其処が地上の如何なる場所であるのか、それとも陽の光届かぬ地下なのか、あるいは陽よりも更に高みにある深奥の地であるのか。
推察できる者は何処にもいない。玉座で嘲笑う主を除けば、覇道と求道の二極に到達せし稀代の超越者であるか、漆黒の権能を体現する黒の王でもない限りは。
窓も無ければ敷居もなく、入り口と出口すら果てなく見えず、音も生物の気配すら一切感じ取れず。永遠に続くと錯覚するような回廊が一直線に延びている。深海を思わせる、淡く深い青を孕んだ闇の中、茫洋と吊るされた機関灯が等間隔に、見えなくなるほど遠くまで並んでいる。
光と闇の無限回廊。
完成された静寂の空間。
しかしそこに今、静けさを乱す硬質の音が紛れ込んでいた。
それは、一人の男から響く靴音だった。
こつり、こつり、規則正しい音が闇の中に反響する。音の主は真っ直ぐ、単調に、回廊を悠然と歩いている。
黄金の男であった。先をも見通せぬ黒と白のコントラストが支配する世界に在って、尚も男の総身は色褪せぬ黄金の輝きを放っていた。それは男の纏う財の輝きであったが、同時に人の意思の輝きたる尊き黄金でもあった。
不意に、足音が止む。続き、重厚な門扉が開く軋んだ音。目の前には名状し難い金属の光沢と古び黒ずんだ木製に覆われた巨門が、表面に刻まれた幾千の魔術的言語も露わに、幾星霜待ちわびた来客の到来を告げるかのように押し開かれて。
「───」
僅かに唇歪めて、男は躊躇なく足を踏み入れる。不遜に、泰然と、何をも恐れることなく。
───男を迎えたのは、距離感が狂うほどの広大な書庫であった。
見渡せど右も左も果てはない。見上げても頂上の見えない巨大な書庫が、どこまでも途切れることなく等間隔にずらりと並んでいる。
これほど広いにも関わらず不可思議な狭苦しさを感じさせる空間だ。それは果てなく詰め込まれた膨大な書の数々という、この空間が内包した質量があまりにも巨大に過ぎるからだということは語るに及ばない。
納められるは洋の東西に形作られた年代、様々な装丁や様式、各国の言語はおろか象形文字やおよそ人類史に存在しない文字の数々。書から木板、粘土板、骨や亀甲から近未来的な合成樹脂の記録媒体まで。数え切れぬほどの叡智と想念が交錯する。
此処には、あらゆる書が収められていた。
此処には、あらゆる知が満たされていた。
それらは人の綴ったメモリーだ。人類が遺した、あるいはこれより遺すあらゆる智慧に他ならない。三世の果て、外典に記されしカルシェールの黙示録に他ならない。
故に、幸か不幸か此処に迷い込んだとしても、長居してはいけない。正気が惜しければ。目を閉じ耳を塞ぎ踵を返すべきだ。此処はおよそ尋常なる地ではない。
例えば、この世のあらゆる智慧を納めた《緑色秘本》と《赤色秘本》が。
例えば、狂気なりし雷電王さえも遠ざける《水神クタアト》が。
例えば、美しくも悍ましい言語で埋め尽くされた詩劇《黄衣の王》が。
例えば、今は亡き星系を記す浮き彫りの粘土板《ガールン断章》が。
例えば、遥かドリームランドに納められし古の神々の記録《サンの七秘聖典》が。
数多の冒涜的神秘が眠っている。故に、人は其処へ近づいてはならない。狂気に耐えられないのであれば。メスメルを修めたとしても耐え得るかどうか。
これなるは《根源》の一。誰もが、神秘に魅入られた愚かなる者すべてが追い求めやまぬ場所。聡慧なりしプトレマイオスの蔵知窟。
窮極の門の向こう側にあるとされる、城よりこぼれた欠片の一つ。
廃せぬものだけが、そこに辿り着けるという。
廃せぬものだけを、そこで待っているという。
それすなわち、漆黒のシャルノスと全く同じに───
「……」
男はおもむろに立ち止まり、書架から書を一冊取り出した。その手には淡青色の光を放つペンデュラムが下げられ、丸窓から差し込む月光のように、磨き抜かれた宝石の振り子から放たれた光は指向性を持って一点のみを指し示している。男はそれを指針に選んだのか。自らが真に必要とする書を。
《太陰星君経世書》と名付けられたその古びた書は、神代以降のあらゆる月の満ち欠けとその異常を記した記録図であり、月齢と魔力の相関を用いた占星術の奥秘すらもが記述されている、写本を含めても世界に五冊とない貴重な書物であった。
それは人の正気を蝕む冒涜なる魔道書であったが、同時に月に纏わる全ての歴史が記された備忘録でもあった。そう、全て。この書は月に限定すれば読む者に全知を与える禁書だ。
月の都に旅立った罪科仙女の記録も。
千年の昔に月の彼方まで到達した夜の王についての記録も。
人類発生に際し月より降り立った原初の女についての伝承も。
およそ人の知り得ぬ真実の全てが書き連ねてある。その気になれば星天の運行すら操り、連動する地脈の流れをも我が物とすることさえ叶うであろう。
人の身には過ぎた力と誘惑。だが男の欲するところは得られたのか、中身を一瞥するように検分すると、秘められた叡智も成せる業も全ては瑣末事であると言わんばかりに嘆息し、あとは興味も無さげに書架へと戻したのだった。
続いて彼が手にしたのは《神祇邯鄲録》と称された書物だ。それは歴史の闇に消え失せた鬼面の残党が遺したものであり、人の夢に纏わる奥秘を記した書だった。
成立年代は比較的新しく、これを著した者は来たる露西亞との戦いに備え、この書に記された術法を用いて不死の軍団を創造していたとか。
どこまでが真実なのか、それは分からない。男はまたもつまらなさげに目を通し、更に検分の手を進める。
三度手に取ったのは、真新しい歴史書であった。背表紙には《上海幻夜》と銘打たれ、しかしそれは先の二冊のように人を狂わす魔道書ではない。およそ神秘に属するものでは、ない。
何の変哲もない歴史書だ。しかし男の表情には、何故かこれまで見ることのなかった確信のような色が浮かんで。
「ふ───」
湧き上がる諧謔の念、そして。
「ふ、はは───ふははははははははははははは!」
次瞬、響き渡るのは哄笑の声だった。
嗤いに歪む顔面を抑えつけ、男は身を震わせる。しかしそこにあるのは、断じて愉悦の感情ではない。
「なんとも笑わせてくれるではないか! 随分とつまらぬ世に召喚されたと思っていたが、まさかここまで腐りきった腑を晒しているとはな!
肥大化した人の欲は夢死の毒薬に飽き足らず、斯様な偽神まで産み落としたか!
滑稽なるかな愚昧共よ、己が内にしか存在せぬ妄念を投射して一体何処を目指すという!」
停滞と鬱屈が支配する、旧い遺跡のような空間の中で。
男の哄笑がただ一つの動あるものだった。そこに含まれるのは何某かへの侮蔑と万民への哀れみ、そして痴れた音色に覆われた世界へと向けた嘲りの感情であった。
「滑稽だが、しかしそれも道理よな。人より生じ人を愛し、故に人が滅ぼさねばならない人類史の歪み、それこそが奴だ。神を望まれ神へと至り、しかし神に在らざる人の業だ。
ああ得心したぞ、どだい神では世界を侵す愛など抱けまい。人であるがために、奴は救済へと手を伸ばしたのだ。例えそれが醜悪極まる贋作であろうともな」
男以外に誰もいないはずのその場所で、しかし男は誰かに語りかけるように言葉を続ける。それは諧謔が為す気紛れであるのか、あるいは本当に誰かへと言葉を投げかけているのか。
「人の業、其は普遍にして不変。だがこれは流石に看過出来ん。欲など幾らでも張れば良いが、未来のない欲は我の趣味ではない。ましてそれが、人に在らぬ悪神の手引きなら尚更に」
鷹のような眼光は遥か彼方を見据えて、嗤い浮かべる顔と声とは対照的に一切の感情を伺わせない。彼は世の有様に諧謔を感じながら、同時に深い思慮を重ねているのだ。
故に、声は───
───闇は、嗤った。
『ならば、お前は何を為す』
『この果てなく無意味な世界で』
「愚問。何を為すかなどと」
男の声は揺らぐことなく。ただ決然とした意思のみを伴って返される。
「これなる当世、我欲に溺れ自滅する雑種など知ったことではない。我以外に誰一人として、各々が裏に在る真実に辿り着けぬというならば、我も世界もそれまでの器。我が最強の証明を墓標として共に朽ちるのみよ」
「だが」
「貴様だけは話が別だ。どのような結末を迎えるのだとしても、いずれ降誕する貴様だけはここで断つ」
「何故なら貴様は英霊どころか人でもない。人の生み出した七つの大災害ですらない。人類が自らの罪で消え去るならばそれまでだが、関わりなき外敵は払うのみよ」
「それすなわち、王たる我の責務故に」
────────────。
男の投げかけた言葉に、姿なき声が反応を示すことはなかった。
向き合うこともなく、遥か高き玉座に在って。男の存在を意にも介さず。瞳を揺らすこともなく。
ただ、嘲りの嗤いだけを浮かべて。
『それは、どうかな』
反響する。
────────────。
「……時間か」
感慨もなく呟き、男は億劫な面持ちで己が体を見下ろした。
その総身にはこれまでとは別種の輝きがあった。薄っすらと体を包む赤い燐光。令呪が行使されたことを示す光だった。
「笑えよ、貴様が造物共に施した令呪のほどは見ての通りだ。いつの世も、神々の鎖は忌々しく在り続ける」
その瞳に映し出すのは遠い過去か。男の辿ってきた旅路、それに思いを馳せているのか。しかし思い浮かべるのは思い出や英雄譚といった陽性に属する類のものではあるまい。そうであったならば、ここまで純粋な殺意を露わにすることなどできるはずもないのだから。
そう、男は怒っている。怒り、蔑み、排撃の意思を昂らせ、透徹した殺意は一周して静謐の気配を形作るまでに至っていた。
それは人を裁定する王としてか。
それは神を憎悪する人としてか。
男は最早用は済んだと視線を外し、重く踵を返して。
「何時の日か、貴様も地に墜ち天を仰ぎ見るだろう。その時まで。
待て、しかして───」
男は金色の粒子となって消え失せた。この空間から、この世界から、在るべき元の場所まで戻ったのだ。それきり一帯から音は無くなり、耳が痛くなるような冷たい静寂だけが取り残された。
果たして、彼は最後に何と言ったのか。
聞こえぬ声に、しかし分かることは一つだけ。
彼が悪神に与える言葉に、希望的な要素など何一つとして存在しないということ。
これは過去。聖杯戦争が始まるより前、英雄の王が顕現した時の話。
月におわす混沌が、地上に降りるよりも前の一幕である。
───アラヤに新しい情報が登録されました。
【宝具】
『アレクサンドリア機関図書館』
ランク:EX 種別:文明宝具 レンジ:- 最大捕捉:-
世界の何処かには喪われたアレクサンドリア図書館がかつての規模以上で保存されているという。
超大型の階差機関を中心とした完全機関化が施され、 今では図書館そのものがきわめて高度な情報処理機械と化しているとか。
チク・タク。
▼ ▼ ▼
誰か嗤っている。
ケタケタ
月が嗤っている。
ケタケタ
誰が?
月が?
それとも、他の、何か?
▼ ▼ ▼
「この聖杯戦争が始まった当初において、答えに一番近かった者は奇跡の魔女だった」
声が響く。それは、光満ちる空間の中で。
万色に包まれた厳かな空間。まるでステンドグラスから差し込んだ光が色とりどりの影を落とすように、目も眩むような鮮やかな光が途方もなく高い天窓から降り注いでいる。
だというのに、光満ちるはずなのに、ここは紫の闇に覆われて。
光と闇が奇妙な共生関係を成していた。それはまるで陽の光が差し込む深海のように、言い知れぬ矛盾と停滞が支配していた。
ここは塔。天へと至る世界の果ての塔の中。少年は塔の頂上に繋がる螺旋階段を、一歩、一歩と昇っていた。
「元来、魔女ってのはそういうものだ。特にカケラの海を渡る航海者は”世界を観測する”ことに長けている。いわば在り方としての問題で、奇跡の魔女だけは他の連中とはスタートラインが違っていたってわけだ。今更言っても意味ないけどな」
少年は語る。残念そうに、あるいは憎々しげに。この程度かと嘲り吐き捨てるかのように。
”一番近くにいたなら一番早く気付かなきゃいけないだろうに”と。
「そう、意味はなかった。愚かなもんだよ、誰より奇跡に近かったのに結局何をも掴めなかった哀れな女。
百年の絶望からオルゴンを手放した末路があのザマなら、奴より
古手梨花のほうが余程望みがあるってもんだ」
ベルンカステル。奇跡の魔女。彼女は確かに強大な存在だったが、その成り立ちはとある少女の半身が引き裂かれたことに由来する。
すなわち絶望、虚無、人としての悪しき意思。明日を生きるため光へ歩みだした少女の反存在であるベルンカステルは、故に当然、人なるものの尊き意思たるオルゴンの輝きなど一片足りとも持ち合わせてなどいない。
仮に顕象された魔女がベルンカステルではなかったならば。
例えば、努力の結実の象徴たる絶対の魔女であったなら。
例えば、果てなきものを追い求めた黄金にして無限の魔女であったなら。
例えば、影の騎士を付き従える幼ごころの君たる薔薇の魔女であったなら。
きっと話は違っていただろう。しかし彼女らはここにはいない。いたのは哀れな女だけだ。かつての自分、ただの無力な少女にすら敗北した光無き者だけだ。
「結局のところ、盲打ちを除いて自力で辿り着いたのは三人だけ。
一人は勇壮なりし英雄王。遥かな未来世までをも見通す千里眼を以てアレクサンドリア機関図書館まで踏み込んだ。
一人は絢爛なりし赤薔薇王。かの地に残された伝承と痕跡、タタリと頸木の存在を論拠として真実を暴き立てた。
最後の一人は狂気なりし死線の女王。正直これは予想外だった。常の奴ならともかく、この地のデッドブルーは狂わされていたわけだからな。
まあともかくとして」
少年は立ち止まる。こつり、階段を踏みしめる硬い音がする。
立ち止まり、顔を上げ、高みにいるものを睨め付けて。
「こんな分かりきったことを聞いてどうするつもりだ。なあ、───」
───……。
名と共に問われた、その者は。
言葉なく、蛇のような笑みを浮かべるのみだった。
最終更新:2019年05月29日 14:21