《一》
六月の昼下がり、深い深い森の中。
しとどに降り続ける雨がけぶる。
夏の至りを迎えたにもかかわらず、ときに肌寒さを覚えるほど。
蛙の鳴き声が響く。獣の歩みが地を揺るがす。生命の息遣いが伝わる。
目を凝らして見れば、熊までもが木々の隙間を我が物顔で進んでいるではないか。
凄み溢れる野生のさなかに紛れるは、年端もいかぬ少女がひとり。
上着の上に毛皮を背負い、袴をハバキに入れ、笠を被る姿は猟師のそれだ。
手に握られているのは、鉄炮と呼ばれる旧式の銃、即ち火縄銃。
だが、奇妙なことに火鋏から伸びる紙は、鶴の形に折られている。
そして少女、千勢屋香墨は、雨中にもかかわらず熊にそっと目当を定めた。
だが一度、構えを下ろす。手が体の芯から震えていた。しかし、それも一瞬。
ふたたび鉄炮を向けると、今度は慣れた手つきで火蓋を切り、あやまたず引き金を引く。
すると紙の鶴は雨滴などおかまいなくひとりでに炎を上げ、黒色火薬に着火。轟く銃声。
「即中即仏ッ!」
残心か、それともまじないか、香墨が叫ぶと同時に、鉛弾は熊のうなじを寸分違わず撃ち抜いた。
文字通り即仏したのだろう、野草の生い茂る大地に熊がゆっくりと倒れ込む。
念のためしばらく観察して、獲物が動かなくなったことを認めると、おそるおそる近付いていく香墨。
相変わらず空気はひんやりとしているが、彼女の息は上気し、汗が頬を伝っている。
「やった……」
千勢屋香墨、十五歳にして初めて熊を撃つ。
硝煙の焦げ臭い香りも、斃れた獣の血腥い臭いも、雨がすべて静かに洗い流していく。
山の恵みに謝し、祈りを捧げる。
――わたしは、御蔭様でこんなに大きくつよくなれました。
ありがとう、と。
《二》
*
かつて、鉄炮が最強の武器とされた、歴史の瞬間があった。
しかし、武田の武士道の前に敗れ去った鉄炮は、劣後した武器との誹りを免れず。
鉄炮鍛冶たちは、多くがその身を堕としていったという。
けれども、武田の意向に従うことで、鉄炮もとい銃火器を造ることを許された家も僅かながら存在した。
武士道を解さない大半の人間にとっては、依然として銃は有効な兵器だった。
生き残った鉄炮鍛冶たちは、武田の要求する新式銃を供し、ある程度安定した暮らしを送り。
一方で、地位の低い職と扱われ、蹉跌をきたしていた。
千勢屋も、新時代を生きる鉄炮鍛冶の家のひとつである。
かの家が他の鉄炮鍛冶の家系と異なるのは、鉄炮造り以外の領分にも手を広げていること。
これを推し進めたのは、先代当主の娘にして、千勢屋香墨の母である。
彼女らの働きによって、千勢屋は現在でも町でそれなりの尊敬を得ることに成功した。
ゆえに、熊撃ちを成し遂げた一人娘の帰還、これ即ち凱旋といえよう。
*
その日の夜は、麓の町を挙げての祝祭となった。
屋敷の裏手に広がる稽古場で供された熊鍋は、近隣の商店の持ち出しも併せて大賑わい。
飲めや歌えやかしましく、いかに人々が日々退屈に生きているかが知れよう。
それでも幕切れは来るもので、宴もたけなわとなり、ひとりふたりと家に帰りつき、ようやく夜が行き渡った頃。
友人と別れて屋敷に戻った香墨は、いやに畏まって両親に話を切り出した。
「お父様、お母様。お話があります」
母はそんな娘の様子をみて、またなにか変なことを思いついたのかしらと考えた。
とりあえず話を促してやる。
父は鍛冶仕事の手を止めないが、ちゃんと聴いていることは皆が知っている。
香墨は俯いてなにやら口ごもっていたが、すぐに顔を上げると、いつもの口調に戻って宣言した。
「……わたし、炮術の流祖になる! 千勢流炮術を立ち上げる!」
母は驚きに目を丸くしすぎて、梟みたいになっている。
香墨はそんな母を生まれてこの方見たことがなかった。
バチン! と音が響く。見れば、父が火種を破裂させていた。
香墨はそんな父を生まれてこの方見たことがなかった。
「親方様!」
救急箱を持って父に駆け寄る母。
手早く応急処置を済ませると、呆れた声で娘に問うた。
「いきなり何を言い出すの!? 炮術の流祖だなんて、何をどうすればそんなことに」
「わたし、鉄炮の練習もそのほかのお稽古も、だれよりもがんばったし上手だったし、魔人になって体も強くなったよ。熊だって斃せるんだもん。人間ならだれにも負けないわ」
胸を張って応える香墨。
しかし、当然ながらこれだけでは納得させるには至らない。
なおも問い糺す母。
火を止めたにもかかわらず、部屋の熱はじりじりと増しているように感じられる。
「稽古と実戦はちがうのよ? そんなことも判らないあなたじゃないでしょう」
「判ってるに決まってるじゃない」
無意識だろうが、眼光と口調が鋭くなっている。
譲れないものがたくさんある香墨にとっても、今日は格別だった。
「お母様は、私にいろいろお稽古事をさせてくれたよね。うた、おどり、楽器、柔術、剣術、学問……。鉄炮鍛冶だけでは将来大変だからって。わたしもそう思う」
「そうよ。今の世の中、鉄炮はもちろん新式銃だって肩身は狭い。だから、あなたにはいろいろな未来を見てほしくて」
「でも、わたしは魔人になって。もう、まともな舞台には上がれないわ」
「それは、その…………ごめんなさい」
謝る母。慌ててとりなす香墨。
先ほどまでの熱気は嘘だったかのように、空気がゆるむ。
「ううん、お母様もお父様も悪くないよ! だれも悪くないの……。だからね、わたしが端で泣いている必要もないの」
目を閉じた彼女の脳裏によぎったのは、厳しくも温かかった、幼き日の思い出。
記憶を噛みしめ、心はより定かになっていく。
「炮術師になって世のため人のために尽くせば、光の世界に行けるかもしれない。お母様が案内してくれた、華やかな世界に。それに、最上最強の炮術師が使う鉄炮なら、皆が欲しがる……千勢屋も大繁盛ね。もしかしたら、町全体を活気づけることだって、不可能じゃないわ」
最初に宣言したときと比べても、明らかに確信を深めた表情。
それを認めてもなお説得しようとする母を、父が遮った。
「でも、でも……あなたを、そんな危ない道に進ませるなんて」
「いいじゃないか。試してみれば」
「親方様!」「お父様」
二人は純粋な驚きから声を上げた。
父が母娘の言い合いに口を挟むことも、これまでにはなかったこと。
とんでもないことをしたのかもしれない、と香墨はいまごろ焦りを覚える。
「仕事柄……今も昔も、だが……戦についての情報も集まってくる。希望崎学園という電子掲示板に案内が届いていたんだがね、魔人による武闘会が開かれるらしい。非常に高額な賞金が出され、優勝者には大物筋の後援がつき、そしてたとえ戦闘で死傷したとしても、そっくり無事に帰れるそうだ」
「なんて出来過ぎた話なのかしら。信じられないわ」
母の唇が突き出ている。本当にわかりやすい親子だ。
父もそう思ったのか、やわらかな調子で続ける。
「まあまあ、これは僕も裏をとってある。そのような大会が行われることは確かだし、既に見積もりもいくつか出しているよ。無論、香墨が出るというなら、すべて断るが……。ここで香墨が活躍すれば、新しい炮術にも箔がつくんじゃないかな」
「お、お父様、そういうことなら、もちろん出ます! 私は絶対にその大会で優勝して」
「ただし」
お父様の一人称って僕だったのか……などと思考がぼやけつつあったところ、急に名前を呼ばれてうろたえる。
すると父の声が怖くなったが、別に気を悪くしたわけではないことは、話を聞けばわかった。
「もし大会で無様に負けるようなことがあれば、あとでいくら香墨が炮術を広めようとしても、だれも言うことを聞いてはくれないだろう」「千勢屋の看板も傷つくかもしれない」「そしてなにより……これは殺し合い、しかも魔人どうしによるものだ。場合によっては、熊が赤子に見えるような連中と相まみえることもある」
矢継ぎ早に話す父の表情は人ごとなんかじゃなく真剣で、心の底からの発言であるのは間違いない。
今日は初めて見る父ばかり。
「それでも、最後の幕が下りるまで、闘い続けられるのか?」
沈黙。
そう、香墨が戦う相手は、あるいは知性をもった熊とでもいうべき存在やもしれぬ。
考えていなかったわけでは無論ない。が、改めて認識すると恐ろしい話だった。
「香墨、わかったでしょう? 私たちは、あなたが元気でいてくれればそれで」
「出る」
――あえて優しさをさえぎり、堂々と。
「力を試したいだけじゃない。千勢屋のために尽くしたいだけでもない。わたしはわたしであることを世の中に知らしめなければならないの。それが闘いによってしか得られないのなら、渦中に飛び込むのみ。だよ」
もはや一片の迷いはなかった。
あとはもう何を言っても無駄だと十五年間でさんざん痛感させられている母は、父に目をやると肩をすくめる。
「本当に、だれに似たのかしらね、この子は」
「僕ら以外、であるはずがない」
「しょうのない人」
破顔して両手で娘の頬を押さえ、じっと眼をみて曰く。
「香墨、出るからには一番よ。千勢屋の名前をしっかり広めておいで」
「僕は自らの名に懸けて、最高の鉄炮を打つよ」
香墨にとっても母のしぐさは、十五年間で幾度となく繰り返されてきた儀式のようなものだったが、今回は父も傍らに立っていて、やはり特別な瞬間をいま過ごしていると実感する。
「ありがとう!! お母様、お父様!」
抱きついてくる香墨を、そっと迎える二人。
腕の中の子どもは、望んでいたよりずっと、大きくつよく育っていた。
《三》
数日の後。
長い日がようやく没し、空が藍から黒へ移ろいを終えた頃。
千勢屋の門の前に立つ、少女が一人。
長い髪は丁寧に結わえられ、簪が瀟洒に輝く。
目元には朱が差され、頬も唇もほんのりと彩られ。
紅白を基調とした着物もたいへんに華やかで、まるで絵巻から抜け出してきたかのような出で立ちである。
しかし、絵に描いたような乙女と言うことは、目線を顔からどけると、やにわに困難を極めた。
襷でくくった袖口や、端折られた裾から覗くサラシ。
足元を護るためだろうか、膝下まで編み上げられた革靴。
そして、その肩に背負い腰にくくり付けた、数えて七つもの鉄炮。
戦場に向かう侍もかくやの物々しさである。
「ねえねえ、もっと鎧みたいなの着たほうがいいんじゃない? あぶないよ」
「あら、今晩あなたは魔人と戦うのでしょう? ただでさえ慣れない相手なのに、自分まで不慣れな格好したら、それこそ危ないって親方様が言ってました。それに、あなたには千勢屋を宣伝してもらわなきゃいけないもの。地味なナリじゃあ意味がないわ」
不安げな様子の香墨が尋ねるが、母はどこ吹く風だ。
あんなに心配していたのに、すっかり商人気質に切り替わっている。
その思い切りの良さも、母の美点なのだけれど。
「それにしても、山に入るときの装備でもいいような。動きやすいし」
「国中の人に見られても?」
「やだ」
「言うと思った。素肌はサラシで覆われてるから不用意に敵の攻撃に接触してしまう危険は薄いし、足元をしっかり守れば十分だろうって」
「それもそうね。やっぱり頼りになります」
つまるところ、自分も綺麗な格好がしたいのだ。
全部お見通しだなあ……と、改めて思う香墨。
「ところで、鉄炮の調子は大丈夫? 水とおにぎりは忘れてない? お見送りもたくさん来てるみたいよ?」
「だいじょうぶ! ほんとにお母様はオカンなんだから……って、お見送り?」
屋敷の外に目をやると、町の人が大勢あつまっていた。
打ちこわしを一瞬想像したが、千勢屋に税を課す権限なんてないし、どうも様子がちがう。
「かすみちゃーん! お嫁に行っちゃうのー?」「えっ、お嫁!? うそ!」「やだー!!」「行かないでー」「ちょっとちょっと、だれがそんな噂たてたの」「がんばれよー!」「悪い奴なんてぶっ飛ばしちまえ!」「ああ、なんまいだぶなんまいだぶ」「どうかご無事で」
お嫁ってなんだ。頭がくらくらする。
大会の参加者が発表されていたのは父から聞いて確かめたが、町の人にも知れ渡っているとは。
……希望崎学園をみているのは香墨の父のような武芸に関係してる人だけではない。
退屈な人生を送る市井の人々にとっては、貴重な娯楽なのだ。
ものすごい騒ぎ。きっとこのあとはまた宴になるのだろう。
それでも、自分のために皆が集まってくれたのだと思うと、香墨の胸は熱くなるのだった。
「みんなぁ」
「いつも応援してくれて、本当にありがたいわね」
「うん!」
「あと、親方様から」
化粧が崩れないように目元をぬぐうと、母に何か渡された。
真新しい封筒。口は糊づけされている。
「お父様から? なんだろう。手紙?」
「向こうで辛くなったら開けなさいって」
「わかった」
封筒を懐にしまうと、香墨は人々の中に駆けて行く。
なんにせよ、父からの贈り物は勇気をくれた。
「こーらー?? だれがお嫁に行くってー?? まだ行かないし!!」
「そうなの?」「よかったー!」「じゃあおれのおよめになって!」
「んー、私のお婿さんになりたかったら、お父様より鍛冶の腕がよくないとダメだよ?」
どっと起きる笑い声。
しゅんとした男の子の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
後ろからは女の子がしがみついてくるが、鉄炮はあぶないのでひっぺがす。
大好きなこの町の皆と一緒に、しあわせになりたい――
「いってきます」
いってらしゃいの言葉を背に受けて、少女は町を出る。
それは実は今夜で二度目なのだけれど……学問で身を立てることを夢見た、あの日と同じ気持ちでいられることが、いまはとても不思議で、うれしいこと。
今度は最上最強の鉄炮術で、ひとかどのひとになってやる!
泥曰へと迫る切符を手にしてなお、新しい夢を見ていた。
[了]