雪椿 菊水プロローグ
始業10分前。
席から辺りを見回せば、そこかしこで楽しげに挨拶を交わすクラスメイト達が見える。
聞こえてくるのは、昨日のテレビがどうとか、最近誰と誰の関係が怪しいだとか、そんな風な他愛もない会話。よくもまあ朝から元気なものだ、と思う。
僕はと言えば、この時間はどうにも眠くていけない。
机に突っ伏して、瞼にかかる重力に身を委ねる。本日は快晴。窓際のこの席で、背中をじんわりと暖める熱を感じよう。
始業まで後10分だけど……まあ、そんなことは。
「おい、おい。おはよう。なあ、おい」
……始業まで後10分だ。貴重な時間だというのに。
「……おはよ。なんだよもう」
頭だけ起こして、応える。
こいつは僕が朝弱いことを知りながらお構いなしに絡んでくる。しかも無視すると余計にたちが悪い。
せめてもの抵抗として、ありったけの不満を眉間の皺で表現してやった。気にも留めない。なんてやつだ。
「なあ、今日だよな。交換留学生が来る、ってやつ。アレ……アレ、見ろよ、おい!」
ああ、そういえば。
僕の前の席だった向日出死ぬ男(むこうでしぬお)は、先週末に送別会をした。彼は「たった半年なのに大げさなんだよ。今生の別れじゃねーんだからさぁ」と言っていたけれど、まんざらでもない表情がなんだか可笑しかったことを思い出す。
「だああああああっ!! 早く! 早く見ろ……って、やべえだろコレおい……!」
なんだよ、いやに焦るな。
促された先を見やる。窓の外だった。
黒い鉄塊——と辛うじて僕が認識した時には、それは向日出の席に突き刺さっていた。
黒塗りで無闇に長い高級車、紛れもないリムジン。
それは他でもない御曹司の証だった。
リムジンを精製できるのは、御曹司だけだ。
静まり返った教室にドアの音が響く。
眠気はすっかり吹き飛んでいた。
車中から少年が悠然たる態度で現れ、口を開く。
「諸君、驚かせてすまない。金持ち特有の道楽心を抑えきれなかった」
彼は交換留学生。
名を、雪椿菊水と言った。
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「えーすごい、雪椿くん! それじゃあ、ただ金持ち特有の道楽心のみに突き動かされて、間借りしているマンションの屋上にリムジン射出装置を作り私たちが怪我しない軌道・時間・破壊力を算出して飛ばし、更に併設された御曹司射出装置で同様にして飛び出した後に空中で高速螺旋運動リムジンに乗り込んで来たの? すごい道楽心〜!」
自己紹介を兼ねたホームルームもそこそこに、教室は再びの賑やかしさに包まれた。話題の中心は当然雪椿菊水である。
窓際中央、僕の前の席。暫く様子を窺っていると、やがて質問責めはひとまずの終了を迎えた。一息ついた彼は、突き刺さったリムジンのボンネットに小綺麗な筆記具を広げている。
「あの、雪椿くん」
声をかけてみる。
「ん……ええと、君は?」
「ああ、僕は中流階級たろう。よろしく。その……君は、リムジンを机に授業を受けるつもりなのかい?」
「たろうか、よろしく頼む。そうだね。俺は、自分の道楽心を抑えられない。金持ち故にな。……だから、こうする他ないんだ」
「そうか……御曹司というのも大変なんだね」
僕には縁のない苦労だ。けれど目の前の彼を見ていると、多分大変なのに違いない、という気がした。
お金持ちというのも羨ましいばかりではないのだろう。
あまりにも違う世界で、僕にはよく分からないけれど。
「こっちへ来てみてどう? やっぱり何かと勝手が違うでしょ」
「ああ、正直戸惑うことばかりだ。ただ、それでも悪い土地でないことはわかる」
「そりゃ光栄だ。君の住んでたところはどんななの?」
「俺の地元か……なんというか、すごくキラキラしたところだよ。街も、人も、こう……色彩豊かで。それでいて、自然の中に調和してる。ええと……ああ、うまく伝わらないな、これ」
「はは。んー、でもなんとなくなら分かるよ。きっと素敵なところなんだろう」
「うん……そうか。そうだな。今度遊びに来るといい。みんな歓迎するよ」
雪椿が嬉しそうに笑う。
つい先程下した、違う人種という評価。改めようと思った。
この男も根っこはそう変わらない、ただの地元を愛する男子高校生だ。
これだけのやりとりでこう感じるのも可笑しいけれど、案外、いい友達になれるのかもしれないな。
僕も笑い返した。
最終更新:2014年12月06日 18:01