「……なんだ、これは」
斎藤ディーゼルは呻いた。
彼の仕事場は社会のクズ底にして、相手となるのはそこに巣食う鼠や毒虫の類である。
その彼をして直視に堪えぬと思わせる頽廃が、眼前にあった。
窓のない地下店内にひしめくのは、下卑た笑みを浮かべる薄汚いなりの男たち。きわどい衣装の女を侍らせ、薄衣の内に手を這わせる者すらある。
強すぎる酒精の臭いが嗅覚を刺し、天井には紫煙がわだかまる。のみならずKGBとしての知識が、明らかにより不穏な芳香までも教え示した。
やんやと飛び交う野次の中から、だみ声が賭博への参加を叫ぶ。人気は自分にあるようだった。当然だろう。相手は年端も行かぬ少女なのだから。
「……君は……」
むしろ己こそが途方に暮れた迷い子であるかのように、ディーゼルは少女に手を差し伸べかけた。それはKGBとしてではなく、武人としてでもなく、ただ斎藤ディーゼルという人間の良心が発露した結果だった。
子供は、いや誰であれ、まともな人間はここにいてはならぬ。こんな場所は出て家に帰ろうと、そうする手段も浮かばぬままに口にしようとした。
――ゆえに。
平賀稚器が千勢屋香墨に敗れ、結果その思考基準を変えられていなかったなら、この時点で勝負は決していただろう。
「――ッ!」
飛来する矢めいた鋭角の影を、ディーゼルは咄嗟に身を逸らして避けた。
彼の背後にいた一人の酔漢が、流れ弾を受けて即座に昏倒する。それは紫の薬液を湛えた注射器だった。
これが例えば銃弾であれば、迫る速度は遥かに優り、まともに貫かれていたに違いない。
「あれれ? 避けられちゃった」
正面に立つ少女が言う。
彼女はディーゼル自身の鏡像のように、片手をこちらに向けて伸ばしていた。桃色の着物の袖の中から、金属の冷たい輝きが見えた。
「もー。駄目じゃない、そ兄ちゃん! チキは“危なくない”武器はあんまり持ってないのに!」
少女はいかにも立腹したと言いたげに、腰に両手を当てて唇を尖らせた。
背筋が粟立つ。少女にか。否。これほどまでに警戒を解いていた、己自身の愚かさに。
「……斬り、捨てる!」
ディーゼルは木刀を抜き、正眼に構えた。
膨れ上がった裂帛の気迫が、周囲の客の厭らしい笑みを消した。
《武装選択。限定:非殺傷性》
自律脳が判断を下し、鉄の骨格がそれに従う。
稚器は首の後ろに手を伸ばし、背骨に沿って隠されたそれを取り出す。
ヒート鮪包丁。鋭さと熱でいかなる魚をも瞬時にタタキに変えることが可能。だがその刃を裏返し、加熱機構も作動はさせない。
「イィィィィイイッ面エエエエエエエンッ!」
「ていっ!」
振り下ろされた木刀を、振り上げた包丁の峰で受け止める。
バイザーに隠された目が見開かれるのを、高画質4Kカメラアイが捉えた。なるほど、人間同士なら不可解な結果だろう。しかし稚器は人間ではなく、魔人ですらない。
「やあっ!」
「ぐ……っ!」
生じた隙を突いての蹴り。脚部ローラースラスターを使用しての加速は――《却下》。
結果、脛を砕くには至らない。しかし敵は体勢を崩した。追撃をかけるべく腕を駆動させ、
《敵口中に高エネルギー反応。回避せよ》
「ふぇ……っ?」
既に体は打ち込みの動作に入っている。警告は遅きに失しただろう。それを受けるのが尋常の者であれば。
今度こそローラースラスターを起動し、最高速の横移動でこれを回避。直後蒼い閃光が走り抜け、不運な観客が十人ほど蒸発。壁には黒い大穴が開いた。
「突ッッッッッギエアアアアアアアアァッ!」
直後襲い来た踏み込み突きを、スラスターの垂直噴射による大跳躍で逃れる。舌打ちの音をセンサーが拾う。
着地予測地点に観客が存在。《危険行為にあたる可能性》。包丁を振り上げて天井に突き刺す。もって落下の軌道を修正。真下には誰もいない。引き抜いて降下。
「……」
敵は木刀を構え直し、やや離れた場所で静止している。《こちらの出方を窺っている》。
《適切な反応テンプレートを選定》。両腕をゆったりと広げ、顔には笑顔を浮かべる。
「さあ! そ兄ちゃん、もっとあそぼ!」
今やバーの客は静まり返っていた。
自らの立場がどれだけ危ういものかを、ようやく悟って。彼らの儚い知性がそれを可能にするまでに、二十人前後の犠牲が必要だった。
(この少女は、できる)
油断なく前方を見据えながら、ディーゼルは改めてそう評価する。
楠木纏のように強力な特殊能力ではない。千勢屋香墨のように罠を張るタイプでもない。
純粋に、強い。おそらくは何らかのサイバネによるのだろう、外見に似合わぬ膂力と機動力。
おまけに奇妙な縛りを自らに課しているらしい。本当の全力であれば、きっと自分など相手にならないのだろう。
(……どうしようかなあ。あんまり、うまくできない)
一方、包丁を構えて対峙する稚器も――正確にはその人格面も、また悩みを感じていた。
自律脳が命令を送ってきてくれない。決断を出しあぐねているのだろうが、これほど長時間に及ぶのは珍しいことだった。
それどころかどうも、先程ディーゼルが開けた壁の穴に意識を引っ張られている感じがする。人間であればその感覚を、疼く、とかむずむずする、とか表現したことだろう。
――もう、そ兄ちゃんに集中しなきゃいけないのに。稚器は自分の“頭”に腹を立て、ぷうと頬を膨らませた。
「……驚、懼、疑、惑。全て斬り捨てる」
やがて、動いたのはディーゼルが最初だった。
ゆらりと足を踏み出す――その動きとはまるで関連なく、口から放射熱線を放つ。
再び奇妙な横移動で避けられる。羨ましい、という思いがわずかに湧いた。あのような動きができたなら、攻防の自由度は大幅に上がるのだろう。
歩速を早め、徐々に駆け出す。ところで放射熱線は観客を8人消し炭にし、壁に新たな穴を穿ち、どこかの埋設配水管を傷付けたのか、大量の水を溢れさせ始めた。
あと二歩。一歩。間合いに捉える。少女も包丁を構え直す。
「小アアアアアァァァアア手ェイヤアアアアアアッ!」
腕を狙った側面の一撃。一歩引いて受け止められる。だがその程度は予測の範疇だ。
「突ンンンンエエエエエェェーッ!」
喉元への突き。同時に放射熱線。少女が驚きを顔に浮かべた。
横に滑られる。何度も見た動き。軸足を切り替え、踏み込みながら追い、追いながら斬りかかる。
「ドゥオオオオオアアアアアアアーッ!」
――と同時に放射熱線! 打ち下ろして放射熱線! 薙ぎ払って放射熱線!
哀れな観客の数はいよいよもって尽きつつある。仕方がない。試合を近くで見るとはそういうことだ。
壁はチーズのような有様になり、元々耐久性に難があったのだろう、建物全体が嫌な軋みを上げている。浸水も足首まで届こうかという域になってきた。
再び舌打ちする。剣道は摺り足が主体だ。水の抵抗をもろに受ける。このような環境に備えた鍛錬も積んでいるとは言え、安普請が恨めしい。
「ん……そ、そん、なに……撃てる、なんてっ」
何合かの打ち合いの後、少女が苦しげな声を上げた。防御が精細を欠き始めている。
思った通り。肉体のスペックは向こうに分があれど、剣の腕自体はこちらがやや勝っている。木刀による攻めを打ち続ければ、反撃の隙を奪える。
間断なく発射している放射熱線が効果を上げる様子はまるで見られないが、いかに些細でもこれも武器の一つだ。使えるものは使う。それが相手への礼儀であり、ディーゼル自身の武道への姿勢でもある。
「面エエエエエェェェアッキャアアアアアアアーッ!」
「あっ……!」
ついに少女の手から包丁を弾き飛ばす。
追撃。胴を目掛けて木刀を突き出す。少女は横移動で避ける。いや、避けようとしたのだろう。
だがそれは足元、流れ込んできた水の中に、小さく火花を散らすだけに終わった。丸い目が見開かれる。ディーゼルは唇の端を歪めた。幸運が自分に微笑むこともあるらしい。
「突ゥゥゥウウウウギョオオオオッ!」
「きゃ――」
会心の手応え。小さな体は鈍い音と共に吹き飛び、壁へと叩きつけられてヒビを入れた。未熟者の自分にとっては珍しい、完全な一本。立ち上がることはできないだろう。勝負はあった。
だがさらにディーゼルは放射熱線を放った! いかに些細でもこれも武器の一つであり、使えるものは使うのが相手への礼儀だからだ! 全力を尽くして挑まねば失礼だからだ!
敵は自分自身だ! だからこそ武道はそこに臨む姿勢を重んじる! 対戦相手との勝敗、生死は言ってしまえばどうでもいいのだ!
「…………ァ」
――果たして、放射熱線は稚器の顔の左半分と、左肩から腰にかけてを消し飛ばした。壁の穴も増えた。
だがディーゼルは己の甘さを呪った。まだ声が出ている。サイバネの耐久力を計算に入れていなかった。
「まったく。俺は……」
壁をずり落ちる稚器に歩み寄りながらディーゼルは言いかけ、そして言い終わる前に口を閉じた。
反省は後だ。今は一本を入れ直すべし。
浸水ももう腰の高さにまで迫ってきている。観客は寒さと恐怖に震えている。彼らのためにも、もたもたしている暇はない。
ディーゼルは木刀を振り上げた。少女の残骸は水の中に座り込み、動かない。
その頭部を目掛けて、
「――ケェァアアアアアア面ァアアアアァァ!」
振り下ろした武器が、掴まれた。
(――たけだを、ほろぼす)
(――危ないことは、しちゃいけない)
(――ひとを、死なせ《ずに済ませ》ちゃいけない)
稚器の足元の水が泡立つ。
それはにわかに勢いを強め、沸騰しているかの如く水面を乱した。それが、水に浸かった場所全てに広がっていく。
(――お姉ちゃんとの約束《など知ったことか》)
(――危《殺せ。殺せ。殺せ。殺せ! 武田を殺せ! 武田に連なる全ての者を滅ぼせ!》)
「……《殺す》」
稚器の口が動いた。
ディーゼルは咄嗟に木刀を離そうとした。動かない。
“織田シジェンデストロイヤー”。
かつて盟友斎藤道産を研究した結果生み出された、禁忌の兵器。
それは水中で解き放てば、およそあらゆる生物を融解させ、消し去る。
平賀曾兄は、これを稚器に搭載しなかった。