■1.『シルクロードの死神』■
ある日本人青年がシルクロードを一人で旅をしていた時のこ
と、こんな体験をした。
ローカルバスに乗って南新彊をめざしていたところ、突
然昼間なのにピカッと光るものを感じた。その後、バスの
中を見渡すと同乗者たちが皆、鼻血を流している。その光
景は滑稽にさえ思えた。そころが、鼻に手を当てると自分
も同じように血が出ているのに気がついた。バスの中は騒
然となった。あの時、私は被爆したのかも知れない。
新彊ウイグル自治区の南部に広がるタクラマカン砂漠には、
中国の核実験基地がある。その風下に位置する西側の村々では、
直接、放射性物質が降り注ぐ。
大脳未発達の赤ちゃんが数多く生まれ、奇病が流行し、ガン
の発生率は中国の他の地域に比べて極めて高い。その9割が血
液のガン、白血病である。中国政府の圧力のために、こうした
事実は公にされず、貧しい患者たちは薬も買えずに死を待つ。
こうした状況を報道したドキュメンタリー "Death on the
Silk Road" 『シルクロードの死神』が1998年7、8月、イギ
リスのテレビ局で放映され、衝撃を与えた。この番組は、その
後、フランス、ドイツ、オランダなど欧州諸国をはじめ、世界
83カ国で放送され、翌年、優れた報道映像作品に送られるロ
ーリー・ペック賞を受賞した。
弊誌で調べた範囲では、この83もの国々の中に、なぜか我
が国は含まれていないようだ。
■2.ウイグル人医師の苦難■
ドキュメンタリー番組の制作に協力したウイグル人医師
アニワル・トフティのこれまでの人生が、中国に植民地支配さ
れているウイグル人たちの苦難をよく物語っている。
アニワルは難度の高い手術を行い、国際学会にも幾たびか出
席するような優れた外科医だった。しかし中国内の民族差別に
耐えかねて、同じテュルク系民族の国で働きたいと、語学留学
を理由にトルコに渡った。そこで英国のテレビ記者に誘われて、
ドキュメンタリー制作に協力したのだった。
中国の核実験による後遺症を世界に告発した「罪」で、「新
彊分裂主義分子」のレッテルを貼られたお尋ね者となり、「中
国に入境すれば禁固20年は免れない」という。家庭は崩壊し、
中国に残してきた二人の子供も出国は許されず、祖父母に養育
して貰っている。
今はイギリスで、大勢のウイグル人亡命者とともに暮らす。
ここでは中国の医師免許は認められないので、外科医として働
くこともできない。慣れない生活と苦しい暮らし向きにもかか
わらず、彼は「決して後悔していない」と語る。
■3.「豚は彼らの先祖だから喰わないんだ」■
アニワルは1963年シルクロードの東端コムルに生まれ、鉄道
局の学校に勤務する父の転属で新彊の中北部に位置するウルム
チに引っ越し、そこで育った。当時、鉄道局に雇われているウ
イグル人はほとんどおらず、同局の運営する幼稚園や小中学校
で、アニワルは漢人に囲まれて育った。当時は、子供どうしで
一緒に遊んでいた。
だが、子供心に傷ついたのは、漢人の大人から蔑まれること
だった。小学校2年の時、同級生に家に遊びに行った。食卓に
はご馳走が並んでいて、一緒に食べようと誘われたとき、「豚
肉以外のものなら」と言うと、同級生は不思議そうに「どうし
て豚肉を食べないの?」と聞いた。
「イスラム教の教えでね」と答えようとするアニワルを遮って、
その同級生の父が言った。「豚は彼らの先祖だから喰わないん
だ。」 漢人は自らの先祖を龍だとする。動物を先祖と考える
のは、漢人の独特の民族伝統だろうが、その思考を他民族にも
適用してウイグル人の先祖を豚とする。いかにも漢人らしい差
別である。
アニワルは心底傷ついたが、それをバネに「漢人に負けるも
のか。僕は劣等民族じゃない」と、猛勉強するようになった。
■4.1949年、中国共産党の軍隊が占領■
ウイグル民族が漢人の支配に屈したのは、わずか60年前、
第2次大戦後のことだった。現在、独立運動の指導者であるラ
ビィア・カーデル女史は、当時のことをこう回想している。
当時、アルタイ(JOG注:新彊北部、モンゴル国境近くの
町)ではロシア人は多かったのですが、漢族を見かけるこ
とは極々稀で、たまに漢族がいたら「ヒタイ(中国人)だ」
と噂になったものです。山岳地方に住むカザフ族と、麓に
住むウイグル族との関係は良好で、互いに密な往来をして
いました。
アルタイのウイグルの家々は豊かで、私の家など他家に
比べたら、豊かとは言えない部類でした。庭には犬を飼い、
美しい木々や香りのよい花々が何種類も植えられ、裏の山
からは鳥が飛んできて囀(さえず)っていました。しかし、
そんなアルタイの風景が一変したのは、この地が中華人民
共和国の統治下に入ったときからです。
1949年、中国共産党の軍隊が「東トルキスタン」を占領
し、ウイグル族、カザフ族を問わず、お金持ちの家の人々
を逮捕しました。逮捕者は着の身着のまま大きなトラック
に乗せられ、タリムの砂漠にある労働改造農場や、監獄へ
送られていきました。[1,p18]
カーデル女史の家も、1962年の再調査で「資本家」のレッテ
ルを貼られ、家も土地も店もすべて没収された。父親は山に逃
亡し、残された母とカーデル女史と幼い弟妹たちは、トラック
でタクラマカン砂漠に連れて行かれ、そこで置き去りにされた
という。
こうして、ウイグル人は独立を失い、漢人に植民地支配され
ることになった。
最終更新:2008年08月08日 04:41