三回戦第四試合:平方 カイ vs 「提督」 徳川秘密格闘技場
『提督』は闘技場のひび割れた天井を見上げた。
そしてその上に深く深く水をたたえているであろうアトランティスの大海のことを想った。
『提督』にとって海とは戦場であり、故郷であり、安らぎの地であり、最期の眠りにつくための墓地であった。
だが、それを想うたびに必ずよぎるものは、常に自分よりも二歩三歩手の届かない先にいる兄という存在である。
それは彼の脳裏に巣食い、毎夜押し寄せる悪夢の津波となって彼を苛むのであった。
「 提督 ――提督、提督!」
その日の目覚めをもたらしたものも、不安げに涙をたたえたクインの声であった。
「提督」は己の肌着がびっしょりと汗で冷たく濡れていることを自覚した。
「また、うなされておりました……提督(アドミラル)。私、私は」
己の手を握るその肌の温もりは何よりも暖かかった。
「もういいだろう、クイン……」
そこで『提督』は……その男は、一呼吸着いた後、こう続けた。
「私の本当の名で呼ぶがいい」
「……はい。わかりました。……『代将(コモドール)』」
耐えがたい頭痛の中に、ダークエルフの声はミスリルミントの清涼剤のように涼やかに響き渡った。
肩の荷が下りたような、だが何か同時に大切なものを失った気分であった。
「私は一度すでに負けた身だ。私はもはや『提督』には――兄にはなれない。だが闘いが終わったわけではない。野生の猿どもがまだ噛みつかんとしてくるならば――」
「Kill them all。叩き潰すだけだ」
ポータルの転送音が彼を再び現実へと引き戻した。
「現れたな……未開の猿め」
はたして、現れたのは彼がそれまで相手にしてきた人間たちよりもさらに文明を知らぬと見える蛮人の姿である。
だが彼は訝しんだ。
その褐色肌の少女は――これから闘いに臨むとは思えないほど、すでに傷つきぼろぼろの姿であったからだ。
時は数時間前へと遡る。
「本当にいいの……?」
DJ皿廻音姫は困惑した表情で少女に訊ねた。
「……構わない。」
熊野古道の隠された遺跡の果て――遺跡の守護者である数学者、平方カイがその手で取り出してきたものは、一枚の古びた魔術レコードであった。
「『チャイティンのオメガ』、それが名前。この世のありとあらゆる計算――はるか昔のものも、これから未来のものも、すべての計算結果が詰まっていると言われている定数」
「この世のすべての……って」
音姫は息を呑んだ。
「アカシック・レコードじゃない!」
「これを狙ってたくさん悪いやつがやってきた。……すべて殺した」
眼前の音姫の冷や汗に、彼女は気が付くことなく続けた。
「ずっと守り抜くこと。それがカイの目的だと思っていた。父ちゃんも、父ちゃんの父ちゃんも、そのまた父ちゃんも、そうしただろうから。でも……」
奥歯をきっと噛みしめ、少女は吠えた。
「……違う!父ちゃんは……きっとそう思ってなかった!」
彼女は己の身体に刻まれた守護公式を、そこに込められた父の想いを両腕で抱きしめた。
「ヒメ。頼む。カイは弱い。カイは強くなりたい。なあ」
少女は問う。
「カイは悪いやつか?」
「そうかもね。でも……」
音姫は震えた。
人類の至宝と呼ぶべき掘り出し物に手を触れる背徳の罪悪感に耐えかねたのだ。
同時に、音姫は自らの血が滾るような喜びをその身に感じてもいた。
まさに世紀の秘宝、レア・グルーヴを自らプレイできるDJとしての最上級の快感だ。
「もっと悪いやつは、目の前にいるんだから」
そしてDJは、レコードに針を落とした。
目を開けると、平方カイはどこまでも続くただ白一色の水平線の世界にいた。
そしてその異常な風景の中に、ただひとつ球とそれに外接する円柱という空間図形が浮かんでいた。
母なる0と父なる1との交合。
それが己の目で見ている光景ではないことに、カイは直ちに気がついた。
一流の数学者はしばしば「数覚」と呼ばれる一種の第六感を身に宿す。
これは数学的なひらめきをもたらすのみならず大地の数霊たちとコネクトするために欠かせない知覚である。
中には深淵なる思索の果てに「素数の声が聞こえる」などと言い出すものも少なくない。
すなわち、彼女はいま己の数覚がつくりだした世界にいるのだ。
すると、空中に浮かぶ奇怪なオブジェは突如として変形を始めた。
図形は内部から回転し、反転し、やがてひとりの人間の姿を取って、カイの眼前に立った。
カイは身構えた。
呼応するように、その大理石のごとき白一色の人物も古代ギリシア数学の構えをとった。
『チャイティンのオメガ』。
アカシック・レコードに刻まれた情報は、数千年に及ぶ数学者の闘いの記録。
それが誰を摸しているのか、カイは悟っていた。
その姿はまさに父から聞かされた古い伝説のままであったからだ。
古代ギリシア数学の雄――アルキメデス。
しばしの張り詰めた静寂ののち、それは不意に口を開いた。
「メ・モ・トス・ククロス・タラテ(私の円を踏むな)」
言葉とともに、複雑怪奇でありながらも美しい幾何学模様が、一斉に彼の足元から這いいでた。
闘いが始まった。
「『中間値の定理』」
アトランティス闘技場に響き渡る試合開始の合図と同時、カイは即座にイプシロンノートを展開した。
紙片は連なり、リングの金網と結びつきカイの身体を高く放り上げた。
「『無限降下法』ッ!」
頭上高く、重力よりも加速したカイが『提督』に襲いかかる!
『提督』は腰から抜いたサーベルで真っ向から受け止めた。
「成程……なるほど。『ノート』か。字を使う猿もいるのだな。見直したよ」
カイは即座に飛び離れ、再び金網と己とを補間する。
「『対角線……論法』!!」
今度は斜め上からの奇襲!
闘技場のリング内を縦横無尽に飛び回るカイ。
その猛攻を、対戦相手――『提督』は己の体術にてやすやすとかわす。
「おやオヤ、どうしたんデースか?お嬢サン。ズイブン、お急ぎのようですネー」
明るい声で挑発するような声をかける『提督』。
事実、カイは焦っていた。
先の試合の敗北、そして守護公式に込められた「祈り」。
(カイは、もっと強くならなくてはいけない)
父親が残した「祈り」は、いまや「呪い」にも似た力となってカイの思考を鈍らせる。
(思い出せ。ヒメがくれたあの修行を。『オメガ』に遺された数学者たちとの闘いを)
「これはこれは!ニュートンを倒したか!あのごうつくばりの大泥棒め、結局僕の『記法』の足元にも及びやしない」
白一色の風景の中、カイの目の前で、その死体は無数の記号へと微分されていった。
彼女は傷つき荒く息を吐きながら、次なる敵をその目に捉えた。
自らが編んだ数覚の世界にとらわれてから、体感時間で一時間ほどが経過したであろうか。
カイは次から次へと現れる過去の数学者の幻影と、終わりの見えない闘いを続けていた。
「ああ失敬――君の相手は僕だ。そう、人と人との間に紛争があるとき。解決する手段はただ一つしかない。推論を有形に。誤りをすべて白日の下に――」
その白い影はとめどなく喋り続けた。
新たなる挑戦者の名は、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ。
森羅万象を記号計算に還元する遠大な夢に取り憑かれた男。
「――カルクレムス(さあ、計算しよう)」
「『1の分割』……そして」
カイは自らのノートを細かく分断した。
幾多もの紙片がカイの周囲をめぐる衛星と化す。
「『局所大域原理』ッ!」
カイの周囲に展開したノートが、竜巻のように舞い踊り、巨大なドリルとなって『提督』を襲う!
数理の流れが集中する弱点を一点突破し巨体をもなぎ倒す秘術だ!
「……フン。所詮はサル……しかも田舎の山猿か。失望したぞ」
直後、提督はカイの背後に立っていた。
背後の金網と自分の距離を「開き」――瞬間移動したかのように移動したのだ!
そして背後からカイの右手をひねり上げ、
「サルには過ぎた玩具だ」
イプシロンノートの綴じ目を「開いた」。
ノートを構成していた紙片が、ばらばらになった。
「あ……」
右手をひねり上げられたまま、カイは声にならない声を漏らす。
果たして魔人能力の産物である超自然のノートに本当に綴じ目があったかはわからない。
だが『提督』は「綴じ目はある」と認識し――カイも、そう認識してしまった。
「……『中間値の定理』!『カラテオドリの定理』!……『四則演算』!」
四散したノートに数式を綴る。
だがその数式が力を持つことはない。
「『背理法』!『帰納法』!『超限帰納法』!……ッ」
目の前でノートの切れ端が消えていく。
(カイの……ノート……が……)
やがて最後の破片が消滅し、カイは力なく左手を下ろした。
「どうしたんデースかー?ワルアガキはもうおしまいデスか?……やれやれ」
『提督』はカイの右手を離し、吐き捨てるように言った。
「貴様は前回のコダチとかいうサルよりも弱かったな、興ざめだ。」
古太刀六郎。この男はあの実況者を知っているのか。
あの自らがピンチに陥ろうとも自分を貫き通した誇り高き男を。
「あのやかましいサルもたいした相手ではなかったな……降参しろ。もう貴様には打つ手はあるまい。」
最後まであきらめなかったあの男を、弱いというのか。
「……降参、しない……」
「WHAT?」
「『ノート』は……まだ、ここにある!」
……♪~
歌が、聞こえる。
それはカイが歌う歌。
素数の声が聞こえると言われる一握りの数学者に伝わる歌……
『素数の歌』である!
オイラー。ガウス。クンマー。ハミルトン。ガロア。カントール。
幾人の数学者をその手で葬っただろうか。
いつしか彼女の周りには白磁のような死体の山がうず高く積み重なっていた。
カイは口にくわえた刃で、ビジー・ビーバー……最後のチューリング・マシンを仕留めた。
無限の長さを持つテープを断末魔のようにまき散らしながら、仮想機械はその動きを止めた。
彼女の両腕はすでに死闘に次ぐ死闘で動かなくなっていた。
だが闘志は再び立ち上がるその眼にいまだあかあかと燃えていた。
そして彼女の目前に再び新たな数学者が現れた。
それがこの永き闘いの最後の障壁であることを彼女は悟った。
彼女はその名を呼んだ。
「……平方コン」
その立ち姿は、そして構える闘法は、カイの記憶に残されている父の姿そのままであった。
彼女はそれにかける言葉をしばし探したが、首を振って打ち切った。
それは幻影であるからだ。
レコードの溝に残されたただの記録の残渣に過ぎない。
……ならば彼女に出来ることはただ一つしかない。
「……倒す。倒して、カイは、ここを出る」
満身創痍のカイが立ち上がる。
そして、自らの右腕に左手の爪を立てる!
「フン、気が触れたか……さっさと楽にしてやるべきだったな」
『提督』が止めを刺さんとカイに手を伸ばす。
だがそれを跳ね除けるように、自ら傷つけたカイの腕が激しく発光する!
「『アルベロス』」
発光が止まり、カイの右腕があらわになる。
そこに生えていたのは奇怪な形状の刃物であった。
古代ギリシアにて、かのアルキメデスがもっとも得意とした武器……
通称・『靴屋のナイフ』と呼ばれる武器である!
カイはすでに、『オメガ』に刻まれていた数学者たちの記録を我が物としていた!
「こ……これは!バカなッ!『ノート』は「開いて」破壊したはず!」
「ノートがなくても、『証明』……できる。『イプシロンノート:オメガ・ワン』」
(……ッ!だが、所詮は近接武器、距離を「開け」ば!)
『提督』はカイとの距離を「開く」。だが、開いたはずの距離は変わっていない!
「『不動点定理』」
それは呪いであった。
いくら距離を離せども決して逃げられない呪い。
カイが新たな公式をその身に刻み、『提督』に追いすがる。
(刃の継ぎ目を……間に合わん!)
「くおど・えらと・でぇもんすとらんだむ」
「馬鹿な……ァァァァァァァ!」
『靴屋のナイフ』が、『提督』の胸を貫いた。
(ああ)
血を吐きながら、彼は己を斃した少女の顔を見た。
(その目……そんな目で、見るんじゃない。私は……私は、兄に……くそ)
(私がそれを失ったのは……いつだったか)
刃が引き抜かれると同時に、その身体は海底に沈む闘技場の床へと倒れ伏した。
「猿……めが」
『提督』が意識を手放す直前に浮かんだものは、彼を常に脅かす兄の存在ではなく、なぜだかクインの優しい笑顔であった。