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 〈脱出王〉は焦らない。
 ステージスターにとって目の前で起きるすべてはエンターテインメント。
 たとえアクシデントがあったとしても、それすら乗りこなしてウケを取ってこその大道芸人だ。
 だからこそ彼女は前回、ある意味では誰よりも厄介な存在として思い思いに跳躍し、盤面を掻き回したのだったが――

「っひぃ! わっ! ひゃあっ!?」

 そんな彼女にも、苦手な相手というものはいる。
 一言で言うと、ノリの悪い人間だ。

 こちらがどんなおちょくりで揺さぶりをかけても、そうか死ねと真顔で殴り付けてくる相手。
 その上実力も頭脳も完備、難攻不落を辞書で引いたら類例として出てきそうなエリミネーター。
 こういう連中との正面戦闘はどうにも骨が折れる。ともすれば、下手に英霊と戦うよりもよほど心と身体をすり減らしてくる。

 だから"前回"、彼女は好き放題やっているようで、徹底して二名のマスターとの無策な邂逅を避けていた。
 ひとりは蛇杖堂寂句、言わずと知れた怪物老人だ。これと戦いたがる人間はまずいないだろうし、さしもの〈脱出王〉もその例外ではない。
 とはいえ彼に関しては、触れられさえしなければある程度立ち回れる。
 純粋なスペック差が開きすぎているのでまず勝ちをもぎ取ることはできないが、少し遊んで逃げるくらいなら然程難しくない。
 先刻彼のもとを堂々と訪ねられたのはそれが理由だ。
 恐るべしは〈脱出王〉。あの蛇杖堂を相手にこんな科白が吐けるマスターは、針音都市の中でも彼女か祓葉くらいのものだろう。

 しかし一方で二人目の男。
 こちらに関しては、そうもいかない。

「相変わらずちょこまかと鬱陶しいな〈脱出王〉。今更言うまでもないだろうが、みんなお前のことは嫌いだったぜ」

 ノクト・サムスタンプ。
 関わること自体が悪手と称される極悪な策謀家だが、彼の真髄はむしろその先にある。
 夜。日が沈んで月が出れば、星空が照らす暗黒の空の下にて、彼は超人と化すのだ。

「ちょ、待っ……いや、いくら何でも容赦なさすぎだろ君ぃッ! こっちにもいろいろと、段取りとかそういうものがだね!?」
「させるわけねえだろ莫迦が。それをさせないために、わざわざこうして出てきてやったんだよ」

 夜の女王との契約。それが、ノクトを魔物に変える。
 〈はじまり〉の星々の中で条件を問わず最大値だけ比べ合うのなら、最大値は間違いなくサムスタンプ家の落伍者だった。
 死を経験し、太陽への妄執に囚われたことで急激に化けた白黒の魔女でさえ、今のノクトと関わるのは二の足を踏むだろう。
 それほどだ。それほどまでに、時を味方にした契約魔術師は圧倒的な強さを秘めている。

 地を蹴り、ひと飛びで人間の身体能力では考えられない高度まで飛び退いた〈脱出王〉に同じく一足で追いつく。
 彼女とて無抵抗ではない。すんなり逃げられないならと、相応に抵抗も試みている。
 なのにされるがままで圧倒されて見えるのは、あまりに身も蓋もない理由。
 何をしようとしても、試みた端から目の前のノクトに潰されているからだ。

「お前は無軌道な莫迦のように見えて狡猾だ。
 ショーを成功させる確証がある時は調子がいいが、都合悪い時には穴熊決め込んで、どれだけ探しても出てきやがらねえ」

 "夜"のノクト・サムスタンプの強さは、最優のマスターである蛇杖堂寂句さえ優に凌ぐ。
 五感、運動神経、反応速度に肉体強度――あらゆる能力値が人間の限界点を突破する。
 防戦に重きを置くなら英霊とすら張り合えるスペックを、非情の数式と称される最高峰の頭脳で駆使してくる。

「正直、性格の悪さならホムンクルス以上だよ。
 どいつも揃って俺を極悪人呼ばわりするが、真に腐ってるのはテメェだと思うぜ〈脱出王〉」

 彼は暗殺者であり、殺人鬼であり、武芸者であり、野獣である。
 夜と契った男の跳躍から逃れるのは、たとえ人類最高のマジシャンだろうと容易ではない。

 ノクトは、影を踏みしめていた。
 ビルの壁面を覆う影に、両生類のように貼り付くことで万有引力を無視している。
 その状態で初速から自動車の最高速度を超える吶喊を叩き出すため、彼の猛追は意思を持った突風と変わらない。

「だからここで殺す。ガキ共の戦争ごっこに噛む上でも、テメェみたいなのが跳び回ってるのは具合悪いんでな」

 "夜に溶け込む力"が三次元の縛りを無視し。
 "夜に鋭く動く力"が彼を魔人にする。
 そして"夜を見通す力"は、〈脱出王〉のすべてを見抜く。
 これらのすべてが、逃げの天才たる彼女が真価を発揮できていない理由だった。

「嫌われたもんだなぁ……! でも君だって知ってる筈だよ。昼だろうが夜だろうが、ハリー・フーディーニは誰にも捕まらないってね――!」

 タキシードの裾をはためかせると同時に、飛び出させたのは閃光弾。いわゆるスタングレネードだ。
 閃光は夜の闇を塗り潰す。影が消えればノクトの影踏みは無効化され、たちまち自由落下の牢獄に逆戻りする。
 現在彼らが戦っている高度は二十メートル超。ビル壁を足場に鬼ごっこを繰り広げているため、落ちれば墜落死の運命は避けられない。

 "夜に溶け込む力"さえ無効化できれば、足場のない高所は山越風夏の独壇場だ。
 けったいな力に頼らずとも風夏は垂直な壁を登れるし、何ならそこで踏み止まることもできる。
 よってこの一手は追撃を撒きつつ同時に致死の墜落を強いる、破滅的なそれとして働く筈だったが――

 結論から言うと。
 〈脱出王〉の返し札は、開帳することさえ許されなかった。

「大口叩く割にずいぶんセコい手使うじゃねえか。器が知れるな、えぇ?」
「ッ……!」

 裾から出した瞬間、ノクトが掴み取って握り潰す。
 それでも炸裂はする筈が、彼の右手に渦巻く夜色の闇が爆ぜる光を咀嚼し呑み込んでしまう。
 "夜に溶け込む力"のひとつ。ノクトは、自分の肉体の一部を夜そのものに変えることができる。
 やり過ぎれば夜に喰われ命も危ぶまれる危険な手だが、四肢の一本程度なら制御も利く。

(やばいな――分かっちゃいたけどめちゃくちゃやりにくいぞこれ。天敵って感じだ)

 しかし〈脱出王〉に舌を巻かせたのはその驚くべき芸当ではなく、昏く沈み込むノクトの双眸だった。
 "夜を見通す力"が彼に与えている力は、大まかに挙げると二種だ。
 いかなる闇をも見通す暗視。闇の中で何も見逃さない超視力。

 厄介なのは後者である。
 敵の筋肉の微細な動きまでつぶさに見取る凶眼は、あらゆる動作の"起こり"を暴き立てる。
 ヒトが肉体を持つ生き物な以上、筋肉に頼らず動くことは不可能だ。
 脳で考え、信号を伝達して筋肉を動かし、身体を駆動させる――つまり身体の前に筋肉が動作するのが人体のルールであって、ノクトはここを見ている。

 対人戦闘における、実質の未来予知だ。
 いかに〈脱出王〉が超人的な逃げ技の持ち主といえど、次どうするか常に読まれていては精彩を欠くのも避けられない。
 単に先読みされるだけなら彼女はそれを込みにした曲芸で抜けてみせるだろうが、相手は〈夜の虎〉なのだ。
 奇術師の技を暴く瞳。視た未来を確実に潰す圧倒的暴力。このふたつを併せ持つ夜のノクトは、まさしく彼女にとって天敵といえた。

「どうした。笑顔が引きつってるぜ」
「……は。言ってくれるじゃないか」

 だが――だからどうした。
 分泌されるアドレナリン、供給されるモチベーション。
 逆境は脱出の王を成長させる促進剤。故に彼女は不測を愛する。

「そうまで言われちゃ魅せないわけにはいかないね。さあさお立ち会い、ここまでおいで〈夜の虎〉!」

 事もあろうに〈脱出王〉は、足場にしていた壁を蹴飛ばした。
 するとどうなるか。先ほどノクトを追いやろうとした自由落下の世界に、彼女自身が囚われることになる。

(二十三メートルってところか。さすがの私もまともに落ちたら死ぬ高さだけど……)

 リスクはある。それでも袋小路を脱するためにはやらなきゃいけなかった。
 あのまま戦い続けていればいずれは詰め将棋、削り切られるのは確実にこちらだ。
 賭けではあるが、空中はノクトの追跡を振り切る絶好の場所。
 空に影はない。ここでなら、猛虎の影踏みを無効化できるというわけだ――そういう算段、だったのだが。

「……、……へ?」

 〈脱出王〉は一瞬、自分は幻覚でも見ているのかと疑った。
 落ちる自分と、高みのノクト。彼我の間合いがいつまで立っても広がらない。

「お、おいおいおい! 嘘だろ、そりゃ流石にデタラメすぎないか……!?」

 いやそれどころか、引き離した筈の距離が徐々に詰まり出している。
 理由は単純だ。ノクトが、追いかけてきているからである。
 我が物顔で空を踏みしめながら、逃げる〈脱出王〉に猛追しているからである。


「――モンスーンの雲、天空なりしワラガンダの眷属へ乞い願う(Wunggurr djina Walaganda,  ngarrila ngarri.)

 夜の女王との契約が活きるのはその名の通り夜天の下。
 ならばそうでない時、ノクト・サムスタンプは無力な凡人なのか?
 違う。彼はその証拠に、もう一体の幻想種と契約を結んでいる。

 大気の精。
 オーストラリアの原住民族に伝わる大精霊ワンダナを原典とし、神秘の薄れた現代まで存在を繋いできた上位者だ。
 いくつかの誓約と引き換えに得たのは大気、つまり風を操る力。
 平時のノクトはこれを戦闘手段としており、今見せている空中歩行もその一環である。

「驚くほどのことかね。俺が風を操れることは知らなかったか?」
「いや……っ、知ってたけども! だけど、だからって空を歩けるとは思わないじゃん普通!?」
「空を逃げ場に使う阿呆なんてそうそういねえからな、見せる機会がなかった。
 おまけに目立つ。できるなら俺だってやりたかねえよ」

 大気に足場を構築し、空を歩く。
 が、それだけではない。
 そこには色が宿っていた。本来大気にある筈のない微細な濁りが満ちており、そこに夜の暗黒が降り注いでいる。

 すなわち影だ。
 空に影を作るという芸当を以って、ノクトは"夜に溶け込む力"を維持している!

「ましてやこんなもん、あちらさんに知られたら指詰めじゃ済まねえ不敬だからな。
 精霊から借り受けた風に女王の夜を溶かすなんざ、やってるこっちもぞっとしねえ」

 勝算を取り上げられた〈脱出王〉の喉が、ひゅっと音を鳴らした。
 思惑は失敗、それどころか自分だけ足場を失った格好だ。
 ノクトの手が届かない距離感を維持できている今のうちに手を打たなければ、ここですべてが終わりかねない。

「バケモノめ……!」
「こっちの科白だよ、大道芸人」

 風夏が再び袖をはためかせると、そこから無数の糸が伸びた。
 鋼線(ワイヤー)だ。目を凝らしても常人では視認不能の極細だが、数十トンの重さでも千切れない特注品である。
 彼女はこれを伸ばし、聳えるビル群の一軒に触れさせる。
 くるくると巻きつけて固定し、糸を急縮させることでその方角へと高速移動した。

 英霊顔負けのウルトラCだが、逆に言えばさっきの閃光弾と今使ったこれで仕事道具は品切れ。
 準備ができていないところにカチ込まれたものだから、余裕らしいものはまったくなかった。
 そしてこの渾身の離脱すら、ノクトにしてみれば予想可能の範疇でしかない。

「逃がすかよ。往生しろってんだ、もう十分生きただろうが」

 逃げる〈脱出王〉を追いかけて、無数の風刃が打ち込まれていく。
 掠めただけで骨まで切り裂く凶刃が、惜しみなく数十と放たれた。
 〈脱出王〉は絶妙な身のこなしから成るワイヤーアクションで、紙一重でそれを躱す。

「……ちぇっ」

 その頬から、一筋の赤色が垂れ落ちた。
 血だ。〈脱出王〉が、山越風夏が、ハリー・フーディーニが、血を流したのだ。
 手傷を与えたノクト自身、一瞬思考を空白に染められた。
 それほどまでに信じがたい事実。前回、祓葉を除き誰ひとり得られなかった戦果。

「――く、は」

 この奇術師にも赤い血が流れている、命が脈打っているという事実を。
 改めて噛み締め、ノクト・サムスタンプは嗤った。

「はぁッはッはッはッ! いいじゃねえか〈脱出王〉、初めてテメェを好きになれそうだ!」
「いたいけな少女の顔を傷物にして高笑いかい。聞きしに勝る極悪非道だね、ノクト!」
「ああすまねえな。許してくれや、あんまり愉快だったもんでな!」

 夜空に躍る、奇術師と鬼人。
 ドラマチックでさえある絵面だったが、実情はまったくそんなものではない。
 交錯する殺意と、そして因縁。
 彼らは生死を超えた、狂気という縁で繋がっている。

「安心したよ。結局テメェも、俺達と同じ――あの可憐な星に魅せられた、ひとりの人間だったわけだ」

 笑みを絶やさぬまま、ノクトが疾走する。
 それを迎え入れる〈脱出王〉の顔は、掠り傷を残しながらも不敵だった。
 彼女はこれ以外の顔を知らない。いや、舞台に立つ限りこの顔を崩してはならないと矜持に誓っている。

「もういいぞ、そろそろ休めよハリー・フーディーニ。後のことは俺が引き継いでやる」
「はは、やだね! 猫に九生ありて、今の私は所詮その道中。こんなところで死んだら、誰が後世の観衆諸君を驚かせるんだい!?」

 ここで〈脱出王〉が、初めて攻撃に出た。
 目的地のビル壁に着地するなり、その手で摘んだワイヤーを瞬と振るう。
 奇術師の無茶にあらゆる形で応える見えざる糸は、風を切り裂きながらノクトを射程に捉える。
 やる気になれば高層ビルを細切れにすることだってできる魔域の手品道具だ。
 いかに今の彼が超人と化していようが、これに絡め取られれば肉片と化すのは避けられない。

「娯楽なんざいつの時代も飽和してんだ。未来にテメェの居場所はねえよ、型落ちのステージスター!」
「ちっちっち、分かってないなぁ契約魔術師! ニーズは手前の腕で作るもんだろうッ!」

 銀閃が、風を裂き。
 風刃が、躍る奇術師を狙う。

 空中の攻防戦はあらゆる固定概念を無視していた。
 極限の技と無法、その二種を揃えていなければ成り立ちすらしない人外同士の激突。
 性能だけで見るなら勝っているのはノクトだが、脱出のための技を攻撃に回す屈辱を呑んだ〈脱出王〉は難攻不落だ。
 彼女は生き、逃れることに究極特化した突然変異個体。
 それが本気で生存のために行動したのなら、〈夜の虎〉と言えども攻略するのは並大抵のことではない。

「ていうか君はさぁ、なんていうんだろ、なんか女々しいんだよね!
 すましたしたり顔でべらべらくどくどと語ってるけど、ホントはイリスに負けず劣らず祓葉に灼かれ散らかしてるクセに!」

 何故、当たり前に垂直の壁に立てるのか。
 その上で秒間にして数十という精密操作を続け、夜のノクトを相手に拮抗できるのか。

「うじうじしてないで好きって言っちゃえよぉ!
 さっきミロクを喩えに出してたけど、私に言わせれば彼の方がよっぽど男らしいと思うけどなぁ!?」
「何を言われてるのかさっぱりだな」
「ほらそういうとこー! 中年男が女子高生に欲情してる時点で終わってるんだから恥なんかさっさとかき捨てとけよッ!」

 が、異常なのはノクトも同じだ。
 常人なら数秒で即死している鋼線曲芸の中で、風と肉体を寄る辺に前進を続けている。
 その甲斐あって、着実に距離は詰まっていた。
 まるで腐れ縁の友人同士のように舌戦を交わしながら、いつ首が飛んでもおかしくない激戦に身を投じるふたりの"人間"。
 ここまで手を変え品を変えの命のやり取りを続けているのに、未だ手傷らしい手傷が〈脱出王〉の掠り傷くらいしかないのも異様だ。
 〈はじまり〉の凶星達は、こうまで人間を逸しているのか。
 彼らが脅威たる理由が、その狂気だけではないことを証明するに足る論拠が、この数分間で嫌というほど示され続けてきた。

 しかし、どれほど戦況が膠着して見えても――戦いの本質は残酷なまでに明確だ。
 互いに不敵そのものの顔をしてはいたが、山越風夏は汗に塗れ、対するノクト・サムスタンプはそれを滲ませてすらいない。

「悪いな。こっちも後が詰まってんだわ」

 よって、結末はごく順当に訪れる。
 銀閃の波を風の砲弾で押し開き、強引に安全圏を作り出し。
 次の瞬間、ノクトは疾風(はやて)と化した。

「――多少分かり合えて嬉しいが、時間だから死んでくれ」

 魔力を惜しみなく注ぎ込んで、自らの背部を起点に暴風を生み出す。
 風の推進力を利用した、見敵必殺の超高速駆動(ロケットブースト)。
 ノクトの魔力量では長時間の持続は難しく、あくまで瞬間的加速の域は出なかったが――それでも、苦境の〈脱出王〉へ使う手としては十二分。

「ッ……!」

 堪らずワイヤーを引き戻すが、しかし遅い。
 落下で地上まで下り、神業の受け身で衝撃を殺し。
 迫るノクトから逃れようと試みた〈脱出王〉は、そこで鬼に追いつかれた。

 着地を完了したその時、既に目の前には〈夜の虎〉が立っており。
 殴れば鉄すら砕く魔拳が、獰猛な笑みと共に放たれていて――

「が……は、ぁッ……!!」

 それが、容赦なく少女の腹筋を打ち抜いていた。
 奔る衝撃に臓器が揺さぶられ、脳天ごと意識が撹拌される。
 紙切れのように吹き飛んだ〈脱出王〉は、路上駐車された軽自動車のボンネットに叩き付けられた。
 浮かび上がった人型の凹みが、彼女を襲った衝撃の程を物語っている。

「やれやれ、往生際の悪さは筋金入りだな。殺すつもりで殴ったんだが」
「ッ――は、ぁ。そりゃ、残念だったね……」

 即死には至らなかったし、致命傷もどうにか避けた。
 脱出の過程で身につけた受け身の技能。遥か上空から落下しても、それを取る余裕さえあれば墜落死せずに済む極限の神業。 
 それを目の前の拳に応用することで、山越風夏はぎりぎり、紙一重のところで生を繋いでのけたのだ。
 呆れるほどの生への執念。しかし、単に生き延びただけでは状況は好転しない。

 〈脱出王〉の声は濁っていて、痛ましい水音が混ざっていた。
 袋を破いたみたいに溢れてくる血が、奇術師の胸元をべっとり汚している。
 そのらしくない汚れた姿が、彼女の負った手傷の程を物語っているようで。

「共に運命へ狂したよしみだ。祓葉(アイツ)に伝えたい言葉があれば聞いてやる」
「はは、なんだよ。結構優しいじゃんか。
 じゃあ、そうだな……君のために準備してたのに、道半ばで死んで残念だ、って」

 喘鳴のような声を響かせながら、〈脱出王〉は口を開く。
 ノクト・サムスタンプは、誰も手折れなかった躍動の華を見下ろす。
 新宿の大勢が決着するのを待たずして、遂に六凶のひとつが墜ちる。
 誰の目から見ても明らかな破滅を前に、脱出の貴公子は笑って言った。

もし避けられたら(・・・・・・・・)、伝えておくれ」

 悪意に溢れた破顔を前に、ノクトは背筋を粟立たせる。
 思わず咄嗟に飛び退いたが、それがなんとか幸いした。
 ぱぁん。そんな軽い音と共に、一発の銃弾が闇の中を駆けたからだ。
 たかが銃弾。しかしノクトはその一発に、〈脱出王〉の曲芸を前にしてさえ抱くことのなかった、死のヴィジョンを見た。

 舌打ちをひとつ。
 弾丸の飛んできた方向に目を向ける。
 視線の先、路地の裏側……奈落めいた闇夜の底から、ぬらりと這い出してくる影があった。

「……ぁ……おぉ…………で…………し………………、……ぅ…………ず…………」

 痴呆老人のように、いや事実そうなのだろう、うわ言と判別のつかない声を漏らして。
 まるで脅威性を感じさせない物腰のまま躍り出たそれに、ノクトが抱いたイメージはひとつ。
 "死神"だ。死の国から這い出てきた、深い狂気に冒された怪物だ。
 彼にはそれが分かる。何故なら彼自身が、それ"そのもの"だから。

 ぎょろりと、萎びた眼球がノクトを睨んだ。
 いや、見つけた――というべきか。
 兎角この瞬間、彼はこれの逃走経路(しかい)に入ってしまったのだ。


「――――ヴァルハラか?」


 スラッグ弾のみを適正弾丸とするショットガンを抜く影は無防備。
 なのにそれが、獲物たるノクトの眼からすると一寸の隙もない狩人のものに見える。
 故にもう一度の舌打ちを禁じ得なかった。
 素直に殺せるなら万々歳。そうでなくとも、令呪の一画程度は使わせるのを最低保証として見据えていたが。

「クソペテン師が。なんてもん喚んでやがる、ゴミ屑」
「お互い様だろう。ここからが本番だよ、非情の数式」

 これは駄目だ。
 こいつを前に、人間は張り合えない。

 これは、九生の五番目。
 未来の大戦にて、数多の屍を築いた怪人物。あるいは英雄。
 神聖アーリア主義第三帝国、この時代には存在しない国。
 ナチスドイツの再来という悪夢の先陣を切った怪物射手(フラッガー)。
 心神喪失の逃亡者。
 ハリー・フーディーニ。

(プランの立て直しが要るな。
 このクソ女は是が非でもここで殺してえが、これを相手にどれほどやれる?
 最悪ロミオの野郎を呼びつけるとして、それで勝率はトントンまで持っていけるか?
 多少の無理は承知するしかないが、そこまでやって果たして〈脱出王〉の首をもぎ取れる確率は――)

 スラッグ弾を搭載したショットガンは単発銃。
 手数こそないが、それが問題にならない剣呑をノクトは感じ取っていた。
 単なる魔術師としてではなく、傭兵として世を渡り歩いたからこそ分かる、関わってはならない相手の匂い。

 だから考える。脳を全力で回転させて、ただひたすらに思索する。
 夜のノクトは肉体のみならず、脳髄も平時以上に冴え渡る。
 わずか一瞬の内に限界まで思案を深め、目の前の不測の事態に対する向き合い方(アイデア)を引き出して。
 そうしているその最中のことだった。新たに新宿中へ配備した使い魔が見取った情報が、脳裏になだれ込んできたのは。

「――――」

 伝えられた情報は、二度目の絶句をさせるには十分すぎるものであった。
 最悪の展開だ。あらゆる意味で、ノクトが避けたかった事態のすべてがそこに詰まっていた。
 苦渋に歪んだ面持ちで契約魔術師は瀕死の奇術師を睨み付ける。
 するとちょうど、どういう手を使ったのか彼女も"それ"を知り及んでいたようで――

「……さあ、どうする? 〈夜の虎〉」

 にたり、と。
 虫唾の走るような顔で、意趣を返すように、嗤っていた。



◇◇



 報告を聞くなり、征蹂郎は複雑な顔で動き出した。
 複雑、というのは読んだ通りの意味だ。
 怒り。動揺。狼狽。そしてそのすべてを凌駕するほどの殺意。
 それらに彩られた顔で、悪国征蹂郎は部屋を飛び出していた。
 あれこれ思考するのは後だ。今、それに時間を費やしている暇はない。
 既に事は起きているのだ。取り返しのつかない被害が、こうしている間にも重なり続けている。

『――逃げてくれ征蹂郎クン! デュラハンの野郎ども、新宿を放っぽってこっちに攻め込んできやがっ――ぁ゛……』

 そこで通話は途切れたが、何が起きたのかを察するには十分すぎた。
 同時に自分の考えの甘さを自覚し、数刻前までの己を殺したい気分になる。
 要するに、敵方の頭脳は――その悪意は、自分の遥か上を行っていたというわけだ。
 決戦の土俵になど固執せず、卑劣に非道に勝ちを狙いに来た。その結果がここ、千代田区で起こっている惨劇だった。

「……、くそ……!」

 刀凶聯合。征蹂郎にとって家族にも等しい同胞たちに持たせていたGPSの反応が、次から次に途絶えている。
 現時点で確認できるだけで五割を超える反応が消えていた。デュラハンに対し数で劣る聯合にとっては、言うまでもなく壊滅的な被害である。

 決戦の地を指定したのは征蹂郎だ。
 天下分け目の地は新宿。刻限も場所も彼が決めた。
 だが、敵手――首のない騎士団を統率する凶漢・周鳳狩魔は流儀など一顧だにもしない。
 だから何ひとつ構うことなく、聯合が居を構えていた千代田区にこうして兵を送ってきた。
 これだけならば半グレ同士の抗争における横紙破りの一例で済むが、周鳳狩魔はマスターなのだ。
 であれば当然、送り込まれる刺客は彼が呼び寄せたサーヴァント。
 境界記録帯の暴力に対し武装した人類が可能な抵抗など、大袈裟でなくそよ風にも満たない。

(そこまで卑劣なのか。そこまで恥を知らないのか――周鳳狩魔)

 食いしめた歯茎から滲み出た血が、口内に鉄錆の味を広げている。
 許さない。殺してやる。絶対に――誓う殺意はしかし目の前の現状を何ひとつ好転させない。
 そんな絶望的状況の中でも、しかし征蹂郎の判断は合理的だった。
 敵はこちらの本拠を狙ってきた。であれば、こちらも同じことをする以外に手はない。

 すなわち新宿へ向かう。
 己自身も敵地に乗り込み、正面から姑息な奴原どもを根絶やしにする。
 それが最も被害を抑止でき、かつ聯合の勝利に近づく手段だと悟ったから征蹂郎は迷わなかった。
 幸い、レッドライダーはもう新宿に投下してある。かの赤騎士と合流さえ叶えば、デュラハンなどものの敵ではない。
 昂り荒れ狂う激情を理性で押し殺しながら走る征蹂郎の前に、ちいさな影が馳せ参じた。

「――アルマナ」
「アグニさん。ご無事で何よりです」
「いや……キミの方こそ、無事で良かった。その様子を見るに……今起こっていることは理解していると思っていいか?」
「はい、把握しています。……聯合の皆さんが、アルマナにまで連絡をくれましたから」

 白髪。褐色。遥かギリシャの青銅王を従える少女、アルマナ・ラフィー。
 従者のように颯爽と参じた彼女は、迷わず征蹂郎に細腕を差し出していた。

「火急の事態と見受けます。護身は請け負うので、行き先をお伝えください」
「……新宿だ。オレはそこに向かわねばならない」
「分かりました。ではそちらへ急ぎましょう」

 幼子に手を引かれる、それは普通に考えればこの歳の男としては沽券に関わるものであったろうが。
 無論、そんな些事にいちいち眉を顰めてなどいられない。
 征蹂郎の中にあるのは、悪逆を地で行くデュラハンの総大将に対する憎悪のみ。

 既に持ち場を離れて退くようにとの指示は出してある。
 であれば後は、今度こそ己が先頭に立って怨敵打倒の鬨の声を唱える以外ない。
 その筈で、あったが――


「おや」


 進む道の前に、現れた影がひとつ。
 視認した瞬間、反射でアルマナが足を止めた。
 征蹂郎は、意識しなければ呼吸することさえできなかった。
 それほどの存在感と、そして死の予感を、立ち塞がる影は孕んでいた。

「ああ……よかった、手間が省けました。
 正直虱潰しにやるのも覚悟していたのですが、そちらから出てきていただけるとは」

 それは――白い騎士だった。
 白銀の甲冑。靡く金髪。
 男女の垣根を超越して、"美しい"の一語のみを見る者へ抱かせる顔貌。何よりも、死を直感として感じさせる災害めいた活力。

 征蹂郎は理屈なく悟る。
 これが、この男こそが、デュラハンの牙。
 己の同胞(とも)を虐殺した、忌まわしき首なし騎士の総元締めであると。
 噛み締めた奥歯が軋む。砕けんばかりにそうしたからか、歯肉からの出血が口内に鉄の味を広げた。

「お目にかかるのは初めてですね、聯合の王」
「お前が……」
「ええ、私はデュラハンのサーヴァント・バーサーカー。
 ゴドーと呼ばれている者ですよ。そこまでは突き止めていますでしょう?」

 今にも爆発しそうな怒りを湛えて臨む征蹂郎に対して、騎士――ゴドフロワ・ド・ブイヨンはどこまでも軽薄だった。
 絵に描いたような慇懃無礼な態度が、愛する仲間を蹂躙された王の逆鱗を逆撫でする。

「お前が…………」

 この時征蹂郎は、レッドライダーを令呪で呼び戻すことも考えていた。
 周鳳狩魔の英霊を落とせば、デュラハンの主戦力を削ぎ落とせたも同然だからだ。
 建前を除いて言うなら、自分の目の前にこの冷血漢が一秒でも存在し続けることが許せなかった。
 殺す。地獄を見せる。仲間が味わった苦しみを万倍にして叩き返さなければ気が済まない。
 沸騰した思考を冷ましてくれたのは、袖を強く引くアルマナの手。

「――アグニさん!」

 二メートルに迫る屈強な長身が、少女の細腕にたやすく動かされる。
 が、それに驚く暇はない。つい先ほどまで征蹂郎が立っていた座標を、神速で踏み込んだゴドフロワの光剣が切り裂いていた。
 煮え滾る憤激の中ですら骨身が凍る、隣り合わせの死。皮肉にもそれが、彼の頭をいくらか冷ましてくれた。

「……すまない。我を忘れかけた」
「お礼は後にしてください。一手でも誤れば、アルマナ達はここであのバーサーカーに殺されます」
「……認め難いが、そのようだな……」

 カドモスの青銅兵と一戦交えた経験など、"本物"の前では活かしようもない。
 現に征蹂郎は今、ゴドフロワの動きを断片見切ることすらできなかった。
 速すぎる。殺すというコトにかけて、眼前の怨敵は文字通り人外魔境の域にある……!

「おや、優秀な相棒(バディ)を持っているようだ。
 これなら狩りくらいにはなりそうですね。あいにく"同胞"はゴミ掃除にやっていて、ここには私だけなのですが」

 聞くな。相手にするな。揺さぶられるな。
 言い聞かせながら、征蹂郎はいつでもアルマナを庇えるように拳を構えた。
 五指には青銅兵(カドモス)戦でも用いた、レッドライダー謹製のメリケンサック。
 この程度で実力差を埋められるとは思っていないが、こんなものでもないよりはマシな筈だ。

「……ライダーを喚ぶ。令呪を更に削る羽目にはなるが……、背に腹は代えられない」
「駄目です。賢明な判断とは思えません」

 感情を抜きにしても、それ以外に目の前の窮地を乗り切る手段は思いつかない。
 マスターふたりで雁首揃えて英霊の前に立ってしまっている時点で、出し惜しみする状況でないのは明白だ。
 だがアルマナは淡々とした口調にわずかな緊張を載せて、征蹂郎の判断をぴしゃりと切り捨てた。

「これはもうアグニさん達だけの戦争ではないのです。
 あのノクト・サムスタンプのように、善からぬ輩がこの戦いに興味を示し始めている。
 であればギリギリまで出し惜しむべきでしょう。貴方のソレには、アルマナ達のとは比較にならない価値があるのですから」

 理路整然と並べられる論拠に、征蹂郎はぐっと息を呑む。

「……確かに、理屈は分かるが……、……状況が状況だ。それこそ、今が価値を示すべき場面じゃないか……?」
「問題ありません。アグニさんはただ、舌を噛まないようにだけ気をつけていてください」
「……舌……?」

 ――次に起こった事態を、悪国征蹂郎は後にこう述懐する。
 あの時自分は、生涯二度と味わえない経験をしたと。

 ひょい。
 そんな擬音が似合う軽い動作で、アルマナが征蹂郎を抱き上げた。
 物語の王子が姫にやるような、いわゆるお姫様抱っこだ。
 これにはさすがの征蹂郎も、思わず沈黙。というか絶句。
 生まれてこの方こんな扱いをされたことはないし、そもそも十歳そこらの幼女に抱えられるような体重ではない筈なのに。

「き、キミは……だな……その、もう少し……」

 しかしそんな彼の動揺をよそに、アルマナはただ騎士を見据え、淀みのない口調で宣言した。


「ここはアルマナがなんとかします。無茶をするので、失敗しても恨まないでくださいね」


 そう言って、たんと地面を蹴る。
 軽やかな動きで跳ね、電柱を蹴って更に跳躍。
 満月の下で、少女が青年を抱いて跳んでいく。
 その現実離れした絵面に、ゴドフロワもぽかんと口を開けていた。

「……、なんと。これがアレですか、若者の人間離れってやつですかね?」

 もちろん、手品の種はアルマナの会得している魔術だ。
 攻撃から治癒まで幅広い分野を修めている彼女は、当然強化魔術も高水準で身につけている。
 幼い肉体を限界まで強化して、一時的だが人外に迫る力と速度、それに耐えうる耐久性を得た。
 ゴドフロワをして敵ながら見事と思う他ないスマートな離脱手段だったが、しかしみすみす取り逃す白騎士ではない。

「面白い。付き合ってあげましょう」

 彼は何の外付けもなく、素の身体能力でアルマナの挙動をそのまま真似た。
 深夜の街を縫うようにして逃げる少女と青年、それを追うのは美しき白騎士。
 ジュブナイルと喩えるには奇天烈すぎる光景に、しかし少なくともふたり分の命が載っている。

 鬼ごっこの先手を取ったのはアルマナだったが、じきに構図が破綻するのは見えていた。
 魔術界の常識に照らせば天禀の部類に入るアルマナでさえ、サーヴァントにしてみればまさに小鳥に等しい。
 人型の戦略兵器とも称される彼らは、宝具やスキルの存在を抜きにしても十分に異常。
 同じ鬼ごっこの構図でも、両者の差は奇術師と傭兵のそれ以上に開いている。

「――――」

 アルマナはしかし焦ることなく、小さく何かを諳んじた。
 彼女の魔術は、虐殺された集落に連綿と伝わってきたいわば独自進化の賜物だ。
 詠唱ひとつ取っても、地球上のどの言語とも一致しないから文字にすら起こせない。

 征蹂郎を抱えたまま、迫るゴドフロワに向け手を伸ばす。
 そこから射出されたのは、目を焼くほど強く輝く光球の流星群だった。
 覚明ゲンジと邂逅した際に使ったよりも数段上、正真正銘本気の火力である。
 光球の性質はプラズマに似ているが、一方で雷でもあり、嵐でもあり、吹雪でもあった。
 創造した光球のすべてにそれぞれ別な色の魔力を込めることで性質をばらけさせ、敵に攻撃への適応を許さない仕組みになっている。

 対人戦では過剰と言ってもいい火力だったが、しかし相手はサーヴァント。
 現に結論を述べると、アルマナの攻撃などゴドフロワに対してはちょっと派手な目眩まし程度としか取られなかった。

「お上手です」

 駆けながら聖剣を振るい、剛力に任せて光の雨霰を破砕させていく。
 相当な熱が押し寄せている筈なのに、彼の顔には汗の一滴も流れていない。

「その年齢でよくぞここまで練り上げたものだ。
 生まれる時代が違えば、歴史に名を残す魔術師になっていたやもしれませんね」

 光熱を、雷を、嵐を、吹雪を、ゴドフロワはすべて剣一本で薙ぎ払う。
 じゃれつく子どもをあしらうように懐の深い微笑を浮かべ、微塵の労苦も窺わせずそうする姿は美しいまでに絶望的だった。

 これがサーヴァント。これが十字軍のさきがけ、狂戦士ゴドフロワ。
 彼は美しい。美しいままに、恐ろしい。アルマナの眉が震え、胸の奥がきゅっと縮み上がった。
 彼女の虐殺(トラウマ)を刺激する存在として、この白騎士は間違いなく過去最大の脅威である。

 映像で見たレッドライダーのように、無機質に戦禍を振り撒く存在ではない。
 この男はこうまで人間離れしていながら、しかしどこか月並みだった。
 アルマナや征蹂郎のような"人間"の延長線上に存在する、ヒトの心が分かる怪物。
 それを理解した上で、目的のためなら仕方ないと笑い飛ばせてしまう破綻者だ。

 ――あの集落を襲った侵掠者達のように。

「は――、ッ――ぁ――」

 呼吸がおぼつかない。
 ぐらぐらと揺れる意識、頭蓋の内側、いやもっと深いところから封じ込めたなにかが溢れてきそうだ。
 鳴りかけた歯をなんとか抑えられたのは幸いだった。仮にこの情動に身を委ねていたなら、自分はもうそれ以上戦えなかったろうから。

 攻撃の手を絶やしてはならない。
 一発でも多く撃ち込んで、一瞬でも長く敵を遅延させろ。
 令呪を使うのは最終手段。王さまに面倒をかけるわけにはいかない。

(だから、ここは……)

 わたしが、アルマナが、やるしかないのだ。
 そう思ったところで、少女は左手に小さな熱を感じた。

「……アグニさん?」

 征蹂郎は何も言わなかった。
 ただアルマナの眼を見て、小さく頷いた。
 それはまるで、揺れる心へ何事か言い聞かせるように。
 懐かしい感触だった。いつかどこかで、こんなことがあった気がする。

 きっと今よりもっと幼い日。
 眠れないとぐずる自分の手を握ってくれたのは誰だったか。
 わからない。覚えていない。思い出さないように蓋をしているから。

 そんな曖昧な記憶なのに、かけてもらった言葉だけは鮮明に覚えていて。

『――――大丈夫だ、アルマナ。ひとりじゃないぞ、みんながいる』

 蓋の隙間から溢れてきた優しい誰かの声が、アルマナから震えを吹き飛ばした。

 右手に光を集め、それを武器の形に創形する。
 一本の槍だった。投影ではなく、あくまでも光を使った粘土遊びだ。
 そういえば自分は粘土遊びの好きな子どもだった。
 あの集落では質のよい粘土がちょっと掘るだけで出てきたから、それで人形を作っては父様に焼いてもらっていたっけ。

 より大きく。より強く。どんな強者の眼からも見過ごせないほどハッタリを利かせて。
 少なからず魔力を注ぎ込んだせいで全身を張り付くような疲労感が襲っているが、無視する。
 距離は既に無視できないほど詰まっている。
 失敗は許されない――創り上げたそれを、アルマナは異教の騎士に向け超高速で撃ち放った。

「なんて顔をするのです」

 ゴドフロワは光の槍ではなく、生み出したアルマナを見て言った。
 聖者のような哀れみと、殺人鬼のような嗜虐を滲ませた、矛盾した声音だった。

「まるで傷ついた小鳥ですね。
 幼子らしく縋りついて、泣きじゃくっていればいいものを」

 アルマナの渾身の一撃に対しても、彼が見せる対応は大きく変わらない。
 光の槍と相対する光の剣――『主よ、我が無道を赦し給え(ホーリー・クロス)』の刀身が滑らかに肥大化する。

 そして激突。案の定、一瞬の拮抗すら成し遂げることはできなかった。
 槍は光という性質を保ったまま砕かれ、あっけなく虐殺の白騎士に踏み越えられる。
 最終防衛線の崩壊が彼女達に何をもたらすかは明らかで、結末は決まったかに思われた。

 しかし……

「――爆ぜて」

 アルマナの命令が、甲高い激突音に紛れて響いた。
 瞬間、今まさに砕かれた光の槍が、壮絶な大爆発を引き起こす。

 『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』という技法がある。
 宝具を自壊させ、その喪失と引き換えに莫大な破壊力を生むそれと、アルマナが今やった攻撃はよく似ていた。
 魔力で形成した武器という情報は罠。アルマナは最初から爆弾のつもりで放っており、ゴドフロワはまんまとこれを斬り伏せてしまったのだ。
 短慮の報いは夜の闇をかき消すような爆発。白騎士は、ほぼ中心部でこれに曝された形になる。
 人間だったなら万全に備えをした魔術師でさえ、原型を保てれば奇跡という次元の威力を持っていたが――それでも。

「なかなか効きました」

 涼やかな顔で、爆風の中から姿を現す聖墳墓守護者。
 多少の煤を被った程度で、手傷らしいものは皆無に等しい。
 ゴドフロワの肉体は、英霊基準でも異常な強度を有している。
 狂気の如き信心で補強された玉体を傷つけるには、現代の魔術師の全力程度では大いに役者不足だった。

「それで? よもや聯合の王に侍る近衛が、これで全力というわけはありませんね。
 老婆心ながら助言しますと、格上の敵を相手に出し惜しむことは禁物ですよ。
 ある筈もない未来を空想して勘定に耽るくらいなら、目の前にある現実に金庫を捧げた方がいい」

 たかがマスターでは、現代の人間如きでは、ゴドフロワ・ド・ブイヨンを倒せない。
 何故なら彼は十字軍の筆頭。多くの誇りと多くの血に濡れた行軍の第一回、それを牽引した虐殺の騎士。
 技、肉体、何より抱く狂気(オモイ)の桁が違う。

 よって、この無謀な逃亡劇に最初から勝ちの目などなかった。
 征蹂郎に令呪を使わせず切り抜けるなんて最初から不可能。
 アルマナ・ラフィーに、彼を無傷で守り抜けるだけの強さはない。
 誰の目にも分かりきっていた事実が改めて証明された瞬間だったが、一方で当の小鳥は、動じた風でもなく。

「更に飛ばします。酔わないように踏ん張ってください」

 そんな割と無茶な命令を出しながら足場を蹴飛ばし、宣言通りに急加速した。
 焼け石に水もいいところ。この程度でどうにかできる相手なら、そもそもこんな状況には陥っていないのだから。
 ゴドフロワももちろんそう思う。そう思って駆け出す。小鳥と、それに守られたゴミ山の王を摘み取るために。

 ――その行方を遮るように、飛び出した三つの気配が彼へ衝突した。

「……これはこれは。何か企んでいるのは予想していましたが」

 青銅の兵隊だ。正しく呼ぶのなら、スパルトイ。
 アルマナは征蹂郎を救援するにあたり、意図的にこれらを自分から遠ざけて隠していた。
 不意の事態への対応力が低下するリスクは承知の上で、伏せ札として使う場合の利点を考慮していたのだ。
 その甲斐あって、今老王の従者達は彼女の渾身で作った隙を縫うように、伏兵となり騎士の行方を阻んでいる。

「舐められたものだ。いかにかの青銅王の靡下といえど、私の足止めがこんなガラクタで務まると?」

 これを見て、アルマナのサーヴァントの真名に思い至れないほどゴドフロワは愚鈍ではない。
 ギリシャはテーバイ、栄光の国の王。竜殺しの英雄にして、"青銅の発見者"。
 すなわちカドモス。英霊としての格で言えば彼をも上回る難物だが、しかしたかが走狗風情でこの狂える騎士を超えることは不可能だ。
 結末は見えている。ただ、この場に限ればアルマナの作戦勝ちだった。

「とはいえ面倒には面倒だ。こうなると、煙に巻かれてしまうのは避けられませんね」

 千代田にデュラハンのサーヴァントが侵入していると察知した時点で、アルマナは意図的にスパルトイ達を散開させていた。
 その上で征蹂郎に接触。ゴドフロワがこうも早く聯合の王に辿り着くのは想定外だったが、初手でスパルトイを隠したのは正解だった。
 英霊を連れず絶望的な撤退戦に挑む少女を演じながら、乾坤一擲の一撃をあえて派手にぶちかますことにより、潜ませて追従させていた"かれら"への突撃の合図としたのである。

 傍に侍らせなかったこと、消耗を度外視した魔力の連弾。
 命がけのカモフラージュの甲斐あって、満を持しての突撃はゴドフロワをして意表を突かれる奇襲攻撃と化した。
 現にスパルトイ三体の同時攻撃を受けたゴドフロワは地面へ落とされ、アルマナ達の姿はとうに視界の彼方まで遠のいている。
 追おうにも道を阻むのは英雄王の青銅兵。大した相手ではないが、だからと言って一撃で蹴散らせるほど脆くもない。
 これらを片付けた上で改めてアルマナ達に追いつくというのは、さしものゴドフロワでもいささか難題だった。

「まあいいでしょう、本懐は雑兵狩りによる勢力の減衰だ。
 野良犬以外に寄る辺を持たない裸の王など、この先いつでも摘み取れますしね。
 仕方ない、仕方ない。では、それはそれとしまして――」

 思考を切り替える。
 逃げられたものは仕方ない、今回は相手が一枚上手だったと賞賛しよう。

 だが、それはそれとして。

「大義(わたし)の邪魔をする古臭い人形共は、壊しておきましょうか」

 爽やかなスマイルを浮かべながら、光の狂気は目の前の粛清対象達を見やった。
 重ねて言うが、結末は見えている。
 アルマナは命を繋ぐため、自分を守る大事な手札を手放してしまった。

 光が舞う。青銅の忠義が、これに応じる。
 刃と刃が奏でる鋭い音と、次いで重厚な何かが砕け散る音。
 暴力による暴力のための狂想曲が、暫し千代田の裏路地を揺らした。



◇◇



「――よかった、のか……?」
「よかったのかと言われると、よくはありません。後で王さまから大目玉を食らうでしょうが、甘んじて受け入れるしかないでしょう」

 スパルトイ達には足止めに全力を費やすことと、全滅だけは避けることを言い含めている。
 つまり、何体かを"持っていかれる"ことは承知の上での奇策だ。
 言うまでもなくそれは、王を連れず行動しているアルマナにとって大きな損失。
 スパルトイが全騎揃っていてもてんで足りないような魑魅魍魎が跋扈するこの東京で、彼女が捨てた手札の価値はあまりに大きかった。

 悪国征蹂郎が倒れれば、それすなわち刀凶聯合の敗北を意味する。
 今まで彼らにかけた時間も手間もすべて無駄になるのは当然として、最もまずいのは彼のサーヴァントが野放しになる事態だ。
 レッドライダー。あの戦禍の化身が要石を失い、他の誰かの手に収まる可能性。
 これこそが真の最悪だと、アルマナは港区での交戦の映像を観た時に理解した。
 アルマナに言わせれば征蹂郎はまだ穏健派のマスターだ。
 だから事はまだこの程度で済んでいるのだと、果たして彼は気付いているのか。

 規格外の戦力。魔力補給に頼らない燃費の良さ。周囲に精神汚染を撒き散らす災害性。
 本来なら一騎で聖杯戦争を終わらせかねない特記戦力だ。少し考えただけでも極悪な使い方が山程思いつく。

 誰もが恐れる筈だ。そして誰もが、欲する筈だ。
 赤騎士を征蹂郎以外の手に渡らせてはならない。
 そのリスクを排せるなら、スパルトイの損失など決して惜しくないと断言できる。

「……キミには、世話になりっぱなしだな」
「いえ。アグニさんの方こそ、先ほどはありがとうございました」
「……、……? 何のことだ……?」
「――――手を。握っていただきましたので」
「……ああ……。そんなことか……」

 アルマナは、こう考え始めていた。
 悪国征蹂郎は、自分の手でコントロールできる。

 彼の人生は刀凶聯合という共同体に縛られている。
 虚構の家族を居場所と信じ、そのために戦う愚かな道化(ピエロ)。
 その上、部外者である自分にまで思い入れのようなものを示し始める単純さだ。
 手綱を握るのは容易い。彼を傀儡に変えられれば、あの赤き騎兵も自分達の支配下に置ける。

 アルマナ・ラフィーは優秀だ。
 魔術師として必要な素養をすべて満たしており、それは精神面も例外ではない。

(ノクト・サムスタンプのような男に奪われるくらいなら、いっそアルマナが手中に収めてしまおう)

 彼が向けてくる信頼すら、道具として弄んでみせよう。
 最後に勝つために、アルマナは手段を惜しまない。惜しんではいけない。
 他人を信じることを美徳とする人がどんな末路を辿るのかは、自分が誰より知っている。

 だから、そう。
 今の言葉だって、ただの処世術だ。

 まだ熱が残る左手を、きゅ、と小さく握りしめた。
 線となって消えていく夜景を横目に、少しだけ俯く。
 それから首を横に振り、降って湧きそうな何かを蹴散らした。

「ところでアグニさん、ひとつ進言があるのですが」
「……ああ、分かってる」

 アルマナの腕に抱かれた格好のまま、征蹂郎はスマートフォンを取り出す。
 考えていることは同じだった。こうまで状況が動いた以上、もはや四の五の言っていられない。

「ノクト・サムスタンプを問い質そう。事と次第によっては……、……もはや信用するに値しない」

 こちらの提示した条件の進捗も不明な状況だ。これ以上は信用問題である。
 ただでさえ見え透いた獅子身中の虫、外患に加え内憂にまで胃を痛めるのは御免だった。

 アルマナは無言で、それにうなずく。
 あの"傭兵"に関して、彼女は征蹂郎以上に不信を抱いている。
 レッドライダーを欲しがる意思を隠そうともしなかった時点で、信を置ける相手では断じてない。その上"王さま"のお墨付きだ。
 それに胸に秘める思惑を実行に移す上でも、征蹂郎と先約を結んでいる彼の存在は目の上の瘤でしかない。
 いざとなればそれこそ、征蹂郎をノクト排除に誘導することも視野に入れねばなるまい。

 征蹂郎が、端末を耳へと当てた。
 スピーカーモードにして貰う必要はない。そんなことせずとも、今のアルマナなら通話の一切を聞き分けられる。


『――おう、大将か。悪いな、色々立て込んでて連絡の暇がなくてよ』


 そうして響いた声は、あの時と同じ鼻持ちならないものだった。
 征蹂郎が眉根を寄せる。無理もないことだと、アルマナは内心思う。

「言い訳はいい……それよりも、状況を伝えろ」
『デュラハンのひとりを殺った。だが、こいつが予想外な隠し玉を持っててな。殺せはしたが、死ななかったってとこだ』
「……どういう、ことだ……?」
『言葉のままだよ。新手の死霊魔術か知らんが、首をへし折ったのに動きやがった。リサーチ不足だったな、弁解の余地もねえ』

 不死者(アンデッド)――。
 征蹂郎とアルマナの脳裏に、同じ少女の姿が浮かんだが。

『ああ、違う違う。安心しな、アレとは比べ物にもならねえよ』

 ノクトは、さながら思い浮かべたものを見通したようにすぐさま否定した。
 そのレスポンスの速さと、有無を言わせない語調には、この男らしからぬ私情が覗いているように思えた。

『不死なんて大層なもんじゃ断じてない。単なる手品だ。次の機会があれば、きっと問題なく殺せる』

 取るに足らない獲物に対して語るには、過剰と言っていい否定と侮蔑。
 合理の怪物めいた傭兵が垣間見せた人間性らしきものが、却って妙に不気味だった。
 踏み込んではならない禁足地の入り口を思わせる不穏な静寂が通話を通して満ちる。
 征蹂郎もそれを感じ取ったのだろう。彼は訝る声音はそのままに、話を変えた。

「周鳳狩魔のサーヴァント……"ゴドー"による、襲撃があった。被害は、……甚大だ」
『へえ、本拠襲撃か。敵さんの情報網もなかなかのもんだな』
「とぼけるな」

 征蹂郎の語気が強まる。
 無理もない。今の物言いは、仲間を何より重んじる彼にとっては決して許せないものだったから。

「お前が予測できなかった筈がない……。天秤にかけたな、オレの仲間を……」
『おいおい、ちったあ信用してくれよ。
 まあ確かに可能性のひとつじゃあったが、前もって伝えなかったのは何も陥れたいからじゃない。
 最前線(フロントライン)から厄介な戦力が退けてくれるなら、それはそれで好都合だと思っただけさ』
「――ッ」
『大将にはアルマナの嬢ちゃんが付いてる。マジでやばくなったらカドモスも出張ってくるんだろ?
 そら見ろ、リスクヘッジは万全だ。優先して潰すべき可能性とは言い難い』

 ノクト・サムスタンプは悪国征蹂郎と契約を交わしている。
 どんな理由があろうとも、刀凶聯合の仲間を意識的に犠牲にするような策は許さない。
 それを初手で破ったのかと罵ってやりたいのは山々だったが、征蹂郎はそうできなかった。
 彼も王である。一軍の将である。戦争に勝つというのがどういうことかは、分かっているつもりだ。

『薄情者と言われりゃ返す言葉もないが、別に捨て駒にしたわけじゃあねえ。
 あくまで優先順位の問題で、より勝ちに近付ける方を取っただけだ。
 嬢ちゃんがちょうどよく強行偵察に出てくれてたんでな。お陰で楽な仕事だったぜ』

 ノクトは聯合の兵士を捨て駒になどしていない。
 彼らと征蹂郎に及ぶ危険よりも、目先の勝ちを狙いに行ったというだけ。
 聯合を勝たせるための合理的な思考が、契約に悖らない範囲で冷血に傾いただけのことである。

 その結果、夜の虎は敵陣に堂々と踏み込み、暗殺を遂行できた。
 結果だけ見れば失敗でも、標的が持つ稀有な体質を暴き立てたという成果は大きい。
 これを横紙破りだと罵れば、それは征蹂郎の王としての沽券を毀損する。
 そう分かってしまったから、征蹂郎はそれ以上何も言えなかった。

『納得してくれたか? じゃあこっちの話をさせて貰うぜ。
 今、俺は〈脱出王〉と交戦してる。どうにも旗色が悪くなってきたが、それでも一撃重たいのを叩き込んでやった。
 化けの皮を一枚剥いでやったよ。私情を挟むのは自分でもどうかと思うがね、正直胸がスッとした』
「……、……」
『それと、アンタ新宿にライダーを投下したな?
 期待通りに暴れてみせたようだが、悪いことは言わねえ。そっちも一回退かせろ』
「――理由は」
『巡り合わせだ。厄介な奴が、よりにもよって俺達の稼ぎ頭のところに出てきたらしい』

 そこで、ノクトの声にまた感情が垣間見えた。
 ただし今度のは、さっきのような偏執的なものではない。
 もっと月並みでありふれた、そう、喩えるならば。

『蛇杖堂寂句の出陣だ。もう一度言うぞ、一度退け。あの爺さんと戦場で出会って、碌な目にあった奴を俺は知らん』

 どう扱っても角の立つ厄介な人間に対するような、辟易の念。

 ちょうど、ノクトが吐き捨てるようにそれを告げた瞬間。
 征蹂郎は身体を突き抜けるような熱に、発しようとした声を奪われた。



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最終更新:2025年07月21日 23:42