平方カイプロローグ


『ミレニアム』と呼ばれる魔物らがいる。

未曽有の大難問に課せられた賞金首の額は、一体あたり百万ドル。
富や名声を求め、あるいは己の魂に導かれ、無謀な戦いを挑んだ者たちは大勢いた。
だが誰もかれも例外なくその牙と爪に引き裂かれ、矢尽き刀折れた犠牲者たちの血は大地を赤く染めた。

彼奴らの名は

『P対NP問題』
『ホッジ予想』
『リーマン予想』
『バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想』
『ポアンカレ予想』
『ヤン・ミルズ理論』
『ナヴィエ・ストークス方程式』

かの七大災厄のうち、ポアンカレ予想の首は、数学者ペレルマンが死闘の果てにこれを討ち取った。
しかし秘せられたその英雄譚が人々の口に上ることはない。
彼はこの戦いで深く傷つき精神を病み、百万ドルの賞金さえも受け取りを拒否した。
風の噂によれば、いまは静かに深い森の中キノコを採りつつ親の年金で暮らしているという。

残り六体の行方は、いまだ知れない。





熱帯の木々が縦横無尽に生い茂る濃緑色深きジャングル。
太陽は天頂から不快な熱を投げかけ、密林の広葉樹は湿気をはらんだ生温い大気を呼吸する。
ひび割れた石造りの大路には蔓草が這いまわり、かつてこの地に誇った栄華はもはや見る影もない。

――熊野古道。
滅亡都市『関西』にほど近いこの地には、いくつもの古代遺跡が眠っている。

……そして、そのような場所にわざわざ足を運ぶものは限られている。
野生の獣。あるいは、盗掘者。

キュキュキュと小気味の良いスクラッチ音を響かせ、一人の女が石畳の上を注意深く歩いている。
危険と常に隣り合わせのジャングルを探検するにしては心もとない軽装である。
女はときおり木々の奥に潜む得体のしれない獣の鳴き声に身を縮こませる。
しかしその実、無数の生命ひしめく熱帯雨林のただ中にあって彼女の身体には羽虫一匹たりとも寄り付こうとはしない。

それもそのはず、彼女が携えるDJセットのスピーカーは退魔高周波を発し、ジャングルの魔物の接近を防いでいた。
彼女の名前は皿廻音姫。
古代遺跡に眠るレア・グルーヴをdigりに来たDJである。
太古の遺跡から発掘されたレコードは金銭的価値以上に魔術的価値が高く、このように古代遺跡までレコードをdigりに来るDJも少なくはない。
皿廻もHipHopドリームを掴もうとここ熊野古道の奥深くまでやってきたのだ。

不意に皿廻のDJ聴力が、ガサガサッと樹をかき分ける音を捉えた。
DJにとってオーディエンスの反応を見極める眼と聴力は無くてはならない能力だ。

(この音……大型の獣か)

戦闘態勢に移る。
ターンテーブルのレコードを探索用のセットリストから戦闘用に変更する。
心臓のBPMが速度を増していく。
葉陰の騒音が大きくなり、大型の影が姿を現す――!

「GRRRRRRRRRRRRRRRR!!」

そこに現れたのは、体長2mほどの熊であった。
処刑台のようにずらりと並んだ鋭い牙の間からは好戦的な涎がとめどなく溢れている。
ステージの熱量は、皿廻がかつて体験したこと無いほどに最高潮となった。
並のDJであれば歯がたたない。激戦区を生き抜く渋谷DJのレジェンドクラスでも苦戦は免れないだろう。
緊張が走る。

……だが、熊の様子がおかしい。
口から流れる涎は血が入り混じったあぶくに変わっていた。
よく見ると全身に矢のようなものが刺さっており、既に重症を負っている。
一体、誰が――
そう考えた次の瞬間、熊の背後から一人の少女が現れた。

「おい、オマエ、何者だ」

小柄な身体に褐色の肌。
全身には呪術文様のような刺青が入っている。
この少女が熊を?どうやって?

「動くな」

少女の鋭い目がレコードに手を伸ばしかけた皿廻の全身を射止め、釘付けにした。

「少し、待ってろ。こいつ、証明(しとめ)る」

少女はそう言うと、空中に浮かぶノートのようなものに自らの血で何か呪術文様のようなものを刻む。

「『はさみうちの定理』『くさびの刃の定理』」

――それは、数式であった。
少女が数式を超自然のノートに記し、紙片を投げつけた。
瞬間、熊の足元にトラバサミが出現! 熊の後ろ足をガッチリと捉える!
そしてさらに投げられた「式紙」は空中で刃へと変形し、獣を地面に縫い止めた。

(……『数学者』! 実在していたなんて……!)

皿廻は思わぬ乱入者に驚愕の色を隠せなかった。
『数学者』。存在は知っていたが、まさかここで遭遇するとは!

数学。とうの昔に滅び去ったはずの古代呪術。
陰陽道やカバラ、奇門遁甲の源流となったと言われるそれは、皿廻にとっては魔術教本の片隅にある退屈な歴史科目のひとつでしか無かった。
だが、冗談交じりに語られていたそれが、本当に数千年の時を生き延びいま目の前にいるならば……。
遺跡の守護者と言われるその存在は、遺跡を盗掘(dig)るDJにとっては天敵に違いなかった。

呆然とする彼女が見守る中、少女は手にしたナイフ状の補題で熊の心臓を一刺しにし、獣の生命活動の終わりを証明した。
皿廻を悩ませた難問はもはや証明済みの定理となったのだ。傷口から溢れる血が、定理の系となって流れだした。
「これで、よし。待たせたな。……オマエ、何してる。こんなところで」

少女はDJに視線を向ける。
皿廻の背中に寒気が走る。

「わ、私は皿廻音姫……怪しいものではないわ」
「オレ、カイ! 平方、カイだ! ……音姫、何しに来た、聞いてる」
「ま、待って! べ、別にあなたの住処を荒らしに来たわけではないわ。お話しましょう!」

(お話……数学者と……交渉? 人間の言葉が通じる? ……本当に?)

皿廻の左脳と右脳は二枚使いのターンテーブルのごとく高速回転した。
返答を間違えればあの熊の二の舞いだ。
何か、何かないか……そう思っていた皿廻の脳裏に、ベースキャンプ酒場での情報収集の記憶がよぎった。

「平方……あなた、平方コンさんの親族?」
「音姫、オレの父ちゃん、知ってるか」
「……! 知ってるわ!」

その名は、ごろつき紛いの冒険者の一部で信憑性に欠ける噂として流れていた。
突如として現れた、正体不明の呪術を使う凄腕の魔術師。
そして、世界を支配するタケダネットへの抵抗の意思を隠そうともしない反逆者。
押し寄せる戦いの波についに敗れ去り、命を落としたと噂される彼が、この娘の父親ならば……。
皿廻の生存本能が、一縷の可能性に賭けてデタラメを紡ぐ!

「……あなたのお父さんの敵、討ちたくない?」
「……!」
「私は、そのためにあなたを探しに来たの」

皿廻はターンテーブルの奥底からノートパソコンを取り出し、一通のメールを表示した。
「これを見て」
「……オレ、字は読めない」
「これはとある戦いへの招待状。……あなたのお父さんもこれと同じものを受け取り、そして命を落とした」

無論、虚言である!
実在すら定かでない平方コンという男と眼前の少女との関係を、無論皿廻は知る由もない!
だが、いかなる運命の気まぐれか……実のところそれは事実であった!
幾つかの偶然が重なり、皿廻は生還への細い一本道を渡ることに成功したのだ!

彼女はさらに一つの動画を見せる。
そこには二人の男が戦う姿が映し出されている。

「あなたは私の代わりにこの大会に出場することができる。そこにはきっとお父さんの死の手がかりもある。戦いに出場して……勝ち抜いて……お父さんの敵を取るのよ!」

よくもまあここまで嘘偽りを並べられるものである!
だがこのまま遺跡の守護者の目をかいくぐってレア・グルーヴを探し当てるのと、純真な少女をだまくらかして大会の賞金を掠め取るのと、どちらが現実的か?
皿廻も生きるために必死なのだ! 彼女に罪は少ししかない!

「嘘じゃ、ないな」
「え、ええ。もちろん」

皿廻には知るすべもないが、「嘘」とは数学者の方言で、故意か否かによらず事実と異なる間違いを意味する。
数学者はいかなる間違いも許すことはない。
類まれなる偶然が味方しなければ、たとえこの場を無事に切り抜けたとて、彼女の首が胴とつながったままでいる保証は無かっただろう。

「わかった。オレ、やる」
「本当!?」
「でも、オレ、この箱の使い方わからない。音姫、しばらくいっしょにいて、教えろ」
「えっ」

――かくして、少女は武闘会に参加することになるのであるが……
哀れなDJの末路は、まだ誰にもわからないのであった。
最終更新:2016年06月27日 22:20