九龍城砦



1993年まで香港に存在した城塞、及びその跡地に建てられたスラム街の名称。この項目では、主に後者のスラム街について記述する。

正式名称:九龍寨城(きゅうりゅうさいじょう)

概説

日本軍による香港占領期間中に、近くにあった空港の拡張工事のため取り壊された城塞の跡地に建てられたスラム街。中国から流れてきた多数の難民がバラックを建設、それが年代とともに肥大化したものである。

その内部は度重なる違法建築により迷路のように複雑化していた。国に管理されにくいという特性からヤブ医者や違法薬物の取引が公然と行われ、無法地帯と化していた。しかし、城砦内では子供や老人も暮らしていたため有志による自警団などの活動もあり一定の安全は保たれており、学校や福祉施設などのインフラもある程度は備わっていたようである。

しかし、内部の衛生環境は酷いものであり、また日照権なども当然守られていないなど、居住環境としてはとても住み心地が良いとはいえないものだった。

歴史

宋(960年-1279年)の時代、香港付近の海域に頻繁に現れていた海賊を取り締まる目的で要塞が建造された。

1841年に清とイギリスの間で行われたアヘン戦争でイギリスが勝利し、香港付近の島嶼群を99年にわたり租借する(事実上の永久的な支配を意味する)。しかし租借条約により九龍城砦は租借地から外れ、清の役人が引き続き常駐することとなった。その後、清の役人が城砦内で祝いの爆竹を鳴らしたところ、イギリス側からの軍事活動上の抗議があり役人を追放した。

1941年、日本軍が香港を占領し、近隣の空港の拡張工事のために城砦を解体する。

1945年頃、中国共産党による内戦激化により難民が香港に押し寄せ、この地域にバラックが立ち並び始める。理由としては、この地域は立地上国による管理を受けにくかったためと思われる。この時代から無秩序な建築が目立つようになる。

1990年代初頭、九龍城砦解体直前の全盛期には畳1畳分に3人ほどの人口密度となり、世界で最も人口密度が高い地域になった。

補足

正しい読みは九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)。

現在は閉店してしまっているが、ネットカフェのウェアハウス川崎店の内装は九龍城を模したものであった。

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最終更新:2022年06月25日 13:58