インガノック。それはすなわち、積層型完全環境都市。
 解放都市。かつては異形都市とも呼ばれていた。
 既に文明の灯りによって追いやられた《ふるきもの》たちが在った、41の声といくつもの想いが在った、閉ざされていた都市。
 閉ざされていた10年という時間の中で、数多の機関機械、数秘機関、現象数式、等々の異形技術が開花せし暗がりの都。
 今は違う。

 ───そう。

 ───そうだとも、諸君。

 既にインガノックは解放された。
 インガノック歴10年、連合歴であれば恐らく534年か535年に、41の声は解き放たれたのであるから、既にここは異形都市と呼ぶには相応しくない。

 私は待とう。
 私は待とう。
 こうして穴を掘り進めながら、ああ、私は、今まさに時の訪れを待つばかりなのだから。
 我が手がかき分けるものは土か瓦礫か暗闇か、その果てに行き着くもの。
 見るがいい我が友バベッジ、見るがいい我が友バイロン、そして、ローラ。

 見えるかい。
 見えるはずだ。

 私の手が、今まさに掘り当てたものが何であるのか。
 黄金螺旋階段を昇った彼らが見たものは何であるのか。
 伸ばされたその手の先にあったものが何であるのか。

 空、であるとか。
 色、であるとか。

 既に私にはそれを呼ぶことはできない。
 私はその言葉を失った。

 見えるとも──
 あの子のように、佇む彼か彼女のように、狂ってなどいなかった巡回医師のように。

 さあ。

 さあ。

 だからこそ、最後は彼女たちに話してもらうとしよう。
 かつて黒猫と呼ばれた彼女と、かつて赤き目を宿した少女に。

 人は現実に生きるのだ。
 記憶なるものがいかにあやふやで不確かで、私の狂気に劣らず歪んでいたのだとしても、目の前にあるものが日々であって現実であるのだから。







   ▼  ▼  ▼







 ───それは、『彼』が既に黄金の螺旋階段を昇った後のこと。

 ───それは、解放された異形都市でのこと。

 インガノック歴13年、12月25日。
 下層第10層。旧廃棄地区。

 ここは、かつて瓦礫だけが横たわる、およそ命と呼べるものがない場所だったという。
 正確な情報かは分からない。失われた10年あるいは2年の記憶を欠落させ、一部のみを取り戻した状態の、彼女には。

 ───アティ・クストスには、分からなかった。

「石の森、か。
 そういう風に言われるのも、分からなくはないけど。
 ……もう、今では。本物の森になろうとしているのね」

 旧廃棄地区の只中に立って、アティ・クストスは周りを見渡していた。
 瓦礫だけがあったという石の森。けれど、解放された後の今ではこうして、ちらほらと木々の緑を見ることもできる。
 上層階段公園から移植された木々は、ようやくこの廃墟にも根付いてきたという。
 石の森は、そう、緑の森に変わりつつある。

 けれど、実際に。
 あまり実感は湧かない。

 彼女───アティ・クストスにとって、都市の"失われた10年あるいは2年"は未だ、靄がかったおぼろげなものなのだから。

「どんな……場所、だったのかしら……
 ああ、ううん。どんな場所だったのかね。
 今では、こうして陽が、さ。
 差すこともあるけど、昔は。
 暗かったのかな。どうだったのかしら。
 ああ、うん。
 ……どうだったのかね」

 言い直してしまうのは癖だ。
 口調を、かつてのものに変えてしまう。
 断片的に浮かび上がる記憶で、アティ・クストスは過去の"自分"を知った。
 自分が、荒事屋と呼ばれる職能者だったこと。
 有体に言えば傭兵、戦士、兵士。戦闘以外のあらゆる工作も行う職能者。
 きっと、人を殺したりもしたのだろう。

 とはいえ、そんなことはもうできないはずだ。
 記憶の断片を取り戻してみても、如何なる理由か変異の消えた肉体では、数秘機関の埋め込みさえない肉体では。
 記憶の欠片に残るような、激しい戦闘など行えはしない。

 取り戻したのは一つだけ。
 おぼろげな過去だけ。

 そう、過去の記憶の一部を、アティ・クストスは取り戻していた。

 ───あの日、あの時。
 ───第7層で"あの子"の声を聴いた刹那に。

「……何か、ないかな。
 覚えているものがあればいいけど。
 廃墟の石の森、あたし、ここには来たことなかったんだっけ」

 結局のところ、取り戻したと言ってもそれは曖昧なままだ。
 細かなこと、例えば自分がどこに行って何をしてきたとか。
 そういうことは全然分からない。何月何日にどんなことをしただとか、全然。

「どう、かしら。
 ……ううん、どうだったかね」

 言い直して───
 僅かに吐く息は白い。
 都市の12月は冷え込むから。

 実感は湧いてこなかった。
 かつての無人廃墟だと記録されていた、都市管理部の公開情報を目にした時も。
 隣の住人から話を聞いた時も、あまり思うことはなかった。

 それでも。
 実感がなくても。
 あたしは見ておこうと思ったんだ。
 だから、すぐ帰ったりなんかしないよ。

「すべてを見るんだ」

 都市のすべての層を、この目に映しておこうと決めた。
 旅立つ前に、すべて見ておこうと決めたから。

 解放都市と呼ばれるインガノックを、
 失われた時過ごしたインガノックを、
 アティ・クストスは発とうと決めていた。
 都市再生委員会の就職支援プログラムに従って、都市第2層の機関工場の専属計算士として勤め続けたおかげで、旅費は大丈夫。
 結構な額が貯まっていたから、しばらくは旅ができる。
 詳細不明の預金口座もあったけど、そっちは手をつける気にはなれなかった。
 それはきっと"彼"がアティのために遺してくれたものだから。
 手を、つける気にはなれなかった。

 手をつけたら消えてしまう。
 そんな、気がして。

「……もう少し。
 もう少し、思い出しておきたかったんだけどな。
 あいつや、あの子たちのこと以外に。
 あたしが、どう生きたのか」

 発つ───
 旅立つ。そう、旅に出る。
 別段、この都市が嫌になったわけではない。
 たとえ記憶になかったとしても、未だほんの少ししか思い出せないとしても、
 ここには自分の10年があるから。

 寄り添い交わした人々との記憶が、
 今も、在り続ける場所なのだから。
 今も、残り続ける都市なのだから。

 だから、きっと。
 いつか、戻ってこようと思う。

 それでも、旅立つことを決めた。
 それは、あいつが───

「アティ」

「ん?」

 自分の名を呼ばれ、アティは声のほうに向きなおる。
 あの日、あの時の12月25日に、第7層28地区の瓦礫跡で出会った子へと。

 あの子の声を聴くと心が揺れる。
 いつも、そうだ。たった今もそう。
 聞き覚えのあるような、ないような……

 不思議な声をしたあの子。
 ここへの案内も買って出てくれた。

「なに、ポルシオン。どうかした?」

「ああうん、ほら、アティ。そこになにかあるよ。
 違う、そっちじゃなくて足元。あなたの足元に何か……ほら、そこ」

「ん……」

 名前を呼ばれて、場所を示されて。
 アティは"それ"を拾い上げていた。

 それは瓦礫の間にあったもの。
 あの子が見つけてくれたもの。
 本当に、足元に、隠れるようにして。
 誰かが見つけてくれるのを、ひっそりと待っていたかのよう。

「何……?」

 それが何であるのか、見たままを口にすることしかできない。
 綺麗なカタチだったと思う。お洒落、と言っていいのだろうか。どこか気品に満ちて、精緻な調度品のようで。
 嫌いじゃない。好き、と言える。
 随分古びているのに。どうしてか、そう、はっきりと思う。

「ペンダント、よね」

 手のひらに収まってしまうほどの、小さなそれ。
 細かな、綺麗な細工が施されているそれ。
 ふと裏を覗けば、そこには一文が書かれていた。
 手書きの文字で、あまりに場違いなそれは、けれどはっきりとその存在を明らかにして。

【Enjoy a carefree life!(気楽な人生を!)】

 ───瞬間。
 脳裏に何か、閃いて。

「見たこと、ある。
 これ、この……
 形は……」

 半ば朽ちたペンダント。
 あたしはそれを拾い上げ、自然と、抱きしめて。

 その瞬間、どこかで響いた声があった。



『行くがいい』

アティ・クストスの本懐は、かの異形都市を発つ白猫こそが果たすだろうけど』

アティ・クストスの名を持つ君の本懐は、君自身こそが果たすべきなのだから』



 声、聞こえた気がして。
 深く、深く、あたしは頷いていた。
 誰の声かを思い出すまでに、2秒。
 あたしの意識は少しだけ反応が遅れて。

 だから、雫が。
 黄金色に変わった右目に浮かんでいた。
 あたしが、誰の声かを想うよりも先に。

 嫌だな、2秒もかかった。
 昔の都市摩天楼なら、死んでただろうね。

 でも、分かった。
 覚えていた? 今、伝えられた?
 この声、聞こえた声、誰のものか───



『マスター』

『最早顔も名前も思い出せず、その名残すら消え去ってしまった誰かよ』

『貴方はきっと、貴方自身の願いの果てに行き着いたのだろう』

『さらばだ。貴方は貴方の現実の中で、より善き未来を歩むがいい』

『夢を叶えるには、まず夢から醒めねばならない。それは万人に共通した通過儀礼であるのだから』



「うん……」

 胸に抱きしめ、言葉、自然と溢れてくる。

「覚えてる。ごめん、時間かかって。
 でも、思い出した。思い出したよ。
 ……思い出した、あなたのことも」

 それは、きっとここではないどこかの記憶。
 あたしではないあたしが辿った軌跡。
 最後に命脈を賭して、仮初のあたしをここまで送り返してくれた、彼のこと。

「……うん。
 覚えているよ、アーチャー。ストラウス、赤薔薇のあなた」

「本懐は、あたしが果たすよ」

「もっともっと、良い未来を目指すよ」

「夢、きっと叶えるよ」

 呟いて───
 けれど、返答があるはずもない。
 声、届きはしない。

 聞こえたものも、本当は正しく空気を震わせる音声ではなくて、
 きっと、あたしの耳にしか届かないものだ。
 今は消えてしまった猫に似たあの耳に届き、だからこそ。聞こえて。

 あたしは返事を待たなかった。
 待っても、2秒で十分。

「あたしと、あの子と。そしてあいつと。
 きっとあたしは、望んだ明日を手に入れるから」

 だから、大切なものはここにある。
 今はそう思うことができる。
 あなたのように、立派な人に並び立てるようなものじゃないと思うけど。
 でも、それでいいんだ。
 そうでしょ、アーチャー。

 アティは空を見上げる。
 そこは永遠の灰色雲に覆われたはずの場所。二度と戻らない光が隠された場所。
 けれど、今は、天蓋に開けられた裂け目から眩い太陽の光が降り注いで。
 その眩さに目を細める。それでいいんだと、アティの旅路を祝福するかのように。







   ▼  ▼  ▼







 遥かなる過去。
 遠い日の記憶。
 そして、つい先ほどまで目にしていたはずの青空の下。
 血に染まった戦場を駆け抜けて、数えきれない骸を積み上げた後のことだった。
 斜陽の大帝国との戦いの後、故国ブリテンへと戻った彼を待ちうけていたのは反逆の騎士にして僭主モードレッドの裏切りであり、地獄が如き内戦の再来だった。以前のそれよりも酷いと言えるかもしれない。栄光の円卓は影も形もなく、精強にして一騎当千の騎士たちは次々と姿を消した。命を失って、あるいは決別の言葉を残して。
 辿り着いた先の森にて、大樹に身を預けながら彼は瞼を開ける。

 セイバーは───
 否、アーサー・ペンドラゴンは、過去に生きるただひとりの人間として目覚めていた。
 苦痛と熱が酷い。反逆者との決戦で受けた一撃は致命傷であったと思しい。ばらばらになりそうな意識を繋ぎ止めながら、言葉を告げる。つい先刻にも似たようなことをした記憶がある。不思議なものだ。

「ベディヴィエール」

 夢を見ていた。
 そう、王たるアーサーは告げる。

 遠い目をしながら語る王の言葉を、騎士は静かに控えて聞き届ける。

「夢の中でも、私は戦っていたよ。お前たちのいない遠い国の見知らぬ街で、私は愚かしくも惑いながら、やはりこの聖剣を振るっていた」

「愚かなどと、王を謗る者はおりません」

「ありがとう。ベディヴィエール、我が騎士」

 ゆっくりと言ってから、大きく息を吸う。
 血の味がする空気だった。

「では、騎士よ。お前に命ずる。この森を抜け、血塗られた丘を越えて湖へと赴け。
 其処へ我が名剣を投げ入れるのだ」

「王、それは───」

 名剣。湖の貴婦人よりもたらされた星の聖剣。
 王権を示す最高の名剣であり、何者であっても打ち倒す最強の聖剣。
 それを捨てよ、と王は言っているのだ。
 それは、王としてのアーサーの終わりを意味するのではないか。
 何故、と戸惑う騎士へ王は更に言葉を続ける。

「私は最早、王ではない。故国を救うことは遂に叶わなかったが……
 今ひとたび、私は騎士として在ろうと思うのだ。ベディヴィエール」

「理由を、お尋ねしてもよろしいですか。我が王」

「無論だ」

 瞼を閉じて、騎士王は静かにこう告げるのだ。



 ───ただひとり、僕には守らねばならない貴婦人がいるのだ、と。



 そしてベディヴィエール卿は二度の逡巡の後、三度目にしてようやく王命を果たす。
 王の永遠を願うあまり二度も引き返した彼であるが、とうとう湖へと聖剣を投げ入れたのであった。人の手に余る魔力を有した稀代の名剣は、こうして湖の貴婦人へと戻される。次に剣を手にする者は、時代によって選ばれた聖剣使いであるに違いない。
 果たして、大樹の麓へ彼が戻った時、そこに王の姿はなかった。

「……王よ、何処に?」

 遺されたのは。
 痛々しげなまでの血だまりのみ。

 王は、まさか、聖杯を得た騎士ギャラハッドのように───
 尊き伝説に語られる救世主の如くして、肉体を伴ったまま天へと召されたのか。
 あるいは、全て遠き理想郷へと旅立ったのか。

 それとも。
 もしくは。














 微睡みの内で、その夢を見ている。
 流れて溶け行く過去と未来の残影の中で、彼はそれを見た。

 たったひとりで歩むべき、旅路。
 たったひとりしか許されぬ道程。

 そのはずであった孤独の旅路に、
 しかし、傍らに在る小さな気配。

 ───きみは、どうしてここに?

 言葉はない。ただ、首を振る気配だけがそこにはあって。
 けれど、けれど。
 声ではなく、言葉ではなく。
 ただ、意味として在る想いがひとつ。

 ───見ているの。

 ───見ているの、あなたを。

 ───世界を救うべきあなたの、光り輝く剣を執るあなたの手が。

 ───何に伸ばされるかを。

 告げる少女が、そっと彼と手を重ねる。
 蒼銀の甲冑纏う騎士の手に、重なり合う白い繊手。
 何の力もない少女の手。命尽きたはずの騎士の手。
 しかし、ある種の実感があるのだ。
 この手にできることは、何か。
 彼がすべきことは、何か。
 分かる。あの時と同じように。

「ならば共に行こう。
 私は往く。私は在ろう。この果てなき旅路に、決して諦めることなく。私は、救世の剣を揮おう」

 それこそが我が答え。
 それこそが我が辿るべき道。

 そして、その果てに───













「僕はセイバー。きみを守る───サーヴァントだ」













 そう───
 そうだ。希望は潰えず、光も。恐るべき暗黒の大悪に呑まれぬものが、世界には在る。
 時を超えて、蒼銀の騎士は世紀末の極東都市へと降り立つ。
 輝ける聖剣を携えて。
 きっと、聖杯を巡り新たなる六騎の英霊と死闘を繰り広げるだろう。
 だが、やがて真なる決着の時は来る。
 命を賭けて戦った二騎、古き英雄王と無双の猛犬に並び立ちながら。
 そして、姿さえ見えぬ二つの瞳に見つめられながら。
 かつて相争った黒き六騎の悉くを斃し尽くし、大いなる獣と相対し、世界を救う───
 己が運命と定めたひとりの少女を、その手で、再び守るために。
 救国の王者ではなく。
 救世の聖者ではなく。

 ただひとりの、
 誓いを秘めた騎士として。



【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 赫炎のインガノック -Fin-】
最終更新:2020年05月07日 19:27