たった一言。

 誰かが言ってくれればそれで良かった。

 全ては夢だったんだと。

 僕は、ここにいていいのだと。







   ▼  ▼  ▼







「あ……」

 目覚めは唐突だった。
 わたしはベッドに突っ伏していて、シーツにはよだれの跡。
 寝ぼけ眼で周りを見渡せば、そこは見慣れたわたしの部屋。夜空と宇宙の写真立て、木造の簡素な机、大好きな小説、窓から差し込む暖かな光。
 時計の針は、もうすぐ夕方になる時間を指し示している。
 ああ、そうだ。わたしは。

「もうこんな時間……」

 言葉を一つ、わたしは掛けてある着替えに手を伸ばした。










 寒空の下、とっくに通い慣れてしまった道をわたしは歩く。
 吐く息は白い。新年が過ぎ学校が春休みを迎えても、この街の冬はもう暫く続く。
 雪はもう、降っていないけど。ちょっと厚着をして正解だったなって、冷え込んだアスファルトを踏みしめわたしは思う。

 日の傾きつつある午後。それでも通りに人の姿は少ない。
 やっぱり寒いとみんな家に籠っちゃうのだろうか。

 なんて、かく言うわたしも今までずっと家にいたわけで。
 正午のあたりからベッドに突っ伏して、眠りこけていたわけでして。

「りーさーん、待ってぇー……」

 人通りが少ないと言っても、暫く歩いていれば誰かと擦れ違うこともある。
 自分よりも少し年上の、浅葱色の制服を着た4人の女の子たちが和気藹々と笑っている。ひとりはショベルを持っていて、多分園芸の帰りなんだろう。
 通りの角を曲がったところでは、車椅子を押す女の子とばったり。ぶつかりそうになって軽く会釈して、明るい髪の女の子は笑って手を振ってくれた。

 歩きながら、わたしは空を仰いだ。

 わたしは、冬の午後が好きだ。

 冬は日が傾くのが少しだけ早い。
 夕方の真っ赤な空ではなくて、でもほんの少しだけその暖かな赤みを光の中に帯びていて。
 冬の凍てついた空気を解きほぐしながら、ゆっくり、ゆっくり傾いた陽射しが窓辺から差し込んでくる。
 ああ、もうそんな時間かって思いながら、ちょっとだけ息抜きに日向ぼっこ。
 うとうとしながら、微睡みながら、そんな時間を過ごすこと。
 わたしは、そういうのが好きだ。

 今、この時も。
 歩きながら見上げる空は、分厚い灰色の雲に覆われて。でもその向こうの光で白く染まって。
 雲の裂け目から覗きこむ光が、茫洋と世界を照らし、温める。
 見慣れてしまった日常の、ほんのちょっぴり好きな瞬間だ。

 日々を過ごしていく中で、少しずつ「好き」が増えていく。
 新しいものが見つかっていく。
 だから、わたしはそれをあなたと共有したい。

 教え合って、触れあって、一緒に笑いたい。
 なんで、そう思うかは分からないけど。

「……こんにちは、みなとくん」

 そうして───わたしは、今日も病室の扉を開くのだ。







   ▼  ▼  ▼







「扉が開かれることはない。物語はここでお終いだ」

 少年の語る声。対する誰かは無言のまま。
 ここは純粋の空間。光に満ち、あるいは何もない場所。

「あるいは、ここで停滞したままずっと続いていく。一歩を踏み出すことはない。
 結局は、ここで可能性は途切れてなくなるんだ」

 少年の声は続く。
 対する誰かは、無言。

「最初から分かっていたことだ。僕も彼女も、ずっと分かりきっていたことだったんだ。
 この世界に僕の可能性は残されていない。目覚めることはないんだって」

 その声は何かに満ちて。
 それは後悔? それとも、涙?

「だから、僕達の物語はここでお終いなのさ」

 対する誰かは、口を開いて。

「……くだらん」







   ▼  ▼  ▼







「ふわーーーー、すっごい結露!
 やっぱり外は寒いね、ここはとっても暖かいけど」

 病室に入ったすばるは窓を見つめ、ベッドで眠る少年に話しかける。
 返事は返ってこない。返ってきたことなど一度もない。
 すばるは彼の、みなとの声を聴いたことがない。
 起き上がった姿を見たこともない。
 その瞳がどんな色をしているのかも知らない。

 けれど覚えている。決して忘れない。

「冬は好きだけど、寒いのはつらいね。
 ストーブもいいけど、わたしはこたつが欲しいなぁ。
 ストーブだと、みんなその前でスカートぱたぱたするんだもん。はしたないよ」

 交わすのは、意味のない言葉。
 その日限り、その場限りの、日常的でありふれたどうでもいい会話。
 それでもいい。というか、そういうのでいいんだと思う。

 大きな意味なんて必要ない。
 人生なんてきっとそんなものだ。

「ね、みなとくん。みなとくんは夏と冬どっちが好きかな。
 わたしはどっちも好き……っていうのはちょっとずるいかな?」

 えへへ、と笑って無意味な言葉を続ける。

「夏の日って、たまに涼しい風が吹くでしょ?
 秋が近い頃かな。そのささやかに夏の残滓を掬い取ろうとしてる時が、わたしは好き。
 暑いのはちょっと苦手かな。夏には悪いけど」

 それでね、と会話は続く。
 たとえ話しているのがすばるしかいないのだとしても。これは会話だと思いたい。

「冬もね、わたしは好きだよ。
 こうやって曇ったガラスに指を這わせて、流れる水の脈を透き通った指先で受け止めて。
 あんなに暖かかった手のひらが冷たく赤くなっていく。
 こんなどうしようもなく幼稚で あたたかな冬のひとときが、わたしは好き」

 すっとなぞった指先が、曇りガラスの湿気を纏って冷たく赤くなっている。
 なんてことない、くだらないことだ。日常の中のほんの小さな出来事だ。
 でも、そうした「好き」を、わたしは積み重ねたい。
 だって、そうだ。わたしは。

「ね、みなとくん」

 こうして、過ごす日々の中で見つけた小さなことや、
 今隣にいる人の綺麗なところ、良いところを見つけたい。
 世界は喜びで溢れているんだって、伝えたい。

「きっと、また、会えるよね」

 わたしは、好きを諦めない。







   ▼  ▼  ▼







「まったくもって、くだらん」

 声が響く。
 それは少年の声ではなく、絶望と諦観に支配された声ではなく。

「何を……」

「聞こえなかったか、くだらんと言ったのだ。
 お前の語るその全て、今さら何をほざいている」

 巌のようなその声は、まるで鋼鉄であるかのように。
 無機質に、あまりに重く。地の底から響いてくるかのように。

「終わりだと? 停滞だと? 自分はここで朽ちてそれでいいのだと?
 よく吼えた。終焉を体現するこの俺の前で、二十も生きていないような小僧がよくも知った口を聞けたものだ。
 その厚顔無恥ぶりは尊敬に値する。よくもまあ、ここまで思い上がることができたものだ」

「っ、僕を馬鹿に……!」

「するとも。ああ、俺はずっとお前に言ってやりたかったのだ。
 サーヴァント、マスター。そんな主従関係はもう俺達には存在しない。
 だから、言ってやる」

 そして、鋼鉄の彼は告げる。

「お前は救いようがない」

 その、絶対的な真実を。

「…………っ!」

「お前は何になったつもりでいる?
 何かにつけては自分のせい、世を儚んでは自殺未遂、挙句の果てに自分は世界に拒絶された唯一無二だと?
 誇大妄想もここまでくれば芸術だな。お前は神にでもなったつもりか」

「んな、ななななな……」

 開いた口が塞がらない、とはこのことだろうか。
 あまりにもあんまりすぎる言いぐさに、少年は思わず口澱んで。

「な、んで、そこまで言われなきゃいけないんだ!」

「むしろ何故言われないと思う。今一度自分を客観視してみるがいい。
 いや、お前のことはどうでもいい。小奇麗に終わるお前はそれで満足かもしれないがな」

 男はどこかを指し示して。

「遺されたものは、どうなる」

「……」

「あの場でお前を待ち続ける、あの娘はどうなる」

「それは……」

 それは、少年とて思うところがある。
 というか、それが一番大事だ。
 申し訳ないと心から思っている。救われてほしいと、こんな自分のことなんてさっさと忘れてほしいとさえ。
 でも、それは叶わない。
 自分にはどうすることもできない。
 ならば、綺麗に終わってしまうのがせめてもの。

「お前はかつて言ったな。俺達は同じなのだと。
 終焉を求める俺と、消滅を願うお前。その根源は同一なのだとお前は言った」

「……ああ、そうさ。でもそれは少しだけ違うものなんだと」

「そこが一番の間違いだ。少しではない、俺達の願いは真逆のものだ」

 原初の間違いを正すように、男は少年へと言葉を紡ぐ。

「死は一度きり。故に烈しく生きる価値がある。
 それは俺の哲学であり、俺だけの価値観に他ならん。
 その正否を他人に譲る気は更々ないが……しかしお前の願いは違うだろう」

 その真実、少年の思いを確たる言葉として突きつける。

「現宇宙に生きる可能性が存在しないと切り捨てたお前は、だからこそ別の宇宙での可能性を模索した。
 この宇宙より消え去りたいというお前の願いは、すなわち"生きたい"という渇望そのもの。
 なあ、これのどこが似通っているというのだ。死にたいと願う俺と、生きたいと願うお前。そのどこに交わる余地があるという」

「そのことに、一体何の意味が」

「ないとは言わせん。ああ、俺は気に入らんのだよ。
 生も死も一度きり、故生きることは尊いのだと……そう拝して止まないゆえに、生きることに真摯でない者は見るに堪えん」

 言うが早いか、男は少年の手を鷲掴む。そのあまりに強い膂力に少年は身じろぎするが、しかし。

「これは……何をするつもりなんだ、マキナ!」

「俺に残された因果をお前に繋ぐ。お前を時間の流れから切り離し、世界から独立した存在へと切り替える。
 この宇宙の運命線の影響を受けないようにな」

「そんなことが……」

「できる。俺の創造が何だったのかを忘れたか?
 存在するなら運命だろうが因果だろうが、それこそ神だろうが殺してみせる。
 俺の渇望はそんな、どうしようもなく救えないものなのだ。ならば触れてできない道理はあるまい」

 違う、違うのだ。
 少年が言いたいのはそんなことじゃない。
 だって、そんなことをすれば、きみが。

「そんなことに残された力を使えば、きみは……!」

「消えるだろうな。今の俺は所詮残像、ツァラトゥストラに呼び出された最期の残滓に過ぎん。
 そもそもここに意識を保って存在していること自体が間違いのようなものなのだ。なら選ぶべきは一つしかあるまい?
 これを最後の蘇りとして、俺は永遠の安息に眠ることとする。俺の願いは、ようやく叶う」

 少年は───みなとは、もう何も言えなかった。
 それを見下ろして、マキナと呼ばれた男は苦笑する。

「なんだ、涙を流しているのか」

「……うん、そうだね。
 でもこれは嬉し涙だ。悲しいから泣いてるんじゃない」

「それでいい。命を繋いだ者の責務は、その後の人生を謳歌すること。断じて過去に縋りつくことではない。
 ……過去しか見ることのできなかった男から、最後のアドバイスだ」

 そうして彼は消えていく。
 みなとに流れ込む、暖かなナニカと引き換えに。

「全ての想いに巡りくる祝福を。あらゆる祈りは綺麗ごとでは済まされない。
 されども、みなと。我が束の間のマスターだった者よ」

 そしてその時、彼は初めて明確に───

「俺はお前を誇りに思っているよ」

 それは、錯覚だったのだろうか。
 それとも、都合の良い思い込みだったのだろうか。
 けれど、それでも。

「行くがいい。明日へ。
 必ず誰かが、誰でもないお前自身を待っている」

 それを目に焼き付けて。
 みなとの意識は、深海から海面へと浮上するかのように───







   ▼  ▼  ▼







「あ……」

 目覚めは突然だった。
 何の予兆もそこにはなくて、何の因果もそこにはない。
 ただ、そのようにして目が覚めた。
 その時隣にいた少女は、目を覚ました僕を見つめ、まるで信じられないものを見たように。

「みなと、くん……」

 ぼやけていた像が、はっきりと輪郭を結ぶ。
 遠かった耳が、次第に戻ってくる。
 モノクロだった世界に、鮮やかな色が宿っていく。

 ああ、そうだ。僕は……

「おかえり、みなとくん」

「……ああ。ただいま、すばる」

 全てが鮮やかによみがえっていく。
 切なく、目尻に涙さえ浮かべて。二人は静かに微笑む。

「思い出したよ、みなとくん。みんなのこと」

「ああ……ああ、僕もだ」

「みんな、笑ってた。みんな、一生懸命生きて……」

「きみの言う通りだ。僕達も、確かにそこにいた」

 因果が繋がる。思い出していく。
 だから、きっと大丈夫。

「思い出せたよ。忘れたはずの思い出。
 だから、きっと───」

 きっと。
 いつか、会える。みんなと。

 だって、思い出せたから。
 ありえないはずのそれが、起きたのだから。
 みんなでまた、一緒に───







   ▼  ▼  ▼







 夜空に浮かぶ星たちは、

 ひとりぼっちの寂しさと、

 巡り合う喜びを繰り返して、

 長い時の中を擦れ違っていく。

 今日の予報は流星雨。

 星空を見上げていると、今はまだ出会えていないどこかの誰かのことを、ふと思ってしまいます。

 その誰かも、同じようにこの星空を見上げていて。

 星たちは夜空から、そんなわたしたちのことを、見守ってくれているはずです。


【Fate/Fanzine Circle-聖杯戦争封神陣- 放課後のプレアデス -To the next story!-】
最終更新:2020年05月17日 14:11