ジャン=マリー・クロワザール エレジーSS(後編)
百と二十年余りをかけて漸く齢八十を数えた男はそうしてそこまで書き終え、筆を置いた。
皺を「重」ね、見据える先は霞む。指先は震え、これ以上「加」筆しようにも覚束ない。
歳は「重」ねるものであり、「加」えるものだ。しかし、歳を「取」ることが出来る者がいたら?
その答えが背後にいた。いつからかは数えない。それほどまでに衰え、同時にわかりきったことだと気付いていた。
愛しい孫「娘」だ。
「ねぇ、ジャン=ポール。どうしてあなたはそこまで小刻みにされてなおジャン=ポールでいられるの? 肉も記憶も、名前さえ切り売って手に入れたのが『時間』なのよ。それを考えるともう『J』と『P』しか残っていないはずでしょう?」
「はっ、はは」
「何が可笑しいの?」
答えをもう言っていることが嬉しくて、同時に気付かないでいる目の前の孫娘をあざ笑う気持ちもあって――。
「それはあなたが、あなた方がわたしをそう呼んでくれるからですよ」
さよなら、わたしとあなたの名付け親――。
その一瞬に気を取られたのはおそらく必然だったろう。
生き延びるその一点に優れた力量を持つ魔人は自ら、一つきりの命を絶つという発想ができず、だが一瞬にして理解できてしまったがために十年間祖父と孫の関係で過ごしてきた男の自死を見逃した。
銃弾の音を耳にして、息子夫妻が駆けつけるのも時間の問題だろう。
よって、彼女は逃げ出した。
彼の息子夫婦に手をかけることも忘れて。老人の前では自分は二十年も生きていないただの娘と言うことを思い出してしまっただ。これでまた彼女の自分が「女性」ではないという認識は揺さぶられる。
覚醒と共に性別を失ったり変じたりする魔人は珍しくないが、彼の場合は後天的に変化していった例だとなる。男と言える時代はとうに過ぎ、けれど女と言うには自覚が足りない、その認識が今の彼女だった。
もうひと押し、私が女になるのはそれを除いて他にはないと決めていた。
ジャン=マリー・クロワザールを名乗る魔人は十八歳であるが、十年しか存在していない。
十年前、彼女は「伊藤園あまり」と言う名前だった。魔人能力「ポケット・ビスカッセ」によって当時十二歳だった彼女は「伊藤園あ」と「伊藤園まり」と言う名前の二人に分かれ、そして後者のみが生き残った。
初等教育を修了し終えたばかりの我が身では二対一の割合で分け与えられた体重(にくたい)はあまりにも、年齢と比しても軽すぎた。敵に追われる状況下で命を落としたのも仕方がない。
だが、それ以前に分かたれた「あ」などと言う名前の魔人はこの名前のままで存在出来るとは認識できなかった。
よって残った「伊藤園まり」は伊藤園の姓を捨てて「まり」になり、そこから「ジャン=マリー・クロワザール」の身分と名前を手に入れた。不意打ちであったので乗り換えに用意する両親と家庭は部長に頼ることになったが、これがここ半世紀で数えるほどしかない邂逅の一つである。
瀕死の傷も癒し、人の寿命を自在にするその魔人能力だが、対象をアイデンティティーの危機に直面させるという点で言えば精神や社会的地位への優秀な攻撃手段へも転化しうるだろう。
「体重」と「記憶」と「年齢」の二対一の比率での分配によって発生する二人の人間は、どうしても自身と自身であり、他人同士でもある。
たった一人の自分に戻ろうとすれば片割れが死体相手であっても叶うが、拒むなら近寄らず放置しなければならない。
死の記憶も不随意になった三分の一身もしばらくは引きずるが、それもそう長いことではないだろう。
自身の自信、己と言うものを引き裂かれたままで自分を存続しようとするなら、また違った拠り所が必要となる。
どうしても「暦」に入りたかった。
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希望崎の三年間、その三年目。女子生徒にとって悪いものではなかったし、ここまで準備してきたものがそろそろ形になると思えば悪い気分ではなかった。
あの副部長も青春の輝きとかクサくて甘ったるい言葉を愛しい後輩どもに吐き出しているのだろうか。悪態を吐きつつも少しは見習おうかと言う気にはなれた。面と向かって言うからこそ面白い。
「ええ、お悔やみ申し上げます。故人と私の祖母は古い御付き合いだったそうでして――是非とも形見分けを――」
ジャン=ポール・クロワザールの手記が「暦」の手に渡り、彼らの部史に部長が歩んできた歴史としてもう五十年ばかりが追加されるのはそう遠い話ではなかったようである。
最終更新:2014年07月20日 19:06