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じゃあ、ある男の話を取り上げてみるとしようか。
時代が生んだ歪みであり、生まれるべくして生まれたキメラ。
意図せず重なった数多の要因により形作られた怪物は、如何にして半陰半陽の窮極へと至ったのか。
これから少しだけ、それを語ってみるとしよう。
時は第一次大戦下まで遡る。世界中が狂気に酔いしれて疲弊していく最中、彼はうら寂れた貧民窟でこの世に生を受けた。
当然、母親は花売りさ。それしか生きる術がないし、ついでに言うなら父親はその稼ぎで酒に溺れるロクデナシだった。
この事実だけでも、少年の生まれが祝福に満ちたものなんかじゃないってことは明白だね。
これで親が彼を愛していたならまだ救われたけど、もちろんそんなことは全然ない。
彼を生んだのは暮らしのため。女を生んで自分と同じ娼婦仲間として稼いでいくためだった。
子供は男だろうって? ああその通り。だから彼の母親は心底落胆したし、彼を人間として扱わなかった。
劣悪極まる環境だって思うかい? それともあまりの不幸に同情でも抱くかな?
まあ確かに、まともな神経ならこの先の未来に希望なんて持てるはずもない。君の時代の人間なら……いや、ボクの時代の連中でも、これが作り話じゃなくて事実だと知ったらさぞや眉を顰めることだろうね。
けど悲しいかな。その当時の情勢は戦時下だ。
狂気が正気。異常が正常。すべての価値観は愚かしくも歪み、けれど理性を取り払った純然極まりない代物だったわけだ。
この程度の不幸はどこにでも溢れている。だから彼の誕生は容認され、畜生としての生を世の道徳に見過ごされてしまった。簡単に言ってしまえば、生まれながらの負け犬ってことさ。
それでも少しだけ。ほんの少しだけ彼が特別であるという部分を挙げるなら、それは二点。
まず一つ。彼は女じゃなかったが、それでも娼婦として無理やりに働かされたってこと。
男娼ってわけじゃないよ。男だった彼に母親は怒り狂って、ナイフで男性器を切り落としたんだ。だから彼は自分のことをずっと女だと思って生きてきたし、事実ホルモンバランスが崩れた彼は中性的で美しい容姿を得ることができた。
彼はそりゃ綺麗なもんだったよ。綺麗すぎた。娼婦として絶頂を迎えた彼は、対照的に美貌に翳りが見え始めた母親の嫉妬を買ったんだ。今度は右目を刺されて、お前は出来損ないと狂笑する母親の姿は彼のトラウマになった。
医者になんて診せられるわけもない。母親は化膿し腫れ上がった顔を指して嘲笑い、虐待を受けながらも彼は客を取ることを強要された。そして現れた父を名乗る男から、今度は目を抉られた上でそこを凌辱された。
これだけならまだ耐えられたかもしれない。けどね、父親は彼が女ではなく男である事実を告げた。折れ行く彼を支える唯一の頼り、自分は母親に愛される女であるというアイデンティティは斯くも容易く崩壊したってわけさ。
第二に、狂った彼は妄念を抱いたということ。現実に救いを見出せないから妄想の世界に逃げ込んだんだろうね。至極当然の成り行き、何ともつまらない行動さ。
けど彼がそこらの凡人と違ったのは、その妄想が狂信の領域にまで達してたってことだ。出来損ないじゃなくなれば母親に愛されると思った彼は、喪失した右目や局部に動物や人間の該当部位を押し込む凶行に出た。それ自体は何の意味もないけど、それだけ彼が妄念に囚われていたって証拠ではある。
この二点。これこそが、その後における彼の人生を凡百の敗者たちと決定的に分かつ要因となった。
人として出来損ないということは、人以外としての性質を得たということ。
それを祝福と信奉し、盲信した果てに、彼は真実の半人半獣として暴力の才能を開花させていくことになる。
皮肉にも生れは底辺でありながら、闘争においては類稀なる素質を備えていた。
背負い込んだ負の要因と反比例するかのように、少年は夜の世界において版図を広げていくことになる。
───結果、当然の経過として彼は親殺しを敢行する。
父を殺し、母を殺し、客として居合わせたごろつきも殺した。
愛されるがために足掻き、けれど愛を得られなかった子供はもう殺すことでしか自分の愛を証明することができない。
そして、彼はその殺人を機に確信を得て悟る。
───己は超越種だ。
それは誤認。しかし同時に、何よりも凄烈な存在への解。
───男でも女でもなく子を孕めないし産ませない自分は、故に世界でただひとつの生命体。
ああ心地よい倒錯感。度し難い思い込み。それであるが故に、なお強く自己へともたらされる変革の産声。
───この世の誰ひとり、己に敵う者はいない。
狂念は現実を歪め、現実的な力をもたらしながら深まっていく。
その結果として、ここに妄執は真実へと姿を変えた。
肉親の殺害に、しかし彼は後悔など何一つ抱かない。
何故なら彼の愛は轢殺の轍。彼にとって愛情も憎悪も、最終的にすべては殺害へと帰結する。故に父母はその死を以て彼の愛を証明し、永遠に消えない轢死体となって彼の背後に積り重なっている。
何という無知蒙昧。愚行極まる短絡的な思考と、それを躊躇なく実行する異常性を孕んだ行動力。
獣の脳にそれは酷く単純な道理であったし、現状を変える特効薬であったことは想像するに難くない。
事実、肉親の殺害以降、彼はまさに無敵だった。その人生において然したる難敵は現れず、阻める者もまたいない。まさに意のままの状況が続くことになる。
彼は環境の生んだ半人獣。
あらゆるものを叩き潰し、人を食い殺す凶獣として己が存在を確立させていく。
後天的だけど、しかしある意味で先天的と言えるだろう。
時代背景によって誕生した戦争の申し子。
その彼にしてみれば、この瞬間は人生における栄光の期間だった。
それは自らの同種であるヴィルヘルム・エーレンブルグと出会い、諸共にラインハルト・ハイドリヒによって屈服させられるまで、無敗の歴史として続くことになる。
故に───
「勘の良い君ならもう分かるんじゃない?」
茫洋と。
煙に巻かれたかのように、揺蕩っていた思考が引き戻された。
………。
……。
…。
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▼ ▼ ▼
「Haenschen Klein ging allein in die weite Welt hinein.
Stook und Hut steht ihm gut,ist ganz wohlgemut.」
月明かりの下、空けた無人の空間に歌声が流れる。
美しく、天使のような旋律は、しかし聴衆のいない場所においてはただ微かに反響して消えるのみだ。
既に生物の死に絶えた街では、どれほど明るい曲調ですら鎮魂歌にしかなり得ない。
その中で奏でられるは如何なる声か。如何なる心で、斯くも陽気に喉を鳴らすのか。
「Aber Mutter weinet sehr,hat ja nun kein Haenschen mehr.」
Haenchen Klein(幼いハンス)。
かの有名なオランダ民謡を歌っているのは、ひとりの少女。
いや、少年であろう外見を持つ者であった。
長く伸びた白い髪が流れるように景色に舞い、軽快なステップがワルツとなって地面と音を鳴らしている。
瞳だけが茫洋とした光を宿し、目に映るものとは別の光景を宿していた。
「Wuensch dir Glueck,sagt ihr Blick,Kehr nur bald zurueck.」
彼は御伽噺から抜け出した真実の妖精。
現実に住めない存在ならば、見ている世界は幻想であるのか。
故に当然、彼の自意識はここにはない。
心は彼方で宙を舞い、記憶は混濁の最中にある。自分が今歌を口ずさんでいることさえも、恐らくは認識できていないだろう。
しかしこの上なく純粋で余分がなく、妖しかりて美しい。無垢であるために現実には在らぬ異界の美を放つ。
その、妖精が踊る非現実めいた世界に───
「シュライバー……」
わずかに響く、幼い靴音。
怪訝に、あくまで純粋な疑問となって放たれた声が、死都に流れる歌声を止めていた。
「……?」
その人影を、エミリーは最初、自分の知っている人間だとは思わなかった。
暗闇の中で、黒一色にしか見えない瓦礫の山を背に、白い身体が浮かび上がっていた。
くるりと振り向いた人影は、白い総身を服の一枚も着ずに曝け出していて、表情を彩る無垢さも併せ、エミリーの知る狂犬めいたサーヴァントとは思わせない気配があった。
「あれ? おねえちゃん、なんでわたしのこと知ってるの?」
「何を……」
言っているんだ、と言いかけて押し黙る。
こいつは一体、何がどうなっている?
星屑───白い異形の群れが大挙して押し寄せてきたのと時を同じくして、エミリーの腕に刻まれた令呪が一画、何の命令も下していないにも関わらずその輝きを消した。そして突如圧し掛かる膨大な量の魔力消費。文字通り身を削られる痛苦を味わった。
その異常性を放置してはおけず、けれど念話の呼び出しにも応じないシュライバーをまさか残る一画で呼びつけるわけにもいかず、エミリーはこうして彼の元まで足を運んできたわけだが。
「……あなたはエミリーのサーヴァント。エミリーを勝たせてくれるための、力」
「サーヴァント? あ、わたし知ってるよ。めしつかいさんのことでしょ?
この前お客さんが言ってたの聞いたんだぁ。でも、わたし、おねえちゃんと初めて会ったよね?」
首を傾げて考え込む仕草まで取り始めたシュライバーに、エミリーは真っ先に得体のしれない恐怖を抱く。
言ってることが支離滅裂だ。会話になっているようで、決定的に現状の認識がズレている。端的に言って頭の中身が狂気らしき色に染まっているのだ。
それは常の彼よりもバーサーカーらしいと言えなくもなかったが、どちらにせよ異常なことに変わりはない。
何もかもがかけ違ったシュライバー。しかしエミリーは知らないことだが、ある意味において彼の言動は一貫性が取れていた。再誕の前兆、小康状態に落ち着いている今、彼の意識は完全に過去の世界へと飛んでいる。
エミリーは一瞬、途方に暮れる。しかし彼女はそこに至って、初めて"近づく"という選択肢に思い至る。
あまりに異様な状況に、シュライバーのところに行くという行動を思いつかなかったのだ。
「……シュライバー!」
エミリーは掠れた声で呼びかけながら、シュライバーの元へと近づいていった。
駆けよるには疲弊し過ぎていて、重い足を引きずっていく。令呪を失った際に課せられた魔力消耗は元より、不完全な聖遺物の行使により心身共に限界が近づきつつある。
故に、彼女は深く考えることができなかった。
エミリーは一歩を踏み込んで、シュライバーの目の前に立った。
ここに来るまでに疲弊しきった体が、気が抜けて崩れそうになった。しかしエミリーは必死で気を持ち直し、何とか立ったままでいる。
取り繕う余裕なんかなくて、剥き出しの苛立ちや困惑や恐怖が表に出てきそうになっていた。
もう全部放り投げて眠ってしまいたい衝動に駆られるが、しかし完全に勝利を得るまで、まだ終わりではないのだ。
「……シュライバー」
エミリーは、半泣きにも聞こえる声で、シュライバーに呼びかける。
「もう行こう」
エミリーは他の言葉も思いつかず、そのまま黙った。
シュライバーは何も分からないかのように、ただ首を傾げている。
エミリーは緩慢な動作で、シュライバーの肩へ手をやった。が、触れる直前でびくっと引っ込める。彼の体に纏わりつく空気が、触れてもいないのに伝わってくるくらい、驚くほどに冷え切っていたのだ。
まるで死体のようだ。
こうして動いているにも関わらず、そう思ってしまうような何かが、この少年にはあった。
「おねえちゃん、わたしを連れてってくれるの?」
「……」
「やさしいなぁ、うれしいなぁ。わたしにそう言ってくれる人なんて、いままで誰もいなかったんだ」
沸き起こる暖かな喜びに、シュライバーは身を震わせていた。
歓喜、躍動、愛情の念。
それは人として当たり前の、誰もが持つ些細な感情だった。一般には良いとされる、時には善性とさえ呼べるような代物。
けれど、忘れてはいけない。
彼の感情は、愛情であれ憎悪であれ、最終的にすべては───
「わたしは、こんなにがんばってるのに」
───周囲の空気が、変質した。
彼、いいや今は彼女となったシュライバーの総身から、何か別種の気配が流れ出す。
全身を中てられたエミリーは一瞬で硬直すれど、その場から動くこと叶わず。
その眼前で、尚も変質していくシュライバーが沸々と何事かを垂れ流す。
「痛いよムッター目を刺さないで、何も見えないの暗くて怖くてねえどこにいるのわたしを置いてかないで。
そんなに目障りなのみんなに愛されるのがそんなに悪いことなの? うん分かってるよムッターのほうがきれいムッターのほうが美人ムッターのほうが何倍も愛されて分かってる分かってる分かってるよぉ……」
空洞になっている右目を抑えて、シュライバーがすすり泣く。
良く聞き取れず、しかしその微かな声の意味をくみ取った瞬間、エミリーは冷水を浴びせられたように鳥肌が立ち、言葉を失った。
「出来損ないなんて言わないでわたしを見てわたしを愛して愛して愛して愛して愛してもっとちゃんとした娘になるからそんなこと言わないで。
───あなたがわたしのファーター?」
哀願するような声は一瞬にして切り替わり、見も知らぬ誰かへの疑問となって口に出ていた。
彼の中での時系列がシフトしたのだ。今、彼は過去の出来事を走馬灯のように反復している。
「痛い、痛いよ、何するの放して、お願いやめて……
あ、ああ、あ───痛いィィィィッ!!」
身を切るような絶叫。
そして手のひらで抑えられた右目の空洞から、頭蓋の中身が全て溶けだしたのではないかと思えるほど大量の血液が、どっと溢れだした。
「あああ、あぁ、がああ、あああああああああああぁぁぁぁああああああああぁあぁぁぁああああああああああ…………!!!」
眼前で繰り広げられる狂気じみた叫びに、エミリーはただ顔を硬くする他になかった。
悲鳴が爆発する空き地の中でシュライバーの右目から漏れ出た大量の血液が、ばしゃりとエミリーの顔面に飛沫し赤色に染めた。頬と喉を伝う粘性がやけに生暖かく、顎が外れんばかりに広げられたシュライバーとは裏腹に、その口は必死に硬く閉ざされるばかりであった。
「ぼく、ぼく、わたし、ぼく……
ああ、なんで……ぼくは、息子……?
うあ、あ、あぁ……」
そして上がる、再度の絶叫。
「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁァァァッ───!!」
聞いた者の心に一生涯残るかのような、それはある種の断末魔。
顔中に浴びせられ、その残響が消えたあと、エミリーは虚空を見つめる隻眼に狂気の熱が灯るのを見た。
「……死ね」
短い文言に、計り知れない憎悪が宿る。
如何に豪胆な者であろうと、この目を直視することはできまい。エミリーは瞼を閉じることも許されず、ただ必死に目線を逸らすばかりで。
憤怒。まさに狂うとしか言えない嚇怒。
嵐の如き殺意がそこに渦巻く。
「ムッターもファーターも男も女も! みんなみんな、みんな死ね!」
地上最後のひとりまで、人という生き物を残らず殺し尽くしてやろうと。
「僕は───
僕は、あんな奴らと同じ生き物なんかじゃない!」
人として死んだ日の瞬間を、彼はここに再現していた。
忘れていながら忘れていないのだ。忘れられるわけがない。
これこそ、シュライバーにとっての精神と記憶の再構築作業。
彼の"渇望"によりその身は何よりも繊細となり、触れれば砕ける徒花の輩。
そして砕けた精神は逆行し、彼を織りなす過去を再現しながら現実へと戻ってくる。
これはその作業。半獣は触れられることで人に戻され、その過程を経ることで真なる獣に生まれ変わる。
そう、彼の渇望とは───
「───シュライバー!」
呪縛から解き放たれるように、一挙動に跳ね起きたエミリーがシュライバーの肩を掴む。
虚空に向かい吠え猛っていたシュライバーは、しかしその瞬間エミリーへと目を剥き、これまでに倍する嚇怒を込めた叫びを上げるのだった。
「わたしに触れるなぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ──────ッ!!!!」
───思えば、もっと早くに気付くべきだったのだ。
何故、彼の踊る周辺だけこんなにも無人だったのか。
何故、こんなにも星屑の溢れる中で、彼の歌う周辺だけが何もない空白だったのか。
万物に先んじ、万物を避ける彼の渇望とは一体何だったのか。
けれど全ては遅きに失した。
取り違えた選択をやり直す機会は、もうない。
暗転。
………。
……。
…。
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風が運んだ淡い花弁、春の追想。
蒼を繋いで流れる雲、夏の追想。
夜の窓辺に微笑む月、秋の追想。
大地を包み微睡む雪、冬の追想。
頭に過るものがある。それは、かつて受け取った想いの数々か。
あなたと見た景色、あなたと紡いだ思い出。泥に埋もれるしかなかった自分に与えられた、とてもきれいな《美しきもの》。
今まで知らなかった、暖かな日々。
知ってしまったからこそ、もう二度と手放したくない幸せという麻薬。
パパに別れを告げられた刹那。生まれた、理解不能の感覚。広がった、未知の異世界。
熱くも、冷たくも。疼いて止まず、押し殺されそうな身体の芯。
エミリーはどうしたら良かったのだろうか。
エミリーはどうなってしまったのだろうか。
生まれて初めて、この胸が苦しい。
誰かが死ぬのも誰かがいなくなるのも、散々見飽きた当たり前のことなのに。
それがあなただというだけで、エミリーの胸は、こんなにも……
「だからエミリーは、パパを生き返らせようと願った」
最初は、髪の女王を殺すことで。
次は、聖杯戦争に勝ち残ることで。
欲しいのは道徳云々なんて絵に描いた餅じゃない。パパという現実にある確かな存在。
天にまします我らが父よ、なんて言葉があるけれど。神の奇蹟なんて有史以来存在なんかした覚えがないし、空は空気が濁ってて顔向けする天が見当たらない。
自分の願いは、自分の力で成し遂げる。
ただそれのみを望んで、エミリーはここまで歩いてきた。
それなのに……
それなのに、何も報われることがないなんて……
『勘の良い君ならもう分かるんじゃない?』
茫洋と。
煙に巻かれたかのように、揺蕩っていた思考が引き戻された。
───ああ。
───視界の端で誰かが笑っている。
チクタクと、黒い秒針が時を刻んでいる。せめて一分、いいや二分。自らの滅びを認めないとでも言うのかのように。
『君がこの都市に訪れた意味。
君がその手を赤色に染めてきた意味。
君が引き当てた"最強"の意味。
如何なる理由と思いとが、その根源か』
囁く声は止まらず、それが意味するところを理解すること叶わず。
けれど。
けれど、わたしが引き当てた"それ"があらゆる不条理の根源なのだとしたら。
それを宛がったものが偶然などではなく、特定の意志によるものなのだとしたら。
全ての糸を引いていたものが……
「神……!」
もしも、本当にいるのだとしたら。
「え、エミリーは、あなたを呪う……!
罪悪の塊たる人を呪う……!
愚かなエミリーを呪う……!
善良を呪う、義を呪う、理を呪うッ! 全てを呪う!」
このわたしの苦しみを。
全てを見誤った我が従僕の愚かさを。
殺戮を重ねた我らが罪悪を。
何をも救えぬ善良さを。
終ぞ存在しなかった義を。
こうまでしなくては自分を保つことさえ許さなかった世界の不条理を。
わたしは永遠に呪い続ける。
だから。
「みんな……みんな、苦しめ……!」
彼女が呪うあらゆるものを壊し尽くす死世界の誕生を目にして。
そして何より、このケダモノにこそいずれ避けえぬ破滅が訪れるであろうことを確信して。
エミリー・レッドハンズは陰惨な喜びを胸に、その意識を闇へと沈めた。
▼ ▼ ▼
『ああ私は願う どうか遠くへ 死神よどうか遠くへ行ってほしい
私はまだ老いていない 生に溢れているのだからどうかお願い 触らないで』
未だ忘我の顔と口調で、破滅の詠唱を垂れ流すシュライバー。しかしその手は休むことなく動き続け、眼下の何かへと執拗に拳を振りおろし続ける。
『美しく繊細な者よ 恐れることはない 手を伸ばせ
我は汝の友であり 奪うために来たのではないのだから』
透徹した無感情に彩られた顔面。奈落のように口を開ける右眼窩から、夥しい量の血液が堰を切ったように溢れだす。
それだけではない。膿と腐汁が、精液と蛆虫が、細切れになった人体の残骸が、腐れ交わり溶け合って流れ出る。
致死レベルの悪臭と渦を巻く怨念が、煌々たる月の見下ろす静謐の空間を侵食して何かおぞましいものへと塗り潰している。
『ああ恐れるな怖がるな 誰も汝を傷つけない
我が腕の中で 愛しい者よ 永劫安らかに眠るがいい』
紡がれる呪いに呼応するように、銀髪がおどろに乱れて更に伸びていく。
既に銃もバイクも消え失せて、今の彼は徒手空拳。にも関わらず跳ね上がり続ける重圧は一体何であるというのか。
大気が震え、空間が悲鳴を上げ、周囲の瓦礫すら不可視の圧に押しつぶされて砂となる。
『創造───』
人器融合型───その極致がここにはある。
本来彼はその系統に属する者だった。血を好み、殺しを好み、悲鳴と断末魔を愛する者が発現させる戦闘形態。
バイクに跨っていた状態など、彼にとっては偽装でしかなかった。本人すら制御できない狂気が爆発した瞬間こそ、シュライバーは真の姿と力を発揮する。
鋼鉄の魔獣と融合し、本当の意味で狂戦士(バーサーカー)と化すサーヴァント。文字通りの最速にして絶速と為す人面獣心の怪物に。
故に彼は、かつてアンナと呼ばれた人間でも。
白騎士と呼ばれた英雄でも。
フローズ=ヴィトニルと呼ばれた殺人鬼ですらなく。
『死世界・凶獣変生』
今や絨毯が如く敷き詰められた赤いものの上に立って。
生れ落ちた最悪の獣は最早言葉なき主の呪詛を一身に背負い、この世界に歓喜の産声を轟かせた。
『D-3/市街地/一日目・禍時』
[装備][道具][所持金][思考]
一切必要なし。此処に在るはただ殺戮するのみの厄災である。
[備考]
彼が狂乱の檻に囚われ続ける限り、何者もその生を断つことはできない。
最終更新:2019年06月21日 21:30