四回戦第三試合その1




四回戦第三試合:平方 カイ vs 灰被深夜 徳川秘密格闘技場




アトランティスの海中深く。
平方カイが『提督』との死闘を繰り広げた闘技場は、静寂に包まれていた。
紅崎ハルトがもたらした大規模破壊行為、そして度重なる戦闘によりその外観は大きく傷ついている。

しかしそこには、まだ隠された何かがある。
カイは第三回戦の去り際に、何らかの予兆めいた直感を覚えた。
自分がいずれまたこの地を訪れるであろうことを。
それはあるいはアカシック・レコードが彼女に伝えた未来予知であったかもしれない。


「…………ウオ……オオオン…………」

静謐を裂き、無人の闘技場に地鳴りのような鳴動が響き渡った。
しかし今はまだ、それに気づいたものは誰一人としていなかった。





「なあ、なんでまだ戦うんだ」
声をかけたのは、ベッドの上に腰かける情報屋の赤時雨ゴドー。

「うるッせえな。前回も言っただろうが」
灰被深夜はいらいらとした口調でそう答える。

「俺は壊すしかできねえんだよ。いい機会だろ?黙って見てろよ。俺が賞金ふんだくって来るのを、最後まで」
お前の役に立つためには、と口に出しかけたところをぎりぎりでこらえた。
部屋を出るまで、奴の顔を決して振り返りはしなかった。
心配と諦観が入り混じった保護者然としたマヌケ面をしているのが、見なくても手に取るようにわかるからだ。

自分はなんのために戦っているのか。
それがわからなくなりそうだから。





『提督』との闘いから一週間後。
はたしてカイが降り立ったのは前回とまったく同じ、四方を金網に囲まれた闘技場であった。

前回と違うのは対戦相手――灰色の服を着た長い髪の少女。
そして、場内を切り裂く赤き閃光。
鳴り響く警報音。
そこには生きた観客どころか、前回はあれほど溢れかえっていた金網の外の亡霊すら、誰一人としていない。

『人的資源の皆様へ繰り返しお知らせいたします……現在、当闘技場内にて、ガス漏れの危険性が検知されました……速やかに退出し、タケダネットの指示を仰ぐようにお願いいたします……人的資源の皆様へ繰り返しお知らせいたします……』

だがその警句に反して、ガスの匂いなどは感じない。
対戦相手の少女――灰被深夜も怪訝な顔をする。

その直後であった。

『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』

闘技場の四方入り口からなだれ込む兵士!
カイは灰被に視線を移す。が、彼女も驚愕に目を開いている!
何かしらの違反行為か?しかし双方ともに心当たりはなし!

『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』

赤の警告光が並び立った横顔を酷薄に照らす。
AI憲兵!タケダの赤備えである!

『あの』紅崎ハルトがあそこまで挑発的に破壊行動をやってのけたのだ。
いかに弱小大名の末期の戯れに過ぎないとはいえ、この闘技場の存在そのものがタケダの逆鱗に触れていたとしてもおかしくはない……!

『包囲完了。オーバー』
『目標の波長を確認。迎撃態勢の準備にかかる』

タケダ憲兵がリングに近づく!
万事休すか……そう思われた時、リングの中央から、まばゆいばかりの黄金の光が放たれた!
瞬間、粉々にひび割れたリングの底から、黄金に輝く腕が飛び出したではないか!

「……何、だ、アリャあ」
灰被は目を見開く。
その骸骨じみた金の腕は、己が操る『腕』を軽々と超えてなお強大である。

気だるげに薙ぎ払うその腕にタケダの憲兵が二、三人切り裂かれ、一人は串刺しとなった。
それでも彼らは未だ臆することなく、犠牲者が空けた穴はすぐに塞がり、タケダ憲兵は包囲を狭めていく。
『ピガッ……目標、「第六天魔王」確認!御用!』

「……これが……」
アカシックレコードであるチャイティンのオメガに触れたカイは理解する。
かの織田信長が遺した秘宝――
「これが……『徳川埋蔵金』!!」

第六天魔王として蘇り、タケダの世に終焉をもたらさんが為、
古代江戸の数学者・関孝和に作らせた、黄金の髑髏!
黄金比により理論上無限のエネルギーを蓄積する災厄の遺産である!
弱小大名の皮をかぶる徳川が臓腑に秘していたこの邪神は、賞金目当ての闘技参加者たちの闘気を吸収しつつ眠りについていたのだ!

織田に組した江戸の数学者たちは、自ら構成した難問を算額とし寺社へ奉納を続けてきた。
それはこの邪悪なる存在を時が満ちるまで封印しておくために他ならない!

やがてその腕はゆっくりと身を起こし、
黄金の髑髏が、深く開いた穴から首をもたげた。
「ニンゲン……ゴジュウネン……」

黄金髑髏が禍々しい気を纏う。

「ゲテンノウチヲ……クラブレバ……」

気の放出により、カイと灰被は闘技場の金網ごと吹き飛ばされる!
金網の下敷きとなった哀れなタケダ兵が数人死亡!

「『ムゲン』ノ……ゴトクナリィィィィィィィ!!!!!」

邪気を纏った黄金髑髏は人の形を成す。
おお、見よ!
そこに顕現したるは『無限』の呪詛!
第六天魔王・織田信長の降臨である!

『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』
『御用!御用!』

残存タケダ兵が信長に殺到する!

「ゼヒモ……ナシ!」

信長はその手に顕現した名刀・へし切長谷部を一閃する。
『銃』を是とした信長がなぜ『刀』を振るうか。
いまはその答えを探す時間はない。
ただ歴史の闇に触れるのは得策でないとだけ申し添えておこう!

『御ピガガーーーッ!!』

タケダ兵無残!一刀の元に圧し切られてしまう!

「マジかよ……冗談だろ」
「……強い」

二人の少女は瓦礫の中から同時に立ち上がり、お互いを一瞥する。
まだタケダの残存兵は十数人が残っており、果敢な突撃を繰り返している。
だが、それも時間の問題であることは1+1の答えよりも明らかだった。

互いに争う理由はない。
ただ、互いに理解していた。
この災厄を倒さなければ、大切なものを守れないと。

「平方カイ……とかいったな。やるぞ。俺は、あそこに帰らなきゃいけないんだ」
「カイも、まだ解いてない式がある。……強い『命題(えもの)』。『証明(たお)』す」

少女達は同時に駆ける。

「『超準解析』『ローレンツの蝶』」

カイが紙片に数式を刻む。
『提督』に「開かれた」ノートは今やルーズリーフのごとくカイの周囲を舞う紙片となった!

紙片がカイの顔を包み、敵の弱点を解析するゴーグルとなる。
別の紙片は信長の周囲を舞う蝶となり、視線を逸らせる!

「……見つけた。心臓の位置、黄金の髑髏」
「任せろ……ッ!」

灰被は義肢のスイッチを切り、『腕』を信長に伸ばす!
だが相手は第六天魔王!蝶に幻惑されつつも刀で腕をはじき、身をかわす!

「オロカモノ……メガ……!」

信長が刀を構え、三度振りぬく!
灰被の左腕が斬り飛ばされる。
なんたる武士にあるまじき遠隔斬撃攻撃か!
これが信長の三段撃ち……否!三段討ちである!

「……ッ!好都合、だ……ッ!」

灰被の『腕』がさらに力強く伸びる。
だがまだ信長を捕らえるまでには至らない。

「『たたみ込み定理』『反復補題』!……『距離化定理』!」

カイの紙片が信長の足元へ飛来し、巨大な板と変化する!
そしていくつも重なった板は信長の動きを抑えようとするが、一刀の元に切り裂かれる!
そして飛来する斬撃がカイを襲うが……すでにカイはそこにはいない。
『提督』の「距離を開く」回避法から学んだ。
その応用、『距離化定理』による回避である。

「ッ……このままじゃラチが開かねえ」
「なかなかの『難問』……」

二人は距離を取り、信長を睨む。

「……おい。平方……今から、俺があいつの動きを止める。その隙に特大のやつをブチ込め」

その言葉には悲痛な覚悟があった。
カイはそこに込められた意思を見てとった。
「動き、止まるか?オマエ、無理してる」
「何とかするさ……何とかな」

距離を測りつつゆっくり近寄ろうとする灰被を、カイは呼び止めた。

「なあ」
「なんだよ、急に」
「オマエ、さっき言ってたな。大切なひとがいるのか」
それを聞いた瞬間、灰被の顔は首の根まで赤く染まった。
「おまっ……バカ、そんなんじゃ……」
一瞬取り繕おうとしたものの、無駄な弁明であることを悟り、灰被は吠えた。

「ああ。……その通りだよッ!!」
そう言って彼女は駆け出した。
信長の斬撃を紙一重でかわしながら、首筋にナイフを当てる。
深く息を吸い込んだのち、一息でその刃を横に滑らせた。

タケダの赤備えよりも赤き鮮血が宙に花を咲かせた。
意識が遠くなる。
だが、死の淵にあってこそ、彼女の『腕』はより強くなれる。
最後の気力を振り絞り、信長に、『腕』を伸ばす。

(ああ、そうだよな。俺の『腕』は、人を傷つけるためにあるんじゃない……)
その思考に重なるようにして、カイの声が耳に響いた。

「父ちゃんが言ってたんだ。数学は人殺しの道具じゃない。それを『証明』する。オマエも守る」





そのとき平方カイの脳裏に去来したものは、一週間前、『チャインティンのオメガ』に刻まれた溝の中で交わした最後の会話だった。

ただただ白く広がった世界で、父と子は向かい合っていた。
偉大なる数学者の影は、論文審査官(レフェリー)のごとくカイの眼前に立ちはだかった。
そこにはあたかも修士(マスター)位階のセミナーのごとき荘厳な大気が流れていた。

「問おう。0とは何か」
その口が問いを発した。
対して少女は淀みなく答えた。
「無。あるいは、空。なにものも存在しえないということ」

それと同時に、二人の世界は音もなく砕け散った。
白一色の水平線は足元から崩れ去り、いまや宇宙の果てのごとき常闇が周囲を包んでいた。
そこには物質も光も、重力さえもが消滅していた。


いまやおぼろげな黒い影と化したその輪郭は、再び彼女に問いかけた。
「ならば問う。1とは何か」
「……何もないのではなく、何かがあること。それは無から生まれる。それは空を包含する」

その答えを聞いた男のシルエットが、かすかに笑ったように見えた。
二人の間にはそれで十分だった。



「 ――!  ――イ! 大丈夫!?」
閉ざされた瞳が再び光を取り戻した。
その目に映ったものは、取り乱したDJ皿廻音姫の顔だった。
カイは彼女の両腕に抱きかかえられている己の姿に気が付いた。

「急に倒れて……ああもう。心配させないでよ。……ちょっと待ってて、いま回復と治癒術式のMIXを……」
そう言いつつも、彼女の視線は口惜し気に横目を眇める。
現実の時計が寸時も刻まない間に、世界の至宝たるアカシック・レコードは一針を落としただけでばらばらに砕け散っていたのだ。
その頬に、カイは震える手で触れた。
訝しながら見返した音姫は、満身創痍の少女の両目に光るものを見た。

「ヒメ。生きてる。……父ちゃんは、死んでなんかない。生きてるんだ……!」





灰被の巨大な両手が、挟み込むように信長を捕らえる。
限界を超えた力を引き出した灰被でさえ、それを数秒とどめておくのがせいぜいだろうと思われた。
それを前にして、平方カイは己の両手を眼前で触れ合わせた。

「『ゲーデルの完全性定理』」
カイはその名を呼んだ。
その右腕に、虫が這うかのように幾千もの数式が刻まれていった。
寄り集まった記号は、その右手を漆黒に染めていった。
0。完全な調和。人類の英知ともいうべき「無」の概念がそこに現出した。

「……『ゲーデルの不完全性定理』」
そして、カイの口がもうひとつの対となる定理の名を発した。
左腕に湧きいでた数式は白く光り輝く。
1。無より生まれいでた不完全なもの。
だが、世界は不完全だからこそ愛おしい。
不完全だからこそ、どこまでも広がっていける。

二つの定理のエネルギーが、カイの体内を循環した。
定義。演繹。証明。定義。演繹。証明。
カイを数学者たらしめる内燃機関、数学原理(プリンキピア・マテマティカ)が加速する。
定義。演繹。証明。定義。演繹。証明。
そのサイクルは、人間が地上で行うありとあらゆる生の営みを体現する。

そしてカイは、その両掌を災厄たる邪神へと向けた。
「くおど・えらと……」

瞬間、闘技場の場内はまばゆい光に包まれた。
閃光はカイと、第六天魔王、そして意識を手放し倒れゆく灰被深夜を包み込み、世界を塗りつぶした。
永遠とも思われる空白の時間のあと、薄れていく光の内からこぼれ出たものは、01の数字に分解された禍々しいオーラの名残であった。

「……でぇもんすとらんだむ」
言い終わるやいなや、カイは灰被の体に覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。
第六天魔王は消滅し、後には二人の少女が残された。
二人の少女の、互いに手を合わせたその姿は、まるで祈りの姿に似ていた。





「お、起きたな」
灰被はその声で目を覚ました。

ああ……また、負けちまったな……
どんな顔をしてアイツを見たらいいか、もうわかんねえな。
そう思いつつ開けた目に映ったものは、しかし彼女の予想に反し、見飽きた情報屋の顔ではなく、褐色肌の少女であった。

「……? は?……ここは、闘技場か……。まだ、試合中か?……なんで、俺は死んでない」
彼女は己の首筋に手を当てた。
「……痛ッ!」
自ら切り裂いた傷口は確かにまだそこにあった。
しかし、その傷は糸のようなもので縫合され、適切な施術でもって止血が行われていた。

「まだ、動くな。治してないとこ、まだたくさんある」
そういうと少女は自らのノートに小さく何かを書き込んだ。
「『デーン手術』」
紙片はただちに変形し、細い糸を通した手術針となった。

彼女の心に去来したものは、感謝よりもまず呆れであった。
このバカはいったい何をしている?
だがすぐにそう考えるのはやめた。
そして傷を少女が縫うに任せた。
前の試合で自分が対戦相手にしたことを忘れたのか。
お人よしのバカは、結局どこまでいってもバカなのだ。

「……言ったろ。数学は人殺しの道具じゃないって」
そのバカはそう言い放った。
灰被は、こんどこそ呆れを通し越して笑いを噴き出してしまった。

「ああ、そうだな。その通りだよ、畜生め」
灰被は見えない『腕』に向かってそう語りかけた。
最初から答えはそこにあったのだと。
ここを出て、アイツの元に帰ったらどうするか。
そうだな、まずは油断して近づいてきた奴の顔をこの『腕』で押さえつける。
そして驚きが言葉になる前に、その唇にキスをしてやる。

そう。
俺が失った腕を取り戻したわけは、誰かを傷つけるためじゃない。
大好きな人を抱きしめるためだったんだ。





カイが小屋へと戻ってきたとき、皿廻音姫の姿はすでに無かった。
意外にも、大会で得た賞金はきっちり二等分されたものがその場に残されていた。
『またどこかで会いましょう』。
寝床の隅に残された録音レコードはそう締めくくられていた。

彼女はカイの戦いをはじまりから終わりまですべて見守ってきた。
そしてその後、カイがここ熊野古道から旅出つであろうことも悟っていた。
これはその餞別としての路銀のつもりなのだろう。
従ってあるじが去ってただ残されるはずの空き家からいくばくか貴重な術式遺物がなくなっていたとしても、それは些細なことである。

あの空間での会話で、父親はこの道のはるか先にいることを悟った。
だからあの時父親に認められた自分は、それに見合う数学者へと成長しなければならない。
この身体の守護公式の余白を埋め尽くすほどに。

旅立ちの日は翌日であった。
カイは豆のスープと干し肉の簡素な朝食を済ませると、虎の子の真新しい数学者装束に身を包んだ。
彼女は去り際に、十数年間暮らしてきた己の郷里を、熊野古道の遺跡群を一度だけ振り返った。
彼女を取り巻くすべてであったはずのものが、今ではなぜだかずいぶんとちっぽけに見えた。


数学は世界である。
万物は数である。
そして数は連綿と帰納的に並び立ち、森羅万象を編みあげていく。

最初の0、加えてN歩からN+1歩目を踏み出す勇気さえあれば。
その道はどこまでも続いていく。
那由多を超えて。
グーゴルを超えて。
不可説不可説転を超えて。
ミーミーミーロッカプーワ・ウンパを超えて。
この果てしない道を歩いていけば、いつか、父ちゃんにも会えるかな。
まだ見ぬ算術の果てへと、世界は広がっていく。


少女の左足が、いま一歩目を踏み出した。
最終更新:2016年07月23日 23:48