイルと呼んでも過言ではない。
 それが目視だけで百以上。巻き込まれれば擬似的な不死体質を獲得している悠灯はおろか、英霊の風奇でさえ只では済まないだろう。

 よって求められる行動はやはり即決。
 棺の扉が開き、山越風奇が再び死に収容される。
 だが――遅い。いや、真備の速さを褒めるべきか。

 一発たりとて迎撃されぬまま、形代が一つまた一つと炸裂し、悠灯らの潜んでいた地点を文字通り消し飛ばした。
 対軍宝具に匹敵する破壊をほんの一瞬で、ろくな詠唱もなく叩き出せる規格外の術師。
 搦め手ありきとはいえ北欧の狩猟女神を調伏してみせた技量は伊達ではない。
 よって再契約を結んだのも束の間、あっという間に都市最新の主従は消滅した。

「…………ほぉう」

 その結末から、ハリー・フーディーニは脱出する。

 爆炎が晴れる前に、仕損じたことを悟って感嘆の息を零す真備。
 やや遅れて煙の中からひとつの影が歩み出、彼の失態を伝えるが。
 大陰陽師・吉備真備の辣腕を潜り抜けてみせた男は、いや、そう呼ぶべきかも定かでない誰かは――


「ふ、ふぇぇん……。まだ名乗りも上げてないのに、出オチなんてあんまりだよぅ……」


 ひんひん泣いていた。
 涙を流し、鼻をずびずび啜って、しゃくり上げながら悠灯を抱いていた。

 四肢を始めとした全身の至るところに銀の鎖を巻きつけた、長い黒髪の女だった。
 そう、女に見える。ボディラインの華奢さも、甲高い声も、あとその無駄にきれいな泣き顔も、目に映るすべての情報がこれを女だと伝えている。
 が、陰陽の道を究めた真備の目には違って映った。

 陰陽説において男性は"陽"、女性は"陰"と分類される。
 よって真備はたとえ骨格レベルでの変装が施されていたとしても、一目見ただけで対象の正確な雌雄を見分けることが可能だ。
 その彼が、分からない。目の前の鎖付きの女が、一体どちらなのか区別が付かない。
 より正確に言うなら、混ざり合っていた。陰の黒と陽の白が絡み合った、陰陽魚太極図を形成して見える。

「ははぁ、なるほど……完璧な男女(おかま)っちゅうわけかい」
「うぇ……? せ、セクハラですよっ……!? ぼ、僕(わたし)だって、現代のこ……こんぷら……? くらいわかってるんですからね……!?」

 両性具有(アンドロギュヌス)。
 陰と陽をそもそも分けることなく生まれた太極の者。
 真備が漏らした科白は、何も初代の彼/彼女を揶揄するものではない。

 彼が老成していなかったなら、きっと頭を抱えていただろう。
 これは、相性が悪すぎる。
 こと陰陽師が相手取るにおいて、限りなく最悪に近いモノだ。

「な、……なんだ、お前……?
 なあおい、ツーのヤツちょっと間違えちゃったんだよな?
 他の棺を開けちゃったんだよな? まさかお前がアタシ達の切り札なんて、そんなことないよな?」
「はい、はいっ、そうです、僕(わたし)切り札なんかじゃないですからぁ……!
 ホントそういう器じゃないんですよぅ、ただちょっと逃げ足が速いくらいのもので……」
「よし分かった。じゃあ気を取り直して、今度こそ第一の棺を開けてくれるか!?」
「ふぇ……? 僕(わたし)が第一生(ワン)ですけど……?」
「うァ゛――――ッ!!!」

 そんなことは露知らず、悠灯は初代の腕の中で頭を抱えた。
 確かに凄まじい変人とは聞いていたが、思っていたのとベクトルが違いすぎる。
 どちらかというとこいつはニート神の同類だろう。
 頭の中で空想していた強くて偏屈者な初代像が崩れ去り、この世の終わりみたいな気分になってくる。

「あぁあぁあっ、すみませんすみませんすみません!
 が、がっかりしたよねっ、こんなのが初代なんてもうハリー・フーディーニ自体に幻滅って感じですよねぇ……!
 で、でもでもっ、僕(わたし)だって被害者なんですよ……? うぅ、ちょっと死の国から脱出してきただけで、ずぅっと人理くんの小間使いやらされるなんてぇ……ぐす、ぇぐ、ぅうぅう……」
「泣きたいのはアタシの方だ馬鹿! ツーの野郎を今すぐ出しやがれ、人狼(ハナムラ)パンチをお見舞いしてやるからよォ!!」

 これが出てくると知った上であんな神妙な顔をしてやがったのか。
 そう考えると一発殴りたくて堪らない。
 腕の中でジタバタ暴れる悠灯と、世界一不幸です……みたいな顔で泣きじゃくる初代。

 その漫才めいた光景に一石投じたのは、他でもない彼女達の敵。

「あー、おい。そこの痴女男」
「ち、ちちちち痴女男?!」
「客が居るのに、そんなメソメソやっててええのかい」

 目を「><」にして抗議してくる初代を、老陰陽師は鼻で一笑する。

「――儂ゃあ、お前さんのショーを観に来たんじゃが。なのにいつまでもダラダラ泣き言垂れてるっちゅうことは、儂から逃れる自信がないってことでいいんかな?」
「ご心配には及ばない。私(ぼく)は脱出の王である」

 敵を焚き付けるような物言いは、少なからず困惑を買うだろうものだったが。
 これを受けた初代の口から出た返答は、同じ人間の声帯を使っているとは思えないほど落ち着き払った、氷のような低音であった。

「この国で公演を行ったことはないが、貴方程度なら不足はないだろう。
 音に聞く陰陽道の真髄、存分に発揮されるが宜しい。
 私(ぼく)はこの娘を抱きながら、貴方の用意した格子をすり抜け、目的を達成するまでのこと」
「な、勝手なこと言ってんじゃ――!」
「は、はぅ、ごめんなさぁいっ! ぼ、僕(わたし)、頑張るからっ……! えとえと、こんなでも逃げたり抜けたりは得意なので! 大船……小舟……ど、泥舟に乗ったつもりで程々にお任せいただけたらと……えへへ……」
「だ~~ッ、もう本当に何なんだよお前はぁぁぁあ……!?」

 初代ハリー・フーディーニは陰陽合一体。
 女(ハリー)はいつも弱気で。
 男(フーディーニ)は威風堂々、与えられた難業を踏破する。

「結末は見えとるが、こんな面白い舞台(モノ)にノらん理由はないの」

 舞台形成。
 死合舞台という名の脱出公演、そういう形に演目が塗り潰される。

「来いや、異邦の芸姑。お前の口上が虚仮かどうか、この儂が試してやるわい」
「それは有り難い。檻は意地悪くなければ話にならない」

 陣が展開され、結果の見えた防衛戦が開幕した。
 真備は思う。やはり長生きはするものだと。
 八十余年の生涯の中でさえ巡り会えなかった天敵の登場に、その心は少年の如く躍っていた。


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最終更新:2026年10月05日 01:23