夢より覚めて見渡す世界。
朱に染まる空、桃霧に煙る街、這いうねる異形に満ちた都市。彼方に聳える巨大な塔。
生き残ったのは僅かに三人。幻想の剣たるサーヴァントもなく、空より来たりて魔を断つ翼も、世界の果ての八雷もなく。
塔の最奥に坐すものがある。それは虚空の赫き三眼であり、燃える炎が如き光でもある。
それは未だ都市へ向けられてはいない。鏖殺は始まっていない。
一瞥すれば鎌倉の都市は終わるだろう。だが、まだ終わっていない。三人の少女も、異形と成り果てた住人たちも生き残っている。
白き塔の最果てで、黄金螺旋階段の果てで何かが起こっている。
それはなんだ?
世界の救済者足り得なかった少年にとって、それは決死の反乱だろう。
時に這い寄る月の王にとって、それは児戯にも等しいものだ。
だが事実として、まだ鏖殺は始まっていない。
代わりに───
地を踏み出す墓守の足音が、
空を駆け出す放課後の魔法使いの風切り音が、
影なる侍従と共に疾駆する第四の奪われた少女の息遣いが、
語る者なき異形都市に、反旗の音を伝えていた。
◆
走る───
ひとりの少女が走っていた。
暗く、奇妙な色に歪んでしまった空の下で。
アイ・アスティンは走っていた。もう見慣れたと感じ始めていた鎌倉の道を。もう、何度も二人で歩いた道を。
夢から醒めて、抱えきれない鬱屈を叫びながら、もう、こうして走ることは決めていた。
まだ頬は濡れている。完全に乾く前に、アイの体は表通りに躍り出ていた。
そしてこうやって、走り始めた。
空の色も街の様子も、そして辺りに蠢く"ひと"たちもおかしいことには、勿論言うまでもなく気付いていたけど。
今さら、そんなことに驚いて足を止めてはいられない。
だって───
"これ"は知っている。夢で見た記憶と同じだ。実感は全く湧かないけれど。
万仙陣と呼ばれた異能、遍く人を夢へと落とし、それぞれの理想世界を体現させる救済の御業。
きっと、周囲の異形はその成れの果てなのだ。夢に落とされた人の末路。夢に沈み幸福になる代わり、現実では術者の眷属となって異形の触手と成り代わる。
自分も、さっきまでは彼らの一員だったのだろうか。
自分も、さっきまではこんな姿をしていたのだろうか。
少し、気になった。
でも、気にはしない。
今、自分にできることはひとつしかない。
だから走る。
目指すべき場所は決まっている。
"願いを叶える"、聖杯とはその器。聖杯戦争の最果てに降りるもの。
だから───
空の色がどうなっていようとも、都市そのものが異形に変貌していようとも、気にしない。気にしないようにする。
見上げて、怯えて、立ち止まったりなんかしない。
見上げるのは空ではなくて、あの塔。どこまでも高い、あの真っ白な塔。
ただ、直感と、確信だけを胸に秘めて。
ただ、走る。
そのはずだったけれど。
───万仙陣。
───願いを叶えるもの。
───遍く世界を救うもの。
───こんなもののために。
───ユキも、
すばるも、
キーアも、他の誰も彼も。
───……
藤井蓮も。
───あなたが。
───あなたが、これを、呼び出すために!
内心で叫ぶ。
声は出てこなかった。
憤りではない。
怒りではない。
ただ、ただ。"何故"という疑問と。
消えていった人々への想いが、強く。強く。
アイの意識を揺らして止まらなかった。
意識へ飛び込んでくる、否応のない黒色。
その全てを拒絶して、走る。
下唇を噛んで。前へ、前へ。
絶対に、立ち止まらない。
『諦めたまえ』
声が聞こえた。
それは耳にではなく。
頭に響く声。どこから。
「この声……」
『ここが果てだ』
声。
声。
声。
「……セイバー、さん」
いいや違う。
確かに、その声は藤井蓮と同じだったけど。
決定的に、彼とは存在を異とした誰かの声だった。
それはまるで泥のように。
それはまるで水銀のように。
腐敗した粘性と揮発する毒性を併せ持った液体であるかのように、アイの意識へとまとわりつく。
『剣、願い、希望』
『シャルノスに至ってなお、人はそれを捨てられぬ』
『滑稽だ。滑稽だ。実にお前たちは滑稽だ』
『こんなものが約束された《美しいもの》か。
こんなもののために、私を喚び出したのか』
声。
声。
声。
頭の中に響く声。
アイは涙を堪える。
「セイバーさん……」
声を聞きたいと思わなかったはずがない。
また、聞きたいと、思った。
「セイバーさんの声じゃ、ない……」
『諦めたまえ』
『墓守になれなかった子よ。お前の祈りに意味はない』
『人になれなかった子よ。お前の生誕に意味はない』
『この都市、この世界、この夢に生まれ落ちた者すべて』
『最初から、意味など、なかったのだから』
「私は……」
声。
声。
声。
嘲り嗤う声。涙を流して笑い転がりながら、何かを望むような声。
「私は……それでも、いきます。
諦めたく、ありませんから」
叫ぶ。
涙が、零れていた。
刹那───
懐かしい声が聞こえた。
もう聞こえるはずのない、母の声。
夢を見た。
夢だ。きっと、そうとしか思えない。
5歳の頃の自分が、母と一緒に家の屋根へ昇っていた。
「ぎゃはははははははははははは!」
「あははははははははははははは!」
母が秘密兵器を披露する時の悪党みたいな声で笑う。真似してアイも高笑い。
「ごらん、アイ! 私の村だ!」
母が村を指差した。記憶の中の村は随分と若い気がして、その中を変わらないみんなが歩き回っている。
季節は秋だ。アイの大好きな季節だ。みんな藁を組んだり鶏を追ったり大忙しだ。ユートとダイゴも、村に来たばかりの頃のヨーキとアンナも、誰も欠けることなく笑っていた。
それを見て、アイは一瞬涙ぐんだ。
「どうした、なんで泣く?」
母が涙を拭ってくれる。アイはなんでもないと呟く。ここにいるのは5歳の自分なのだから泣くのはおかしい。
この夢が、夢と気付いた瞬間に消えてしまいそうで、12歳のアイは急いで悲しさを遠ざけた。
「なんでもないんです、お母様」
「ぎゃっはっは、なんでもないのに泣くのか。お前は本当によく泣く子だな」
そう言ってほほ笑む、母がいた。
自分と同じ金の髪を太陽の光に輝かせ、緑の瞳をおかしそうに歪ませている。背は低く、肉付きは薄くて小娘のよう。
16歳のアイがそこにいた。それほどまでによく似た親子であり、それほどまでに若く見える母だった。
ただ二人の中身はまるで違う。アイの喜怒哀楽はいつもしょぼしょぼと混ざり合って混沌としているが、母のそれはスイッチを切り替えるようにハッキリとしている。
今も何が面白いのか、ぎゃはぎゃはと品の無い笑い声を上げている。
「ほら、泣いちゃ見えないぞ。もうすぐ時間だ」
「泣いてませんよ!」
母がハンカチを取り出して無理やりにアイの顔を拭う。12歳の自分は恥ずかしくて逃げ出したかったが、そこにいるのが5歳の自分だと気付いて、されるがままにした。柔らかいタオルの向こうで細い指がぐいぐい動くのが心地よかった。
「時間て何のことですか」
「この村が一番綺麗になる時間のことだよ」
それを聞いてすぐに思い出した。母が好きだった光景を。
太陽が傾ぐ。
空気が一気に変わって全ての光が赤くなる。畑が黄金色に輝いてヒグラシが鳴く。
「うわぁ……」
轟、と風が吹いて一番屋根の風見鶏を慌てさせた。二人は同じ所作で髪を抑えて感嘆の吐息を漏らす。
夕焼け空を帰る鳥。家路に急ぐ村の人。仄かに灯る一番星。
「きれい……」
村は平和で、あたたかく、思い出のように完璧だった。
「そうだろうそうだろう」
母は笑って、自慢げに呟く。
「まるで天国みたいだって思わないか?」
「天国?」
アイは昔に、そうしたふうに聞いた。
「ああ、死者が向かう天の国だ。そこは友愛と幸福が溢れる夢のような場所だそうだ」
母は微笑みながら眼下に広がる光景を見ていた。
「私はこの村を天国のような場所にしたいのさ。この地獄のような時代で希望となれるような、そんな場所を作りたいのさ」
この村を作ったのは母だった。
その母の、決意にも似た独白を聞いて、5歳の自分は大喜びで言った。
「じゃあ、アイがそれ、手伝ってあげる!」
「あんたが?」
「うん!」
その頃の自分は、母の言うことならなんだってやりたがった。
「ありがとう、アイ。でもこれはお母さんの仕事だから。あんたはあんたで、自分のしたいことを見つけなきゃならないよ」
「え~……」
「その上で手伝いたいってんなら歓迎するけどさ。
……何も分かんないまま生きてちゃいけないよ。これ、忠告だからね」
母が人差し指を立てて、かわいらしく言う。12歳のアイには少し耳の痛い言葉だった。でも5歳のアイは物凄く鈍感に言う。
「分かった! それで何すればいい?」
「あんたは本当に人の言うことを聞かない子だねぇ」
最近は自分でもそう思う。
5歳の自分と、12歳の自分が段々分かれ始めた。夢の光景が絵の中の出来事のように離れ、遠くに流れていく。ながれていってしまう。
「今のあんたの仕事は、いっぱい食べていっぱい遊んで、たっぷり可愛がってもらうことだよ。
……大きくなりな、私のかわいいアイ」
そう言って母は自分を抱き上げる。
「よっと……随分重たくなったな」
「また背ぇ伸びたんだよ」
「よくやった。続けて励めよ」
「うん!」
……本当に大きくなったんですよ、お母様。
そう伝えたいと思った瞬間に、夢はうすぼんやりと、夕陽の赤に沈んでいった。
それは過去。かつての記憶、私の記憶。
母が死ぬほんの数日前の、今は薄れた過去の記憶だ。
「……え?」
立ち止まっていた。
ひとりでに。
足が動かない。
前へと進もうとしていた意思が揺らぐ。
今。確かに見えた。
黄金の瞳ならざる目に映った黄昏。
ひとりの女性と、
七年前の自分と、
思い返すことはすまいと誓った、記憶───
「何、これ……何を……」
『大きくなりな』
『私のかわいいアイ』
目に浮かぶ。
瞼を閉じても見えてしまう、過去の像。
繰り返される。
繰り返される。
母の言葉。別れの、理解したあの瞬間。
『大きくなりな』
「いや……」
『私のかわいいアイ』
「やめて、ください……!
嫌、嫌です、やめて……見せないで……!」
───ひとりにしないで。
───ひとりは嫌。怖い、寂しい。
───お願い。お願いしますお母様。
───ひとりに、しないで。
───お願い。
───置いていかないで。
───私も連れていって。
───ひとりに、しないで。私を。
「私は……」
───ひとりに、
「ひとりじゃ、ないですから……」
───しないで。
「だから……」
───お母様。
「こんなもの……
見せられても、私は。立ち止まったり、しません」
声はかすれて、叫ぶことができなかった。
それでも、アイの足は進んでいた。一歩、倒れることもなく進んで。踏み出す。
これが万仙陣か。
これがシャルノスか。
『幸福』と同じだ。いや、彼の者の源泉こそが万仙陣であり、シャルノスの片鱗なのか。
今更だ。何もかもが今更の話だ。何の意味もない、二度と戻ることのない光景だ。
父のように。セイバーのように。失われたものは二度と戻らない。
歩き続ける。何も考えず、無心のままに。何かに耐えるように。
どれだけ時間が経っただろう。一分? 一時間? 感覚だけなら一日経ったようにさえ感じた。
あれだけ遠くにあったように思えた塔も、いつの間にかすぐそばに近づいて。真っ白な壁、どこまでも続くかのように広がっている。
アイは目の前の塔を見上げる。あまりに大きすぎて遠近感が狂い、めまいがするようだった。
そんな現実感の伴わない白の中、一角に黒いものが見える。それが扉だと頭で理解するより早く、アイはその取っ手に指をかけ、静かに開く。
ぎぃ、と音が鳴る。そこはホールのように開けた空間で、石造りの吹き抜けたエントランスの向こうに大きな階段があるのが見えた。
誰もいない。
アイ以外、誰一人として。
歩みを進める。恐れの感情はなかった。心は硬直し、それに伴って肉体的な疲労も重なっていた。こつり、こつりと靴音が鳴る。
そして気付く、"ひとりではない"。
「……ようやく」
気付く。階段の向こう、小さな扉の前には人影があって。
座り込んだその人は、疲れ切った顔を上げ、静かにアイを見つめていた。
「ようやく、ここまで来たな。アイ・アスティン」
その人は、赤い髪と、赤い目をした少年だった。
少年からは、腐り落ちた果実の匂いがした。
最終更新:2020年04月05日 19:10