───落ちていく。
落ちていく。
落ちていく。
ふんわり、落ちていく。
目を覚ますと……
ううん、そっか。わたし、眠ってたんだ。
ランサーさん……もうそうじゃなくなってしまった彼女を見て、
キーアちゃんとアイちゃんとお話をして。
眠いのを我慢して、我慢して、でも、やっぱり眠くてどうにもならなくて。
ふらっと転びそうになったところを、アイちゃんに助けてもらって。
大丈夫だよ、って言うアイちゃんに、なんだか暖かいなぁって思いながら、わたしは瞼を閉じて。
眠った。
うん、わたしは眠っているんだ。
だからわたしは落ちていく。
気付いたら、こんな風に落ちている最中だった。
前に感じたものと、似てる。
ちょっと違うかな?
ここはどこ?
これはなに?
分からない。
分からないのは前と同じ。
みなとくんみたいに、話してくれる人が、今度はいないだけ。
ただ、ただ、落ちていく。
どこまでも続く深い穴の中を落ちて。
周囲を埋め尽くすのはなんだろう。
海?
水?
ううん、違う。
見えているのは、ざぶんと勢いよく流し込んだ水にできる泡みたいな、青い色をした光の粒。粒。粒。
たくさんの輝きの形。
群青色の海中に降るマリンスノーのような。
なんだろう?
これ、なに?
ぷかぷかして、きらきらして、不思議。
落ちる。
ああ、わたし、どんどん落ちていく。
落下。
重力。
そういうものとは違う。
それとは何か別のもの。
星宙の中を駆けていくような、深い水の底に沈んでいくような。吸い込まれる感覚。
落ちていく。
でも、消えたりはしない。
どこかへ、流れて、落ちていくだけ。
どこかへ、流れて、渡るだけ。
何を───
渡るんだっけ───
《───おや》
……ふと。
声がした。それは何重にも反響する、不思議な声。
誰の声だろう。セイバーさんたちじゃない、と思う。
どこからか聞こえてくる声。
落ちていくわたしの目には何も映らない。
見えるのは、無数の青い光の粒と、それを取り巻く群青の空間だけ。
《おやおや。これは、可愛い仔猫とは》
仔猫?
わたし、猫なんかじゃないよ。
《こんなところまで迷い込んでしまったか。
可愛らしい仔猫。蜂蜜酒を飲んだわけでもあるまいに。
名前は何という?》
《なるほど。ふふ、可愛い名だ。どうやら、きみはかの星渡りたちの眷属であるらしい。
それに、ああ。驚いた。刹那ならざる諧謔の神格とも縁を結んでいるとは。
珍しい子なのだね、きみは》
……わたし、普通の女の子だよ。
見えないあなた。聞こえるあなた。あなたはわたしのこと、そういう風に言うけど。
わたし、ただの女の子なんだから。
《だからこそだよ。遠きヒアデスの対となる星の名を持つ子。
普遍とは未だ何者でもないということであり、逆に言えば何にでもなれる無限の"可能性"なんだ。
それは例えば、きみの胸にある"星"のように。小さくも仄かに輝きを放つ》
よく分からない。
夢だからかな、そんなに不思議な言葉なのは。
あなたは誰?
わたしに見えない、わたしに聞こえる、あなたは誰?
お爺さんみたいな、男の子みたいな、不思議な声。
あなたは誰?
《私はトート・ヒュブリス・ロムという。
黄金を瞳に戴く者だが、太極座に至る求道者たり得なかった》
聞いたことのない名前。
日本人じゃない、外国の人?
心当たりもないし、
やっぱり、これは夢なのかな。
《私のような者の前に顕れてしまうとは、きみの"起源"となった人物は随分と優しい少女であるらしい。
それとも、自分が何者であるのかを定めかねているからかな。
さりとてここはヒュプノスの領域にほど近い。そちらへ行ってはいけないよ》
ヒュプノス?
なに?
わたしは首を傾げる。
すると、くいっと体が傾いて、どこかへ吸い込まれるみたいな感じがした。
名前を呼んだせいなのかな、って、わたしはなぜか思う。
名前を呼ばれた誰かがわたしを引き寄せてる。
そんな感じ。
うん、そんな感じ。
《いや。そちらはいけない》
え、なに?
《薄暗いバーがあるだろう。そこへ行ってはいけない。
そこにはひとならぬものどもが集う。
プレアデスの名を持つきみを彼らが見れば、きっと、何か思い違いをしてしまうだろう。
黒の王の機嫌が悪ければ、ひと呑みにされてしまう。
もっとも、黒の王も近頃は変質したようだけれど》
黒い王さまって、なに?
そういえば蜂蜜酒って言ってたっけ。でも、わたしバーになんか行かないよ。未成年だもん。お酒飲める歳じゃないし……
《いや。きみには分からないことだったか》
分からないことばっかりだよ、わたし。
分からないこと、教えて欲しいよ。
じゃないと、わたし、いつまでたっても役立たずで。
みんなのこと、助けられないし。
こんなわたしでも何か変われるんだって、そんなことも思えなくなっちゃう。
そんなの、わたし、嫌だよ。
《きみが知らぬのも無理はない。知ればきみの夢は霧散し朝露と消えてしまうだろうから。
夢を夢と知ってしまえば、あとは目覚める他にない。認識した現実の中に、夢の居場所など何処にもない。
ヒュプノスの領域に近づけたのも頷ける。どちらかというと、オネイロスの領分ではあるけど》
分からないよ。
あなたの言ってることも、わたし、
何も分からない。
《ならばこれはどうだろう。
きみの行くべき場所は他にある。できれば、そこへ至ってほしいものだが》
え。
わたしの行くべき場所?
どこ?
《きみの助けを必要とする人がいる》
ひと?
《そう、人間だ。
超人でも狂人でもない、ありふれた一人の少女だ。
きみと同じような》
わたしと、同じ?
その人のところに行けばいいの。
でも、それはいったいどこに……
《きみの行くべき場所。それはたった一つだけ。
運命の奔流に産まれ落ちた一人の人間の物語。
一輪の花の如き少女幻想の中心核。
天神の災厄襲う世界の真ん中で、暖かな日常を守り切った少女の。
外側から、炎から、異空から、外宇宙から。
そしてかの王の顕現体のひとつからさえも守り抜いた。
花結いの意志と想いが込められた物語》
周囲に煌めく光の粒が、にわかに瞬く。
それは本の頁が勝手に捲れるように。
進んで、戻って。進んで、戻って。
題名を告げるかのように、その人は言う。
《名を、『勇者の章』という》
……勇者。
その人のところに、行けばいいんだね?
《そうだね。そしてそれ以外にきみの行くべき場所はない。
我がカスパール体に非ざる月が見下ろす都市。きみはそこより生じ、そこに還る他にない。
残念だよ。きみがすばるという名の でなければ。本当のすばるであったならば。
あるいは、夢を歩き、夢を渡り、幾万、幾億、幾星霜の果て、物語られる世界を渡ることもできただろうが》
……え、と。
だから、分かんないよ。
もっと簡単に言ってほしいな……
《きみは旅人ではなく帰り人なのだよ。
そして、物語を渡ることこそ叶わないが、代わりにきみは何にでもなることができる。
他者から押し付けられた"かたち"など、きみには何の意味も為さない。
きみにはすべてが許されている。
何と為すのもきみの自由だ。
例えば、そう。運命樹を遡り、五十六億七千万の月日の果てにきみ自身を再定義することも、また───》
あれ、聞こえなくなっちゃった。
待って……!
ちょっと、待って。
わたしは言おうとするけど、その時初めて気づいた。
そういえばわたし、きちんと声だけの人と話してない。
わたし、声を出してない。
「待って」
言いかけたけど、もう、声は遠くへ消えていて。
わたしは───
今度は、上がっていく。
落ちるんじゃなく、引き上げられていく。
浮遊感。
ふわふわとした、けれどどこか急ぐような。
「わ、わ、わ……」
自然と声が出る。
それくらい、体に感じる力ははっきりとしていて。
おかしいね。夢なのに、体の感覚あるんだ。
それなら、本当に……
「夢を現実にすることも、できるかな」
わたしは、小さく呟いて。
そして、意識の戻るべき場所へ、ふわりと浮き上がる。
───それは、少女たちの物語。
───そして。それから。別の、次の、物語。
最終更新:2019年06月21日 14:44