───落ちていく。

 落ちていく。アイはただ、何もない真っ白な世界を堕ちていく。

 全てが、消えていた。
 空の紫影が消えていた。
 大地が、空間が、階段が、世界塔が。
 世界が消えていく。夢界、最後に残った塔と黄金螺旋さえも。
 あらゆるものを失って。
 最後に、神さえ失って。

 消えていく。
 落ちていく。
 最初から、何もなかったかのように。



 真っ白だ。そう、アイは思う。
 落ちていく。落ちていく。そうして、止まることがない。
 またか、なんて思ったりする。思えば自分は落ちてばっかりだ。
 騎士のセイバー、アーサーさんが聖剣を抜き放った時もそうだった。あの時は真っ暗で星が輝いてる……宇宙とはああいうところを指すのだろうか? そんなところを落ちていった。
 あの時と違うのは、もうやるべきことは何もないこと。
 果たすべきものが何も残っていないこと。
 そして、私にもう先がないということだ。
 銃の引き金を絞って……そしたら、こんなところを落ちていた。
 私は、何かできただろうか。あの人は、ちょっとは痛い思いをしただろうか。
 私達が味わった思いを、少しでも理解してくれただろうか。
 消えていきながら、落ちていきながら、私はそんなことを考える。

「アイ」

 声が、聞こえた。
 それは幻聴ではなく、それは幻覚でもなく。
 浮遊感といった感覚さえ失った思考が見た、末期の夢でもなく。
 それは確かに、そこから聞こえた。

「ありがとうな、アイ」

「……アリスさん」

 少年の姿が、そこにはあった。
 赤い髪の毛、意思の強い瞳。ちょっと皮肉げな笑顔まで。

 どうして、とかそういうことは言わなかった。
 そのことに意味はないし……さして重要とも思えなかった。

 ただ、彼がそこにいる。その事実だけで十分だった。

「最後に一言、礼を言っておきたくてな。これで俺達は、ようやく終われる」

「そんなことをわざわざ?」

「そんなことだから、だぜ。お前にとって俺のことは"ついで"だったんだろうけど、俺にとっては全てだったんだからさ」

 アリスは笑う。何の使命も負っていない、ただの年頃の少年であるかのように。

「だから、最後に聞かせてほしい」

「何をですか?」

「お前にとって、世界の救い方ってのはなんだったのか」





    Q.人にとっての救いとは?





「人は、どうしてやれば救われるのか」





    Q.世界とは、どのようにして救われるのか。





「それを、俺に教えてほしい」

 ……それは。

 それは、アイにとって何よりも重い問いだった。

 アイはずっとそれを求めてきた。世界を救おうと足掻き続けた。唯一絶対の答えがどこかにあるのだと信じて走り続けた。
 そんなものはどこにもなかった。

 アイ・アスティンは世界を救えない。
 アイ・アスティンは自分を救えない。
 アイ・アスティンは誰かを救えない。
 それはとても当たり前のこと。救うという綺麗ごとばかりに目をやって、救われるべきものから目を背けていたのは、他ならぬアイ自身だったのだから。
 けれど、それもおしまいだ。
 やっと分かった。私にとってのとか、あなたにとってのとか、そういう個人の主観によって変わってしまう言葉ではなく。
 誰にとっても同じ、普遍的な意味合いで"救い"とは何を指すのか。
 極論、人が生きていく上で救われるとは一体何であるのか。


「救いとは……」


 アイが掴んだ答え、それは。


「救いとは、受け容れること。自分が今まで生きた過去を、あるがままに受け止めてあげることだった」


 救いとは、きっと誰もが最初から持っているものだ。何故なら、常に消え去らない過去(おもいで)として、自らの内側にずっと存在しているものだから。
 どれだけ振り払おうとしても、空っぽになってしまわないよう何処にも行かず共に在ってくれた。
 アイの言葉に、アリスはただ笑って答える。その真実に、いつか自分が与えることのできなかったアイの救いに、祝福するかのように。

「そうだな。過去は減るものじゃない。どれだけ振り払おうとしても、降り注ぐ雨のように内に溜まって増えていく。
 傷も、痛みも、涙だって。お前は最初から何も失ってはいなかったんだ」

 ああ───ああ、そうだとも。
 傷があった。痛みがあった。涙も当然、流れていた。
 虫けらのようにのたうち回って、私は無価値だと何度も思い知らされ、夢を失い空っぽの自分に絶望し、良いことなんてあまりに少なく、嫌なことはその数倍。
 幸福よりも不幸のほうが、遥かに多かったけれど。

「悲しいなら、虚しいなら、それは受け止められないものなんですか?
 自分はどうしようもない人間だから、身の程を弁えて泣き喚かなきゃいけなかったんですか。
 ……違います、そんなこと誰も望んでなんかいない」

 母との死別、父との決別。出会った人々とはすぐに死に別れ、大切な想いは失われ、常に共にあった青年さえ弔ってやることすらできずに。
 そのどれもが苦しみに満ちていた。けど、だからといって嘆かなければならない理由なんてどこにもない。
 目を逸らさなければならない理由も、逆に見つめなければならない義務さえも同時になかった。私に苦しめとわざわざ命令する人なんて、最初からどこにもいなかった。
 涙を流しながら笑うことさえ、否定されてはいなかった。

「誰にも見咎められてなんかいなかった。私だけが、私をずっと許せないと叫んでいただけ。そうしたほうが楽だから」

 資格がない、相応しくない。夢が壊れたから私はもう何もできない。罪が、罰が、器がどうのと。口を開けばそればかり。
 常に自分の間違いを責め続けた。満点を出せないから大した人間じゃないんだと、私が私を起き上がらせないように必死で罵倒を繰り返した。
 自虐だと分かっていながらそうやって気付くことを遠ざけてきた愚かさ、その事実を我がことのようにアリスは笑って肯定する。

「私もあなたも、世界から見ればとてもちっぽけで、何を成そうと大差ない。だから、誰も私達のことを見咎めなかった。
 許すも裁くもないんです。私達はどっちも、そんなことされるような大層な人間じゃない。そこらの人間と何も変わりはしないのですから」

 世界を救う、みんなを救う───
 そんな"大きな意味"を自分に課さなければ、息をすることもできなかったあの日、あの時。
 その間違いを正すようにアリスは言う。

「そうさ。俺もお前も、何の変哲もないただの凡人。
 ひ弱でか細く、儚く無価値で、無意味にこの世に生まれ落ちた───
 誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていける、どこにでもいるただの人間なんだ」

 何者にもならなくていい。生まれて、生きて、無様でいいから駆け抜けて、最期にそっと死んでいけ───彼はそんな、優しい言葉を告げていた。
 生きるとは、それだけで十分なのだと。
 私自身に意味はないけれど、それは意味がないというだけだ。求めることも探すことも、誰かに意味を与えることさえ、何も咎められていない。
 そう、私は───何かをしてよかった。何の意味も理由もなく誰かを助けて、よかったねってみんなで笑い合ってよかった。
 愛してほしいと子供のように叫んでよかった。世界が好きだと言ってよかった。
 だって、そんな感情をぶつける相手もまた同じ。誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていけるちっぽけな人間なのだから。
 無意味に生まれた私達は、無価値であっても生きていく。何の祝福を持たないままでも幸せになれる無常こそ、救いであり罰だった。

 だから、救われるにはただ気付けばいい。自分が積み重ねてきた人生と、そこに刻まれた傷と恥。その価値を知るだけでいい。
 どんな辛い記憶でも空っぽじゃない限り、人は気付けば簡単に救われてしまえる生き物なのだと、ようやく受け止めることができた。

「駆け抜けて、駆け抜けて。躓いて転びかけて、這いずってでも前に進んで。
 その果てに、ふと後ろを振り返ったその時に、"こんなこともあったな"って。そう笑えたなら、それだけで十分すぎる」

 微笑みながら、はにかみながら、そんな言葉を口にできる。それこそが命の意味であり、人にとっての救いなのだと思うから。

 自分の生きた足跡を受け止める───それは口で言うのは簡単でも、しかしとても難しいこと。
 極論、痛みはどこまで行っても自分だけのものだから。それを肯定できなければ、傍目から見てどれだけ栄光に満ちた人生であろうとも空虚と傷を抱えて生きなければならない。
 その錯覚から解き放たれたいならば、気付くしかない。自分の重ねてきた時間が生きてきただけで価値を秘めているものなのだと、思えたその時、人はどこへだって羽ばたいていける。
 古い愚かさを笑って許せるようになれたら、それはもう救いなのだと……ああ、こんなにも簡単だった。

 そのことが分かった以上、もうここにはいられない。
 それはアイもアリスも承知していたから。アイはアリスに向き直り、尋ねる。

「アリスさん……あなたは、救われましたか?」

「ああ。俺は今日までずっと幸せだったよ」

 アリスは、どこまでも笑顔のままだった。

「本物の俺はとっくの昔に死んでいて、その2年後には正式に墓守に埋葬されている。消えるはずの俺が死に際に見た、とても長い夢が今の俺だ。
 辛いこと苦しいことばっかで、穏やかな日々とか夢のまた夢だったし、ガラスの向こうに辿りついた世界とやらも結局クソったれだったけどさ。
 それでも俺は幸せだった。俺が俺として過ごした死後の一年は、俺の大切な宝物だ。そうとっくに受け入れてる」

 最後にお前にも会えたしな、とアリスは締め括る。
 その顔はずっと笑顔のままで、アイはどうしようもなく胸が苦しくなったけど。

「だから俺はもう消えるよ。ああ、墓守の介錯とかはいらねえぜ?
 さっきも言ったけど本来俺はずっと前に死んじまってるし、お前らとは違うけど今の俺も原理的には幽霊とか残像とかそういうもんだからな。
 俺を"見ている"のはもう、お前だけだ。お前が瞼を閉じれば、俺は消える」

 もう限界なのだろう。アリスの体はところどころが黒いノイズに覆われて、ブラウン管に焼きついたゴーストイメージのように揺れていた。

「ディーは俺が連れていく。チクタクマンのクソ野郎も晴れてくたばってくれたおかげで、シャルノス自体の破壊は無理でもあいつ一人を引っ張り上げるくらいはできるからな。
 だからもう、何も悔いはない」

「アリスさん……」

「"3年4組の亡霊は、誰も呪うことなく、誰も傷つけることなく消え去りました"ってな。
 それってすげーかっこいいだろ? 怪談話の新機軸だと思わね?」

 冗談めかして笑うアリスに、アイはもう、何も言うことができなかった。
 あるいは、世界を救う夢を持っていた頃ならば。もしくは、本来の歴史の通りにアリスと共に旅を続けた果ての出来事だったならば。
 もっと違うことを言えていたのかもしれない。けどそうはならなかった。ここにいるアイはアイではなく、目の前のアリスもまたアリスではないのだから。

 だから、この話はここでおしまい。
 悔いなく人生を生ききったアリスは、幸せのままにここで消える。

「さよなら、アイ」

「ええ……さようなら、アリスさん」

 そして───

 そして、アイは本当にひとりっきりになってしまった。

 身体の末端から消えていく感覚がある。どこまでも真っ白な空間に、黄金の光が昇っていくのが見える。
 だから、私も、ここで終わる。
 瞼を閉じ、凪のような思考で何かを考える。

 人は死ぬとあめ玉一つ分くらい軽くなるのだという。
 それは魂の重さだとか、意思の力が失われるからだと言われている。
 私はどうなのだろう。あめ玉一つ分くらい、軽くなったのだろうか。
 それはすこしこまる、と思う。こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないが、私は別にダイエットなどしたくないのだ。むしろもうちょっと体重が欲しいくらいだ。
 具体的にはあと十キロくらい。それに背丈もぜんぜん足りない。あとは三十センチは伸びてほしい。

 いや。

 それももう、欲しかったと、過去形で言うのが正しいのだろう。
 私の背はもう伸びず、私の体重はもう増えない。そもそも"そういう風"に形作られていた。
 本物じゃないこの私は、最初からあめ玉一つ分軽くて、どこかにぽっかり穴が空いている。
 けれど体は冷たく重く、骨が軋んで、肉が擦れる音がする。熱くも冷たくもない、つらくも悲しくもない。

 でも、それでも。
 無性に、わけもなく、申し訳なくなってしまう。
 すみませんと、誰かに謝りたくなってしまう。

 お父様。
 お母様。

 ごめんなさい。

 貴方たちはきっと、こんな結末など望んでいなかったのに、私は止まることができませんでした。

 ユリーさん。
 スカーさん。

 ごめんなさい。

 私と一緒に行ってくれるという言葉は嬉しかったです。でも、もうその約束は果たせそうにありません。

 ……セイバー、さん。

 ごめんなさい。
 でも、後悔はしていないんです。

 そのことが、一番、ごめんなさい。









 ………………。

 …………。

 ……。









    Q.人の救いとは?


「もう言いました。私はそれを、ようやく分かることができた」





    Q.あなたの救いとは?


「私だって何も変わりはしません。私はどこにでもいる、ただのありきたりな人間なのですから」





    Q.悔いはありませんか?


「ありません。私は、私にできる全てのことをやり終えた」





    Q.幸せでしたか?


「はい。私は、とても幸せ者でした」





    Q.ならば───

     これは例題ではない。御伽噺でもない。
     あなたの消滅は既に確定しています。

     あなたの本当の想いを、
     ただ一度だけ
     私に教えてください。

     やり直しはできません。
     永劫回帰は存在しません。

     あなたは、この結末を───


 Answer1.目を閉じる。

 Answer2.黙して語る。

 Answer3.受け容れる。






















































「……いやだ」








































 罅割れる、音がした。

「いや、だ……」

 仮面が罅割れるように、ひとしずくの涙をこぼした。
 枯れ果てたと思っていたそれが、頬を伝った。

「わたし、は……」

 罅割れが広がるのを恐れるようにアイは顔を覆った。
 でもそれは許されなかった。手首より先は既に消えていて、アイは割れていく顔を隠せない。

「私は……」

 言葉を呼び水として、アイは涙を流す。
 もう、何も、取り繕えない。





「私は……死にたくない!」





 叫んだ。
 罅割れていく喉で、構うことなく叫んだ。
 使命や夢や信念やそんなこと一切放り捨てて、ただの12歳のアイが叫んだ。

「生きたかった……私は、もっと生きていたかった……!」

 涙を流すごとにアイの殻は壊れていった。
 奥歯がカタカタと揺れ、恐怖の箍が外れた。全ての涙が流れた。

「消えたくなんかなかった! 当たり前です!」

 アイは砕け散った。悟った風な仮面は剥がれ落ちて、その下の欲望がドロドロと流れた。

「生きたかった! そんなの当たりまえでしょう! 私は、もっと生きたかった! みんなと一緒に、誰かと一緒に、未来へいきたかった! 今日だって明日だって、ずっとずっと!」

 心の井戸に縛って落とした欲望が涙と共に浮かび上がった。自分が偽物だと分かった時の恐怖が全て蘇った。

「だって私、まだ何もしてない! 楽しいことも嬉しいことも、まだ何もやってない!
 学校に行ってみたい、お洒落だってしてみたい、美味しいものたくさん食べて、本だってたくさん読んで、私は……!
 私は、13歳になりたかった……それなのに、それなのに……!」

 救いとは受け入れること。自分の生きたありのままの人生を肯定し、笑って受け止めてやること。
 でもそれは、生きる上での救いであり、死ぬ上での救いではない。
 ましてアイにとっての救いではない。だって、アイはまだ"生きて"いないのだから。
 なんという矛盾。自分で出した答えさえ受け入れられない滑稽。

 アイは泣いた。泣いて、誰かに縋ろうとした。できなかった。だってここにはアイしかいないから。





    Q.そんなものがお前の命の答えか。

     そんなものが約束された《美しいもの》か。

     誰もが抱く感情に過ぎない。誰もが祈り、そして叶うことなく死んでいく妄言に過ぎない。

     これは例題ではない。お前に拒否権は存在しない。

     己が存在の全てを焚べろ。生の極点を此処に示せ。


 Answer1.死ね

 Answer2.死ね

 Answer3.死ね

 Answer4.死ね





「いやだ……っ!」

 けれど。
 その声は届かない。だってもうアイは終わっているのだから。

 生きることは許されない。アイ・アスティンの影である彼女は、ただ消えていくだけ。

 そんな末路だけが、この聖杯戦争の真実なのだから。


【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日 消滅】








































 けれど。
 もしも。
 あなたが───
最終更新:2020年07月02日 19:35