退屈な日常なんてものは、案外いつまでも続くものだと心のどこかで思っていた。
何かに手をだしてはすぐ飽きて、無気力のような、きまぐれのような、漠然とした毎日は、思いの外自分の生き方にあっていたのかもしれない。
だから、最後は社会の歯車になったとしても、そこへ上がることなく脱落し、どうしようもない人生を歩いても、後悔はするけど、不満はきっと漏らさないのではないかと、どこかでずっとそう考えていた。
人生への不安とか、未来が定まらないというのにあったのは、恐怖ではなく未知だった。
なにも判然としない曖昧な人生。
黒でもなく、白でもなく、どちらかといえば黒に近いグレーの世界。
モノクロどころかセピアのごとく色褪せて、過去が普遍に変わって、今が凡庸にかわる。
それが当たり前なんだと、ずっと心の底から思っていた。
――
「正直なところ、危ない状態だね」
結論はそれだった。
目に明るさをもたらす白を基調とした病院の室内、けれど安寧のはずである舞台は何よりも重苦しい空気に支配されていた。
そこにいるのは被害者である男、それをここまで連れてきた柿、風紀委員であるその弟、柚子の三人と、
カエル顔の、この状況で唯一平静を保つ医者であった。
「とはいえ命に別状はないし、僕自身がそんなことを許すはずもない。問題は彼が目覚めたあとだ」
命に別状はない、その言葉に友人である柿の顔が明るくなる。
けれど、それよりも先に“危ない”と宣告された事実にぶちあたり、再びその表情を曇らせた。
平静を保ちながらも、苦々しげに嘆息をする医者。彼も現状を快くは思っていないのだ。
「体全体の深い切り傷、中には動脈をぶち抜いているものもある。これだけでも最悪死に至るが、もっと悪いのはそれ以外の外傷だね」
内臓破裂。
心臓を強打したことによる心配への負担。
その際骨が折れ、肺に突き刺さる。
また全身の骨は砕かれ、ところどころ粉微塵になったものすらある。
何より悪いのは、脳へのダメージ。
列挙しただけでもキリがない。何せそれぞれ一つ一つがその男性を死に至らしめる原因になるのだ。
それをなんとかして、命に別条はないと断言できるという状態すら、その医者でなければ奇跡であっただろう。
「とはいえ前者四つは既に処置済み、流石に骨はどうしようもないが……三日もすれば動けるくらいにはなるだろう、けれど」
いよいよ、カエル顔の医者が表情を歪める。ただ一度の敗北、それだけが原因ではないようだが。
「脳へのダメージ、こればっかりはどうしようもなかった。三連敗、何をもって冥土返し(ヘブンキャンセラー)を名乗るのか……自分が情けなくなるね」
医者曰く、下半身不随に記憶の消滅。彼を形成していたエピソード記憶は掻き消え、多大な負債を残したまま、文字通りゼロからの強制リスタートをさせられる。
――いつまでも続くだろうと思っていた日常が、人生が、壊される。
もう、彼が彼であった頃には戻れないだろう。友人である柿も、彼にどう接することができるのか、
惰性出会ったはずの現実が、なぜこうも最悪の方向へと、舵取りがされるのか。
「彼はもう、彼では無い。それでもなお、たったひとりの女の子のために己へ戻ろうとする人間を僕は知っている……だけど、そんな強さを持つ人間が、世界に二人もいるとは、思えないな」
柿は知っている。結局の所、柿も、この友人も、隣でうなだれる柚子も、決して強くはないのだ。
何の意味も見いだせない日常を送ってきた中で、確かに彼女たちは成長してきた。
けれどそれはあくまで大人になるということであり、決して大きな個を持つようなことではなかった。
だから、柿は知っている。
――手遅れだと
それは、取り返しのつかない事実だった。柚子も柿がそう感じていることを分かっているのだろう、固く握られた拳は膝の上から動かない。
――疲れを明らかにする二人、医者は何と言葉をかけたものか、見いだせなかった結果、結論として、二人にこの場から帰ることを進めた。
風紀委員やここに来るまでに関わった人間への説明、やらなくてはならないことがあると、柚子はその場を後にした。
けれど向かうべき場所である学校と柿が戻る学生寮は同一の道の先へ有る。たとえ柿がもどるのがスキルアウトのアジトであったとしても、同一だ。
結局、柚子も一人になりたかったのだろう。
それほどまでに現実は二人を揺さぶった。
この日、不変であるはずの柿の日常がグニャリと揺らいだ。目の前を染めた刺激的な非日常の色は、どういうわけか、グロテスクなどす黒さを併せ持つ、極彩のクリムゾンだった。
――
人ごみが揺れている。
時刻は既に夕暮れ、帰宅を急ぐ学生たちによってそこは意外なほどごった返していた。人と人がほとんど同じ目的で行き交い、特別はない。
そう見れば、まるでこれは機械だ。
決められた行動を決められたようにこなす。
この場合は日常というルーチンワークによって縛られた人間という生物兵器、といったところか。
――自分を特別だとは思ったことはないが、今ほどこの日常が羨ましいことはない。
「……何や、これぇ、ホンマ、何なんや……」
言葉が思わずどこかへと漏れる。
力は無い、思ったほどに音もなかった。だとすれば、今自分はどこにいるのか。
――夕陽が揺らめく、それは終わりを示すのであると同時に、一日という、光と影の中で数少ない、その二つが交差する瞬間であった。
もうすぐ夜が降りてくる。
今の足取りでは、それに間に合いそうもない。
「おかしいやん、おかしいやん! ウチが、アイツが何をしたねん、アイツが死ぬ理由なんて、どこにあるねん!」
思い返すのということは、後悔を引きずったままだということだ。柿の中にあった漠然への執着は、仲間であるはずの男へ向いていた。
人生を狂わされ、零へ変えられた不幸の男。
同情はしない、できないしそれを好むような性分でも彼はない。――ならば何をしたか。
よっぽどそっちの方が最低だ。
利用したのだ。男の不幸を。
柿はただ漠然とした今が好きだった。細かいことは気にしない、それはつまり逃げでもあり、停止でもある。
向き合うことは絶対に無い、柿は男の不幸をまるで自分のものであるかのように振る舞い、過去への執着によって目を背ける。
「……最ッ低やん、ウチ」
嫌悪感は、罪悪感は確かにある。
言葉に出るのはそれゆえだ。けれどもその本心は紛れもない悔いの気持ち、それを偽った逃げの感情。
仮面を被り押し込めるような劣悪な根本。
――自然と、柿の口元から笑みがこぼれていた。
けれどそれは何もかもを分かっているかのような柚子だけへむける苦笑ではない。彼女特有の、仮面に張り付けられた、飄々の笑み。
人に好まれる笑み、同時に、人を自分が望んだ以上に寄せ付けない鉄面皮。
そうだ、これが自分だ。
これが本志柿の、紛れもない本性だ。
「今日は家に帰ってゆっくりしぃ、そすれば明日からまた再出発や」
空元気から生まれたような言葉。
その体現である彼女は、まさしくいつものままだ。
そしてその時だった。
「っと、失礼しました」
鋭い視線が彼女を貫いた。
「っ!?」
何か、肩にぶつけられた。
気づいて前を見る。どうやら意識をうちへ向け過ぎていたようだ。ぶつけられたのはこちら、ぶつかったのは向こう。
短く切り揃えた黒髪に黒縁眼鏡、きっちり着こなした制服にどことなく線が細く、まさしく書生といったような容姿の青年。
そしてその視線は、何かの明確な意思を持った貫くようなものだった。
「わ、悪いなぁ」
それに気圧されたか、軽くらしくも無い謝罪を相手に向ける。
「こちらこそ、では」
すっと、青年がその視線を収め前へ向き直る。ぶつけられことによりズレたカバンを下の位置へ但し、改めて歩を進め始めた。
少しばかり視線に呆然としていた柿だったが、ふと押されるような感触でハッとして、歩を前へ向けるのであった。
――
自分がいったい何をすべきなのか。
事ここにおいて、柿には幾つかの選択肢がある。たとえば、あの男を見捨てて、放り出すか。たとえば、あの男の敵を取るために動き出すか、たとえば、あの男を支え、助けるか。
一つ目は惹かれるものがあるが、逃げでは意味が無いし、柿という人間そのものとしてどうかと思うので論外だが、何にせよ取るべき選択肢はどれも正解のように思える。
手のつけようがないというのが実際か。
「でも、見捨てられるわけ、ないやん……」
もしかしたら、ああなっていたのは自分かもしれない、ああしてしまった原因が自分にあるのかもしれない。考えれば考えるほど、その思いは複雑化する。
罪悪感か、嫌悪感か、迷わないわけがない。
けれど、迷うわけには、行かない。
なかった事にできるようなことではない。
どれだけ柿が否定しても、今、柿の求める日常は壊されたのだ。その矛先は、きっと自分へ向いている。
「どうすればええんや」
一つ、思考を整理してみよう。
ここまでの記憶と、そこに込められた感情、自分に向けられたもの、自分が向けたもの。
――自分は、掴みどころがない、雲のような人間だ。そうでなくとも、つかむために力はいらない、つかめないから、そんな人間が、自分だ。
どうでもいいと現実に匙を投げ、流されるように日常を送る。
どれだけ今が楽しくとも、未来は決して見ることはできない。ただ、今がずっと続くと、心のどこかで思い続けてきた自分は、間違いなくいる。
けれどそれは否定された。
目の前で一つの人生が失われた。
柿という一人の人間は、その中ではただの無力で、考えることも、行動することも許されない。
そして、
「……そうや」
あの視線。
良くはわからない。なんだかんだ言って柿はただの少女だ。どれだけ気飾っても、それが聡く働くことはない。
だとすれば、
あれは、柿にとって、柿がどう取るべきことなのか。
「あれは、きっと叱咤やったんや」
それは鼓舞だった。
励ましと取ることで、喚起と取ることで、柿は自分の中に思考を作る。言い訳めいたものではあるが、けれど確かに定められたものであることに違いはない。
「情けないウチをみて、あの兄ちゃんは言ってくれたんや、そんなことでいいのか……って」
ようやくたどり着いた自宅の玄関、誰もいない部屋の中、ことごとく通りすぎて、目的の物がある自室へたどり着いた。
取りに来たのは携帯、今日は偶然忘れていたのだ。
「それなら急がな損損や! まっとれあいつの仇! もうすぐ足のサビに変えてやるでぇ!」
持つべきものは仲間。
今まで、ほとんど接点はなかったのだけれど、頼るべきはここぞだろう、覚悟を決めて、通話ボタンに手をかけた。
――のちにコレが、視線を送った人間、黒幕であるところの、生水が破滅するきっかけになることを、今はまだ、誰も知らない。
執筆:暁さん
最終更新:2011年10月31日 22:50