音───

 響き。
 呻き。
 鐘の音。

 鳴り響くは、異形の鐘。
 鳴り響くは、最果ての塔。

 世界の果ての塔、その最奥で鳴り響く。
 天、空さえも覆い尽くす巨大な塔の最果てか。

 異形の空にそびえる塔。
 誰がこれを見るだろう。

 何をも知らず、退廃の夢に沈む十万の鎌倉市民たち?
 全てを嗤い、邪悪な企みを抱く時計人間?
 それとも、全てを諦めた故に唯一を求める儚き少女?

 ただ、ただ、塔だけがあった。
 遥かな頂上より鐘の音を響かせて。

 天を貫く、空の彼方まで続く塔が───



 夢界領域集束。
 夢界領域拡大。
 夢界領域変容。

 規定数の英霊を確認。
 規定数の願いを確認。
 お前たちは失敗した。

 潰える願いが我が身を成す。
 成長条件を達成。
 ナコトの幻燈は紡がれる。

 ───そして。

 ───真なる《願い》は、今ここに。





   ▼  ▼  ▼




 手を伸ばせば掴める未来が、目の前にあるさと嘘を吐いた。
 これはきっとその罪の履行。陶酔を願う余り性命双修を怠った外法者へ下される、幸福というカタチの罰である。
 痴れた音色に包まれた地球上に蠢くは、只覚めない極楽の夢に酔う───夢想の成れの果て、だけ。



「始まった……」

 悠然とした少女が言った。物憂げに、静かに。

「止められなかった。あたしは、結局、何もできないまま」

 双眸を僅かに瞬かせて。その赫色の瞳を、僅かに瞼で覆う。

 刹那、少女の足元より湧き上がるものがあった。
 それは黒く、不確かで、されど蒼銀に輝く確かなカタチ。

 ───シャドウサーヴァント。
 ───彼女が使役した騎士の残留霊基。

「……セイバー。あなたもこんなになってしまったのね」

 セイバー、アーサー・ペンドラゴンであったモノ。
 しかし今は、顔の上より半分を煙のように揺らめかせて。文字通りの影であるかのようにして立ち尽くすのみ。
 これに今や意思はない。力だけを抽出して形を得た、抜け殻のような存在。

「そして、この街の人たちも」

 視線を逸らし、眼下の街を見渡す少女の先には、路上も建物も埋め尽くさんばかりの"何か"があった。
 それは、異形だった。

 見る者に嫌悪感を与える異形だった。
 それはおぞましくも大量の触手を生やし、まるで幾匹ものミミズや蛇が絡み合って出来上がった肉玉のように触手を戦慄かせ、蠢いていた。
 大きさはおよそ人間大か。汚らしい粘液と水音を撒き散らしながら、緩慢な動きで街を埋め尽くしている。

 見るも怖気が走る光景だった。
 けれど、少女は。
 キーアは、それを悍ましいとは思えなかった。

「これは……この"人"たちは、人間だったもの」

 否、現在も未だ人間で在る者たちだ。
 万仙陣により夢を見せられ、夢に浸り、そして現実においては斯様な異形へと姿を変じられてしまった人間たちだ。
 今までキーアが、アイが、すばるが目にしてきた鎌倉市民の、それが今の本当の姿なのだ。

 だからこそ思う。何故。
 何故───聖杯戦争は起きた。

 誰が、聖杯戦争を開いたのか。
 何故、聖杯戦争は開かれたのか。

 今や都市は解放された。
 ならば何故、聖杯戦争などが起きたのか。

 ───誰もが。
 ───理由を探すことさえしなかった。
 ───変異し異形と化していく都市。
 ───時に美しいそれは酷く残酷で。
 ───それが厳然と在る現実だからこそ。
 ───理由など無意味だった。

「けど」

 けれど。
 静かに、けれども確かな強い意思を持って。

「夢はまだ終わっていないわ」

 見上げる。桃と朱の煙に汚染された空を。
 そこには、茫洋と燻る蜃気楼のように、天を衝く巨大な塔の影が聳えていた。

「紫影の果て。世界の果て。あたしたちは、そこに行かなくちゃいけない」

 そして。
 力強く足を踏み出し、右手を前へ。





   ▼  ▼  ▼





 自分が何をすべきなのか、アイは全く分からなかった。
 目が覚めて、世界がこんなことになって、人々は異形に姿を変えて、キーアもすばるもどこにもいなくて。
 そんな状況なのに、足を一歩も動かすことができなかった。

 以前の自分ならきっと、こんな状況だろうと知ったこっちゃなくて、誰かを救うために奔走して何もできないくせに空回っていたに違いない。
 助けるのだと。生かすのだと。既に死んでしまった人たちの思いを背負って、救えなかった分他の誰かを救うのだと。
 たとえできなくても、できると信じて、走り出せたはずなのに。

 けれど今は。
 心が走ることを拒んでいた。

「もう、分からないんですよ……」

 泣くのかと思った。
 でも涙は流れなかった。
 夢の中ではいくらでも泣けるのに、現実では泣けないらしい。
 本当にひどい生き物だった。

「もう……本当に分からないんですよ。自分がどうやって生きてきたのか。どうやって夢を見ていたのか。どうやって息をして、走って、歩いてきたのか……そういうの全部、ぜんぶ……分からなくなっちゃったんですよ……」

 返ってくる声は、なかった。

「まるで自分が泡みたいなんです……魂がどっか行っちゃったみたいで……心がここにないんです……探しても探しても……どこにも見当たらないんです……ねえ、セイバーさん」

 アイは聞いた。



「私の心を知りませんか」



 言っていて、自分で今さら思い知った。
 自分の夢は、ここまで大きなものだったのか。
 誰の声もしなかったけど、けれど尋ねる声が聞こえたように思えた。

『お前はこれからどうやって生きていくんだよ』

「そんなの……分からないですよ……」

 また、聞かれた。
 それでお前はどうするんだ?
 どうやって生きていくんだ?
 来年、来月、来週、明日。どこで何をしていくんだ?

"お前はどうやって生きていくんだ?"

 以前、そう聞いた人がいた。その人はそのあと、墓守であるという偽りの指針を得た自分をボコボコに蹴り飛ばしてその夢を諦めろと言った。
 アイはふと、唐突に、人食い玩具(ハンプニー・ハンバート)がどうしてそんなことをしたのか思い知った。
 彼は、アイの父親は、『これ』がしたかったのだ。アイの夢を蹴って殴ってへし折って、『普通の人』になってもらいたかったのだ。
 あんなもの。
 『これ』に比べれば、全然やさしいことだったのだ。

「普通の……幸せになる人というのはこんな世界で生きているのですか? こんな、息も吸えない厳しい世界で、普通に生きていると、いうのですか」

 世界を救うという夢を持たない普通の人は。
 今やアイがそうなってしまった普通の人は。
 こんなつらく苦しい世界を、それでも生きているというのか。

「セイバーさんは……レンさんはどうなんですか? 私と同じように、夢を失ったあなたは……こんな世界でどうやって、生きてきたっていうんですか」

 答えはどこからも返ってこなかった。
 それはとても当たり前で、悲しいことで、けれどアイは涙の一つさえ流せなかった。

 だって心がないんだもの。
 仕方のないことだった。
















「仕方ないなんてありません!」
















 叫んだ。
 耐えきれずに上げた叫びだった。
 我慢の限界で上げた叫びだった。
 意思の強さではない。不屈の闘志なんかじゃない。諦めない精神の輝きなんかじゃない。
 理不尽に耐えきれず癇癪を起すような、自分でも何故そうするのか分からない、子供じみた叫びだった。

「何が仕方ないんですか! それが夢だから!? 不可能だから!? だから諦めろって言うんですか!」

 言葉一つ一つを口走る度に、体が真っ二つに裂けていくようだった。
 骨が砕け、肉が裂け、皮膚が泡となって消えていった。

 アイ・アスティンの生きた世界は、仕方のないことばかりだった。
 人が死ぬのも、
 人が生まれないのも、
 誰もが諦めてしまうのも、
 大切な人と別れてしまうのも、
 全部全部、仕方のないことだらけだった。

 けれど。

「そんな風にかっこつけて、物分りが良いみたいに諦めて! そりゃ楽でいいですよ、見て見ぬフリをすればいいんですから!
 でも残された人たちは! 私たちは! 私は! どういう気持ちになると思ってるんですか!」

 アイには救える誰かはいない。
 墓守と人間のハーフ。死を失った人間でも、死を与える墓守でもない。中途半端でなり損ないの、世界に一人しかいないはぐれ者の名前。
 どう足掻いても生まれ持った資質は変えられない。運命は変えられない。
 嘘を重ねたって、
 恋をしたって、
 自分をいくら騙したって、
 人は絶対に変われない。

 誰だって本当は気付いている。取り繕ってみたり、良い人ぶってみたり。自分を律することを"変わる"というならば、確かに人は変われるだろう。
 だけど人は鳥になれないし、アイ・アスティンは神にはなれない。
 私は誰かになれない。私は私だ。

 夢に向かって奔走する時、誰しもが諦めてしまうそんな時。
 心のどこかで「本当にできるんだろうか」と思ってしまって、けれど必死に押し殺した私の本質。
 どう足掻いても盲信すらできない、救えないほど"普通"な私の本性。

「なんで誰も救われないんですか! どう考えてもおかしいですよ! 世界が全部おかしくなって、誰も彼もこんな姿になって、キーアさんやすばるさんだってこんなこと願ってたはずじゃないのに!」

 いつだったか、なんで人は救われないんだと話した覚えがある。
 人は救われない。世界は救われない。哀しみも憎しみも取り除けない。世の中は理不尽で満ちている。
 考えてみれば当たり前の話。だって私が救われてないんだもの。
 私は私のことが一番どうでもよくて、私は私なんか救われなくてもいいんだって思ってて。
 そんな私から見た世界が救われてないなんて、そんなの当然の話だった。
 だから私は世界を救えない。ヒーローになんかなれない。

「それでも───」

 それでも。
 自分がどうしようもなく間違っていて、そんな資格がないことなんて分かりきっている。
 私はただの普通の人間で、何度だって立ち上がれる勇者なんかじゃない。
 でも。それでも。

「立ち上がらなきゃいけない理由なんて、何もないけど」

 世の中は仕方のないことだらけで、アイに救えるものは一つだってなくて。
 それでも、仕方のないことを『仕方ない』で片づけたくなかったから、アイは夢を抱いたのだ。
 だから。

「立ち上がりたい理由なら―――譲れないものが、私にはたくさんあるから」

 せめて今だけは、胸を張って立ち上がろう。
 取り戻せるものが、たった一つでも残されているならば。
 嘘でもいい。あと少しだけ踏ん張ってみよう。
 だからこれは使命でも決意でもなんでもない、単なる子供の我儘なのだ。




『退廃夢想都市鎌倉/第三層エリコ/午前零時』


【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]一画
[状態]骸の体は願いと赫き瞳で保たれ、
   奪われた可能性を取り戻し、
   胸に抱くは在りし日の遠い約束。
   手に取りしは絶望たるを拒絶する魔剣、
   巨いなりし黒の剣能。
   視界の端の道化師は既になく、
   そして少女は右手を前へ───
[思考・状況]
基本行動方針:諦めない。
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]





【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 三画
[状態]幾億の怨嗟と嘆きに塗れ、
   この手は真っ赤に染まってしまったけれど、
   捨て去った想いを今一度拾い上げ、
   神を目指した墓守は人へと回帰する。
   雛鳥は未だ殻を破ることはなく、
   けれど抱くは父母の描きし夢想の理。
   故に彼女は人でなしの超人にはあらず、
   此処に立ち上がりしは───
[思考・状況]
基本行動方針:生きることを諦めない。
1:救う。
[備考]
最終更新:2020年01月12日 19:54