遠上多月

■キャラクター名:遠上多月
■性別:女
■所持品:女子高生が日常的に持っているもので、不自然ではない範囲

特殊能力【“竜言火語(フレイムタン)”】


 火蜥蜴の巫女、遠上多月が口から吐いた噂は、炎上する。

 炎上とは、真偽不明の風聞が、好意的ではない反応とともに、人口に膾炙することで燃え広がる現象を指す。

 すなわち、彼女が能力によって広めた噂は、その真偽を問わず、誰ともなく多勢に伝わって、いつしかそれが真実であるかのように、不特定多数に信じ込まれてしまうということ。

 特に、不快な感想を抱きやすい内容、恐怖や好奇心を想起させるような内容ほど、燃え広がるまでの時間が短く、効果範囲も大きい。およそ戦闘向きの能力ではないが、「民衆を束ねる」ことにかけては一日の長がある。

 また、「不特定多数に語られることで輪郭を得る」というほとんどの怪異にとっては、そのアイデンティティを逆手に取った悪意の改変を発生させられるという点で、致命的な能力である。

 すなわち、口裂け女に「ポマードやべっこう飴が苦手」という噂を流せば、本当にそういう弱点を持つ怪異になってしまう。

 但し、無から有を生み出すことは出来ず、「既にある噂に尾鰭を生やす」ことしか出来ない。例えば、口裂け女の天敵である別の怪異を生やす、といったような真似は不可能。
 また、本人が新たな噂を口にするだけではなく、それを不特定多数の人間が見聞きしなければ、当然ながら能力が発動することはない。

 また、巫女としての修行をサボって実家を飛び出してきたため、能力としては“未完成”。

 今現在発現している“噂の上書き”以上に、優れた用途や発展の可能性がありそうだが……
 本人は、未だにその可能性に気付けないでいる。

プロフィール

遠上 多月(とおがみ・たつき)

 遠く拝めば竜の姫、迂闊に寄らば蛇睨みと語られる、姫城学園の有名人。

 曰く、遠く拝めば竜の姫。
 十分な距離を確保して眺める分には、白磁の陶芸を思わせる大和撫子である。
 艶のある濡羽の髪、不健康なほど痩せた柳腰、多くを語らぬ控えめな唇。

 而して、迂闊に寄らば蛇睨み。
 物音を立てれば舌打ちで威嚇され、道を塞げば痛罵を受ける。
 いたずらにその名を呼んだ生徒が、謎の高熱で三日間も寝込んだとか。


 まこと、触らぬ蛇に祟りなし。


 ……というのが、遠上多月本人の耳に入っても問題ないように威厳たっぷりに加工された、同級生たちによる「取扱説明書」である。

 その姿は中学生、或いはそれ以下と言っても通じるほどに小柄であどけない。
 愛嬌のあるつぶらな瞳がチャームポイントで、分からないことがあると爬虫類めいたまばたきをする癖がある。

 背伸びしがちな性格で、自立心が強い。
 他人に助けを求める行為、迷惑を掛ける行動を何よりも嫌っている。

 入学当初は、彼女をやたらと子ども扱いしたり、構い倒そうと追いかけ回す生徒が跡を絶たなかった。しかし、本人はそのような扱いをされることを本気で嫌がっており、あまりの屈辱に耐えかねて本気でギャン泣きした挙げ句、一週間も学校を休んだことさえある。

 この事件以降は、「触らずに遠くから見守る」というのが、同級生たちの暗黙の了解となっている。……が、本人はこれを「他人を寄せ付けない孤高の風格がある」のだと思い込んでいる。たまに事情をよく知らない他校の生徒や新入生が近寄っては、後で校舎裏に呼び出されていたりする。


 ……その正体は、まつろわぬ民の巫女の末裔である。


 朝廷によって異端の民とされ、「人心を惑わす蛇の舌を持つ異貌のもの」として語られた霊能者、その末裔。長い年月をかけて、祖先が大蛇と同一視され続けたことで、呪われた家系となってしまった。すなわち、本当に蛇のような異形を持って生まれ、弁舌によって大衆を扇動する才能に目覚める、魔人の家系である。

 普段は一般人に擬態しているが、感情が高ぶると容貌の変化を抑えられなくなる。
 首がぐんぐんと伸び、口は大きく裂けて、舌は先端が二又に分かれる。

 この真の姿は、年頃の少女にとってはたいへんなコンプレックスであり、絶対に人前では見せないようにひた隠しに生きてきた。

 しかし、数週間前。姫城学園の女子生徒を狙って声をかけてくる悪質な不良集団の噂を聞いて、彼らを追い払うために、一度だけ大蛇の姿に変じてしまった。この時に誰かに目撃されていたらしく、昨今は「遠上多月の正体は口裂け女である」という噂が広まってしまっている。

プロローグSS



 昨今、巷を騒がせている『口裂け女』の正体は、遠上多月であるという。

 だが、遠上多月は『口裂け女』ではない。
 それどころか、彼女はこの怪談に語られる女のことを、凡そ性格の合わない相手だと思っている。

 まず、遠上多月は「私、綺麗?」などと、第三者に己の評価を委ねない。
 包丁やハサミなど、相手を傷つけるのに刃物に頼ることもしない。
 べっこう飴は子どもの頃に一度舐めたきりで、あまりの味の安っぽさにその場で吐き出してしまった記憶がある。

 つまるところ、遠上多月の正体は『口裂け女』などではなく。
 新参者の怪異と同列に語られることは、ひどく不愉快だった。


 なので、この噂を“炎上”させることにした。


 炎上といっても、字義通りの意味ではない。
 負の感情を薪木として、真偽不明の飛語風説が燃え広がる“現象”のことだ。

 先祖代々、遠上家の娘には魔人能力が覚醒する。
 遠上多月の場合は、口から吐いた噂に火を付ける、というものだった。

 ……正しくは、自らの言葉を真実であるかのように、多勢に認識させる能力であった。ただ、どういうわけか、語る言葉の内容によって効能に差が生じる。怒りや失望、負の感情を誘起する耳障りな内容は、火付きがよくて炭持ちも優れている。一方、心温まるようなエピソードや、退屈な内容はなかなか燃えるのに時間がかかる。

 東北の山中にある古ぼけた実家では、なにやら大層な名を与えられていたが…
 自身は「噂を炎上させる能力」とだけ認識している。面倒なので。

 さて、遠上家の血筋を遡れば、始まりは“まつろわぬ民の巫女”に辿り着く。

 信奉者を焚き付ける弁舌の才。その存在を危険視した当時の朝廷によって「醜悪な蛇の舌をくねらせ、邪法によって人心を惑わせる異形の女怪」として語り継がれることになった、悪路の霊能者。征夷大将軍によって討伐されるも、その血統は脈々と受け継がれ、鬼や山姥の類として、時代の端々に顔をのぞかせるようになった不遇の一族であった。

 ご先祖様は、或いは―――本当に、ただ口が上手いだけの箱入り娘だったのかもしれない。

 だが、権威によって「そういう存在」と定義されたのは、非常に拙かった。
 信仰とは、事実を捻じ曲げる解釈の力だ。

 異端の民を擬獣化して描写するのは、然程に珍しくはない。正義のヒーローが都合の悪いよそ者を根絶やしにしました―――などと、未来の子どもたちに聞かせられる話ではないからだ。だから、言葉の通じない蛮人たちはしばしば「人間に化けた怪異」ということにされる。無辜の民を騙す悪者を仕方なく退治しました―――この文脈ならば正当性が分かりやすいし、なにより好かれやすい。好かれやすいというのは、それだけ語り継がれるということだ。

 お前たちは、そういう存在だ、と。
 時代を越え、地域を跨ぎ、語り続けられること。
 雨露が石を穿ち、軽風が鉄を錆びるように。
 どれだけ小さな力であっても、一を束ねて百千万と成せば、やがては波濤の如く逆巻いて、現実を飲み込んでしまうのだ。

 認識を真実に変える力。
 すなわち、後世に魔人と呼ばれる能力者によって引き起こされる超常現象。

 それを集合的無意識が成し遂げたことで、遠上家の血筋には呪いがかかってしまった。

「……えっと、送信ボタンは……」

 遠上多月は、口裂け女ではない。
 だが、その正体が口裂け女であると、噂でも広がってしまうのは都合が悪かった。

「あっ、これ……ええい、矢印で改行ってなんじゃ」

 慣れない指先が、苛立ちを露わにキーボードの凹凸を叩く。
 ディスプレイを睨むまなこを、瞬膜が繰り返し往来する。

 閉鎖的な家柄に厭気が差して、飛び出した先の学生アパート。
 一階玄関の最安値の部屋は、日当たりの悪さが気に入っていた。
 中央には、仕送りの大半を注ぎ込んで購入したゲーミングPCが、肩身狭そうに陣取っている。画面に映し出されているのは、姫城学園の裏サイトの掲示板だった。


「【姫城学区の口裂け女の正体は、蓮柄まどかを名乗る愉快犯と同一存在である】……と」


 苦節数分、ようやく書き上げた新たな噂の内容を、何度も読み返して確認する。


 およそこの世に存在する、全ての怪異に共通するルール。
 それは、語られることで存在を定義づけられる、というものだ。

 例えば、口裂け女のモデルになった人物は、本当にいたのだろう。
 先天的な外形の異常、事故の怪我や後遺症。
 特殊なメイクや光加減で、目撃者が誤認したという可能性もある。

 それを怪談として語るために、誰かがこう言った。

 マスクの下の唇が、耳元まで裂けている「らしい」。
 本当の姿を見て、綺麗だと言わないと殺される「らしい」。
 赤い服を着ている「らしい」。べっこう飴やポマードで撃退できる「らしい」。


 その不特定多数の信仰が、口裂け女という怪異を産んだのだ。


 すなわち世評こそは彼らの輪郭で、空想こそが彼らの生態ということだ。
 旧き神々が後世の文学によって、人智の及ぶ形而下に貶められたように。
 遠上の家系が大蛇伝説の流布によって、異形の呪いをかけられたように。

 人々の語る中に生きる存在が、その伝承を上書きされるというのは、姿かたちを好き勝手に弄られるのに等しい。

 ならば、海に生きる魚から鰓を奪うように。
 噂の推移や流布によっては、怪異にとって不都合な特徴が与えられることもある。

 もしも、その「噂の上書き」を自在に操る魔人がいるとするのなら。
 怪異にとっては、不倶戴天の敵となるだろう。

 それこそが、煽動の魔人を代々輩出してきた遠上家の真なる使命。

 すなわち、“怪異喰らい”であった。


「……恨むなよ、“蓮柄まどか”」


 ……だが、遠上多月は反抗期である。使命のために生きるなんて、まっぴらごめんだ。


 報われない慈善事業に殉ずる志も、己を殺して家督を継ぐ滅私の心算もない。
 姫城学区を騒がせている怪事件の数々など、知ったことではない。
 そんなことよりも、自分の静かな学園生活を脅かしかねない「口裂け女」説の対処の方が、よほど火急の件だった。

 そして、学校の裏サイトは、噂を流布させるのには絶好の儀式場であった。
 彼女が慣れないキーボードを叩いていた理由は、つまりそういうことだ。


「そもそも貴様の始めた遊びとて、行儀の良いものではなかろうて」


 ぐぱぁ、と、その唇が大きく裂ける。
 二又に割れた舌先が、ちろり、と口端を舐める。

 その正体は、炎の舌を持つ蛟蛇。
 信仰によって異形の大蛇と同一視された、煽動の魔人能力者。

 |火蜥蜴《サラマンダー》の呪われた血筋を継ぐ、現代の|蜥蜴人《リザードマン》である。


◆◇◆◇◆◇◆


「ごきげんよう、遠上さん!」
「やめよ」

「遠上先輩、今日もちっこくて可愛いッスね!」
「やめよ」

 いつものように下級生たちと挨拶を交わしながら、底冷えする十月の校門をくぐる。

 同級生には、遠上多月と知って声をかけてくる生徒はいない。
 この世で最もコスパに優れた三文字は、平穏な学園生活を二年間も保証してくれた。

 かつては、幼い顔立ちや古風な言葉遣いを面白がって、近寄ってくる輩も多かったが…

 一度、|毅然とした態度で拒絶《本気でギャン泣き》して身分の違いを分からせてやったことで、以降は触れずに遠巻きに眺めるのがせいぜいとなっている。

 だが、残すところあと一年。どういうわけか拒めば拒むほどに喜ぶという、非常に訓練された物好きがポップアップしてしまった。背後で湧いた黄色い悲鳴にげんなりした表情を浮かべながら、朝の玄関に耳を澄ませる。


「遠上先輩だ」「拝んどく?」「アンタ、二年の時に……」「本日のやめよ、どう?」「ちょっと元気ないね、95点」「げっ、一限体育に変更って」「口裂け女ってマジかな?」「なわけ……」「それもう古いよ」「最新のスジはねー、あの蓮柄……」


 ……炎上による噂の改変は、どうやら上手くいったらしい。

 眉ひとつ動かさずに、安堵の息を溢した。
 最後まで聞き届けることなく、自然な足取りで教室へと向かう。

 遠上多月は、その無愛想な面持ちとは裏腹に、晴れやかな気分だった。

 大蛇の異貌の家系に生まれたコンプレックス。
 思春期の少女にとっては、その真の姿は、誰にも知られたくない秘密だった。

 余人に正体を知られてはならぬ、と家族に言い含められるまでもなく。
 彼女はこれまで、己の正体をひた隠しに生きてきたのだ。

 それを、あろうことか、口裂け女などと。
 なまじビジュアルは被っているだけに、たちが悪い。

 後ろ指を刺されることは気にしないが、家柄上、どうも己の容姿に関する噂にだけは過敏になってしまう。とはいえ、もう心配する必要はないのだろうが。

 本当に、蓮柄まどかを名乗るチェーンメールの存在は、渡りに船だった。

 噂の上書きに必要なのは、流布されやすい条件を整えること。
 悪目立ちしている愉快犯は、厄介な汚名をなすりつけるにはうってつけの相手だ。
 なにより、こちらの良心が傷まないのが良い。

 予鈴前の廊下はごった返しているが、遠上多月が威風堂々と歩を進めれば、預言者の如く人の海が割れる。そうして教室の扉を開ければ、一斉に視線が此方を向いて、すぐに静まり返る―――というのが、いつもお決まりの流れだったのだが、


 教室の空気が、おかしい。

 遠上多月が現れたというのに、誰ひとり、それを気に留める様子もない。


「……?」


 見れば、教室の隅。

 普段ならば、仲良しのグループが集って談話するお決まりの場所に、不自然な人だかりが出来ている。二、三人ほどのクラスメイトがひどく狼狽して、それを周りの生徒が慰めているようだった。

 静かな学園生活を望む彼女にとって、己が余計な注目を浴びないというのは、本来ならば願ったり叶ったりではある。しかし、この状況はちょっと、落ち着かないというか。

 ではどうするか、声をかけようかと迷っているうちに、結局チャイムが鳴ったので、仕方なく自分の席に戻った。



 担任の教師がやってきたのは、それから数十分ほど遅れてのことだった。



「もう知っている子もいるかもしれませんが、鮫氷しゃちさんが交通事故に遭いました。命に別状はないものの、しばらく学校には来られません」




◆◇◆◇◆◇◆




 事故現場は、学生通りとして知られる校舎横の歩道だった。
 交差点に信号無視で突っ込んできたトラックが、右折中の対向車を跳ね飛ばしたらしい。

 鮫氷しゃちは、衝突に巻き込まれることはなかったものの、跳ね飛ばされた車に押しのけられて転んでしまった。その際、制服の裾が引っかかってしまって、アスファルトの上を数メートルほど引きずられたという。

 命に別状はない。
 大人がそういう言い方をする時は、それ以外の問題があるということだ。

 鮫氷しゃちの場合、特に頭部の損壊が激しかった。
 おろし金のように粗い地肌に削り取られたことで、頭皮や鼻が削がれ、片頬が大きく裂けて、犬歯が剥き出しに見えるほどだったという。

 怪我の痛みを和らげ、事故のショックによる精神への影響を段階的にするために、現在は麻酔で強制的に眠らされている状態だそうだ。


「ッえー、登下校の際にはですね、メディアの方々ですとか、皆さんのね、あの、お話だとか、聞きに来ることと思いますが、くれぐれもね、目立ちたいだとか、テレビに出たいだとか、そういう面白半分でね、カメラに向かって余計なことをね、  」


 紋切り型の字句を並べる校長を他所に、懐に忍ばせたスマホで、裏サイトの掲示板を巡る。更新するたびに新しい書き込みがあるということは、どうやらこの全校集会で真面目に話を聞いていないのは、自分だけではないらしい。

 学校から事故現場が近いこともあって、事故の瞬間を目撃していた生徒は多かった。
 にも関わらず、運転手の容姿や足取りは不明。
 事故を起こしたトラックは盗難車で、車内に運転手のものと思われる物品はなし。


 また、証言の中には「運転席には誰もいなかった」という声も複数挙がっている。


 しかし、これらの目撃情報が、大人たちの耳に届くことはなかった。
 事故のショックで気が動転していたのか、学生にありがちな話の誇張か。
 いずれにせよ信憑性の低いものとして、まともに取り合ってもらうことすらなかったという。


(……私のせい、か)


 遠上多月は、己の保身のために軽率な能力の行使に至ったことを、ひどく後悔した。



◆◇◆◇◆◇◆



 一週間後。


 既に、「口裂け女の正体は遠上多月である」という説は、取り沙汰されることもなくなっていた。その一方で、「鮫氷しゃちは口裂け女に襲われて、自分自身も口を裂かれた」という噂が、実しやかに流布され始めていた。

 この後に何が起きるのか、遠上多月には予想がついている。

 鮫氷しゃちと口裂け女を同一視する噂が収束し、「姫城学区の口裂け女の正体は、鮫氷しゃちだった」ことになる。何故なら、遠上多月がそのように“噂を上書き”したからだ。いや、本来ならば、上書きされた噂が広まるに留まる予定だった。

 思春期には、魔人能力も二次性徴を迎えやすい。

 おそらくは、遠上多月の“炎上”にも、新たな能力が付け足されたのだろう。
 というよりも、本来あるべき成熟した能力に、一歩近づいたと言うべきか。

 既存の噂を炎上させることで、多勢の認知を書き換える―――だけではなく。
 書き換えた内容が受け入れられるように、現実を捻じ曲げるようになった。


「…………」


 しかし、単なる煽動の力に過ぎなかった遠上多月の“|竜言火語《フレイムタン》”は、その成長を迎えてもなお、効果てきめんに作用した。本来の目的の通り、己にとって都合の悪い噂の伝播を食い止める、“迎え火”となったのだ。


 鮫氷しゃち、という新たな犠牲者を身代わりにして。


(……私の能力が作用した結果なら、鮫氷しゃちは『チェーンメール』の送り主だったということになる。噂の辻褄を合わせるために、口裂け女として語られるにふさわしいエピソードを……)


 炎とは、人の手に及ばぬ力である。それは、形而上の比喩表現とて同じこと。

 祖母の説教が、いまさら脳裏に反響する。


(……私がやったのは、自宅の庭の枯れ草を燃やそうとして火勢を過ち、隣の家の住民を焼き殺したのと同じことじゃ)


 彼女が蓮柄まどかを名乗って、チェーンメールを送っていた動機は分からない。

 学生たちを怖がらせてやろうと、悪戯心が芽生えたのか。
 学園生活を豊かにするための、ささやかなスパイスのつもりだったのか。

 動機がなんにせよ、行為としては褒められたものではないだろう。

 だが、だからといって、

 もしもこの仕打ちがその天罰なのだとしたら、それはあまりに不釣り合いだ。

 いや、当然ながら天罰などではない。
 遠上多月の過失によってもたらされた、人為的な事故だ。

 自分が、能力を制御できていると過信して、軽率な行使に走った。
 その結果、無関係の一般生徒に、大きな傷と汚名を負わせることになった。

「…………、……」

 ぐ、と、吐きそうになるのを必死に堪えた。

 加害者である自分自身が、その始末の不快感ゆえに、吐瀉によって楽になる。
 その行為さえ、許されないもののように思えた。

 顔に受けた傷が、その後の人生における呪いとなるかどうかは、彼女の人となり次第だろう。だが、蛇の異貌という先天的な業を背負って生きてきた遠上多月にとっては、「その傷を他人に背負わせた」という罪の意識はひときわ重いものだった。


 だから、遠上多月は、覚悟を決めた。


 彼女は今、パソコンよりはいくらか操作慣れしているスマホの画面を、じっと睨んでいた。その画面には、祖母宅の電話番号が表示されている。


 すなわち、先代の遠上の巫女―――遠上|蛙手《かえで》。

 高校入学前に挨拶を交わしたきりの、魔人能力の師匠である。


(…………いやでもやっぱ怖いんじゃが)


 祖母の人柄を簡潔に言い表すなら、老獪であった。

 どれほど上手く修行をサボろうと、或いは失敗をごまかそうと、真っ先に見抜かれる。それをただ叱るのではなく、「これほど愉快なことはない」と言わんばかりに楽しそうに皮肉ってくる、底意地の悪いババアだ。親族の中でも、殊に苦手意識が強かった。

 しかし、当代の座を退いた今でも、家中における発言力は強い。

 世代を経るごとに薄まる異能の宿命に反して、数世紀ぶりに生まれた傑物である。
 歴代の巫女の中でも指折りの“怪異喰らい”として、界隈でも有名人だとかなんとか。

 間違いなく苦手な相手、ではあるのだが。

 しかし、「在学中は独り暮らしがしたい」と駄々を捏ねた自分の背中を、こっそり後押ししてくれたのも彼女である。

 なんとなく、学校で問題を起こしてしまった時に、彼女に真っ先に報告するのが筋であるように思えた。


(……ええい、ままよ)


 意を決して、通話ボタンを震える指で押さえる。

 二度、三度、繰り返されるコール音に耳を押し当てながら、遠上多月はどうか、どうか出ないでほしいと祈り続けていた。昼寝でもしているか、さもなければ買い物にでも出かけていてくれ、と。

 それならば電話をかけなければいい、或いはさっさと切ってしまえばいい、と心の中で思いながら、それでも彼女は、何度も繰り返されるコール音を聞きながら、祖母が受話器を取るのを待ち続けた。





 コール音が、止まる。





「……自分のために能力を使ったのかい」



 ひゅ、と、


 音を立てて、肺が縮み上がった。



「あ、お、お祖母様、あの……あっ、た、多月です」
「大事な孫の番号を忘れるかい。いちいち言わんでよろしい」

 生物としての温もりを感じさせない、例えるのなら紙の擦るような、無機質なしわがれ声だった。

 幼い頃は、その威容よりも、厳格な性格よりも、なによりもこの声が苦手だった。
 蛇という生き物は冷血動物だという。だからこんなに冷たい声が出せるのだ、自分も年老いたらこの祖母のように人間離れしたババアになるのだ、と本気で恐れていた時期さえある。

「……で、どうなんだい」
「あっ、は、はい!」
「はい、じゃない。自分のために能力を使ったのか、と聞いている」

 言葉に窮する。

 もっと、もっと機嫌を窺いながら、慎重にその話題を出す予定だった。
 まさか、向こうから踏み込まれるなんて。

「……使ったんだね」

 もう、何もかもお見通しなのではないか。
 実家にいた頃に何度も耳にした、不出来な端女を叱る雷鳴の一声を覚悟する。

 だが、耳元で囁く祖母の声は、

「……分かるさ。アンタの母親も、最初はそうだった。そして、家族に泣きついた」

 嵐どころか、凪いだ海を思わせるほどに静かで、落ち着いたものだった。

「あ、あの……」
「アンタが考えていることも、手に取るように分かるよ」
「うぐ」





「叱って欲しいんだろう」





 ぐ、と、喉が詰まった。





「そうじゃなきゃ、親でも姉妹でもなく、真っ先にアタシのところに電話なんか掛けてくるもんかね」


 図星だった。


 過ちを犯した自覚がある。けれど、誰もそれに気付いていない。
 罪には、罰が下るべきだ。では、誰がそれを下すのか。

 己の仕業である、と告白して、潔く糾弾を受けるべきだろうか?
 いや、それはダメだ。大蛇の異貌と煽動の力、それを明かすことにも繋がってしまう。
 自分が虐げられるならまだしも、家族にまで迷惑がかかる。


 するすると、書の一説を読み解くように、祖母は遠上多月の心のうちを言い当てる。


 おそらくは、母親だけではなく彼女自身も、かつて同じ過ちを犯したのだろう。
 既に自分の中にある感情だから、それを容易に言語化できる。

 祖母は、ひとしきり遠上多月の感情の言語化を終えると、


「…………莫迦だね」


 と、一言だけ、孫の愚行を叱った。

 その一言が、まるで許しを与えるように優しかったので、


「……ごめんっ、なざい」

 堰を切ったように、瞳からぼろぼろと涙が溢れ始める。

「ごべんなざいっ……!!」

 罪の告白も、誹りを受けることも許されない。
 それは、謝ることさえもできないということだった。

 遠上多月にとっては、それがいちばん、辛かった。

 しかし、加害者が被害者を差し置いて、その苦しみを享受することが許されるだろうか。
 そう思って、必死に心を殺し続けた一週間だったのだ。

「謝る相手が違うだろ」
「あ゛ぅううっう……」

 通話口で泣きじゃくる孫を、祖母はただひたすらに待った。

 同情の声をかけるでも、手厳しい言葉で叱責するでもなく。
 通話を切ることも、要件を急かすこともせず。

 遠上多月が、溜め込んでいた罪悪感をすべて吐き出すまで、じっと待っていた。

 やがて、通話口の嗚咽が落ち着いた頃。

「……アンタの能力はね、多月」

 先代巫女としての厳格な声音が、空っぽの意識に浸透する。
 遠上多月はもう、その声に怯えることはなかった。

「はっきり言って、遠上の最高傑作だ。アタシゃ会ったこともないが、始祖の巫女様にも劣らないと踏んでいる」

 身内贔屓やお世辞を言うような性格ではない。
 おそらくは、本心からそう思っているのだろう。

 思えば、修行態度や未熟さを窘められることは何度もあったが、巫女としての実力を褒められたことはなかった。どこか、むず痒い心地がする。

「だが、幼いうちに使命を背負わせると、潰れっちまう。アンタの母さんがそうだった」

 一瞬、祖母の声に苦々しい色が混じる。

 遠上多月は、己の母親についてよく知らない。
 自分としてはそれほど悪感情もないのだが、祖母とは不仲なのだろうか。

「だから、アンタには好きにやらせることにした。成人するまでは、やりたいことをやらせてやる。その代わり、自分のケツは自分で拭きな、ってな」

 突き放すような色が宿ったが。
 不思議と、かつて皮肉を言われた時のような不快感は覚えなかった。

「家を出るときに、何度も言って聞かせたね?」
「はい」
「誰にどんな迷惑を掛けたのか、アタシゃ聞かないよ。どうせ取り返しのつかないことをしたんだろ」

 鮫氷しゃちは、人好きのする笑顔が魅力的な、友達の多い少女だったという。

 手元にあった写真に視線を落とす。
 たまたま修学旅行の写真で、一緒に写り込んでいたものがあった。

 その写真には、うっすらと赤い線が滲んでいる。
 鮫氷しゃちの頬に、埃かとも見紛うような、歪な一筋。


 彼女は、口裂け女になりかけている。


「己の火の不始末もできないような娘に、遠上の巫女は名乗らせないからね」

 ぴしゃり、と、障子戸を閉めるような躾けの声。

「きっちりとけじめ、付けてきな」
「はい」
「アンタが|自分で自分を《・・・・・・》許せる時まで、うちの敷地を跨ぐんじゃないよ。それが出来ないってんなら、そんときゃ端女として戻ってくるか、縁を切って独り立ちするかだ。半端は許さないからね」
「承知の上です」
「良いお返事だ。ひとまずは卒業までに、姫城学区の怪異、一つ残さず平らげてきな」

「はい!!!  ……えっ、ちょ、一つ残さずって」




 プツ、ツー、ツー、ツー。




(き、切りやがったのじゃ……相変わらず、人の話を最後まで……)




 こうして。


 贖罪を兼ねた、遠上多月の怪談奇譚が幕を開けることになった。













 …………。














 ぷるる、と、再度、携帯が着信を報せる。









 祖母が掛け直してきたのか、と視線を落とすが、着信はすぐに止んだ。

 電話ではなく、ショートメールの通知だったようだ。

 短いメッセージだったので、ロック画面に内容が表示される。








「【卒業までに】」







「【蓮柄まどかを殺害できなければ】」







「【遠上蛙手が死ぬ】」







「【この事を誰かに知らせれば】」







「【鮫氷しゃちが、本当に口裂け女になる】」







 ぞわ、と、皮膚が粟立つのを感じる。



「あっ、な、なんじゃ……」



 蓮柄まどかを名乗るチェーンメールの送り主は、鮫氷しゃちのはずだ。

 彼女は今、事故の怪我で入院している。

 それも、痛みとショックを和らげるために、|麻酔で強制的に《・・・・・・・》|眠らされている《・・・・・・・》はずだ。


 つまり、このメールの送り主は、|鮫氷しゃちではない《・・・・・・・・・》。


 だが、鮫氷しゃちが事故で入院しているのは、ほぼ間違いなく、遠上多月の炎上の能力によるものだ。いくつかの噂で実践したから、間違いない。現在の|竜言火語《フレイムタン》の能力は、「己の口から吐いた噂にふさわしいように、現実を引き寄せる」能力に他ならない。

 つまり、鮫氷しゃちが入院したのは、彼女が蓮柄まどかを名乗るチェーンメールの送り主だったからで。



 では、これは、誰だ。



 そもそも、これが噂のチェーンメールだとするならば。
 人物や行為の定義も不透明すぎる。

 この場合、|蓮柄まどかとは《・・・・・・・》、|誰のことを指す《・・・・・・・》のか?

 もし、蓮柄まどか本人のことを指すのなら、既に死んでいる人間を、どのように殺害するべきなのか? いや、そもそも誰かを殺害するだなんて、そんなことを。

 困惑している遠上多月を他所に、スマホがもう一度、短く鳴った。

 送り主は、先ほどと同じ。『まどか』というアカウントから届いている。






「【よくも、やったな】」





 その七文字から、遠上多月はしばらくのあいだ、目を離すことが出来なかった。

 さながら、蛇に睨まれて身動きの取れなくなった、一匹の蛙のようであった。










最終更新:2022年10月05日 22:37