アトランティスにある徳川秘密格闘技場。
そこには少女が二人。
片方は、深く灰色のフードを被ったスレンダーな少女。
もう一人は褐色の肌に数式が刻み込まれた小柄な少女。
互いに相手の様子を伺っている。
先に口を開けるのは、褐色の少女。
「…お前、オレの父ちゃん、平方コンを知っているか?」
「…」
相手は答えない。
褐色の少女―平方カイは落胆する。
…また、外れか。
彼女が武闘会に出た目的は、失踪した父の手がかりを探すこと。
舞踏会も最終戦。
ここで何らかの情報を得たかったが、それも無駄足に終わった。
…しかし、それで彼女は戦意を失うことはない。
「――『ゲーデルの加速定理』、そして『カラテオドリの定理』 」
平方カイは自らの肉体を強化して、飛びかかる。
相手を証明すること、彼女はそれしか知らない。
☆
…コイツ、『数学』を知っている?
平方カイは驚愕する。
彼女の強化された肉体の攻撃が、相手には全く当たらない。
当たらないのは強化された肉体だけではない。
彼女が使う数式、そのことごとくが外れている。
「提督」のように数式を無力化しているのでもない、松姫カナデのように身体能力で対応しているというわけでもない。
ただ、躱される。
「『はさみうちの定理』『くさびの刃の定理』」
平方が相手の後ろに数式を描いたノートを投げ込み、とらえようとする。
ノートはトラバサミと刃に変化し、相手の動きを縫いとめ…ない。
能力が発動する前に、ノートが不自然に動き、変化するころには場外へと飛び出している。
明らかに彼女に対応した動き。
試合を見ていたとしても不自然。
これまでの試合で使っていなかった定理に対しても、完璧に対応している。
明らかに『数学』を、それも平方カイの『数学』を理解した動き。
ジャングルの魔物達とも、三人の闘技者とも違う。
…父ちゃんを思い出すな。
父が彼女の前から姿を消す前、よく『数学』を見てもらったものだ。
あれから何年もたった。彼女は成長し、より複雑な定理や公式も扱えるようになった。
数年ぶりの『数学』を知るものとの対峙。
彼女に湧き上がるのは純粋な好奇心。
『数学』とも言えない、単純で原始的な算数を父親から始めて教わった時のような…。
…もっと、早く、複雑な定理を叩き込む。
相手が数学を知っているなら、こちらは相手の理解を上回る『定理』を叩き込む。
そう決心すると、平方カイは相手の懐に潜り込む。
相手も当然、それは読んでいる。
一歩下がると、機械化された右手でこちらへ一撃を叩き込んでくる。
平方はそれを反射神経でかわすと、間合いを詰める。
相手が下がったのはリングの端。
もう後ろに下がる場所はない。
平方は自らの右腕に左手の爪を立てる。
右手は発光し、『靴屋のナイフ』へと変化する。
「『イプシロンノート:オメガ・ワン』」
平方は相手へ『定理』を叩き込むべく、右手を振り上げる。
「ストーップ!!!!」
…観客席の方から聞こえる声が、平方の腕を止める。
だが、相手の動きは止まらない。
平方より先に必殺の一撃を叩き込むべく、右手を動かしている。
…それを制止すべく、もう一つ声が上がる。
「止まれ!灰被!」
二人は動きを止め、それぞれ声の方向を向く。
一人は皿廻音姫、平方カイの相方のDJ
もう一人は…。
「ゴドー…」
灰色の少女、灰被深夜は、この試合で初めて声を出した。
☆
「平方カイ、でいいんだよな。」
観客席から、リングのすぐそばまで近づくと、男は言う。
男は黒いジャージにガスマスクという不可思議な恰好をしていた。
先ほどまで、リングのすぐ近くまでいて、試合の中断にブーイングを飛ばしていた観客たちも、彼が近くに来ると、なぜか大人しくなり、彼へ道を開けた。
「ああ。…お前は誰だ。」
平方カイは問う。
「赤時雨ゴドー。そこのアホの知り合いだ。」
それを受けて灰被は不満とも、喜びともつかないような表情をする。
「…おい、久しぶりに会った知り合いにそれはないんじゃないのか。」
「うるせえ!黙れ!今はお前と喋ってんじゃねえんだよ!」
「あ!?」
「悪いな。アホが邪魔した。」
「ミヨはアホじゃない。『数学』を知ってる。」
そりゃ悪かったな、とゴドーはどうでも良さそうに言った。
「少し、時間をくれ。そうしたら、お前の父親についての情報をやる。…お前の勝敗にかかわらずな。」
「お前、父ちゃんを知っているのか!?」
平方カイは数学者である。
物事の真偽を判別する術には長けている。
今のゴドーの発言も真実だと理解できる。
それでも、聞き返さざるを得なかった。
それほどまでに、彼女にとって、父親の存在は、重い。
「…それに、ここで時間をくれれば、お前をもっと楽しませてやれると思うぜ?」
平方の方に断る理由は、もはや存在しなかった。
☆
「…何しに来たんだ、お前。」
「あ!?お前に会いに来たに決まってんだろ。アホが!」
「…いや、本当に何があったんだお前。そのマスクとか。テンションとか。」
「こりゃあれだ!!!薫﨑の香水が俺に効かないようにだな!!!」
「香水って何に使ってんだよ。」
「観客が変に大人しくなってんだろ?男性専用の沈静香だ!!!」
「じゃあそのテンションは何なんだよ。」
「これか?これも薫﨑の香水だ!!!飛び切りハイになれるやつを処方してもらったぜ!!!!」
灰被はため息を吐く。
…マジでこいつは何がしたいんだ。
確かに気まずい別れだった。
コイツの性格上、まず何らかの接触をしてくる可能性はあった。
…心の底では、期待していなかった、と言い切れない。
…嫌な女だ、と自己嫌悪も感じた。
ただ、それでも、言わせてもらいたい。
「やっぱアホだろ、お前。」
「はー!?アホって言った方がアホだろーが。アホめ。つーかシラフで会えるかっつの!あんな恥ずかしい別れ方したのに。」
そういうところがアホなんだよ、と呟く。
よくわからない部分で意地を張って。
悪態を吐きながら人を助けて。
それでいて好意を素直に受け入れなくて。
かしこぶっているが、コイツは真性のアホだ。
だが、俺は、コイツのそういう部分に…。
「前回の試合の前のアレな!アレは俺が悪かった!!!!すいませんでした!!!!」
ゴドーはそう叫ぶと、いきなり俺に向かって土下座をした。
…俺は、本当にコイツの事が好きなのか?
今までしんみりしていた自分が恥ずかしい。
薬物でラリッてるにせよ。酷い。
こんな醜態は見たくなかった。
「アレはお前のせいじゃないだろ。…俺が悪い。」
「いーや、俺が悪いね!!!お前の気持ちとか全然考えてなかった俺が悪い!!!」
「いや、俺が」
「俺のほうが」
「俺が」
「俺が」
めんどくせえ。
…酔っぱらいの相手は嫌いだ。
「あー。分かった。お前の方が悪い。」
灰被はめんどくさそうに言う。
「ふん!ようやく分かったか…俺の方が悪いということに!!!」
「はいはい。分かった分かった。…それで?本題は何だ?」
「これが本題だ!アホめ!」
「は?連れ戻しに来た、とかでなく?」
「なんでそんなことするんだよ?俺にそんな権限は…ない!」
今、自分がどんな表情をしているのかは、分からない。
たぶん、すごく情けない表情をしているだろう。
「まあ、戻りたいってんなら戻らせてやらないこともないぶるぁ」
ゴドーの口から変な声が漏れる。
まずい、つい「腕」が出てしまった。
「…で、どうなんだ、結局戻りたいのか?」
答えは決まってる。
戻りたい。
コイツの隣にいたい。
肩を並べたい。
でも、それは…
「戻る資格がねえ、とか思ってんじゃねえだろうな。…考えすぎだよ。お前は。お前が俺に何もしてくれてない訳ねえだろ。」
「…わかんねえよ。俺がお前になにをしたってんだよ。」
「そう思ってくれるだけで十分だ。俺はな、人に褒められたいんだ。…そのために生きてる。」
「お前のこと褒めるのはお前だけじゃないだろ。」
「…まあな。でも、お前に褒められるのは、嬉しい。」
…くそ。卑怯だぞ、こいつは。
アホの癖して、俺を揺さぶってきやがる。
「…自分でも、都合のいいことを言ってるのは分かってる。それでも、戻ってきてくれるか?」
「…確かに都合がいいな。」
灰被は笑う。
コイツにとって俺は別に特別、というわけではないんだろう。
薫﨑がいるし、他の知り合いも多い。
元に戻ったとしても、それは変わらない。
それでも…
「…俺は、変われるかな?」
都合のいい考えだとはわかっている。
一度堕ちた自分が、手を汚した自分が、這い上がろうなんて。
それでも、たとえ正しくなかったとしても。
変わりたい。
こいつと肩を並べるような人間に。
あの時、あの港湾施設の戦いで、そう思った。
思ってしまった。
「お前がそうしたいなら、手伝ってやる。…もし、うまくできたなら、褒めてくれよ。」
おう、と答え、灰被は言う。
「…手始めに、この戦いを手伝ってくれ。」
戦いから逃げ出すような奴に、負けるような奴になりたくはない。
こいつの隣に立つために。
こいつの役に立つために。
☆
「痴話喧嘩は終わったのか?」
「「痴話げんかじゃねーよ!!!」」
灰被とゴドー、二人の声が重なる。
「なんだ、違うのか。…難しいな。」
平方はそう言いながら、『靴屋のナイフ』を灰被の方向へ向ける。
「準備はいいか?」
平方の問いに、灰被は答える。
「いつでも来い。」
それを受けると、平方は、一気に間合いを詰めた。
平方が灰被へと振り下ろすのは、数学とも言えない原始的な数式。
「足し算」父から一番初めに教わったモノ。
余りに原始的。だが、原始的であるがゆえに、避けずらい。
元より、身体能力は『定理』で強化している平方のほうが上。
数学とも魔術とも言えない、むしろ原始的な武道に近いその一撃は『数学』対策をしてきた灰被に一番有効であるといえる。
だが、あくまで単純な打撃に過ぎない「足し算」は、灰被を倒すに至らない。
灰被はその一撃を右腕で受け止める。
…だから、繋げる。
父から教わった『足し算』が、果てしない『数学』に繋がっていたように、何人もの数学者が道を広げていったように。
数学は、何処までも広がっていく。
「『引き算』『掛け算』『割り算』」
…灰被はその全てを両腕で防ぐ。
「『二次方程式』『三平方の定理』『三角関数』」
…服が破れ、腕に傷がついていく。
「『微分積分』『オイラーの法則』『中心極限定理』」
…見えない『腕』まで総動員して、防ごうとするも、次第に押されていく。
平方カイを駆り立てているのは、好奇心。
自分がどこまで行くのか、行けるのかを試したくてしようがない。
まるで、新しい玩具を与えられた子供のように。
純粋に。純粋に。
彼女は数学の深淵へと突き進む。
平方の連撃は数分間続いた。
灰被は既に満身創痍。立っているのがやっとである。
だが、平方はその手を緩めない。
見たいものが、自らの手で作りたいものがあったから。
「『フェルマーの最終定理』」
彼女の父がたどり着き、娘に残した最終地点。
今の自分なら、再現できる。
平方カイは見たかった。
今の自分のできることを。彼女の父が残してくれたものを。
彼女の『靴屋のナイフ』は更なる変形をとげるべく、光りだした。
確かに、彼女は完ぺきだった。
若くして、数学を使いこなし、彼女の父が生涯を通じてたどり着いた領域を追い越そうとしていた。
…惜しむらくは、彼女が数学者であったこと。
戦いの経験が少なかったこと。
相手が灰被深夜であったこと。
そして、彼女に赤時雨ゴドーがついていたこと。
ゴドーは彼女の行動を誘導していた。
彼女が父親を思い出すように。
彼女なら、たとえ初めてでも『フェルマーの最終定理』を使うであろうことを。
確かに『フェルマーの最終定理』は完璧に再現できている。
ただし、繋がりが甘い。
初めて用いる、『足し算』からの連撃、そこから『フェルマーの最終定理』まで滑らかにつなげるには、習熟度が、学習があまりに足りない!
『フェルマーの最終定理』に至る直前の一瞬の隙を灰被深夜は見落とさない。
たとえ満身創痍でも、両腕が上手く使えなくても、彼女にはまだ「腕」がある。
灰被の「腕」が平方の体を吹き飛ばし、リングロープへと直撃する。
平方は立ち上がれない。
強化された「腕」の力、そして、連撃の疲れが、彼女に立ち上がることを許さない。
「悪いな。今回は、俺の、いや、俺たちの勝ちだ。」
カンカンカン
勝利を告げるゴングが鳴った。
「悪いな、今回は、俺たちの勝ちだ。」